未来への投資
ゴールデン・グレイン商会の主、マルティンの元へやって来たラバァルとデサイアは、彼にライバルの影をチラつかせ、交渉に臨む、今この手を離せば、向こうへ持って行くと.....。
その133
【ロット・ノット、ゴールデン・グレイン商会・応接室】
半年という月日は、人を劇的に変える。
ゴールデン・グレイン商会の当主マルティンは、目の前の男を見ながら、その事実を改めて噛み締めていた。
男の名は、ラバァル。
7カ月程前、嵐のように現れ、強引な取引でこの商会を実質的な支配下に置いた男だ。
その隣には、デサイアと名乗る、影のように静かな女が控えている。
応接室の空気は、重く張り詰めていた。いや、正確には、ラバァル一人が発する気が、この部屋の全てを支配していた。以前の彼も十分に威圧的だったが、今のそれは質が違う。半年にもわたるルカナンとロット・ノットの往復――いつ、どこで、誰に襲われるか分からない無法の荒野を往来する中で研ぎ澄まされた、抜き身の刃のような鋭さ。そして、常に死と隣り合わせの緊張感が生んだ、底の見えない深淵を思わせる静けさが、同居している。
その視線は、もはや商人のものではない。荒野を生き抜く、一匹の狼のそれだ。射抜かれたマルティンは、知らず知らずのうちに背筋を伸ばし、喉が渇くのを感じていた。
ふと、その張り詰めた空気が、まるで陽炎のように揺らいで消えた。ラバァルが、意識的にその気を和らげたのだ。
「…すまんな。長旅の癖が、まだ抜けんらしい」
そう言って微かに口の端を上げたラバァルだったが、その目は笑っていない。マルティンには、それがまるで、獲物を見定めている獣が、一瞬だけ牙を隠したように思えた。
「…さて、マルティン殿。本題に入ろうか」
ラバァルが切り出した。その声は静かだったが、否応なく場の主導権を握る響きを持っていた。マルティンはゴクリと喉を鳴らし、これから始まるであろう、新たな嵐の到来を覚悟する。
ラバァルは、前置きもそこそこに、自らが描く壮大な計画の、第一歩を語り始めた。
「俺は、このロット・ノットと、東のルカナンとの間に、大規模な食料交易路を築くつもりだ。そのための、幌馬車隊を編成してもらいたい」
「大規模…と、申されますと?」
「ああ。まずは、今、このロット・ノットで、お前が集められるだけの幌馬車とそれを運転する御者を用意しろ。目標は、20台。それが集まり次第、第一陣として、ルカナンへ出発させる」
ラバァルの言葉に、マルティンは息をのんだ。幌馬車20台。それは、通常の商会が一度に動かす最大規模になる。
だが、ラバァルの構想は、それだけでは終わらなかった。
「それは、あくまで始まりに過ぎん。数年単位で、この交易の規模を拡大させていく。最終的な目標は、数百台規模の大輸送団を編成させ、常時、この街道で往復させることだ」
数百台。その数字が持つ意味を理解し、マルティンは、ゴクリと喉を鳴らした。それは、もはや単なる交易ではない。一つの軍隊に匹敵する、物流の大動脈を、新たに作り上げるというに等しい。成功すれば、莫大な富を生むだろう。だが、失敗すれば…。
「…そのために、どれだけの資金が動くか。まずは、あんたの目線で、見積もりを出してもらおう。幌馬車の購入費、御者の人件費、道中の諸経費…ただし、護衛費用は、こちらで持つので、計算からは除外してくれ」
マルティンは、額に汗を滲ませながらも、長年の商人としての経験を総動員し、羊皮紙の上に、猛烈な勢いで数字を書き出していく。
やがて、彼は、震える手で、その見積書をラバァルへと差し出した。
ラバァルは、それに目を通すことなく、隣に座るデサイアへと、無言で手渡した。
「…デサイア。目を通せ」
「ん」
デサイアは、その見積書を受け取ると、静かに、しかし驚異的な速さで、その内容を精査し始めた。
彼女の管理・経理能力は、極めて高い。かつて、グラティア教徒の地下基地で、膨大な物資の在庫管理と配分を、たった一人で完璧にこなしていたことで、その腕は磨かれている。項目、数量、単価、合計…。彼女の目は、数字の羅列の中から、僅かな矛盾や、不自然な点を見つけ出す訓練を積んでいる。
しかし、数分後。彼女は、静かに首を横に振った。
「…問題ないわ。しかし、ロット・ノットにおける、物資や人件費の単価までは、私には分からない。この見積もりが、適正価格であるかどうかの判断は、できないよ」
彼女は、事実だけを、淡々と告げた。
その言葉に、ラバァルは、満足げに頷いた。
(…それでいい。お前の役目は、数字の正確さを見ることだ。価値の判断は、俺がする)
ラバァルは、デサイアから見積書を受け取ると、初めて、その数字に、鋭い視線を落とした。
そして細部の話し合いをする事に。
ラバァルは、しばらく黙って、トルガンの絵と、マルティンが提示した莫大な金額を見比べていた。
(…初期投資は嵩むが、長期的には、馬を何度も買い替えるより、安くつくかもしれん。何より、輸送の安定性と速度が、比べ物にならん)
彼は、決断した。
「…いいだろう。輸送には、そのトルガンとやらを使え」
「よ、よろしいのですか!?」
マルティンの顔が、ぱっと輝いた。これだけの大きな取引がまとまれば、自分にも相当な利益が入る。
だが、ラバァルの次の言葉は、その期待を、根底から覆すものだった。
「ああ。だが、その購入資金は、お前が出せ、マルティン殿」
「…………は?」
マルティンは、自分が何を言われたのか、一瞬、理解できなかった。
(…俺の方も、金はいくらあっても足りんのだ)
ラバァルの内心は、冷静だった。スラムで育成を始めた、数百人規模の護衛たち。彼らを食わせ、継続的に雇うための人件費。そして、何より、ロット・ノットの役人たちの目が届かぬよう、街から十分な距離を置いた場所に、秘密裏に建設を進める、大規模な自給自足のための農場。それらの計画には、トルガンの購入費や幌馬車隊の購入、多くの御者の育成と永続的な雇用、など、比較にならぬほどの莫大な資金が必要となる。ここで、こちらの資金を気前よく削るわけにはいかない。
この思考は、彼の頭の中だけで完結していた。
ラバァルは、冷徹な目で、呆然とするマルティンを見据えた。
「聞こえなかったか? そのトルガンとやらの購入資金及び、五か年計画で掛かる諸々の費用、30万枚以上…それは、ゴールデン・グレイン商会が、この事業への『投資』として、全額負担しろ、と言っているんだ」
「ば、馬鹿な! 既に支度金として金貨30万枚は支払っておるはず、なぜ、我が商会が、そのような…!」
「なぜ、だと?」ラバァルは、鼻で笑った。「お前は、まだ、この事業の本当の価値が分かっていないようだな」
彼は、テーブルに身を乗り出した。
「いいか、マルティン殿。これは、単なる食料輸送じゃない。俺は、ロット・ノットとルカナンの間に、**この商会だけが独占できる、新たな『黄金の道』**を作ろうとしているんだ。一度、このルートが確立されれば、今後、数十年…いや、百年先まで、お前の商会に、莫大な富をもたらし続けることになる。その未来への投資が、たかが金貨数十万枚。…安いものだろう?」
「し、しかし、それは、あまりにリスクが…!」
「リスク?」ラバァルは、心底おかしいというように、声を上げて笑った。「リスクは、全て俺が引き受ける。街道の賊は、俺の兵隊が掃除する。面倒な交渉も、全て俺がやる。お前は、ただ、安全な道を、荷物を運ぶだけでいいんだ。ノーリスクで、未来永劫の莫大な利益が手に入る。こんな美味い話が、他にあるのか?」
マルティンは、言葉に詰まった。ラバァルの言葉は、無茶苦茶なようでいて、しかし、奇妙な説得力と、抗いがたい魅力を持っていた。
ラバァルは、とどめを刺した。
「…まあ、お前が、目の前の小銭しか見えない、度胸のない商人だというなら、それでも構わん。この話は、他の商会に持って行くだけだ。例えば…お前たちのライバルである、**【シルバー・スケイル商会】**あたりは、喜んで、この話に飛びつくだろうからな」
【シルバー・スケイル商会】――その名が出た瞬間、マルティンの顔色が変わった。長年、あらゆる商圏で、自分たちと熾烈な争いを繰り広げてきた、最大のライバル。もし、この「黄金の道」を、彼らに奪われるようなことがあれば…。
「……」
マルティンは、額から滝のような汗を流しながら、必死に頭を回転させた。
(この男の言う通りだ…もし、この話が本物なら…これは、我が商会が、百年先まで安泰となる、千載一遇の好機…! ここで投資を渋り、ライバルにこの好機を渡すことこそが、最大の損失…!)
「…わ、分かりました…!」
ついに、マルティンは、折れた。「その、投資の話…! 我がゴールデン・グレイン商会、謹んで、お受けいたします…!」
ラバァルは、内心で、冷たく笑った。
彼は、最初からマルティンを信用などしていない。だが、この莫大な額を「投資」させることで、状況は変わった。マルティンは、その投資額を回収するまで、この計画から、決して逃れることはできない。たとえ、彼の背後にいる主が、あのエリサ・ゾンハーグであろうとも。
これで、マルティンは、単なる協力者ではない。ラバァルという男が仕掛ける、壮大な賭けの、**『共犯者』**となったのだ。
ラバァルの壮大な計画は、こうして、彼が本当に投資すべき場所――『人』と『土地』――に資金を温存したまま、また一つ、現実へと向かって、大きく動き出す。
【ロット・ノット、王侯区エリア】
マルティンとの交渉を終え、ゴールデン・グレイン商会を後にしたラバァルは、デサイアを伴い、次なる目的地へと足を向けた。
目指すは、丘の上にそびえる王宮の、すぐ麓に広がるエリア。上流階級の中でも、さらに選ばれた者たちだけが住むことを許される、ロット・ノットの頂点とも言える王侯区エリアだ。
その一角に、元三大名家の一つ、【ベスウォール家】の屋敷はあった。無能な息子アントマーズの失態続きで、その権勢は大きく傾いたとはいえ、今もなお、ロット・ノットの歴史に深く根を張る名門。その当主の座に返り咲いた老人、ジョルズ・ベスウォールに、ラバァルは会う必要があった。
厳重な検問所に差し掛かった時、案の定、二人は止められた。
ラバァルは、もはや見慣れたという顔で、自らの通行許可証を提示する。問題は、デサイアだ。ロット・ノットに来たばかりの彼女が、身分を証明するものなど、持っているはずもなかった。
しかし、幸か不幸か、ラバァルは、この検問所の王国警備隊員たちにとって、ある意味で「有名人」だった。
「…ラバァル殿か。また、厄介事ではあるまいな?」
隊長らしき男が、苦笑いを浮かべながら言った。
「ああ。今日は、ただの挨拶回りだ。こいつは、俺の部下でな。まだ、身分証の発行が間に合っていない。通してもらえんか?」
ラバァルがそう説明すると、隊長は少し考えた後、頷いた。彼らは、ラバァルが、あのラナーシャ元隊長の知り合いであることを知っている。ここで無下に扱って、後で面倒なことになるのは、ごめんだった。
「…分かった。今回は、特別だ。そちらの女性には、期限付きの仮通行証を発行しよう。だが、早めに正式な手続きをするように」
「たすかる」
検問を抜け、ベスウォール家の壮麗な屋敷の前に立つと、ラバァルは、重厚な門扉を、遠慮なく叩いた。
その音に、屋敷の中から、執事と数名の護衛が、何事かと慌てて飛び出してくる。
「すまんが、突然で悪いな。当主のジョルズ殿に、ラバァルが来たと伝えてくれ」
その顔を見て、執事は、見覚えのある客人の来訪に、少し驚きながらも、恭しく頭を下げた。
「これは、ラバァル様。失礼いたしました。旦那様にお伝えいたしますので、ひとまず、客間にてお待ちください。どうぞ、こちらへ」
客間に通され、デサイアと共に待っていると、程なくして、ジョルズが穏やかな笑みを浮かべて姿を現した。
「ようこそ、お越しくださった、ラバァル殿。して、今日は、どのような御用件かな?」
その問いに、ラバァルは、不敵な笑みを浮かべ、口を開いた。
ここからが、彼の仕掛ける、次なる一手だった。
【ベスウォール家、客間】
「ようこそ、お越しくださった、ラバァル殿。して、今日は、どのような御用件かな?」
ジョルズが穏やかに尋ねると、彼の視線は、ラバァルの背後に、影のように静かに佇むデサイアへと向けられた。
「…その前に、失礼ながら、そちらの可憐なご婦人は?」
色白で、華奢な体つき。風が吹けば、そのまま倒れてしまうのではないかと思わせるほど、儚げな印象の女性だった。
「こいつは、デサイア。俺の部下だ」ラバァルは、短く紹介した。「見ての通り、戦いには向かんが、物資の管理や、経理の腕は、そこらの商人より上だ。…今日は、その手の話をしに来た」
「ほう…金の話、ですかな?」
「そうだ」
ラバァルは、ソファに深く腰掛けると、自らがスラムで進めている、壮大な計画の全貌を、淡々と語り始めた。
東地区で進行中の、大規模な再開発工事。将来的に、それを南、西、北地区へと拡大させていくこと。そして、その真の目的――スラムにいる、目的を見失った者たちを組織化し、食料を生産させ、それを守るための私兵を育成し、いずれは、このロット・ノットの、新たな力とする、という途方もない計画を。
その話を聞き終えた時、ジョルズの顔からは、穏やかな笑みは消えていた。彼は、目の前の若者を、驚愕の表情で見つめていた。
(…やはり、そうだったのか…!)
ジョルズは、すでに、スラム東地区で、謎の大規模工事が始まっているという情報を掴んでいた。一体、誰が、何のために。その不可解な動きに、彼は密かに注目していたのだ。
そして今、目の前の男が、その全ての答えを提示した。バラバラだった情報のピースが、ピシャリと音を立てて、一つの巨大な絵図へと組み上がっていく。
(…この男は…一体、何者なのだ…? ただの荒くれ者ではないとは、思っていたが…これほどの、国盗りにも等しい構想を、たった一人で…しかも、すでに、実行に移しているとは…!)
客間は、シーーーーンと、重い沈黙に包まれた。ジョルズは、ただ、考えに耽っていた。
この話は、絵空事ではない。現実に、今、このロット・ノットで、動き始めているのだ。
やがて、ラバァルが、その沈黙を破った。
「どうですかな、ジョルズ殿。貴殿も、この『賭け』に、一枚、噛んでみては?」
その言葉は、お願いではなかった。ただ、対等な相手に、儲け話を提示するかのような、尊大な響きを持っていた。ラバァルは、出資を頼みに来た。だが、彼は、決して「お願い」という言葉は使わない。ただ、相手が、自らの意志で「加わらせてくれ」と言うのを、待っているのだ。
長い、長い沈黙の後。
ジョルズは、震える声で、しかし、その瞳に、かつての名家の当主としての、野心の光を蘇らせて、言った。
「…それで、ベスウォール家は…いかほど、出資すれば、その『賭け』に参加できるのかな?」
ラバァルの思惑通りだった。
「金貨300万枚」
ラバァルは、こともなげに、その数字を口にした。
「なっ…!?」
没落しているとはいえ、ベスウォール家は、元三大名家の一角。評議会の議席も、いまだ失ってはいない。ラバァルは、彼らが持つ、最後の底力を見越して、あえて、この途方もない額を提示したのだ。
「…執事! 執事を呼べ! すぐに、経理の者をここに!」
ジョルズは、慌てて執事に命じた。
「す、すまない、ラバァル殿! 額が額だ…! 今、我がベスウォール家が、即座に動かせる資金を、正確に算出させたい。少し、時間をいただけんか…!」
「勿論、構いませんよ」ラバァルは、余裕の表情で頷いた。「ゆっくり、ご検討なさればいい」
その言葉に、ジョルズは、少しだけ安堵の表情を浮かべた。
「…かたじけない。では、お待ちいただく間、食事の用意をさせよう。さあ、ラバァル殿、デサイア殿。食堂へ」
ジョルズは、自ら立ち上がり、二人を丁重に、食事の間へと案内した。
ラバァルは、デサイアと共に、その後に続く。
彼の頭の中では、すでに、ベスウォール家から引き出した資金を、どう分配し、計画を、どう加速させるか、その次の段階へと、思考は移っていた。
この交渉は、すでに、終わったも同然だった。
【ベスウォール家、食堂】
経理の者たちが、別室で必死に算盤を弾いている間、ラバァルとデサイアは、ジョルズに案内され、豪華な食事を共にしていた。
テーブルの上には、ロット・ノットでしか味わえない、山海の珍味が並ぶ。しかし、ラバァルが語る言葉は、その豪華さとは、あまりに対照的な、荒涼とした現実だった。
「…街道沿いは、どこも干上がっていました。民は飢え、土地は痩せ、力ある者は、生きるために、皆、野盗に成り下がっている」
ラバァルは、ルカナンまでの道中で目にした、ラガン王国の偽らざる実情を、淡々と語った。盗賊団との戦い、飢えた民の姿、そして、国に見捨てられた元兵士たちの末路。
ジョルズは、その一つ一つの言葉に、ただ感心するように、しかし、その表情を曇らせながら、静かに耳を傾けていた。
「…今のラガン王国は、内側から腐り落ちています、ジョルズ殿」
ラバァルは、ワイングラスを傾けながら、続けた。
「税率は70%。これでは、真面目に働く者ほど馬鹿を見る。民は生産意欲を失い、国は痩せ細る一方だ。このままでは、いずれ、北のロマノス帝国に、抵抗する力もなく、飲み込まれるでしょうな。その時、名家もクソもない。我々は皆、帝国の奴隷になるだけになる」
その言葉は、ジョルズの胸に、重く突き刺さった。
(…この男の言う通りだ…)
評議会に籍を置く彼も、王国の現状には、強い危機感を抱いていた。だが、今の王家と、それを良いように操る宰相アルメドラでは、もはや、この負の連鎖を断ち切ることはできない。
(…だが、この男なら…)
ジョルズは、目の前の若者を見た。彼の計画は、荒唐無稽だ。だが、その瞳には、この腐った国を、根底から作り変えようという、確かな意志の光が宿っていた。
そして、何より、ジョルズには、彼自身の本心があった。
(…この男と、懇意にしておくこと。それこそが、我が息子、アントマーズが、そして、このベスウォール家が、これから先の乱世を生き抜くための、唯一の道かもしれん。私が死んだ後、あの子を守れるのは、この男しかいない…)
食事が終わる頃、経理の者が、蒼白な顔で、一枚の羊皮紙をジョルズへと差し出した。
ジョルズは、その数字に目を通すと、客間へと戻ったラバァルの前に、再び向き直った。
「…ラバァル殿」
その声は、震えていた。
「我がベスウォール家が、今、即座に動かせる全ての資産…それは、金貨百六十五万枚が、精一杯です。貴殿が提示した額には、及びもつかない…」
彼は、立ち上がると、老いたその身を深く折り曲げ、ラバァルに頭を下げた。
「だが、それでも! この老いぼれの、最後の賭けとして、貴殿の計画に、一枚、噛ませてはいただけんだろうか! このベスウォール家の、全てを、貴殿に託したい!」
それは、もはや対等な事業者同士の交渉ではなかった。
没落した名家の当主が、一人の若者の、途方もない未来に、自らの家の全てを賭けるという、悲壮なまでの、懇願だった。
ラバァルは、その深く下げられた頭を、静かに見て、本気だと言う事を実感していた。
【ベスウォール家、客間】
深く下げられた、老当主の頭。
ラバァルは、その姿を静かに見下ろした後、ゆっくりと口を開いた。
「…顔を上げてください、ジョルズ殿。その覚悟、確かに受け取りました。貴殿の『賭け』 謹んでお受けしましょう。」
その言葉に、ジョルズは、安堵と喜びに満ちた表情で顔を上げた。
こうして、ベスウォール家からの、金貨百六十五万枚という、巨額の出資金は、正式に決定した。
ラバァルは、その場で、デサイアに契約書を作成させた。今後の配当は、出資割合に応じて公正に行うこと。そして、ベスウォール家の悩みの種であった、ムーメン家やゾンハーグ家とのいざこざは、今後、ラバァルが全面的に引き受けること。
出資金の受け渡しは、事業計画の進捗に合わせて、段階的に行う。いきなり全額を要求しないというラバァルの配慮は、ベスウォール家の財政的負担を、最小限に抑えるものだった。
「…かたじけない。ラバァル殿、貴殿のような方と、縁を結べたこと、我が家の幸運です」
ジョルズは、心からの感謝を込めて、契約書にサインをした。
気持ちよく契約を交わしたラバァルとデサイアは、ベスウォール家の丁重な見送りを受け、屋敷を後にした。
だが、彼らは、スラムへは戻らない。
「…デサイア。次だ」
「ん」
デサイアは、静かに頷く。
ラバァルが、次なる目的地として足を向けたのは、この王侯区画の中でも、一際大きな権威と威容を誇る、あの屋敷。
ロット・ノット評議会の筆頭議員にして、ラガン王国第一軍とも深い繋がりを持つ、ジョン・スタート・ベルグの屋敷だ。
目的は二つ。
一つは、ルカナンへの旅で得た、詳細な情報の報告。
そして、もう一つは――先ほど、ベスウォール家と交わした契約と、同じもの。
スタート・ベルグ家からの、さらなる巨額の出資を、取り付けることだ。
ベスウォール家という「実績」を手に、彼は、休む間もなく、さらに大きな獲物を狙いに来たのだ。
スタート・ベルグ家の門前で、ラバァルが名を告げると、門番の態度は、以前とは比較にならないほど、丁寧なものに変わっていた。
すぐに中へと通され、客間で待っていると、程なくして、重厚な扉が開かれた。そこに立っていたのは、当主ジョン・スタート・ベルグ。そして、その隣には、ラバァルの後見人でもある、アンドレアス将軍の姿もあった。
「ふぉっふぉっふぉっ。無事、戻ったようじゃな、ラバァルよ」
アンドレアス将軍が、満足げにその白い髭を扱きながら、豪快に笑う。
「お待ちしておりましたぞ、ラバァル殿。ルカナンへの旅、ご苦労だった」
ジョンもまた、穏やかな、しかし全てを見通すような笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「…して、その顔つき。何か、面白い土産話でも、持ってきてくれたようですな?」
その言葉に、ラバァルは、不敵な笑みを返した。
ロット・ノットで、最も信頼でき、そして最も力を持つ二人の重鎮を前に、彼の、この街の勢力図を根底から塗り替えるための、本当の交渉が、ここから始まる。
【スタート・ベルグ家、応接室】
挨拶もそこそこに、ラバァルは、応接室のソファに深く腰を下ろすと、早速、本題を切り出した。
「まず、ご報告を。ルカナンでは、執政官庁舎のハイル副司令官、およびブレネフ参謀と会談し、彼らからの全面的な協力を取り付けてきました」
その言葉に、ジョンは、わずかに目を見張った。だが、アンドレアス将軍は、満足げに頷くだけだった。
彼にとって、ハイルとブレネフという有能な部下たちが、ラバァルという男に協力するのは、当然のことであり、想定内だったからだ。
「ふぉっふぉっふぉっ。驚くには値せんよ、ジョン殿」
将軍は、白い髭を扱きながら、楽しげに言った。
「ルカナンで、この男の無茶を、間近で見てきたのは、ハイルとブレネフだ。おそらく、儂以上に、この男の本当の価値を、骨身に染みて理解しておるだろう。奴らが協力するのは、必然よ」
将軍の言葉に、ジョンは、ラバァルとルカナンの繋がりが、自分が思っていた以上に、深く、そして強固なものであることを改めて認識した。
ラバァルは、続けて、自らが描く計画の、より具体的な骨子を二人に語りはじめた。
スラムの再開発による人材の確保、食料の自給自足体制の構築、そして、ルカナンとの交易路の確立。
「…道中のラガン王国の惨状は、酷いものでした。このままでは、いずれはロマノス帝国に飲み込まれる事になるでしょう」
ラバァルの冷静な分析に、二人の重鎮は、「うぅむ…」と唸るしかなかった。
「今は、とにかく、人材、食料、そして住居の確保に、全力を注いでいます。そのための資金が、いくらあっても足りない。そこで、出資者を募って回っている次第です」
ラバァルは、ここで一枚のカードを切った。
「すでに、ベスウォール家のジョルズ殿からは、出資の約束を取り付けております」
「ほう、あのジョルズ殿から!」ジョンが、感心したように声を上げる。
「いつの間に、ジョルズ殿と、そこまで話せる仲になっておったのじゃ?」アンドレアス将軍も、驚きを隠せない。
「まあ、色々ありましてね。…ラナーシャのことを、覚えておいででしょう?」
「もちろんじゃ。彼女も、色々と大変だったようじゃな、ラバァルよ」
「?... 彼女を、私に紹介してくれたのが、ジョルズ殿の息子、アントマーズなのです。元は、学友だったとか」
「おお、そうであったか!」
話が少し逸れたのを、ラバァルは、あえて強引に引き戻した。
「…ジョン殿。単刀直入に言います。金貨五百万枚。出資していただけますか?」
その、あまりに突拍子もない金額に、歴戦の将軍ですら、一瞬、言葉を失った。
ラバァルは、二人の反応を意に介さず、静かに続けた。
「この金額を出せるのは、ロット・ノット広しといえど、スタート・ベルグ家をおいて他にない。ここで、この資金を得られなければ、俺の計画は、10年単位で遅れることになる」
彼は、そこで一度、言葉を切ると、まるで古代の格言を口にするかのように言った。
「――変革は、迅速でなければ意味がない。遅れは、抵抗勢力を育てるだけです」
その言葉に、最初に反応したのは、ジョンだった。彼は、深く頷いた。
「…分かった。スタート・ベルグ家は、その計画に、金貨五百万枚、出資しよう」
その即答に、今度はアンドレアス将軍が驚きの声を上げた。
「おお、ジョン殿! 即決か!」
将軍は、ラバァルが口にした、「変革は迅速でなければ…」という言葉を、口の中で繰り返し、その意味を噛み締めていた。
「…なるほどな。戦争と同じじゃ。ぐずぐずと長引かせれば、敵に備える時間を与え、戦いは泥沼に陥る。ラバァルよ、お主は、この国盗りを、一気に推し進めるつもりなのじゃな」
「はい。ですが、そのためには、まず、人材、食料、住居という、軍の『兵站』を、完璧に整える必要がある。そのための資金が、今、必要なのです」
アンドレアス将軍は、ジョンの顔を見た。ジョンもまた、力強く頷き返した。
「分かっておる、アンドレアス殿。私も、ラバァル殿を応援する一人だ。この、途方もない希望に、賭けてみたくなった。だからこそ、お主の言う、金貨五百万枚、用意しようではないか」
こうして、ジョンスタート・ベルグから出資しようと言う言葉を引き出せたラバァルは 無事に巨額の出資を成功させる事と成った。
【スタート・ベルグ家、応接室】
金貨五百万枚という、巨額の出資の約束が交わされると、それまで影のように控えていたデサイアが、静かに一歩前に出た。
「ジョン様、アンドレアス様。出資に関する、具体的な契約内容と、資金の受け渡し計画について、私の方から、ご説明させていただいても、よろしいでしょうか?」
彼女は、先に行ったベスウォール家とのやり取りで学んだ経緯から、幾通りものパターンもの契約書の草案をこの短時間の間に考え出していた、それを紙に書き出してみせたのだ。
「おお、これは手際が良い。では、我が家の会計官を呼ぼう。別室で、詳細を詰めてくれ」
ジョンは、デサイアの有能さに感心し、すぐに人を手配した。デサイアは、静かに一礼すると、会計官に案内され、別室へと向かっていった。
応接室に、ラバァルと二人の重鎮だけが残されると、ジョンは、待っていましたとばかりに、新たな話題を切り出した。
「さて、ラバァル殿。貴殿が留守の間、ロット・ノットでも、色々と問題が起こっておった。…先ほど、話に出た、ラナーシャ嬢のことじゃ」
ジョンは、ラナーシャがデュラーン家の闇に気づき、単独で調査を始め、そして、奴隷商【フェドゥス・サンギニス】の罠に嵌った一部始終を、語り始めた。カルタスからの緊急報告を受け、王に直訴し、デュラーン家へ兵を向けたこと。そして、カルタス率いる近衛騎士団が、アジトで悪魔と化した幹部と死闘を繰り広げたこと…。
「…それは、大事件に巻き込まれたというより、自分から無謀にも、虎の巣に突っ込んでいった、というべきじゃな。あの娘、本当に、無茶をする」
アンドレアス将軍が、呆れたように、しかしどこか楽しげに付け加えた。
ラバァルは、黙ってその話を聞いていた。
「…そうですか。そんなことが…。色々、お世話をおかけしたようですね」
「いや、迷惑などとは思っておらんよ」ジョンは、首を横に振った。「彼女は、我々にとっても、未来を託すに値する、大事な仲間だ。いわば、先行投資をしておるだけの話よ」
その言葉を聞き、ラバァルの脳裏に、あの銀髪の、誇り高い女騎士の姿が浮かんだ。自分の知らないところで、そんな危険な連中と渡り合い、一人で突っ走っていたのか。その無鉄砲ぶりを想像すると、ラバァルの口元に、自分でも気づかぬうちに、自然な笑みがこぼれていた。
「…ほう?」
その珍しい表情を、アンドレアス将軍が見逃すはずもなかった。
「なんじゃ、ラバァルよ。あの娘のこととなると、貴様でも、そんな素直な笑みを見せるのか!」
「ふぉっふぉっふぉっ! これは、面白いものを見たわい!」
二人の重鎮にからかわれ、ラバァルは、「…うるさいですよ」と、ぶっきらぼうに呟き、ごまかすように茶をすすった。
「まあ、そんなわけでな」ジョンは、笑いを収めると、続けた。「彼女は今、表向きは『無期限の謹慎処分』ということになっておる。叔母御の雑貨店で、静かにしておるはずじゃ」
「…ふむ。帰りに、少し寄ってみるか。デサイアも一緒だが、まあ、構わんだろう」
それからしばらく、三人はロット・ノットの情勢について語り合った。やがて、デサイアと会計官との、綿密な打ち合わせが終わると、ラバァルは席を立った。
「では、ジョン殿、アンドレアス将軍、俺らはこれで失礼します」
「うむ。ラバァル殿、期待しておるぞ」
「ラバァルよ、吉報を待っておる。」
ジョンとアンドレアス将軍の、力強い見送りを受け、ラバァルとデサイアは、スタート・ベルグ家の屋敷を後にした。
スラムへの帰り道、少しだけ脇道に逸れ、新市街の中央付近にある、一軒の小さな雑貨店へと、その歩みを進めるのだった。
【新市街、マレリーナの雑貨店】
スラムへの帰り道から少し逸れ、王宮へと続く街道の麓。このあたりは、広場の露店とは違い、石造りのしっかりとした店が軒を連ねている。その一本裏に入った通りに、マレリーナの雑貨店は、ひっそりと佇んでいた。
ラバァルは、この店の二階に間借りしている、あの銀髪の女騎士を思い浮かべていた。
母を陥れた者の情報を得ることを条件に、不本意ながら、自分の『女』という立場を受け入れた女。その彼女が、自分の不在中に、あのデュラーン家と事を構えたというのだから、呆れるやら、感心するやら。その様子を、この目で確かめておく必要があった。
「…ラバァル。ここに、何の用?」
隣を歩くデサイアが、不思議そうに尋ねた。彼女の目には、この小さな雑貨店が、ラバァルの次の計画に関係あるようには、到底見えなかったのだ。
「ん? ああ。ここに、俺の女がいる」
「……は?」
デサイアが、珍しく素っ頓狂な声を上げた。
「そいつが、俺の留守中に、とんでもない無茶をやらかしたらしくてな。どんなザマになっているか、見に来ただけだ」
ラバァルの、あまりに率直な説明に、デサイアは、ぽつりと呟いた。
「…ラバァルにしては、珍しいわね。女に、構うなんて」
それだけ言うと、彼女はまた、いつもの無口なデサイアに戻った。
カラン、とドアベルを鳴らして店に入る。
「いらっしゃいま――」
カウンターの奥から聞こえた元気の良い声は、ラバァルの顔を見て、途中で凍りついた。そこに立っていたのは、謹慎中の身であるはずの、ラナーシャだった。その後ろから、叔母のマレリーナも、驚いた顔でこちらを見ている。
「よぉ。ずいぶんと、威勢のいい声じゃないか。いつの間に、ここの店主になったんだ?」
ラバァルは、わざと、何も知らないという体で、意地悪く尋ねた。
その言葉に、ラナーシャが何か言い返そうとする前に、隣のデサイアが、静かに、しかし的確に、横槍を入れた。
「あら。さっきの説明とは、違うみたいね」
その一言で、ラナーシャは、全てを悟った。この男には、何もかも、お見通しなのだと。同時に、彼女は、ラバァルの隣に立つ、この儚げで美しい女性が、気になって仕方がなかった。
「…ラバァル。そちらの方は…?」
「ああ。こいつは、デサイア。俺の部下だ。…部下というより、まあ、妹みたいなもんだ」
その紹介に、デサイアは、ラナーシャに向かって、静かに、しかし完璧な礼儀作法で、頭を下げた。
「…兄が、いつもお世話になっております」
「あ、いえ、どうも…。お兄さんとは、その…色々と、複雑な関係で…あれ?」
突然の「妹」の登場に、ラナーシャは完全にペースを乱され、しどろもどろになっていた。
その、あまりに微笑ましい(?)光景に、しびれを切らしたのが、叔母のマレリーナだった。彼女は、この状況を、完全に、**『恋人が、妹を連れて、挨拶に来た』**のだと勘違いしていた。
「あらあらあら! あなたが、デサイアさんね! よく来てくれたわぁ!」
マレリーナは、カウンターから飛び出すと、デサイアの手を固く握りしめた。
「お兄さんのこと、認めてくれてるのね! よかったわぁ! さあさあ、お茶をお持ちしますから、どうぞ、奥へ! そこの椅子に、座ってちょうだい!」
その、善意に満ちた、しかし致命的な勘違いに、ラバァルとラナーシャは、顔を見合わせるしかなかった。
マレリーナは、一人で興奮しながら、慌ててお茶の準備をするために、店の奥へと消えていく。
残された三人の間には、なんとも言えない、気まずい空気が流れていた。
【マレリーナの雑貨店、一階と二階】
気まずい空気の中、ラナーシャは、ラバァルを促して、二階の自室へと上がっていった。残されたデサイアは、マレリーナによって、店の奥のテーブルへと、有無を言わさず案内される。
「さあさあ、デサイアさん! 遠慮しないで! 貴女は、あの子たちのこと、どう思ってらっしゃるのかしら?」
マレリーナの、質問攻めが始まった。兄はどんな人なのか、姪とは本当はどういう関係なのか。
それにに対し、デサイアは、常に冷静に、そして的確に答えていく。
「ラバァルは、普段は無口ですが、一度決めたことは、必ずやり遂げる男です。…ラナーシャ様は、とても芯の強い方だと、お見受けしました」
その、どこか品のある、落ち着いた受け答えに、マレリーナは、ますますデサイアを気に入ってしまった。そして、ついに、本題を切り出した。
「ねえ、デサイアさん! 協力してくれないかしら? あの二人を、結婚させちゃうのよ!」
その、あまりに突飛な提案に、デサイアは、一瞬だけ、目を丸くした。
「…結婚、ですか」
「そうなの! ラバァルさんなら、きっと、うちの姪を幸せにしてくれるわ!」
「ですが…」デサイアは、慎重に言葉を選んだ。「ラバァルは今、とても大きな仕事に取り組んでいます。物事には、タイミングというものが、重要かと。今、下手に事を急けば、二人の関係が、逆に壊れてしまう可能性もございます」
その、冷静な分析に、舞い上がっていたマレリーナも、はっと我に返った。
「そ、そうよね…。分かったわ! 私は、焦らず、じっくりと、タイミングを待つことにするわ!」
デサイアは、見事に、このパワフルな叔母を、手懐けていた。
その頃、二階の部屋では。
ラナーシャが、ラバァルの不在中に起こった、事件の全てを、語っていた。
デュラーン家と、秘密組織【フェドゥス・サンギニス】との繋がり。幹部が悪魔へと変貌した、あの夜の死闘。そして、カルタス団長や、多くの部下たちの犠牲の上に、辛うじて勝利したこと。
「…そして」ラナーシャは、そこで一度、言葉を切った。「奴らのアジトの牢獄に…あなたの名を知る、女性がいました」
その言葉に、それまで腕を組んで黙って聞いていたラバァルの眉が、ピクリと動いた。
「ボロボロの姿で…心を病んでしまっているようでしたが…確かに、あなたの名を、呼んでいました」
ラバァルの関心は、デュラーン家や奴隷商のことなど、どうでもいいとばかりに、その女性のことへと、完全に移っていた。
「…そいつは、今、どこにいる?」
その声は、低く、そして、どこか焦りを帯びているように聞こえた。
「ロット・ノット郊外の、王家の保養施設に。私も、店の休みの日には、欠かさず、見舞いに行っています」
郊外の保養施設。その言葉に、ラバァルは、すぐに一つの場所を思い浮かべた。
(…カザンの娘が入っている、あそこか…!)
「分かった。気になる。今から、一度、会いに行く」
ラバァルは、そう言うと、すぐに部屋を出て、階段を下り始めた。
「えっ、今から!? …待って、私も行くわ!」
ラナーシャも、慌てて彼の後を追う。
一階に降りると、マレリーナとデサイアが、和やかにお茶を飲んでいた。
「あら、もう帰られるのかしら?」
「すまん、急用ができた。デサイア、行くぞ」
ラバァルが声をかけると、デサイアは、出されていた最後の焼き菓子を、ぱくりと口に放り込み、ハーブティを飲み干した。
「ごちそうさまでした、マレリーナ様。とても、美味しかったです」
彼女は、完璧な作法で、マレリーナに挨拶をした。
「叔母様!」ラナーシャも、駆け寄って事情を話す。「以前、お話しした、彼女の所に、ラバァルたちを案内します! お店のことは…」
「お店のことは、心配いらないわ。行ってらっしゃい」
マレリーナは、すぐに事情を察し、優しい笑顔で、三人を見送った。
こうして、ラバァルたちは、彼の名を呼びながら、心を閉ざしてしまったという、謎の女性の元へと、急ぎ、向かうことになった。
その女性が、誰であるのか。ラバァルの胸には、一つの、確信に近い予感が、渦巻いていた。
【ロット・ノット郊外、王家の保養施設】
ラナーシャの案内で、ラバァルたちは、郊外の丘の上に立つ、静かな保養施設へとたどり着いた。ここは、王家の庇護の下、心身に深い傷を負った者たちが、穏やかに療養生活を送る場所だ。
慣れた様子で面会の手続きを済ませるラナーシャに導かれ、三人は、白く清潔な廊下を進んでいく。
そして、目的の部屋の前にたどり着いた。
ラナーシャが、静かに扉を開ける。そこは、窓から柔らかな陽光が差し込む、二人部屋だった。
片方のベッドは空だったが、もう一方のベッドに、一人の女性が、人形のように横たわっていた。
ガリガリに痩せこけ、その頬はこけ、肌からは血の気が失せている。虚ろに開かれた瞳には、何の光も宿ってはいない。
だがそれは、間違いなく、クレセントだったのだ。
しかし、ラバァルが知っている、あの、いつも酒を飲み、くだらない冗談を言っては、底抜けに明るく笑っていた彼女の面影は、どこにもなかった。
「…………」
ラバァルの全身から、空気が凍るような、凄まじい圧力が放たれた。
彼の怒りは、静かだった。だが、その静けさ故に、底知れない。
次の瞬間、ラバァルの体から、**赤黒い闘気【ゼメスアフェフチャマ】**が、抑えきれぬ激情の奔流となって、噴き出してしまった。部屋の空気が歪み、壁がビリビリと震える。
「ラバァル!」
デサイアの、鋭い制止の声が響いた。
その声に、ラバァルは、はっと我に返った。彼は、舌打ちすると、荒れ狂う闘気を、強引にその身の内へと押し戻した。
だが、ラナーシャは、見ていた。
一瞬だけ現れた、あの、禍々しく、冒涜的で、しかし、あまりに強大な力の奔流を。
(…今のは…一体…!?)
彼女は、目の前の男…ラバァルに対し、本能的な、そして最大級の警戒心を抱いた。この男は、自分が思っていた以上に、危険な「何か」を、その内に秘めている。
しかし、ラバァルは、そんなラナーシャの視線など、意にも介さなかった。
彼は、ゆっくりと、クレセントのベッドへと近づいていく。そして、その痩せこけた頬に、そっと触れた。
「…どうして、こうなった。お前に、一体、何があったんだ…」
その声は、怒りではなく、深い、深い悲しみに満ちていた。
ラバァルは、再び、自らの意思で、赤黒い闘気を解放した。だが、今度は、荒れ狂う奔流ではない。まるで細い絹糸のように、繊細にコントロールされた気の流れが、彼の体から放たれ、眠るクレセントの体を、優しく、慈しむように、纏わりついていく。
ラナーシャは、その光景を、息をのんで凝視していた。
恐ろしく、禍々しいはずの、あの赤黒い炎のような闘気が、今は、まるで傷ついた小鳥を温める、優しい光のように見えたからだ。
一方、デサイアは、その光景を、少し違う思いで見つめていた。
(…これが、ルーレシアが話していた、ラバァルの本当の力…。人を破壊し、そして、人を…)
ラバァルは、クレセントの精神の奥深くへと、その気を送り込み、彼女の壊れてしまった心の「核」を探っていた。
なぜ、彼女が、ここまで壊れてしまったのか。
その原因を、突き止めるために。
最後まで読んで下さり有難うございます、またつづきをみかけたら読んでみて下さい。




