総合奴隷商フェドス・サンギニス
廃教会で襲われたラナーシャは、フェドス・サンギニスの捕獲部隊により捕獲されかけた所、謎の凄腕女性剣士に助けられ、無事、難を逃れる事が出来たのだが、直ぐにラナーシャの周りで事件が起こり始めた、
王宮敷地内を警ら中の部下が何者かに暗殺され始めたのだ、知らせを受けたラナーシャだったが.....。
その129
【王宮、警備隊詰め所、翌日】
あの廃教会での死闘から一夜明け、ラナーシャは、ほとんど眠ることなく朝を迎えた。
肩に残る傷の疼きよりも、彼女の心を苛んでいたのは、圧倒的な実力差で自分を救い、そして消えていった、あの謎の女騎士の言葉だった。
『デュラーン家の闇は、貴様が考えている以上に深い。これ以上、一人で深入りするのは、死を意味するぞ』
その言葉が、脳内で何度も反響する。
巨大な悪意と、強大な力を持つ相手。そんな敵に対し、自分は無謀にも、たった一人で対処しようとしてしまった。無知なるが故の、甘さ。そして、その行動が次に何を引き起こすかなど、全く考えてもいなかったのだ。
「…私は、何て愚かだったの…」
ラナーシャは、自室の鏡に映る、憔悴しきった自分の顔を見つめ、己を恥じていた。
だが、後悔している時間はない。彼女は、王宮警備隊の団長であるレブスに、これまでの捜査内容と、昨夜の襲撃事件を、包み隠さず報告することを決意した。これは、もはや自分一人の手には負えない。
勤務時間になるとすぐに、ラナーシャは団長室の扉を叩いた。
話を聞いたレブスは激怒した。「王宮警備隊の中隊長を襲うとは、王家への反逆行為に等しい! 警備隊の威信にかけて、デュラーン家の悪事を暴き出す!」
レブスは、組織全体でこの問題にあたることを約束してくれた。しかし、同時に、ラナーシャに厳しい命令を下した。
「…だが、忘れるな。我々の権限は、王宮内に限られる。相手が王宮内で事を起こさぬ限り、我々には手出しができん。このルールは、絶対に守れ」
「しかし、団長! それでは、デュラーン家を調査することが…!」
「これは命令だ!」
ラナーシャは、唇を噛みしめるしかなかった。正義を執行するための力が、無力な規則によって、がんじがらめにされている事実に。
そして、悪夢は、その日から始まった。
チャールズが近隣国で活動していた別の部隊を呼び寄せていたのだ。
【フェドゥス・サンギニス】の新たな捕獲部隊が、ロット・ノットに集結しはじめた、
そして、既に来ていた部隊を率い、チャールズも動き出した、彼らの報復は、陰湿で、残酷だった。
【第一の犠牲者】
「――中隊長! 大変です! 西門を警邏していたマルクが…何者かに…!」
その日の夕刻。詰め所に響いた部下の悲痛な叫びに、ラナーシャは弾かれたように駆け出した。胸騒ぎが、心臓を鷲掴みにする。
現場に駆けつけると、そこには信じがたい光景が広がっていた。石畳の上に、見慣れた制服が、ぐったりと横たわっている。
ピクリとも動かない。
ラナーシャは、側まで来ると途端に動きが鈍り、小さく震える足で、一歩、また一歩と、倒れている部下…マルクへと近づいていく。
そして、その顔を覗き込んだ。
(…死んでいる)
虚ろに開かれた瞳。血の気を失い、蝋のように白い肌。それは、紛れもない、死人の顔だった。
(死んでる…? マルクが…? 嘘でしょう…?)
ラナーシャの頭の中が、真っ白になった。顔面から血の気が引き、立っているのがやっとだった。まだ若く、真面目で、将来を嘱望していた、大切な部下。その命が、今、目の前で、無残に奪われた。
だが、背後には、同じようにショックを受け、動揺する部下たちがいる。
(…しっかりしろ、私…! 部下の前で、みっともない姿は見せられない…!)
ラナーシャは、奥歯を強く噛みしめ、溢れ出しそうになる感情を、無理やり精神の奥底へと押し込んだ。そして、冷徹な指揮官の仮面を被り、亡骸の前に膝をつくと、犯人の手掛かりを探すべく、その状態を冷静に観察し始めた。
喉元に残る、鋭利な刃物による、ただ一筋の深い切り傷。それは、一切の躊躇も、無駄な動きもない、プロの暗殺者の手口だった。
【第二、第三の犠牲者】
悪夢は、終わらない。次の日には、東庭園で見張りをしていた王宮警備隊の隊員が。その次の日にも、非番で街に出ていた隊員が。一人、また一人と、ラナーシャの部下たちが、何者かの手によって惨殺され始めたのだ。
犯人は、一切の痕跡を残さない。まるで、幽霊に殺されているかのようだった。
ラナーシャは、必死に部下たちを守ろうと動く。警邏の人数を増やし、二人一組での行動を徹底させ、自らも不眠不休で王宮内を巡回した。
しかし、彼女の体は一つしかない。四六時中、全ての部下を守り続けることなど、到底不可能だった。
【6日間の地獄】
殺しが始まってから、六日間。
ラナーシャは、ほとんど眠ることも、食事を摂ることもできずにいた。日に日に憔悴し、その顔からは血の気が失せていく。
彼女は、理解していた。これは、自分への「見せしめ」なのだと。
廃教会で、自分が殺した実行犯の数と、同じ数の命。ただ殺すだけではない。じわじわと、一人ずつ、自分の大切な部下を奪っていく。そうすることで、自分がどれほど巨大で、冷酷な相手の怒りを買ってしまったのかを、骨の髄まで思い知らせようとしているのだ。
「…私の、せいだ…」
殉職した隊員の棺の前で、ラナーシャは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「私が…私が、何も考えず、あの事件に首を突っ込んだから…! みんな、私のせいで…!」
精神的な拷問。チャールズが仕掛けた罠は、ラナーシャの心を、内側から確実に蝕んでいった。
仲間を守れない無力感。自らの甘さが招いた悲劇への罪悪感。そして、姿を見せない敵への、燃えるような怒りと、底知れぬ恐怖。
それらが、巨大な渦となって、彼女を飲み込んでいく。
ラナーシャは、こり6日間、ほとんど寝ていない、その事もあり心身共に、ボロボロになっていた。
だが、彼女の瞳の奥で、まだ消えない光があった。それは、復讐の炎だった。たとえ、この身がどうなろうとも、必ず、この外道どもを地獄へ叩き落とす。その決意だけが、かろうじて彼女の心を支えていた。
【ロット・ノット、デュラーン家屋敷前・王宮、同時刻】
六日間で、六人の部下を失った。
ラナーシャの心の中で、何かが、ぷつりと切れた。
団長レブスの命令も、規則も、もはや彼女を縛ることはできない。あるのは、燃えるような怒りと、自らの甘さが招いた悲劇への、耐え難いほどの罪悪感だけ。
彼女は、たった一人で、上層区画にあるデュラーン家の屋敷へと向かった。その瞳には、冷静さを失った、危うい光が宿っていた。
その様子を、影から見ていたミネルヴァは、眉をひそめた。
(…まずい。ついに、理性の箍が外れたか)
ラナーシャの能力は高く評価している。だが、この行動は、あまりに無謀で、自殺行為に等しい。
(これ以上は、監視の範疇を超える。団長に報告を)
ミネルヴァは、すぐさま踵を返し、王宮へと急いだ。近衛騎士団カルタス団長に、この緊急事態を知らせるために。彼女の報告を受けたカルタスも、事態の深刻さを即座に理解し、ジョン・スタートベルグの元へと馬を走らせた。ラナーシャを救出するには、彼らの力が必要だとの判断からだ。
【デュラーン家屋敷、敷地内】
「マクシム・デュラーン! 出てきなさい!」
屋敷に乗り込んだラナーシャは、制止する使用人たちを振り払い、怒りのままに叫んだ。「私の部下を殺したこと、どう説明するつもりです!」
その声に、玄関扉が開き、仮面の当主マクシムが、ボディガードのレボーグを伴って、悠然と姿を現した。
「…これはこれは、ラナーシャ嬢。自らお越しになるとは、感服いたしました。ですが、その物騒な話は、何のことでございましょうか?」
「とぼけるな! あなた方が、私の部下を…!」
ラナーシャが激昂した、その時。柱の影から、もう一人の男が姿を現した。シルクハットを被った、長身痩躯の男、チャールズだ。
「おやおや、マクシム殿。どうやら、私共の『商品』が、勝手に吠えているようですな」
チャールズは、ラナーシャを品定めするような、ねっとりとした視線で見た。
「この女騎士の身柄は、我ら【フェドゥス・サンギニス】に委ねられたはず。もはや、我らの所有物です。マクシム殿と言えど、これ以上の干渉は、控えていただきたい」
「…分かっておる。フェドゥスのルールには従おう」
マクシムは、面白そうに頷くと、レボーグと共に、屋敷内と引き上げていった。ラナーシャの運命を、完全にチャールズへと委ねたのだ。
「さあ、お嬢さん。少し、おとなしくしていただきましょうか」
チャールズが指を鳴らすと、屈強な男たちが現れ、抵抗するラナーシャをいとも簡単に取り押さえる。
人数の多さもさることながら、一人一人が手練れだった為、何もできずにラナーシャは摑まってしまった。
【フェドゥス・サンギニスのアジト、地下牢】
ラナーシャが意識を取り戻した時、彼女は冷たい石の床の上にいた。辺りには、いくつもの鉄格子が並び、薄暗い松明の光が、捕らえられた人々の絶望的な顔を照らしている。誰もが、首に奇妙な金属製の首輪をはめられていた。
「…ここは…」
ラナーシャもまた、同じ檻に入れられ、同じ首輪をはめられていた。それは、魔力が込められた奴隷の首輪。檻から一定距離離れようとすれば、首を締め上げ、逃走を不可能にする魔道具だ。
彼女は、持ち前の気丈さで、他の囚人たちに話を聞き始めた。なぜ捕まったのか、ここがどこなのか。だが、ほとんどの者が、恐怖と絶望で心を閉ざしていた。
そんな中、ラナーシャは、檻の隅で、虚ろな目で壁を見つめる、一人の女性に気づいた。自分と、さほど変わらない歳だろうか。しかし、その体はガリガリに痩せこけ、瞳には、一切の光がなかった。まるで、生きる屍のようだ。
「…あなた、大丈夫ですか?」
ラナーシャが話しかけるが、女性は反応しない。ただ、何かをブツブツと、意味の分からない言葉を呟いているだけだった。
(…可哀想に。心を、壊されてしまったのか)
ラナーシャが、そう思い、その場を離れようとした時。女性が、ふと、一つの名前を呟いた。
「……らばぁる……」
その、か細い声に、ラナーシャは足を止めた。
(…今、ラバァルと…?)
聞き間違いかと思った。こんな絶望の淵で、あの男の名前を聞くなど、ありえない。
彼女は、もう一度、その女性の顔を覗き込んだ。
「…てれさ…せりあ…みんな…あたしのせいで…ごめんなさい…ごめんなさい…らばぁる…助けて…」
間違いない。女性は、確かにあの男の名を呼んでいる。この女性は、一体誰なんだ? なぜ、ラバァルのことを知っている? 彼の事を慕っているのは確かだ、こんな状態で名前が口に出ているのだから、 ラナーシャは、記憶の糸をたぐり寄せようとするが、目の前の痩せこけた姿に見覚えが無く、自分の知らない女性だと結論付けた。
しかし、知っていても薄暗い中、今の姿からは、分からないかもしれない その廃人同然の女性こそ、変わり果てたあのクレセントの姿だったのだ。
彼女は、仲間たちがなに者かに捕らえられたと分かると、必死にその行方を探し回っていた。その過程で、デュラーン家の諜報網に捕捉され、捕らえられてしまった。そして、マクシムから、仲間たちがゾンハーク家の者たちに捕まった元凶が、自分の不用心な行動にあったと聞かされ、かろうじて保っていた精神の糸が、完全に断ち切れてしまったのだ。
デュラーン家は、彼女が特別な治癒能力を持つ可能性を探っていたが、精神が崩壊してしまったことで、その価値を見出せなくなった。だが、彼女は「下級商品」として、他国へ運ばれるまでの間、この檻に放り込まれていたのだ。
ラナーシャは、まだ、目の前の女性が誰なのか、全く記憶になく知らなかった。だが、この絶望の牢獄で、ラバァルという共通の知人を持つ人間に出会った。それは、偶然か、それとも…。
そして、彼女は全てを悟った。この女が、ここにいる。それはつまり、自分もまた、いずれ「商品」として、このロット・ノットから、二度と戻れない異国の地へと運ばれてしまうということを意味していた。
鉄格子と、奴隷の首輪。そして、壊れてしまった、ラバァルの知人かもしれない謎の女性。
ラナーシャは、初めて、本当の意味での「絶望」を、その身に刻み込まれたのだった。
【ロット・ノット、スタートベルグ家屋敷・王宮】
ミネルヴァからの緊急報告を受けたカルタスは、すぐさま王宮内の近道を駆け抜け、ジョン・スタートベルグの元へと急いだ。
「ジョン殿! 一大事です! ラナーシャ嬢が、単独でデュラーン家の屋敷へ…! おそらくは、すでに奴らの手に!」
カルタスの切迫した報告に、ジョンは眉一つ動かさなかったが、その瞳の奥には、冷たい怒りの光が宿っていた。
「…分かった! カルタス殿、すぐに兵を動かす準備を。私は、王宮へ参る」
ジョンは、評議会の筆頭議員として、直ちに王宮へと向かい、王への謁見を求めた。
謁見の間へ続く廊下で、ジョンの前に立ちはだかったのは、予想通り、宰相アルメドラだった。
「これはこれは、スタートベルグ卿。いかなる御用ですかな?」
「宰相殿。王宮警備隊員が殺害され、中隊長が拉致された件について、陛下にご報告と、裁可を仰ぎに参った」
ジョンの言葉に、アルメドラは、ねっとりとした笑みを浮かべた。その目は、まるで全てを知っているかのように、ジョンの内を探っていた。
「ほう。その件でしたら、私の耳にも入っておりますぞ。私の『目』は、宮廷の外にもございますのでな」
アルメドラは、自らが抱える諜報部隊の存在を、暗に匂わせた。
「しかし、スタートベルグ卿。その事件の黒幕を、評議会の有力者であるデュラーン家だと断定するには、あまりに早計ではありますまいか? 証拠もなしに、そのような憶測を陛下の御耳に入れるなど、国を二分しかねない愚行。無用な混乱で、陛下をお騒がせするわけにはいきませんな」
アルメドラは、先回りしてジョンの言葉を封じ込め、謁見を事実上、拒否しようとした。
だが、ジョンは慌てない。『ジョン・スタートベルグ来訪』の知らせは、宮廷内の彼に近しい者によって、すでに王の耳へと届けられている。
案の定、謁見の間の扉が内側から開き、王が、穏やかな表情で姿を現した。
「おお、ジョンではないか! 久しぶりじゃな。近頃、顔を見せんから、病でも患っておるのかと心配しておったぞ」
王は、アルメドラを意に介さず、旧友を迎えるように、ジョンに近づいた。
「陛下。ご無沙汰しておりました。そのようにご心配をおかけしていたとは、露知らず、申し訳ございません」
ジョンは、深々と頭を下げ、短い挨拶を終えると、すぐに本題を切り出した。
「陛下、実は、王宮を揺るがす由々しき事態が。王宮警備隊の兵士六名が殺害され、ラナーシャ中隊長が拉致されました。そして、その背後には、デュラーン家の影がございます」
ジョンの言葉に、王の表情が険しくなる。
「…ジョン」
「これは、もはや派閥争いなどという、些末な問題ではございません! 王家の権威、ひいては、この国の法そのものへの、明確な挑戦でございます! これを許せば、国の秩序は、内側から崩壊いたしましょうぞ!」
老練な重鎮の、気迫に満ちた言葉と、長年の信頼。王の心は、決まった。
「…ジョンが、そこまで言うのなら、真実なのだろう」
王は、アルメドラを一瞥すると、宣言した。
「分かった。ジョンに、近衛騎士団、および王宮警備隊の一部兵力の、王宮外における限定的な指揮権を、一時的に授ける。速やかに、事態を収拾せよ」
宰相アルメドラは、唇を噛み、何も言えなかった。王と、この国の重鎮との、長年にわたる絆の前では、彼の政治的な策略など、無力だったのだ。
許可を得たジョンは、すぐさま行動を開始した。
スタート・ベルグ家の前には、カルタスが率いる精鋭の近衛騎士団と、団長レブスが自ら率いる、復讐に燃える王宮警備隊の兵士たち、総勢150名が集結していた。
「目標、デュラーン家屋敷だ! 逃げられぬよう包囲せよ !」
レブスの号令と共に、重厚な扉が破られ、兵士たちが雪崩れ込む。しかし、屋敷の中は、不気味なほどに静まり返っていた。
そして、広間の奥から、当主マクシム・デュラーンが、ボディガードのレボーグを伴い、拍手をしながら現れた。
「これはこれは、壮観ですな、ジョン殿。…して、これほどの軍勢を率いて、この私に何か御用かな?」
仮面の下で、その目は、明らかに笑っていた。
「…マクシム・デュラーン、ラナーシャ嬢はどこだ」
ジョンの低い問いに、マクシムは肩をすくめた。「さあて。…それより、ジョン殿、アンドレアス将軍。せっかくお越しいただいたのです。奥で茶でもいかがかな?」
そのあまりに不遜な態度に、将軍の後ろに居た、カルタスとレブスは剣の柄に手をかけたが、ジョンはそれを手で制した。
「…良かろう。アンドレアス殿、カルタス殿、付いてきなさい。」
応接室での交渉は、腹の探り合いだった。
「…このままでは、全面戦争になるぞ、マクシム。貴様とて、それは望むまい」
アンドレアス将軍の脅しに、マクシムは余裕の表情を崩さない。
「ええ、もちろん。ですが、ジョン殿。事を荒立てて、本当に貴方がたに益がございますかな?」
そしてマクシムの方から、取引を持ちかけてきた。
「ラナーシャ嬢の身柄は、もはや私の手にはございません。彼女は、私の『客人』の所有物。彼女の命を、私が保証することはできかねます」
その言葉に、ジョンたちの表情が険しくなる。
マクシムは、続けた。「ですが、一つ、ご提案が。今回の件…王宮警備隊員の殺害、およびラナーシャ嬢の拉致、その全てを、貴方がたが『不問』とし、今後、我がデュラーン家に対し、一切の調査を行わないと約束してくださるのであれば…彼女の居場所を、お教えしましょう」
「何だと…?」
「彼女を連れ去った者たちは、よそ者。まごまごしていると、彼女は『商品』として、我々の手の届かぬ、遠い異国へと運ばれてしまいますぞ。どうですかな? 貴方がたの面子と、一人の優秀な騎士の命。どちらが重いか…」
それは、あまりに屈辱的な提案だった。だが、ラナーシャの命には、代えられない。ジョンは、唇を噛みしめ、決断した。
「…分かった。その取引、受けよう」
取引は、成立した。
マクシムからラナーシャの監禁場所を聞き出したジョンは、すぐさまカルタスとレブスに命令を下した。
「全軍、目標地点へ急行せよ! 中隊長を、必ず救出せよ!」
「「はっ!」」
騎士と兵士たちは、新たな目的地である【フェドゥス・サンギニス】のアジトへと、一斉に駆け出していった。
【デュラーン家屋敷、応接室】
ジョンたちが去り、静寂が戻った部屋で、それまで一言も発さなかったレボーグが、ぽつりと呟いた。
「…よろしかったのですか。教えてしまって」
マクシムは、窓の外を眺めながら、冷めた声で答えた。
「なに、構わんさ。あれだけの兵が向かったのだ。我々の手を汚さずとも、奴らの『巣』にいるネズミどもを、証拠もろとも、綺麗に掃除してくれるだろう」
彼は、合理的に計算していた。【フェドゥス・サンギニス】は、大きな力だ。しかし、今回の件で、王家やスタートベルグ家といった、ロット・ノットの最上層部を敵に回すリスクは、あまりに大きい。ならば、ここで彼らは切り捨て、デュラーン家への追及を完全に断ち切ることの方が、遥かに利益が大きい。
『知られなければ問題には成らない』
その言葉に、レボーグは再び、語らない男へと戻っていた。
マクシムの描く盤上で、合理的な判断が下されただけの事だった。
【フェドゥス・サンギニスのアジト、地下】
ロット・ノットのスラムの西地区、その一角に不気味な建物があった、そしてその地下。そこが、【フェドゥス・サンギニス】のロット・ノットにおけるアジトだった。
その外では、カルタス率いる近衛騎士団と、レブス率いる王宮警備隊が、音もなく、しかし迅速に、出入り口を包囲していた。
「――突入せよ!」
カルタスの号令と共に、重い鉄の扉が破られ、王国の兵士たちが、怒涛の如くアジトの中へと雪崩れ込んだ。
「何事だ!? 襲撃か!?」
地下で捕虜の管理をしていた奴隷商たちは、突然の奇襲に狼狽えた。だが、彼らもまた、修羅場をくぐり抜けてきた手練れ。すぐに得物を手に、兵士たちを迎え撃つ。狭い通路で、剣と剣がぶつかり合う、甲高い金属音が響き渡った。
その混乱の最中、アジトの最深部で報告を受けた幹部チャールズは、忌々しげに舌打ちした。
「…なぜ、この場所がバレた…!? まさか、マクシム…あの男、私を裏切ったと言うのか!」
推測は、確信に変わる。だが、もはや後の祭りだ。
次々と降りてくる兵士の数は、瞬く間にアジト内の奴隷商たちの数を上回り、その勢いは増すばかりだった。
「うおおおおぉぉぉっ!!」
その中に、一際荒々しく剣を振るう男がいた。王宮警備隊団長、レブスだ。剣技の冴えではラナーシャに及ばないが、その一撃は、鎧ごと相手を叩き潰すほどのパワーを秘めている。部下を惨殺された怒りが、彼を鬼神に変えていた。
「俺の部下たちを…よくもッ!」
レブスの剛剣が、奴隷商たちを容赦なく斬り伏せていく。
数の上でも、士気の上でも、奴隷商たちは完全に不利だった。手練れの彼らでさえ、次々と押し寄せる兵士の波の前に、一人、また一人と倒れていく。
このままでは、全滅は時間の問題。それを悟ったチャールズは、口の端を吊り上げ、不気味に笑った。
「…やれやれ。まさか、このロット・ノットで、私の『奥の手』を使わされることになるとは」
彼は、懐から取り出した奇怪な紋様の短剣で、自らの胸を深々と突き刺した。
「!!?」
その常軌を逸した行動に、周囲の者たちが息をのむ。
「いでよ、我が半身…! 貪り喰らえ、アスモデウス!!」
チャールズの体が、蛹が脱皮するかのように、内側から激しく蠢き始めた。皮膚が裂け、骨が軋み、肉が盛り上がる。そして、背中を突き破り、禍々しい漆黒の翼が姿を現した。人間のものとは思えぬ鉤爪が腕から生え、顔は、山羊のような捻じくれた角を持つ、悪魔の相貌へと変貌していく。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
腹の底から放たれた咆哮は、ただの声ではない。魂そのものを揺さぶる、魔性の絶叫。屈強な兵士たちでさえ、その声を聞いただけで恐怖に戦意を喪失し、武器を取り落としてその場にへたり込んでしまった。
「…悪魔…だと…!?」
カルタスは、目の前で起こった信じがたい変貌に、愕然とした。
【総合奴隷商フェドゥス・サンギニス】。彼らは、ただの奴隷商ではない。このノース大陸に存在する、数多の怪物や魔族、そして悪魔さえも従属させているという、黒い噂は本当だったのだ。
悪魔化したチャールズが、カルタスを睨みつけた。
「さて、パーティーの始まりですな、騎士団長殿。貴方のような極上の魂は、さぞかし、美味でしょう」
その姿が、消えた。
次の瞬間、カルタスのすぐ目の前に現れたチャールズが、その鉤爪を振り下ろす。カルタスは、咄嗟に剣で受け止めるが、凄まじい衝撃に、腕が痺れ、数歩後退させられた。
「団長!」
ミネルヴァをはじめとする、近衛騎士団の精鋭たちが、一斉にチャールズを取り囲む。
「小賢しい…!」
チャールズは、翼を一度羽ばたかせた。それだけで、凄まじい突風が巻き起こり、屈強な近衛騎士たちが、木の葉のように吹き飛ばされる。
「…化け物が…!」
カルタスは、歯を食いしばり、再び剣を構えた。
圧倒的な力だった。だが、ここで引くわけにはいかない。この化け物の先に、囚われた仲間がいるのだ。
王国の最強騎士団の一つと、一体の悪魔。アジトの最深部で、今、絶望的な死闘の幕が上がった。
【フェドゥス・サンギニスのアジト、最深部】
悪魔アスモデウスと化したチャールズの力は、圧倒的だった。その鉤爪の一振りは屈強な近衛騎士を鎧ごと引き裂き、翼が起こす突風は、熟練の兵士たちをも赤子のように吹き飛ばす。地下のアジトは、瞬く間に血と肉が散乱していた。
だが、その絶望的な戦況の中心で、ただ一人、冷静に戦局を見つめる男がいた。【センチネル】の称号を持つ男、カルタス・ヤーマン。
「第一隊、退け! 距離を取って牽制に徹しろ!」
「ミネルヴァ、第二隊を率いて奴の背後に回り込め! 狙いは翼の付け根だ!」
「第三隊、詠唱準備! 奴の動きが止まった瞬間に、聖句を叩き込め!」
カルタスは、自らも悪魔の猛攻を受け流しながら、的確な指揮を飛ばし続ける。彼は、ただ闇雲に戦ってはいなかった。仲間が一人、また一人と戦闘続行不能な程の怪我を負わされ倒れされていく、その犠牲を無駄にする事無く、取り入れ、悪魔の動きを冷静に分析していたのだ。
(…動きは速いが、直線的。大振りな攻撃の後には、必ずコンマ数秒の硬直がある。狙うなら、そこだ…!)
壮絶な死闘が続く。数名の精鋭が血の海に沈んだ。だが、その犠牲は無駄ではなかった。カルタスは、ついに、アスモデウスの攻撃パターンを見切った。
「――今だッ!!」
アスモデウスが、兵士の一人を叩き潰そうと、大きく鉤爪を振り上げた、その瞬間。
カルタスの号令一下、ミネルヴァ率いる第二隊が、背後から一斉にその翼の付け根へと斬りかかる。
「グッ…!?」
予想外の方向からの痛撃に、アスモデウスの動きが一瞬、止まった。
その隙を、カルタスは見逃さない。
彼は、全身の力を剣の一点に込め、大地を蹴った。それは、もはや人間の踏み込みではなかった。閃光。
カルタスの剣は、アスモデウスの硬い鱗を貫き、その心臓を正確に捉えていた。
「ゴ…ア…アアアアアアアアアッ!!!」
悪魔は、断末魔の叫びを上げながら、その巨体をゆっくりと後ろへ倒していく。カルタスは、その首めがけて、渾身の力で剣を振り下ろした。
ゴトリ、と重い音を立てて、悪魔の首が床を転がる。
「……」
静まり返るアジト。
やがて、生き残った兵士の一人が、悪魔の首を高々と掲げた。
「――我らが団長、カルタス・ヤーマン様が、悪魔を討ち取られたぞーっ!!」
その声が合図だった。
「「「うおおおおおおおおおおっ!!!!」」」
生き残った兵士たちの、勝利の雄叫びが、地下深くから地上まで響き渡った。
【囚人たちの解放】
勝利の余韻も束の間、カルタスたちはすぐに囚人たちの解放へと取り掛かった。
檻の中に、ラナーシャの姿を見つけたレブスが、安堵の声を上げる。
「中隊長! 無事だったか!」
「…団長…。皆さん…」
ラナーシャは、憔悴しきってはいたが、その瞳には、まだ闘志の光が残っていた。
しかし、すぐに新たな問題が発覚する。囚人たちの首には奇妙な首輪が嵌められていた。
「団長、ダメです! この首輪、檻から一定距離離れると、自動で締まり始めるのです!」
「何だと!? 魔道具か…!」
力ずくで外そうにも、首輪はびくともしない。
「…専門家の助けが必要だな」
それにカルタスは、即座に判断を下した。「ミネルヴァ、お前はすぐに王宮へ戻り、宮廷魔術師の派遣を要請しろ。これは、国王陛下の勅命であると伝えよ」
ミネルヴァが王宮へと駆け戻り、それから数時間後。一人の痩せた老魔術師が、アジトへと到着した。
「…ふむ。これは、古代ロマノス帝国で使われていた、隷属のルーンですな。解呪は、骨が折れますぞ」
老魔術師は、一人ひとりの首輪に刻まれたルーン文字を、特殊な薬液と詠唱で、丁寧に消していく。気の遠くなるような作業だった。
全ての囚人が解放された頃には、すでに夜が明けていた。
「…後のことは、我々、王宮警備隊が引き受けます」
解放された部下たちを前に、レブスは決意を新たにしたように言った。カルタスはそれに頷くと、近衛騎士の方で出た負傷者及び死者を連れ出すよう部下に指示を出し、近衛騎士たちの肩を貸り、静かにその場を去っていった。
ジョンとアンドレアス将軍は、とうの昔に彼らの役割――政治という名の、もう一つの戦場での戦い――を終え、スタートベルグ家の屋敷へと戻っているだろう。
夜が明け、陽の光が、昨夜の惨劇の跡を照らし出す。
今回の事件は、王国兵士たちの、あまりに大きな犠牲の上に、ようやく、その血塗られた幕を閉じた。
王国近衛騎士団、死者2名、負傷者8名。
王宮警備隊、死者9名(先の連続殺害を含む)、負傷者12名。
その一つ一つの数字が、失われた命の重みを、そして、戦いの激しさを物語っていた。
ラナーシャは、解放された仲間たちと共に、静かに朝日を見上げていた。多くの犠牲を払い、辛うじて掴んだ勝利。しかし、その心に、喜びはなかった。
その根源であるデュラーン家は、未だ健在。そして、彼らと繋がる【フェドゥス・サンギニス】という巨大な闇は、トカゲの尻尾を切っただけで、まだロット・ノットの地下深くに、その根を禍々しく張ったままなのだ。
本当の戦いは、まだ、始まってもいない。
ラナーシャは、昇り始めた太陽を、決意を込めて、強く睨みつけていた。
【王宮、警備隊団長室・ロット・ノット郊外、数日後】
フェドゥス・サンギニスのアジト殲滅から、数日が過ぎた。
ラナーシャは、団長であるレブスの前に、直立不動で立っていた。彼女が予期していた通り、厳しい辞令が下された。
「――以上により、ラナーシャ・ヴィスコンティ中隊長に、追って通知があるまで、無期限の謹慎を命じる」
レブスの言葉は、非情に響いた。だが、ラナーシャには、反論する言葉も、資格もなかった。
自分の単独行動が、多くの部下の命を奪い、近衛騎士団までも巻き込む大事件に発展させてしまった。その失態の責任は、あまりに重い。彼女は、懐に忍ばせていた辞表を、強く、強く握りしめた。いっそ、この場で職を辞し、全てを償うべきではないか。
しかし、その脳裏に、今は郊外の屋敷で暮らす、母の顔が浮かんだ。
かつての聡明さは見る影もなく、やせ細り、その思考は常に霧の中を彷徨っているかのように、ふわふわとしている。病ではない。だが、心は、もうずっと前に壊れてしまっている。
彼女は知らないのだ。自らが、何者かの巨大な謀略に嵌められ、多額の借金を背負わされていることも。そして、その借金が、今は亡き夫――現国王の弟君であったラナーシャの父――が遺した、誇り高きヴィスコンティ家の名を、泥で汚すための隠れ蓑に使われていることにも。
(…愚かで、あまりに哀れな母…)
ラナーシャは、奥歯を噛みしめた。そんな愚かな母だったが、自分にとっては、ただ一人の、優しかった母なのだ。
その母と、ヴィスコンティ家の名に塗りたくられた汚物を濯ぐには、力が必要だ。権力と、正義を執行できる地位が。
この地位を失えば、母を救うための道も、家の名誉を回復する道も、完全に閉ざされてしまう。
「…謹んで、お受けいたします」
ラナーシャは、個人的な激情と、公人としての責任、そして娘としての使命、その全てを飲み込み、深く、深く頭を下げた。
彼女は、まだ知らない。この「謹慎」という辞令が、レブス団長一人の判断ではないことを。
それは、スタートベルグ家の屋敷で、ジョン、アンドレアス将軍、そしてカルタスが、ミネルヴァからの詳細な報告書を基に、彼女の性格と行動パターンを分析し、熟慮の末に下した結論だったのだ。
『――彼女は、必ず自らを責め、再び単独でデュラーン家へ向かいかねん。そうなれば、今度こそ命はない。我々が動けるようになるまで、彼女を一時的に職務から外し、強制的に休養させるべきだ』
彼らは、ラナーシャという素質ある「剣」を、自らの激情で折らせてしまわぬよう、あえて彼女を戦場から遠ざけるという、最善の策を選んだのだ。
レブスは、そんな上層部からの意図を汲み、言葉を続けた。
「…それともう一つ。今回の事件に関する一切は、これをもって捜査を打ち切る。王家からの、直々の勅令だ。デュラーン家にも、フェドゥス・サンギニスにも、今後一切、関わることは許されん。…良いな?」
「……はっ」
それは、悪の根源を見逃せ、というに等しい命令だった。ラナーシャは、唇を噛みしめ、その屈辱を飲み込むしかなかった。
その日から、ラナーシャは、叔母のマレリーナが営む雑貨店で、静かに時を過ごすことになった。剣を置き、客に笑顔を振りまき、商品を棚に並べる。その穏やかな日常が、彼女の心を、少しずつ、しかし確実に癒していくのを、彼女自身は、まだ知らなかった。
最後まで読んでくださりありがとう、また続きを見掛けたら読んでみて下さい。




