ロット・ノットに巣くう闇
ラガン王国の首都ロット・ノット、今、王宮の敷地内で、裕福な貴族を狙った、スリが頻発していた、
当然王宮警護隊が、その威信をかけ調査を開始する...。
その128
【新市街、マレリーナの雑貨店・王宮、早朝】
ラバァルがロット・ノットを離れて数ヶ月が経っていた。街がまだ朝霧に包まれている頃、ラナーシャの一日は始まる。
「叔母様、行ってまいります」
「あら、ラナーシャ。今日も早いわね。気をつけて行くのよ。はい、これお弁当」
叔母のマレリーナに見送られ、綺麗に洗濯された王宮警備隊の制服に身を包んだラナーシャは、朝日が差し込み始めた新市街を、王宮へと向かう。彼女の表情は、中隊長としての責任感と誇りに満ちていた。
王宮警備隊の詰め所に着くと、彼女はすぐに仕事の顔になる。
「全員、整列! 今日の持ち場と任務内容を伝達する! 警邏第一班は西門、第二班は東庭園を重点的に巡回せよ。不審な者を見かけたら、決して単独では動かず、必ず応援を呼ぶこと! いいな!」
「「「はっ!」」」
ラナーシャの凛とした声に、部下たちは一糸乱れぬ動きで応える。当初は、若く美しい女性指揮官に戸惑っていた者たちも、今では彼女の的確な指揮能力と、誰よりも厳しい訓練を自らに課す姿に、全幅の信頼を寄せていた。
その日の午前中は、部下たちの剣術稽古に費やされた。ラナーシャは、一人ひとりの動きを鋭く見抜き、的確な助言を与える。
「そこだ! 踏み込みが甘い! 剣は腕だけで振るな、腰で斬るんだ!」
時には自ら木剣を手に、圧倒的な実力で部下を打ち据える。彼女の指導は厳しいが、そこには確かな理論と、部下を育てようという意志があった。
【小さな事件の始まり】
午後になり、警邏任務の報告を受けていたラナーシャは、眉をひそめた。
「…またか。これで、今週に入って三件目だな」
報告書に記されていたのは、王宮内やその周辺で、下級貴族を狙った連続スリ事件だった。盗まれるのは財布や装飾品など、被害額は大きくない。しかし、王宮の治安を揺るがす、看過できない事件だった。
「中隊長、いかがいたしますか?」
「私が直接、指揮を執る。被害に遭った者たちのリストと、事件発生場所の地図をすぐに用意しろ」
ラナーシャは、すぐさま捜査に乗り出した。被害者から話を聞き、現場を検証していく中で、彼女は奇妙な共通点に気づく。
(…おかしい。被害者は全員、評議会の中でも、ゾンハーグ家やムーメン家とは距離を置く、中立派閥の貴族ばかりだ…)
単なる金目当てのスリではない。背後に、何か別の目的がある。ラナーシャの直感が、そう告げていた。
「…おそらく、犯人が次に狙うのは、今夜、東の離宮で開かれる夜会に出席する貴族だろう。全員、持ち場を離れ、私服に着替えて離宮周辺に潜伏せよ。犯人を、一網打尽にする」
ラナーシャの断定的な予測に、部下たちは一瞬戸惑うが、すぐに「はっ!」と力強く応え、行動を開始した。
その一連の様子を、王宮の時計塔の影から、一人の女性兵士が冷静に見下ろしていた。彼女は、上官であるカルタスより、ラナーシャの能力を見極め、分析せよとの密命を受けていた。
(…見事な洞察力と、大胆な指揮。報告通りの逸材か、あるいはそれ以上か。さて、お手並み拝見と行こう)存在感を消し去り、彼女の行動をただ静かに見ていた。
【大きな事件への扉】
その夜。ラナーシャの予測は、的中した。
夜会がお開きになり、着飾った貴族たちが、談笑しながら離宮の庭園を通り、それぞれの馬車へと向かい始める。夜の闇と、庭園の木々が作り出す深い影が、彼らの足元に広がっていた。
その時、一人の貴族の背後に、影がすっと忍び寄った。犯人グループの一人だ。彼は、人混みに紛れるようにターゲットに近づくと、その腰に下げられた豪奢なポーチに手を伸ばす。
しかし、その指先がポーチに触れるか触れないかの瞬間、近くの茂みから、もう一人の男が飛び出した。
「そこのお方、お忘れ物ですよ!」
仲間の一人が、わざとらしく声をかけ、貴族の注意を引く。その一瞬の隙に、スリ役の男はポーチを鮮やかに抜き取り、闇へと紛れ込もうとした。
そこまでだった。
「――今だ! かかれッ!!」
ラナーシャの凛とした号令が、夜の庭園に響き渡った。
その声が合図だった。それまで庭師を装って植木の手入れをしていた者、ただの酔っぱらいのようにベンチで寝ていた者、貴族の護衛のように離れて立っていた者――その全てが、潜伏していた王宮警備隊の者たちだった。
彼らは、一斉に、その正体を現した。
「なっ!?」
「囲まれている!」
犯人グループは、自分たちの完璧な連携が、さらに大きな網の中で踊らされていたに過ぎないことを悟り、愕然とした。スリ役の男も、注意を引いていた男も、そして周囲で見張りをしていた仲間たちも、瞬く間に警備隊員たちに取り押さえられていく。
「ちぃっ!」
リーダー格の男が、仲間を見捨てて逃走を図る。その先に、ラナーシャが銀色のサーベルを手に、静かに立ちはだかった。
「そこまでです。大人しく投降なさい」
「どけぇ! 女の騎士ごときが!」
男は、短剣を抜き、ラナーシャに斬りかかる。しかし、ラナーシャは、その攻撃を柳のように受け流すと、流れるような剣閃一閃で、男の手から短剣を弾き飛ばした。勝負は、一瞬だった。
捕らえられたリーダー格の男は、詰め所の地下にある尋問室へと連行された。
「なぜ、特定派閥の貴族ばかりを狙ったのです? あなたの目的は、金ではないでしょう。誰に雇われたのですか?」
ラナーシャの鋭い問いに、男は嘲るように口の端を吊り上げ、黙秘を貫いていた。
(…ただの盗賊ではない。口が堅い。相当な手練れか、あるいは、口を割れないほどの恐怖で縛られているか…)
ラナーシャは、目の前の男を冷静に観察しながら、これまでの捜査で得た情報を頭の中で整理し、組み立て直していた。
第一に、被害者たちと犯行現場の奇妙な共通点。被害者は皆、評議会でゾンハーグ家やムーメン家とは距離を置く、中立派閥の貴族たち。そして、犯行はすべて、夜会や謁見の帰り際といった、人の多い王宮の敷地内で発生している。これは、所轄である我々、王国警備隊への明確な挑戦状でもあった。
第二に、被害届の不自然さ。どの貴族も「高価な宝飾品を奪われた」「金貨が詰まった財布をすられた」と、金品の被害額については大袈裟に騒ぎ立てる。しかし、その訴えとは裏腹に、彼らの態度はどこか芝居がかって見えた。
そして、第三の、そして最も重要な手掛かり。それは、最初の事件現場の近くで、部下の一人が偶然発見した一枚のメモだった。おそらく、犯人が慌てて逃げる際に落としたものだろう。それは羊皮紙の切れ端で、そこには暗号めいた文字列――『星見の塔、月蝕の夜、鴉は三度鳴く』――とだけ記されていた。
当初、ラナーシャはこのメモが犯人グループの連絡用暗号だと考えていた。しかし、捜査を進めるうちに、ある途方もない仮説に思い至る。――もし、これが犯人が落としたものではなく、被害者が盗まれたものの一部だとしたら?
この仮説を胸に、ラナーシャは二人目の被害者に尋問を行った。そして、こうカマをかけたのだ。
「犯人が落としたと思われるメモが見つかりました。内容は『星見の塔…』とありますが、お心当たりは?」
その瞬間、被害者の貴族は、血の気が引いたように顔を蒼白にさせ、明らかに狼狽した。
「し、知らん!そのようなもの、全く身に覚えがない!」
その過剰なまでの否定は、ラナーシャの仮説が真実であることを雄弁に物語っていた。
それ以降、ラナーシャは他の被害者にも同様の揺さぶりをかけた。結果は同じ。彼らは皆、金品を盗まれたことよりも、「覚え書き」の存在をこちらが掴んでいるという事実に、酷く怯えているのだ。
ラナーシャは確信していた。一連のスリ事件の真の目的は、金品ではない。それは、捜査の目をくらませるための煙幕だ。犯人が本当に狙っているのは、被害者たちが密かに持ち歩いていた、この国の何かを揺るがしかねない秘密の「覚え書き」。
そして被害者たちは、その「覚え書き」の存在を知られること自体を、命を失うこと以上に恐れているかのように。王宮という最も安全なはずの場所で、一体彼らは何を企んでいたのか。ラナーシャの瞳に、冷たい光が宿った。
これらの事実から、ラナーシャは一つの仮説を導き出した。
これは、評議会内の権力闘争だ。ある派閥が、対立する派閥(この場合は中立派)の動向…彼らが交わす「密書」を狙っている。被害者たちが口を濁すのは、その「覚え書き」が、公にできない内容だったからに違いない。
(では、黒幕は誰か…?)
ゾンハーグ家か、ムーメン家か? いや、彼らはすでに巨大な力を持っている。今さら、中立派の細かい動向を、こんな危険な手を使って探る必要はない。
ラナーシャは、最近、王宮に出入りしている貴族たちから耳にした、いくつかの不穏な噂を思い出していた。
『ムーメン家の密造酒の拠点が、何者かに襲撃され、壊滅的な被害を受けたらしい』
『ゾンハーグ家傘下のゴールデン・グレイン商会が、何者かと揉めているようだ』
評議会の二大巨頭であるムーメン家とゾンハーグ家が、立て続けに損害を受けている。まだ詳細は不明だが、ロット・ノットの水面下で、新たな勢力が台頭し、既存の秩序を乱し始めているのは明らかだった。
この混乱を、自らの勢力拡大の好機と捉える者がいるとすれば…。
そこで、ラナーシャの脳裏に、いくつかの家の名が浮かび上がった。かつての彼女であれば、ただ漠然と噂をなぞることしかできなかっただろう。しかし、今は違う。数ヶ月前、彼女の前に現れたラバァルと名乗る謎の男。彼がもたらす情報は、まるでロット・ノットの地下水脈のように深く、暗く、そして正確だった。その情報があったからこそ、彼女はヴィスコンティ家を陥れた者たちの輪郭を、ようやく掴み始めていたのだ。
ラバァルがもたらした評議会の勢力図を、彼女は頭の中で展開する。
没落しつつも名門の意地を見せる【ベスウォール家】か。非合法なビジネスで成り上がった新興の【デュオール家】か。あるいは、その力の源泉が謎に包まれた【デュラーン家】か。
ラバァルの情報によれば、ベスウォール家はもはや抜け殻だ。このような大胆な犯罪を計画・実行する力は残っていない。デュオール家は、たしかに裏社会のチンピラを抱えているが、その手口はもっと粗暴で直接的だ。王宮内でこれほど緻密で、警備隊の目を欺くスリを働くには、彼らの手駒はあまりに質が低い。
ラナーシャの思考は、ラバァルが特に「底が見えない」と評した一つの家へと収束していく。
――【デュラーン家】か。
ラバァルの情報と、今回の犯行の特徴が、不気味なほど一致するからだ。
第一に、極めて高度な隠密性と技術。ラバァル曰く、デュラーン家当主マクシム・ディーランの周りには、常に素性の知れない護衛が影のようについているという。その動きは、巷の傭兵や騎士とは次元が違う、と。
第二に、王家への不遜な態度。ラバァルは、デュラーン家がロマノス帝国の悪名高い総合奴隷商【フェドゥスサンギニス】と密かに通じていることを突き止めていた。ラガン王国の権威よりも、国境を越えた巨大な闇組織との繋がりの方を重視している可能性が高い。王宮を犯行現場に選ぶ大胆さも、それならば頷ける。
そして第三に、動機。デュラーン家は、他の評議会議員たちの弱みを握り、勢力図を塗り替えようと画策している。今回の被害者が、いずれも特定の派閥に属さない中立貴族であることも、彼らが狙いを定めて「駒」を増やそうとしているラバァルの分析と一致する。
(…ラバァルが言っていた。フェドゥスサンギニスは、ただ人間を売るだけではない。ノース大陸に存在する怪物はもとより暗殺や諜報といった『特殊技能』を持つ人間までも商品として扱い、それを購入した主に絶対の忠誠を誓わせる、と。もし、デュラーン家がその『商品』を手にしているとしたら…?)
高度な技術を持ち、王宮の権威を物ともせず、その背後には巨大な闇組織の影がちらつく。そして、その行動原理までが、ラバァルからもたらされた情報と完璧に符合する。
ラナーシャの中で、全てのピースが一つにはまった。この、まるで幽霊のような犯行をやってのける可能性があるとすれば、それはデュラーン家をおいて他にない。
「…あなたの仲間は、もう全て話しましたよ」
ラナーシャは、確信を持って、ハッタリを仕掛けた。声に、一切の迷いはない。
「**『デュラーン家から、密書の写しを盗むよう命じられた』**とね。あなただけが黙っていても、無意味です」
その言葉に、男の目が、隠しきれないほど大きく揺らいだ。嘲笑の余裕は消え、焦りの色が浮かんでいる。
「なっ…!?」
「図星ですか」ラナーシャは、畳み掛ける。「さあ、全て話しなさい。二大勢力が揺らぐこの機に乗じて、デュラーン家は、あなた方に何をさせようとしていたのですか?」
観念した男の口から語られたのは、衝撃の事実だった。彼らは、評議会内の有力者【デュラーン家】に雇われ、対立派閥の貴族たちが交わす密書を盗み、その内容を探っていたのだ。
連続スリ事件は、評議会の水面下で繰り広げられる、深刻な権力闘争の氷山の一角に過ぎなかった。
ラナーシャは、自分がとんでもない大事件――評議会の有力者たちが繰り広げる、陰湿な権力闘争――に、真正面から足を踏み入れてしまったことを悟り、背筋が凍る思いだった。
彼女が、自らが開けてしまった「パンドラの箱」の大きさに慄いていた、その時。
尋問室の、冷たい石壁を隔てた隣の部屋。そこには、もう一人の女性騎士が、静かにペンを走らせていた。近衛騎士中隊長、ミネルヴァだ。
これは事前にカルタスから話が通っており、王宮警備隊のレブス団長へミネルヴァの活動を内密に支援するよう協力の約束を取り付けていた。彼女はその特権を行使し、隣室から、壁に仕込まれた小さな通気孔を通して、尋問の一部始終を、一言一句聞き漏らすことなく羊皮紙に書き留めていたのだ。
やがて、尋問が終わり、ラナーシャが男を連れて部屋を出ていく足音が遠ざかると、ミネルヴァはペンを置いた。彼女は、自らが記した報告書を、満足げに、そして冷徹に読み返した。
まず、尋問の内容そのものを精査する。ラナーシャがハッタリの材料として使った、ロット・ノットの不穏な噂――ムーメン家関連施設の被害や、各所での抗争の頻発。それらは、ミネルヴァ自身も近衛騎士団の情報網で掴んでいた事実だ。
しかし、重要なのはそこではない。ラナーシャが、それらの断片的な情報を、デュラーン家の勢力拡大の野心という一つの線に結びつけた、その卓越した推理力。そして、その推理を武器に、相手の心の隙を突く狡猾な尋問術。それらは、ただ正義を振りかざすだけの、そこらの世間知らずな貴族の子弟とは、明らかに一線を画していた。
(…清濁併せ呑む覚悟と、泥水を啜ってでも真実を掴み取ろうとする執念。なるほど、これがあのジョン様や将軍が惚れ込んだ器か…)
ミネルヴァは、今起こった事件での評価を羊皮紙に記した。
『――対象ラナーシャ。指揮能力、洞察力、武勇、そして尋問能力、いずれも高水準。特に、断片的な情報から事件の核心を突き、大胆な仮説を立てて相手を追い詰める思考プロセスは、特筆に値す。引き続き、彼女の行動プロセスの調査を続行します。』
ミネルヴァは、その報告書を丁寧に折り畳むと、蝋で封をした。ラナーシャが、これから始まるであろう大きな嵐の中心に立たされていることなど、全く意に介さずに。彼女にとって重要なのは、ラナーシャという「素材」が、上層部からの期待に応えうるかどうか。ただ、それだけだった。
【王宮、警備隊詰め所・デュラーン家屋敷、数日後】
連続スリ事件の犯人を捕らえ、デュラーン家の関与を暴いたラナーシャだったが、彼女の心に平穏はなかった。事件は解決したかに見えたが、それは巨大な氷山の一角に過ぎない。彼女は、自らの手で、ロット・ノットの最も暗く、深い闇の扉をこじ開けてしまったのだ。
「…デュラーン家…」
ラナーシャは、詰め所の自室で、一人その名を呟いた。評議会の有力者でありながら、常に不気味な仮面で素顔を隠す当主、マクシム・デュラーン。その存在は、謎に包まれていた。
彼女は、職務の合間を縫って、独自の調査を開始した。王宮の書庫に眠る古い資料を漁り、父が遺した人脈を頼りに、信頼できる者から情報を集める。だが、デュラーン家に関する情報は、あまりに少なかった。まるで、誰かが意図的にその歴史を消し去ったかのように。
一方、その頃。ロット・ノット上層区画にあるデュラーン家の屋敷、その地下深くにある書斎で、当主マクシムは、今回の失態を報告する部下の前に、静かに座っていた。
「…王宮警備隊に、ですか。私の手駒が、それほどまでに脆いとは思いませんでしたねぇ」
仮面の奥から聞こえる声は、抑揚がなく、感情が読めない。だが、その静けさが、かえって部下を震え上がらせた。
「も、申し訳ございません! まさか、あのような若い女騎士に、ここまで嗅ぎつけられるとは…」
「…その女騎士の名は?」
「はっ…ラナーシャ・ヴィスコンティと…」
「ラナーシャ…」マクシムは、その名を記憶に刻むように、ゆっくりと繰り返した。「面白い。実に、面白い…。私の計画の邪魔をする、小さな、しかし美しい虫が現れた、というわけですか」
彼は、立ち上がると、書斎の壁に掛けられた、一枚の禍々しい紋章に触れた。鎖と血の滴が描かれた、その紋章。
「…予定を早めましょう。【フェドゥス・サンギニス】の『客人』たちが、ちょうどロット・ノットに到着する頃です。その女騎士にも、我々の『おもてなし』を、たっぷりと味わっていただきましょうか…」
マクシムの仮面の奥で、目が細められた。それは、獲物を見つけた蛇の目だった。
新市街、夜
ラナーシャの調査は、難航していた。そんなある夜、彼女の元に、一通の密書が届けられた。差出人の名はない。そこには、ただ一文だけが記されていた。
『デュラーン家の秘密を知りたければ、今宵、月が最も高くなる頃、新市街南の廃教会へ、一人で来られたし』
(…罠だ)
ラナーシャは、即座にそう判断した。デュラーン家が、こちらの動きに気づき、誘い出そうとしているのだ。
だが、彼女は行くことを決意した。危険を冒さなければ、真実にはたどり着けない。彼女は、警備隊の部下には何も告げず、サーベル一本を手に、一人、夜の街へと向かった。
その様子を、物陰からミネルヴァが静かに見つめていた。
(…罠だと分かっていながら、一人で向かうか。無謀か、それとも自信の表れか。いずれにせよ、これで第二段階のデータが取れる)
彼女は、手出しをせず、一定の距離を保ちながら、ラナーシャの後を追った。
廃教会は、不気味な静寂に包まれていた。ラナーシャが、軋む扉を開けて中へ入ると、そこには、蝋燭の灯りに照らされた、数人の屈強な男たちが待ち構えていたのだ。
闇の中から、デュラーン家の執事を名乗る、痩せぎすの男が姿を現す。
「…ようこそ、ラナーシャ嬢。貴女のような聡明な方が、関わるべきではないことに、首を突っ込んでしまったのは、実に残念ですな」
執事の言葉には、ねっとりとした脅威が込められていた。
「知ってしまったからには、もう、後戻りはできませんぞ。…どうやら、貴女は、騎士としての価値だけでなく、『商品』としての価値も、非常に高いようだ」
「商品…!?」
ラナーシャがその言葉の意味を測りかねていると、執事の合図と共に、待ち構えていた男たちが、一斉に襲いかかってきた。
その瞬間、ラナーシャは、男たちの首筋に刻まれた、ある刺青に気づいた。鎖と血の滴を象った、禍々しい紋章。それは、かつて警備隊の極秘資料で一度だけ目にしたことがある、悪名高い総合奴隷商団の徴。まさか、とは思うが…。
(…【フェドゥス・サンギニス】…!? なぜ、奴らがここに…! デュラーン家は、奴らと通じていたというのか!)
彼らは、ただのチンピラではない。実戦で鍛え上げられた、本物の人買いであり、殺し屋だ。予測不能な軌道で振るわれる鎖分銅、肉を断つ曲刀。ラナーシャは、必死に応戦するが、多勢に無勢。徐々に追い詰められていく。肩を斬られ、足に鎖が絡みつき、ついに動きを封じられてしまった。
(くっ…ここまで、…!)
ラナーシャが、屈辱に唇を噛んだ、その時。
教会のステンドグラスが、けたたましい音を立てて粉々に砕け散った。そして、月光を背に、一人の女騎士が舞い降りた。ミネルヴァだ。
「な、何者だ、貴様!?」
「貴様らの様な怪しい者たちに名乗る名はない。」
(…団長の命令は、『手出しはするな』だったが)
ミネルヴァは、剣を抜き放ち、冷たく言い放った。
「貴重な『剣』が、こんなクズどもに折られるのは、見過ごせん」
彼女の介入は、ラナーシャのデータを取るという任務の、完全な逸脱行為だった。だが、彼女は自らの判断で動いた。この逸材を、こんな場所で失うわけにはいかない、と。
ミネルヴァの強さは、圧巻だった。奴隷商たちが繰り出す攻撃を、まるで子供をあしらうかのように、いとも容易く捌いていく。ラナーシャも、鎖を断ち切り、ミネルヴァと背中合わせに立つ。
二人の女騎士の連携は、完璧だった。互いの死角を補い合い、流れるような剣技で、次々と敵を打ち倒していく。
やがて、奴隷商たちは死体の山を築き、執事は恐怖に顔を引きつらせて逃げ去っていった。
「…助かりました。ですが、なぜ…?」
ラナーシャの問いに、ミネルヴァは剣を鞘に納めながら、淡々と答えた。
「ただの気まぐれだ。…それと、一つ忠告しておく。デュラーン家の闇は、あなたが考えている以上に奥深い。これ以上、一人で深入りするのは、死を意味するぞ」
それだけ言うと、ミネルヴァは、再び闇の中へと姿を消していった。
一人残されたラナーシャは、自らの未熟さと、事件の恐ろしさを、改めて痛感していた。だが、彼女の心に、恐怖はなかった。
(…奴隷商【フェドゥス・サンギニス】…デュラーン家…)
必ず、この闇を暴き出す。ラナーシャの瞳には、より一層、強く、そして鋭い決意の光が宿っていた。彼女の本当の戦いは、今、始まったばかりだった。
【デュラーン家屋敷、地下書斎、翌朝】
デュラーン家当主、マクシム・デュラーンは、部下からの報告を、仮面の下で静かに聞いていた。
「――以上です。廃教会に向かった捕獲部隊との連絡が、昨夜より途絶。今朝、確認に向かわせたところ、全員、斬殺されておりました」
マクシムは、何も言わない。その静寂が、報告者の額に、脂汗を滲ませる。
(…馬鹿な)
マクシムの仮面の下の表情は、驚愕に歪んでいた。今回、ラナーシャ捕獲のために用意したのは、ちょうどロット・ノットにやって来た、【フェドゥス・サンギニス】の実戦部隊だ。
女騎士一人を捕らえるには、過剰すぎるほどの戦力だったはずなのだ。それが、逆に、返り討ちに遭った…?
「…ラナーシャ・ヴィスコンティ一人に、やられたと?」
マクシムの問いに、部下は震えながら首を横に振った。
「それが…現場には、複数の剣技の痕跡が残っておりました。少なくとも、もう一人…相当な手練れの介入があったものと推測されます」
その報告を、マクシムと共に聞いていた者が、二人いた。
一人は、地下闘技場の次期チャンピオンと目される、フードを被った鋭い眼光の男、レボーグ。
そしてもう一人。昨夜、ロマノス帝国の本部から到着したばかりだという、シルクハットを目深に被った、長身痩躯の男。その男は、まるで影が形を成したかのような、異様な雰囲気を纏っていた。彼こそが、【フェドゥス・サンギニス】からロット・ノットへ派遣された、幹部の一人、チャールズだった。
「…チャールズ」マクシムは、仮面の顔を、その男に向けた。「お前の手下も、存外、大したことはなかったようだ。どうする?」
その言葉には、わずかな皮肉と、失望の色が滲んでいた。
チャールズは、カップに注がれた紅茶を優雅に一口飲むと、静かに答えた。
「…どうやら、このロット・ノットという街には、我々が知らない『駒』が、まだまだいくつも盤上に残っているようですな。面白い」
彼は、立ち上がると、マクシムに向かって、丁寧だが、どこか傲慢な響きを伴う一礼をした。
「ご心配には及びません、マクシム殿。この始末は、私がつけましょう」
「…ほう?」
「【フェドゥス・サンギニス】の名を辱めた者には、相応の報いを。そして、そのラナーシャという女騎士…これほどの手練れとなれば、商品としての価値は、さらに跳ね上がりました。私が、直々に『捕獲』し、最高の『商品』として仕上げてご覧に入れましょう」
チャールズの唇が、三日月のように歪んだ。
「その過程で、彼女を助けたという『もう一人』の正体も、暴き出してご覧に入れますとも」
レボーグは、そのチャールズの姿を、ただ、興味深げに見つめていた。感情を一切表に出さず、まるで珍しい生き物を観察するかのように。
マクシムは、何も答えなかった。ただ、仮面の奥で、この新たな駒が、ロット・ノットという盤上で、どのような動きを見せるのかを、静かに見極めようとしていた。
ラナーシャを巡る事件は、彼女の知らないところで、さらに危険で、巨大な渦へと発展しようとしていた。
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