ラーナに迫る危機。
スラムの南へ遠征にやって来た、タロッチたちの前に【無法地帯】と名乗るガラの悪いガキたちが立ちはだかった、しかしタロッチとメロディの二人は、それに怯むどころか、日頃の鍛錬の成果を試せる恰好の獲物だと捕らえてしまったのだ、戦いが始まり、呆気なく相手は倒れた、しかし.....。
その126
【スラム南地区、薬師アズマの診療所、翌日】
昨日の出来事は、まるで悪夢のようだった。自分たちの力が、人を深く傷つけてしまったという事実が、重い鉛のようにメロディたちの心にのしかかっていた。
一睡もできずに朝を迎えた四人は、約束通り、再び南地区にある薬師アズマの診療所へと向かった。謝罪のため、そして何より、あの子の容体が気になって仕方がなかったからだ。
診療所の扉を開けると、昨日と同じように、数人の患者が静かに順番を待っていた。メロディたちは、その末席にそっと加わり、声をかけられるのを待った。やがて、中から昨日の中年女性が出てきて、彼らの姿を認めると、静かに手招きをした。
「…あの子なら、奥の部屋で寝ているよ。命に別状はないが、まだ安静が必要だからね」
女性の言葉に、四人は少しだけ安堵の息を漏らした。
奥の部屋に通されると、そこには藁のベッドに横たわる、昨日の女の子の姿があった。彼女は、目を覚ましてはいたが、まだ顔色は悪く、体を動かすのも辛そうだ。
メロディは、ベッドのそばに膝をつくと、震える声で言った。
「…ごめんなさい。本当に、ごめんなさい…! 私が、やり過ぎた…」
その言葉に、他の三人も、深く頭を下げた。
女の子は、何も言わずに、ただじっとメロディの顔を見つめていた。その瞳には、怒りや憎しみではなく、どこか戸惑いのような色が浮かんでいる。
その時、部屋の入口に、もう一人の少女が立っているのに気づいた。歳は、メロディたちと同じくらいだろうか。黒髪を短く切りそろえ、好奇心に満ちた大きな瞳が印象的だった。
「…あなたたちが、昨日のお客さん?」
少女は、興味深そうに尋ねた。
「この子は、アズマ様の孫の、リリィだよ」
中年女性が、そう紹介してくれた。
「…あなた、シャルールをやっちゃったなんて、凄く強いんだね」
リリィは、メロディの持つ三節棍に視線を向けながらそう言葉を掛けて来た。
すると、目を覚ましたのか、シャルールが。
「あたし、こんなに強い子、初めて。 」
腹を痛め、まだ起きれないシャルールのその言葉には、もう非難の色はなかった。
「でも…」リリィは、ベッドのシャルールに視線を移し。「シャルールは、まだお腹が痛いみたいね。おばあちゃんの薬を飲んだけど、治るまでにはまだまだ時間が掛かりそうね、それまで苦しまなくちゃならないよ。」
その言葉に、メロディの胸が、またチクリと痛んだ。
メロディの暗く苦しそうな表情を見たリリィは。
「…大丈夫だよ」
そう言うと、ベッドのそばにしゃがみ込み、おもむろに、シャルールの腹部にそっと両手を当てた。
「リリィ! ダメよ、おばあ様に言われているでしょう!」
中年女性が慌てて制止しようとするが、リリィは悪戯っぽく笑うと、制止を無視して、目を閉じ何かに集中し始めた。
すると、信じられないことが起こった。
リリィの手のひらから、淡く温かな光が、そっと女の子の体を包み込んでいく。
それはまるで陽だまりのように、柔らかく、心を撫でるようなぬくもりだった。
シャルールは、その優しさに身を委ねるように、静かに目を閉じていた。
ベッドに横たわる少女の苦しげな表情は、次第に穏やかさを取り戻している。
そして青ざめていた頬にも、ほんのりと血の気が差し始め、命の色が戻ってくるのがわかる、
その変化は、まるで春の訪れのように、静かで、確かなものだった。
「…すごい…」
タロッチたちが、息をのんでその光景を見つめていた。
やがて、光が消えると、リリィは額の汗を拭い、「ふぅ、こんなもんかな」と満足げに呟いた。
「…もう、痛くない…」
先ほどまで、痛みで暗く辛そうにし声も満足に出せていなかったベッドの女の子が、驚いたように、しかしはっきりとした声でそう言ったのだ。
その瞬間だった。
「――リリィッ!!」
背後から、雷のような怒声が響き渡った。アズマだった。彼女は、薬草の匂いを漂わせながら、鬼のような形相で部屋の入口に立っていた。
「お前、私が、人前でその力を使うなと、あれほど固く言いつけたはずだろう!」
「だ、だって、この子、苦しそうだったんだもん…」
リリィは、ばつが悪そうに俯いた。
アズマは、メロディたちを一瞥すると、リリィの腕を掴んだ。
「お前には、言い聞かせなければならないことがある。さあ、来なさい」
その剣幕は、普段の穏やかな彼女からは想像もつかないほど、厳しく、そしてどこか悲しげだった。
アズマに連れて行かれそうになったリリィは、その手を振り払うと、咄嗟にメロディの後ろに隠れた。
「…やだ! あたし、この子たちと一緒に行く!」
リリィは、メロディの服の裾を、ぎゅっと握りしめていた。
「リリィ…?」
メロディが困惑していると、リリィは、決意を秘めた目でメロディを見上げた。
「あたし、外の世界をもっと知りたいの。ずっと、おばあちゃんと二人で診療所に閉じこもってるのは、もう嫌なの! ねぇ、あたしも、あんたたちの仲間に入れて?」
その真っ直ぐな瞳に、メ-ロディは何も言えなかった。
アズマの厳しい視線、助けを求めるリリィの眼差し、そして、ベッドの上で驚いたようにこちらを見ている、回復したシャルール。
事態は、メロディたちの想像を遥かに超えた方向へと、転がり始めていた。
リリィという少女が持つ、不思議な「力」。そして、それを頑なに隠そうとする祖母。
メロディは、目の前で繰り広げられた光景の、本当の意味を悟った。リリィにとって、その温かい光は、祝福であると同時に、決して人に見せてはならない呪いでもあるのだと。
メロディの三節棍は、人を傷つけるための力。リリィの手のひらは、人を癒すための力。
あまりにも違う二つの力が、今、このスラムの片隅で、運命のように出会った。
(…守らなきゃ)
それは、理屈ではなかった。ただ、魂がそう叫んでいた。このか弱く、しかしあまりに優しい光が、ロット・ノットの醜い闇に呑み込まれてしまわぬように。
メロディ(10歳)は、リリィ(11歳)を守ることが、自分の新しい役目なのだと、静かに心に刻んだ。そして、彼女は仲間たちに向き直り、決意に満ちた声で宣言する。
「みんな! あたしは決めた! あたしたちで、リリィを絶対に守るわよ!」
その言葉に、タロッチ(10歳)、ラモン(9歳)、そしてウィロー(12歳)も、強く頷いた。彼らもまた、目の前で起きた奇跡と、それに伴う危険を、肌で感じ取っていたのだ。
タロッチは、まだ少し戸惑っているリリィの手を取り、自分たちの輪の中へと優しく引き入れた。
「リリィ、お前はもう、一人じゃない」
そして、タロッチは自らの手を輪の中心に差し出した。メロディが、ラモンが、ウィローが、そして最後に、おずおずとリリィが、その手に自らの手を重ねていく。五つの小さな手が、固く結びついた。
タロッチは、仲間たちの顔を一人ひとり見渡し、力強く誓った。
「俺たちは、ここに誓う! 今日から仲間となったリリィを、この命に代えても、絶対に守り抜く! 決して、一人にはさせない!」
「「「「応っ!!」」」」
その場にいた全員が、一つの声となって応えた。
それは、まだ幼い子供たちが立てた、しかし何よりも固く、そして尊い誓いだった。
スラムの片隅で生まれたこの小さな誓いが、やがてロット・ノットの大きな運命を揺り動かしていくことになるのを、まだ誰も知らなかった。
第一部 白日の下の影。
【旧市街、スラム北西部・ラーナ神の隠れ家、午前】
メロディたちが南地区で事件を起こしてから、十日が過ぎていた。その頃、ラーナ神の祭壇が静かに佇む地下の隠れ家では、朝の祈りの儀式が厳かに執り行われていた。しかし、その神聖な空気を壊すかのように、一人の女性がそわそわと落ち着かない様子を見せていた。クレセント(28歳)だ。
祈りが終わるや否や、クレセントは修道女の質素な服をさっと脱ぎ捨て、あっという間に、この場には全く似つかわしくない、スラムの街に溶け込むようなラフな服装へと着替えた。そして、誰に声をかけるでもなく、まるで息苦しい場所から逃げ出すように、地下から地上へと続く秘密の通路へ駆け出していく。
「…やれやれ、あの子はまた」
幼い頃から姉妹同然に育った、この共同体を率いる司祭のテレサ(30歳)は、その背中を見送りながら、困ったように、しかしどこか諦めたような溜息をついた。「今日は、セリア(21歳)の手伝いをしてほしかったのに…」
その言葉とは裏腹に、テレサは初めからクレセントをあてにはしていなかったのだろう。彼女はすぐに、真面目で信頼のおけるセリアに向き直った。
「セリアさん、ごめんなさい、やっぱりあの子は行ってしまったわ。悪いけれど、買い出しは、ヒルダさんとザナックスを連れてお願いできるかしら?」
「はい、テレサ様。お任せください」
セリアは、恭しく頷いた。
セリアは、敬虔な信者であるヒルダとザナックスに声をかけると、秘密の出入り口から地上へと出た。彼女たちの目的地は、スラム北地区にある、屋台がひしめく食料市場だ。
秘密の通路の出口は、「囁きの路地」と呼ばれる、人通りのない行き止まりの路地に巧妙に隠されている。セリアたちは、テレサから再三言い聞かされている教えを忠実に守り、細心の注意を払って周囲を警戒しながら、路地を抜けた。人が現れ始める大通りに出ると、今度はごく自然に、普通の買い物客を装って歩き、目的地へと向かう。この隠れ家での生活は、常に危険と隣り合わせなのだ。真面目なセリアは、自由奔放なクレセントとは違い、その注意を片時も怠ることはなかった。
だが、今回は違った。運命の歯車が、わずかに狂い始めていた。
先に出て行ったクレセント。彼女が、まるで壁から湧き出るように路地に現れたのを、偶然そこにいた一人の男が見ていたのだ。男は、飢えと貧しさで濁った目で、その不自然な光景を捉えた。スラムで長く生きる彼の嗅覚が、これは「何か」になると告げていた。
男は物陰に隠れて息を潜めた。そして、遅れて出て来たセリアたち三人が、同じ場所から現れたのを目撃し、確信にいたる。
(…この壁のどこかに、何かある。秘密の隠れ家…あるいは、何かを隠している)
セリアたちが去った後、男は路地を入念に調べ始めたが、巧妙に隠された仕掛けを見つけることはできなかった。
それから一時間後。
両手に食料の入った袋を抱え、セリアたちは隠れ家へと戻ってきた。それを、発見を諦めきれずに待ち伏せていた男が、再び物陰から注視していた。
セリアが、壁の特定の石に触れ、何かの手順で操作すると、壁の一部が音もなく内側へとスライドし、地下へと続く暗い通路が現れたのだ。
「…見つけた…!」
男の目に、餓えた獣のような光が宿った。これは、ただの情報ではない。金になる「商品」だ。
貴重な情報を手に入れた彼は、その場から音もなく立ち去ると、一目散に闇市へと向かった。目指すは、あらゆる情報を金で取引している、情報屋「ホークアイ」。この発見のネタを以前にも高く買い取ってくれた、あの薄気味悪い年寄りの元へ。
セリアたちは、自分たちの動きが監視されていた事にまだ気付いてはいなかった。
第二部:闇市の鷹
【ロット・ノット旧市街、闇市『影溜まり』、夜】
夜の帳が旧市街の迷宮のような路地を覆い尽くす頃、『影溜まり』と呼ばれる闇市は、まるで生き物のように活動を始める。そこは法と秩序が届かない場所。錆びた鉄板と継ぎ接ぎの布でできた屋台が並び、盗品、禁制品、出所不明の薬品、そして何より価値のある「情報」が、薄暗いランプの光の下で取引される。空気には、香辛料と汚水、そして人々の欲望が混じり合った独特の匂いが澱んでいた。
その一角、最も人通りが少なく、それでいて全ての通路を見渡せる絶好の場所に、ホーク・アイの店はあった。店と言っても、壁に寄りかかった古びた長椅子と、その前に置かれた小さな木箱だけの簡素なものだ。しかし、この闇市で彼の存在を知らぬ者はいない。
フードを目深に被り、無地の木製仮面で顔を隠した男、ホーク・アイ。彼は長椅子に深く腰掛け、闇に溶け込むように静かに座っている。一見すればただの物乞いか、行き倒れのようにも見える。だが、その仮面の奥で絶え間なく動く瞳は、闇市を行き交う人々の些細な仕草、視線の動き、声の調子、その全てを捉え、分析していた。元ローグだった頃に培われた観察眼は、大怪我で鈍った肉体を補って余りある、彼の最大の武器だった。
彼の日常は、待つことで成り立っている。情報を売りに来る者、買いに来る者。彼らは自らホーク・アイの前に立ち、用件を口にする。彼は決して客引きをしない。彼の情報の価値を知る者だけが、彼の前に立つ資格がある。
その日も、一人の男が彼の前に立った。痩せこけ、常に何かの匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせていることから「嗅ぎ犬」と呼ばれる飢えた野良犬の様な男だ。
「…爺さん、良いネタがある」男は声を潜めて言った。「囁きの路地に、妙な者たちがいる。夜な夜な、何人かが袋小路に消えていくんだ。まるで壁に吸い込まれるみたいにな…」
ホーク・アイは動かない。ただ、仮面の奥の視線が、男の嘘と真実を見極めようと光る。
「嗅ぎ犬よ。お前の言う『妙な話』は、大抵がお前の空腹が見せた幻だ」
「ち、違う! 今度は本物だ! 俺はこの目で見たんだ! 中には、とびきりの上玉もいたんだぜ…」
「…それで?」ホーク・アイの声は、乾いた木が擦れるように低い。
ホークアイは、この「嗅ぎ犬」が以前にもたらした情報の価値を思い出していた。確かに、この男の嗅覚は他のゴロツキとは違う。時折、本物の「宝」を嗅ぎつけてくる。
ホークアイは、経験則から、この情報に未知の価値が眠っていることを肌で感じ取った。
「…よかろう。ここに金貨が2枚ある」
彼は木箱から金貨を取り出し、指で弾いた。チリン、という音が闇に響く。「この情報、他には絶対に売らぬと契約するならば、この2枚で買い取ってやろう。だが、もしこの話がガセであったり、他の者に漏れていたりすれば…お前の命を刈り取る。それで良いな?」
ホークアイの言葉には、闇市で生き抜いてきた者の、冷たい威圧感が宿っていた。嗅ぎ犬は、尻の穴から頭のてっぺんまで痺れるような悪寒を感じ、冷や汗を垂らしながら必死に頷いた。
「へ、へへ…分かってるよ、爺さん。俺だって死にたくはねぇ。他には喋らねぇよ、ここだけの話さ」
「ふむ…」
ホークアイが金貨を渡すと、嗅ぎ犬はそれをひったくるように奪い、闇の中へと消えていった。
男を追い返すと、ホークアイはすぐに行動を開始した。プロとして、情報の価値を最大化するためには、裏付けと付加価値が必要不可欠だ。彼は自らの目で、その真偽を確かめることにした。
教えられた「囁きの路地」。ホークアイは、元ローグの技術で気配を完全に消し、まるで路地の一部であるかのように、辛抱強く張り込みを続けた。
そして、三時間ほど経った頃、その時は訪れた。
一人の女――クレセントが、千鳥足で路地に入ってきた。明らかに、どこかでたらふく酒を飲んできたようだ。彼女は、慣れた手つきで壁の特定の場所に手をかけると、石壁の一部が音もなくスライドし、暗い地下への入り口が現れた。クレセントは、その中に吸い込まれるように姿を消し、壁は再び元通りになった。
「…なるほどな。こいつは大当たりのようだ」
ホークアイの目が、獲物を見つけた鷹のように鋭く光った。
(あれだけ巧妙に隠れているということは、公にできない何かを匿っているか、あるいは隠しているに違いない。それが何か…異端者か、お尋ね者か、それとも財宝か。中身が分かれば、この情報の価値は跳ね上がる…!)
しかし、それにしても、とホークアイは首を捻った。
(あの女、あれだけ酔っ払っていたが、一体何者だ? 警戒心のかけらもない…)
まさか、神に仕える者が、毎晩のように酒を浴びているとは、老練なホークアイにも想像がつかなかった。
だが、そんなことは些細なことだ。ただの「隠し通路の場所」という情報ではない。その先に眠る「秘密」こそが、莫大な富を生むのだ。ホークアイは、この掘り出し物の価値を確信し、より深く探ることを決意した。彼の持つ情報網と技術が、今、静かに、そして確実に、地下の聖域へと忍び寄ろうとしていた。
【ホークアイ視点、囁きの路地、深夜】
数日間、ホークアイは『嗅ぎ犬』から得た情報を熟成させていた。昼夜問わず、何度も「囁きの路地」を訪れ、出入りする人間の数、時間帯、そして彼らの様子を徹底的に観察していた。
買い物に出る女たち、時折姿を見せる若い男、そして毎晩のように酔って帰ってくるあの女…。どうやら、それなりの人数が共同生活を送っているらしい。
(…機は熟した)
闇が最も深くなる丑三つ時。ホークアイは、全身を夜の闇に溶け込ませるような黒衣に身を包み、再び「囁きの路地」に立っていた。今日の彼は、情報屋ではない。かつての、ローグとしての彼だ。
彼は、セリアたちが操作していた壁の石に、慣れた手つきで触れた。指先に伝わる、わずかな感触の違い。長年の経験が、これが偽装されたスイッチであると告げている。彼は懐から取り出した細いワイヤーを、石の隙間に慎重に差し込んだ。そして、聞き耳を立て、内部の機械音に集中する。
(…単純な押し込み式ではないな。回転、そして引き…か)
数度の試行錯誤の後、カチリ、という微かな手応え。ホークアイが石をゆっくりと引きながら捻ると、目の前の壁が、音もなく静かに内側へとスライドしていった。
現れたのは、地下へと続く石の階段。湿った土と、微かな香の匂いが鼻をつく。彼は、侵入用の薄い革底の靴に履き替え、猫のようにしなやかに、音もなく階段を下りていった。
地下空間は、ホークアイの想像よりも遥かに広大だった。そこは、スラムの不潔さとは無縁の、清潔で、どこか神聖な空気が漂う場所だった。壁には松明が等間隔に灯され、奥からは、穏やかな詠唱のような声が微かに聞こえてくる。
(…財宝の隠し場所、という雰囲気ではないな。まるで、聖域だ)
ホークアイは、ローグとしての本能に従い、壁の影から影へと、音もなく移動しながら、内部の構造を把握していく。居住区らしき部屋がいくつも並び、共同の食堂、そして水場。生活の痕跡から、女供が多いことが窺える。
(…お尋ね者のアジトにしては、生活感がありすぎる。異端の宗教団体か…?)
さらに奥へと進むと、ひときわ大きな空間に出た。その中央には、簡素だが美しい祭壇が設えられ、剣を前に突き出し、戦いの指揮を取る光の神ラーナ神像が祀られていた。そして、その祭壇の前で、数人の修道女たちが静かに祈りを捧げていた。
(…ラーナ神か。禁教というわけではないが、なぜこんな場所にこれほどの規模の祭壇を…?)
ホークアイは、この場所の異質さに眉をひそめた。ただの信仰者の集まりにしては、隠れ方が巧妙すぎる。何か、特別な理由があるはずだ。
彼は、祭壇から少し離れた場所にある、ひときわ大きな部屋に目をつけた。扉には鍵がかかっていなかった。指導者の部屋か、あるいは何か重要なものを保管している部屋か。
息を殺して中へ入ると、そこは書斎兼、薬草の保管庫のようだった。壁には薬草学に関する書物が並び、机の上には、調合中の薬草や、傷病者の治療記録と思われる羊皮紙が広げられている。
ホークアイは、その治療記録に素早く目を通した。そこには、重度の火傷、スラムに蔓延する疫病、そして刀傷といった、通常では回復が見込めないような怪我や病が、「祈り」と「光」によって治癒された、という信じがたい記録が、いくつも記されていた。
(…なんだ、これは…? 祈りで、これほどの傷が癒えるだと…?)
ホークアイは、眉をひそめた。まさか、とは思うが…。
彼は、さらに部屋の奥へと進んだ。そこには、小さな祭壇と、瞑想用のクッションが置かれていた。そして、その脇の棚に、一冊の古い書物が無造作に置かれているのが目に入った。
『聖職者の心得 ―奇跡の顕現について―』
ホークアイは、その書物を手に取り、ページをめくった。
クレリック、プリースト、ビショップ…。そこに記されていたのは、神への深い信仰心と引き換えに、傷や病を癒す「奇跡」の力を行使できる、聖職者たちの存在だった。ラガン王国では、その希少価値の高さから、権力者たちの間で高値で取引され、あるいは監禁され、その力を生涯にわたって搾取され続ける者も少なくないという。
(…なるほどな。そういうことか…!)
ホークアイは、瞬時に全てのピースを繋ぎ合わせた。
この隠れ家は、単なる宗教施設ではない。その身に「奇跡」の力を宿すがゆえに、世間から隠れ住まざるを得ない、クレリックや司祭たちの聖域なのだ。彼女たちは、悪党だらけのこのロット・ノットで、その能力を知られれば、すぐにでも捕らえられ、商品として売買されるか、あるいは権力者の私物として、その自由を永遠に奪われる。だからこそ、これほど巧妙に身を隠しているのだ。
(…とんでもないネタだ。これは、ただの「秘密の隠れ家」の情報ではない。ロット・ノットの権力者たちが、喉から手が出るほど欲しがる、「生きた秘宝」の在処だ…!)
この情報は、売り方次第で、金貨数百枚、いや、数千枚の価値にもなる。ムーメン家か? ゾンハーグ家か? それとも、病に苦しむ大富豪か? 買い手はいくらでもいる。
ホークアイは、書物の内容と治療記録の要点を完璧に記憶に焼き付けると、来た時と同じように、一切の痕跡を残さず、その場を後にした。
闇の中へ戻ったホークアイは、仮面の奥で、獰猛な笑みを浮かべていた。
最高の「商品」が手に入った。あとは、これを最も高く買う「客」を見つけるだけだ。彼の情報網が、今、静かに、そして確実に、地下の聖域へと忍び寄ろうとしていた。
【スラム 闇市 情報屋ホークアイの店】
秘密を暴いた後も、ホークアイの日常は変わらなかった。彼はいつものように闇市で長椅子に腰掛け、闇に溶け込んでいた。慌てて買い手を探すような真似はしない。それは、情報の価値を自ら下げる三流のやることだ。本物の情報屋は、待つのだ。いつか、この情報を喉から手が出るほど欲しがる者が、最高の値段で買いに来る。その時が来るまで、ただ待つ。ホークアイは、仮面の奥で静かに確信していた。
それから三週間ほどが経った頃。一人の男がホークアイの前に立ち、旨味のある情報を求めてきた。男の目には、他人の情報を横流しして儲けようとする、浅ましい光が宿っていた。
(…中抜き屋か)
ホークアイはその正体をすぐに見抜くと、当たり障りのない、価値の低い情報だけを提示した。
男は落胆し、別の情報屋の元へと消えていく。ホークアイには、彼自身のルールがあった。中抜き屋には、決して一級品の情報は渡さない。それをすれば、いずれ自分の価値が下がり、上客からの信頼を失うからだ。
だが、ただ追い返すだけではない。短い会話の中で、ホークアイは巧みに探りを入れ、男が「ゾンハーグ家」にも情報を売ろうとしていることを掴んでいた。
(…ゾンハーグ家。絶好の上客だ)
ホークアイは、計画を練った。この極上の情報を、最高の形で売るための布石を打つことにしたのだ。
彼は、自ら仕入れた情報を、ごく一部だけ、断片的に闇市に流した。「スラムのどこかに、奇跡の癒し手たちが隠れ住んでいるらしい」と。その噂が、ゾンハーグ家の誰かの耳に届くように、巧妙に。
その効果は、数日も経たずに現れた。
いつものように長椅子に座るホークアイの前に、一人の男が音もなく立った。その精悍な顔つき、隙のない立ち姿、そして全身から発せられる威圧感は、彼がただ者ではないことを示していた。
「情報屋ホークアイだな」男は、感情の読めない声で言った。「お前がある情報を持っているとの噂を聞きつけた。大方、貴様が自分で流したのだろうが、それはどうでも良い。我が主、エリサ様が、その情報に関心をお示しだ」
男は、自らを「ゾンハーグ家の者」と名乗った。
「ケガや病を祈りの力で癒す者たちがいる、というのは真か。エリサ様は、その情報を買い取れと仰せだ。…いくらだ?」
(…来たか)
ホークアイは、仮面の奥で冷静に相手を分析しながら答える。
「ふむ…大筋は、ご理解いただいているようですな。それならば話が早い。ですが、私が実際に治療の現場を確認したわけではございません。それでも、お買い上げになると?」
これは、後の保険をかけるための、駆け引きの第一歩だ。
「問題ない。真偽の確認は、こちらで行う。いくらで売る?」
男は、ホークアイの探りには乗ってこない。
「そうですな…」ホークアイは、ゆっくりと言葉を選んだ。「このロット・ノットで、重度の傷病を癒せるほどの術者は、数えるほどしかおりません。その価値は、一人いれば金貨十万枚を下らないでしょう。私が見つけた隠れ家には、少なくとも一人、あるいは…数名の術者がいる可能性がございます。この情報の価値が、お分かりいただけますかな?」
「…分かった。それで、お前の言い値はいくらだ」
「金貨1000枚。それと、一つの条件がございます」ホークアイは、本題を切り出した。「万が一、そこに術者がいなかったとしても、手付金として半額の500枚は、情報料として頂戴する。これで、いかがですかな?」
「…ふん、随分とそちらに都合の良い条件だが」男は、少し考えた後、頷いた。「エリサ様は、即刻買い取れとのお考えだ。お前にとっては、幸運だったな。…契約書を出せ。サインする」
「かしこまりました。少々お待ちを。」
ホークアイは、男を待たせ。すぐ後ろの古びた木のデスクの引き出しから羊皮紙とインクを取り出し、淀みない筆運びで契約内容を書き記していく。
「…これをお読みになり、ご納得いただけましたら、サインを」
男は、出された契約書に隅々まで目を通すと、迷いなく自らの名をサインした。その覇気は、地下闘技場の有名選手にも劣らない。
「これで良いだろう。さあ、話せ」
ホークアイはサインを確認すると、自身が調べ上げた隠れ家の場所、出入り口の仕掛け、そして内部の様子をまとめた資料を、男へと手渡した。
男は、資料をペラペラとめくり、ざっと目を通すと、「ふむ、スラム北西地区か。ここからなら、そう遠くはないな」とだけ呟いた。
そして、彼は三人の手下を伴い、来た時と同じように、音もなく闇市の中へと消えていった。
残されたホークアイは、深く息を吐いた。
「…やれやれ。思った以上の高値で売れたが、やはりゾンハーグ家は危険な相手だ。あの男ですら、エリサという主人の手足に過ぎん。その上には、どれだけの化け物がいることか…」
契約は交わしたが、決して気は抜けない。ホークアイは、手に入れた金貨の重みと、それ以上に重いリスクを感じながら、再び闇の中へと意識を溶け込ませていった。
闇市の喧騒を後にしたエリシオンは、一切の躊躇なく、スラムの北西地区へとその歩を進めていた。彼の頭の中には、ホークアイから買い取った情報――隠し通路の場所、その開け方、そして内部に潜む「生きた秘宝」の存在――が、正確に刻み込まれている。主であるエリサ様からの命令はただ一つ、「その者たちを無傷で確保し、連れてこい」というものだった。
「囁きの路地」。月の光も届かぬ、ゴミの悪臭が漂う袋小路。エリシオンは、情報通りに壁の特定の石に触れ、寸分の狂いもなく仕掛けを操作した。ゴゴゴ、と重い音を立て、石壁の一部が内側へとスライドし、地下へと続く暗い階段が現れる。
「…行くぞ」
エリシオンの短い命令に、背後で控えていた屈強な手下三名が、無言で頷いた。彼らは、ゾンハーグ家が抱える数多の汚れ仕事を実行してきた、選りすぐりのプロフェッショナルだ。
四人は、音もなく階段を下りていく。地下空間は、驚くほど清潔で、静謐な空気に満ちていた。壁に灯された松明が、彼らの影を不気味に揺らす。
(…なるほど。確かに、ただの隠れ家ではないな)
エリシオンは、この場所の異様な雰囲気に、情報の確度を再認識した。
彼らは、まず居住区画から制圧にかかった。一つ一つの部屋の扉を静かに開け、中にいる者たちを無力化していく。眠っていた修道女や信者たちは、何が起こったのか理解する間もなく、口を塞がれ、手足を縛られていく。抵抗しようとした屈強な信者ザナックスも、エリシオンの部下の一撃で、声もなく沈められた。一切の悲鳴も、争う音も上げさせない。それは、あまりに手際の良い、完璧な制圧だった。
そして、エリシオンはひときわ大きな空間――祭壇の間にたどり着いた。
そこには、二人の女性がいた。リーダー格の司祭テレサ、そしてその隣にいる若いセリア。彼女たちは、異変に気づき、祭壇の前に集まって身を寄せ合っていた。
「…あなたたちは、誰です!」
テレサが、震える声を抑え、気丈に問いかけた。
エリシオンは、答えない。ただ、その冷たい視線で、二人を値踏みするように見つめた。
(…こいつらか。エリサ様が求める、「奇跡」の力を持つ者たちは。情報ではもう一人いたはずだが…まあ、いい。この二人だけでも十分な成果だ)
「離しなさい! この者たちに、手を出さないで!」
エリシオンの部下たちが、二人に飛びかかり、いとも簡単にその自由を奪う。テレサは必死に抵抗するが、成人男性の力の前には、あまりに無力だった。
エリシオンは、捕らえられた二人を見下ろし、部下たちに命じた。
「…全員、確保したな。女供は、眠らせて袋に入れろ。抵抗した男たちは、足の腱を切っておけ。連れていくのは、ここにいる女たち全員だ。特に、この二人(テレサ、セリア)は、丁重に扱え。エリサ様の大事な『治癒士』になるのだからな」
その言葉に、テレサは絶望に顔を歪めた。
(エリサ…まさか、ゾンハーグ家の…!? なぜ、私たちのことが…)
彼女たちのささやかな聖域は、暴力によって、いとも容易く蹂躙された。
「さて、と」
エリシオンは、祭壇に祀られたラーナ神の神像を一瞥した。それは、威厳と慈愛を兼ね備えた、力強い男性の姿をしていた。エリシオンにとって、神がどんな姿をしていようと関係ない。彼が信じるのは、目に見える絶対的な「力」だけだ。そして今、この場において、その力は自分たちにある。
彼は、その神々しい像を前に、鼻で笑った。
「どんな神を拝んでいようと、信者を守れんとは、無力なものだな」
彼は、その神像の足元を無造作に蹴り飛ばした。像は、ガタン、と音を立てて傾く。その冒涜的な行為に、捕らえられたテレサが息をのんだ。
エリシオンは、部下たちが手際よく「荷造り」を終えるのを確認すると、この場所を後にするよう命じる。
「証拠は一切残すな。この場所は、もぬけの殻にする」
数十分後。囁きの路地の壁は、開かれたままになり、何の者たちは皆、連れ出されてしまった、そこには、つい先ほどまで、ささやかながらも穏やかな共同体が存在していた痕跡は、何も残っていなかった。
エリシオンたちは、ロット・ノットの闇に紛れ、確保した「商品」と共に、主が待つゾンハーグ家の屋敷へと、その姿を消していった。
地下の聖域を襲った突然の悲劇。その事実を知る者は、まだ誰もいなかった。そして、この悲劇を唯一人免れたクレセントが、やがてこの絶望的な光景を目の当たりにすることも。
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