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ラナーシャの日常

突然、学生時代の友人であるアントマーズから紹介された、怪しく、危険を感じさせる男、ラバァルを紹介されたラナーシャは、自分の家の事情を知っていたラバァルと口頭でだけだが契約を交わすことになってしまった、直ぐに契約の効果が発揮され、王宮警備隊中隊長と言う地位へと昇進、日夜忙しく立ち回っていた...。

                その119




夜明け前の決意


ロット・ノットの空が白み始める前、ラナーシャ・ヴィスコンティは既に目を覚ましていた。新市街の一角にある、叔母マレリーナが経営する小さな雑貨店の二階。それが、今は王宮警備隊中隊長となった彼女の、ささやかな住まいだ。窓から差し込む微かな光が、質素だが清潔に整えられた部屋を照らし出す。壁には愛用の長剣と、新しい階級を示す銀糸の刺繍が入った真新しい制服が掛けられていた。


ラナーシャはベッドから起き上がると、まず窓辺に立ち、深く息を吸い込む。一週間程前、思いがけず舞い込んだ昇進の辞令。それは、あの謎めいた男、ラバァルの介入によるものだと、彼女は半ば確信していた。王族の血を引きながらも、家の没落と母親の借金という重荷を背負う自分にとって、この昇進は一条の光にも見えた。だが、同時にそれは、あの男との危険な「契約」――彼の「女」となること――を受け入れた証でもあった。


(…これで後戻りはできない)

彼女は拳を固く握りしめた。ラバァルという男は底が知れない。彼を利用しようとしているつもりが、逆に自分が利用され、捨てられるかもしれない。それでも、他に道はなかった。母親イザベラを救うため、そして没落したヴィスコンティ家を再興するためには、力が必要だ。この昇進は、その第一歩に過ぎない。

(…私は、ただの駒にはならない。あの男を利用してでも、必ず…!)

ラナーシャの瞳に、騎士としての誇りと、困難に立ち向かう強い意志の光が宿る。彼女は、感傷を振り払うように、冷たい水で顔を洗い、きりりと表情を引き締めた。



中隊長としての責務


朝。階下から、叔母マレリーナの優しい声と、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。

「ラナーシャ、起きてるかい? 朝ごはんの用意ができたよ!」


マレリーナ・リナルディ。ラナーシャの母イザベラの妹であり、ヴィスコンティ家の没落後も、ロット・ノットで雑貨店を営みながら、姪であるラナーシャを常に気遣ってくれている、唯一の心の支えだ。彼女は、ラナーシャが抱える家の事情も、そしてラナーシャ自身の苦悩も、全てを知っているわけではないが、いつも温かく見守ってくれている家族と言える存在だ。


「おはよう、マレリーナ叔母様」ラナーシャは階下へ降り、小さなテーブルで叔母と向かい合った。テーブルの上には、素朴だが温かい朝食が並んでいる。

「まあ、中隊長の制服、よく似合っているじゃないか。立派になって…」マレリーナは、目を細めて姪の姿を見つめた。

「ありがとう、叔母様」ラナーシャは少し照れたように微笑んだ。この優しい叔母の前では、彼女もただの姪に戻れる。

「だがね、ラナーシャ。あまり根を詰めすぎるんじゃないよ。お前の体は一つしかないんだからね。それに、あの…実家からの便りは…?」マレリーナは、心配そうに尋ねた。


「…まだ、あまり良い知らせはありません。でも、大丈夫。私が必ず何とかしますから」ラナーシャは、叔母を安心させるように、力強く言った。その言葉の裏に隠された、ラバァルとの危険な取引については、もちろん話すことはできない。

朝食を終え、ラナーシャは叔母に見送られ、王宮へと向かった。中隊長としての職務は、以前の隊長の時よりも格段に重く、そして複雑だった。王族の警護、重要区画の巡回、部下である隊員たちへの指導・監督、そして時には、評議会議員や貴族たちとの(あまり好ましくない)社交的なやり取り…。彼女は、持ち前の真面目さと責任感で、それらの任務を完璧にこなそうと意気込んでいる。


部下の隊員たち――例えば、実直だが少し融通の利かない副隊長のマルクスや、明るく元気だが少しお調子者の若い隊員セリア――は、突然昇進したラナーシャに対して、最初は戸惑いや嫉妬の色を見せる者もいた。しかし、彼女の厳格ながらも公正な指揮ぶりと、訓練で見せる卓越した剣技(それはラバァルとの出会いとは無関係に、彼女自身が努力で培ってきたものだ)、そして時折見せる部下への細やかな気遣いに触れ、次第に彼女を上官として接せられるように成ってはきている。


「隊長! 西門で、ゾンハーグ家の馬車が強引に入ろうとして、少し揉めております!」

「私が直接行くわ。マルクス副隊長は、他の持ち場を頼みます。セリア、ついてきなさい!」

ラナーシャは、常に冷静沈着に状況を判断し、的確な指示を飛ばす。ゾンハーグ家の者に対しても、王宮の規律を盾に、毅然とした態度で対応する。その姿は、美しく、そして頼もしかった。

しかし、華やかな王宮の裏側で渦巻く、権力者たちの陰謀や、自身の家族が抱える問題、そしてラバァルという謎の男との危険な関係…それらが、常に彼女の心の奥底に重くのしかかっていた。誰もいない場所では、ふと不安に襲われ、表情を曇らせることもあった。



束の間の安らぎと見えぬ未来


長い一日が終わり、ラナーシャは再び、叔母の待つ雑貨店の二階へと戻ってきた。疲労はピークに達していたが、階下から聞こえる叔母の穏やかな声と、生活感のある雑貨の匂いが、彼女の張り詰めた心を少しだけ和らげてくれる。

「おかえり、ラナーシャ。大変だったね、今日も」マレリーナは、温かいハーブティーを淹れてくれた。

「ええ、少し…」ラナーシャは、カップを受け取りながら、ほう、と息をついた。

「そうそう、今日ね、アントマーズ坊ちゃんが見えてね。『ラナーシャによろしく伝えてくれ』って。あの子も、少しは見どころが出てきたのかねぇ」マレリーナが、楽しそうに話す。

「アントマーズが…」ラナーシャは、彼がラバァルとの橋渡しをしたことを思い出し、複雑な気持ちになった。

叔母との他愛のない会話は、ラナーシャにとって束の間の安らぎだった。だが、夜が更け、一人自室に戻ると、再び現実が彼女に重くのしかかる。

(ラバァル…あの男は、一体何を企んでいるの? 私を昇進させた目的は? そして、母様の借金の件…本当に解決してくれるというの…?)


ラバァルから、まだ母親を陥れた悪党に関する具体的な証拠や、次の指示は来ていない。ただ待つしかない状況が、彼女を苛立たせた。彼は、本当に信用できる相手なのか? それとも.....。

あれからなにも連絡がない状況では考えるだけ無駄ね、何か起こってからまた考えるしかないと、今はあまり考えないようにしようと振り切り。 


ラナーシャは、窓の外のロット・ノットの夜景を見つめた。きらびやかな光の裏にある、深い闇。自分はその闇に、足を踏み入れてしまったのかもしれない。だが、後悔はしていなかった。運命共同体となることを決めたのだ。力をつけ、影響力を持ち、自らの手で未来を切り開くために。

彼女は、壁に掛けられた剣を手に取った。ラバァルが言った「腕を磨いておけ」という言葉が蘇る。そうだ、今はただ待つだけではない。自分自身を鍛え、来るべき時に備えなければならない。彼女は剣を抜き放つと、月明かりの下で、静かに素振りを始めた。その剣筋には、迷いを振り払うかのような、鋭い決意が込められていた。ラナーシャの、孤独で危険な戦いは、まだ始まったばかりだった。



次の日、ラガン王国王宮、警備隊訓練場、午後


ラナーシャ視点


午後の陽光が、王宮に隣接する警備隊の訓練場に降り注いでいた。石畳の上では、剣のぶつかり合う甲高い音と、隊員たちの荒い息遣い、そして私の鋭い指示の声が響き渡っている。中隊長に就任してから数週間、私は日々の激務に追われながらも、部隊の練度向上、特に実戦的な剣技の訓練に力を入れていた。それは隊長としての責務であると同時に、自分自身の剣の腕を鈍らせないための、そして…あの男、ラバァルに「せいぜい腕を磨いておけ」と言われたことへの、密かな対抗心のようなものもあったのかもしれない。


「そこだ、セリア! 踏み込みが甘い! 相手に懐に入られてどうする!」

私は、元気だけは人一倍だが、まだ経験の浅い自分と同年代の女性隊員、セリアの動きに檄を飛ばす。彼女は才能はあるが、実戦となるとまだ怖さが出るのか、一瞬の躊躇が命取りになることを、私は身をもって教えなければならない。


「は、はいっ! すみません、隊長!」セリアは頬を赤らめながらも、必死に剣を構え直す。その素直さと向上心は、好感が持てた。

「次、マルクス副隊長!」

私が声をかけると、実直で堅物だが、隊員たちの信頼も厚い副隊長のマルクスが進み出た。彼は古参兵であり、経験も豊富だが、それ故に動きに少し硬さが見られる。

「副隊長、あなたの防御は確かですが、攻撃への転換が遅い。相手が隙を見せた時に、躊躇なく踏み込める鋭さが足りません」

私は、訓練用の木剣を構え、マルクスと対峙した。彼は真剣な表情で応じる。

カキン! カン! 木剣同士が激しく打ち合わされる。マルクスの剣筋は重く、堅実だ。だが、私は彼の剣の動きの僅かな予備動作を見抜き、素早く体勢を入れ替えると、彼のがら空きになった側面へと鋭い一撃を打ち込んだ。


「ぐっ…!」マルクスは呻き声を上げ、体勢を崩す。

「…今の分かりましたか? 相手の力を利用し、最小限の動きで急所を突く。力だけでなく、技と速さ、そして何より状況判断が重要なのです」私は冷静に説明した。私の剣技は、王宮騎士団の伝統的なものとは少し違う。それは、かつて父方の縁者から個人的に手ほどきを受けた、より実戦的な、時には非情ともいえる剣捌きだった。

「…はっ、肝に銘じます!」マルクスは、悔しさを滲ませながらも、私の実力を素直に認め、礼を取った。彼は堅物だが、正しいこと、強いことに対しては敬意を払う男のようだ。


その後も、私は隊員一人ひとりと手合わせをし、それぞれの長所と短所を見抜き、的確なアドバイスを与えていった。時には厳しく叱咤し、時には良い動きを具体的に褒める。私の指導は厳しいと評判だったが、隊員たちの実力が着実に向上していることも事実であり、彼らの私を見る目には、畏敬と共に信頼の色が濃くなっているのを感じていた。

(…これでいい。部隊が強くなれば、王宮の守りも固くなる。そして、私自身も…)

訓練が終わり、汗を流す隊員たちに解散を命じると、私は一人、訓練場の片隅で息を整えた。心地よい疲労感と共に、中隊長としての責任の重さを改めて感じる。部下たちの命を預かり、この王宮を守る。それは、ヴィスコンティ家の人間として、そして一人の騎士としての私の誇りだ。



新市街、マレリーナの雑貨店前~ラナーシャの部屋、夜


ラナーシャ視点(一部ラバァル視点も含む)


王宮での長い一日が終わる。厳しい訓練と神経を使う任務で体は鉛のように重いが、思考は妙に冴えていた。訓練場で一人、剣を振るい、心を落ち着けた後、訓練場に設置されてあるシャワーを浴びて汗を流してから私はようやく帰路についた。夕闇に包まれた新市街の石畳を踏みしめ、慣れ親しんだ叔母の雑貨店が見えてきた時、私の足は思わず止まった。


店の入り口の脇、壁に寄りかかるようにして、見慣れた黒い外套の男が立っていたのだ。ラバァル…。なぜ、こんなところに? まさか、母様のことか、それとも…。私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。

「…何の用ですの?」

私は、警戒心を露わにしながら近づき、声をかけた。彼はゆっくりと顔を上げ、私を見ると、ふっと口元を緩めた。それは、以前の冷たい笑みとは少し違う、どこか悪戯っぽい響きを含んでいた。

「よう、お帰り、隊長殿…いや、中隊長殿か」彼は、わざとらしいほどゆっくりと新しい階級を口にした。「自分の女に会いに来てやったんだ。何か問題でも?」

「なっ…!」私は、そのあまりにも不躾な言葉に、顔がカッと熱くなるのを感じた。「だ、誰があなたの女ですって! 勝手なことを言わないでください!」


「ほう? この前の別荘での『契約』を、もう忘れたとでも?」彼は楽しむように私をからかう。「まあ、いい。細かいことは後だ。とにかく、入れ。立ち話もなんだろう」

そう言うと、彼はまるで自分の家のように、先に雑貨店の扉を開けて中へ入ってしまった。私は、憤慨しながらも、彼の後を追うしかなかった。彼がここにいる理由は分からないが、無視するわけにはいかない。

「あらあら、ラナーシャ、おかえりなさい。…まあ! お連れ様?」

店番をしていた叔母マレリーナが、ラバァルの姿を見て目を丸くした。姪が男性を連れて帰ってくるなど、初めてのことだったからだ。


「あ、あの、叔母様、この人は…その…」私が言葉に詰まっていると、ラバァルが、叔母に向かってぶっきらぼうに頭を下げた。

「ラバァルだ。世話になる」

その短い挨拶に、マレリーナ叔母様は一瞬驚いたようだったが、すぐに柔和な笑顔を浮かべた。


「まあまあ、ご丁寧に。ラバァルさん、ね。お待ちしていましたよ。ささ、どうぞ奥へ。ラナーシャ、ちゃんとお相手するんだよ」

叔母様の優しい言葉に、私は恥ずかしさで顔から火が出そうになり、「先に上がっています!」とだけ言って、そそくさと二階の自分の部屋へと逃げ込んだ。


(ラバァル視点)

ラナーシャが慌てて階段を駆け上がっていくのを横目で見ながら、ラバァルはマレリーナと名乗る老婆に向き直った。小柄だが、穏やかで、芯の強そうな瞳をしている。

「…騒がしくてすまんな。こいつは、少し手が焼ける」ラバァルは、らしくない詫びの言葉を口にした。

「ふふ、いいえ。あの子があんな風に慌てるのを見るのは、久しぶりですよ」マレリーナは優しく微笑んだ。「ラバァルさん…貴方からは、何というか…少し怖いような気もするけれど、それだけじゃない、何かとても温かいものも感じますわ。最初に見た時から、そう思っていました。

どうか…あの子のこと、よろしくお願いしますね」

その言葉には、姪の幸せを願う、心からの響きがあった。ラバァルは、その真っ直ぐな瞳から目を逸らさずに、短く答えた。

「…ああ。面倒は、見てやるつもりだ」

「まあ、嬉しい。ありがとうね」マレリーナは嬉しそうに頷くと、「お茶でもお持ちしますね」と言って、店の奥へと消えた。

(…面倒なことになったな)ラバァルは内心で溜息をつきながら、ラナーシャが待つ二階へと階段を上がった。


(再びラナーシャ視点)

部屋で落ち着かない気持ちで待っていると、ラバァルが入ってきた。私はすぐに彼に向き直り、問い詰めるように尋ねた。

「それで、一体何の用なのですか!? わざわざこんな所まで来て…! 母様のことですか? 何か分かったのですか!?」

ラバァルは、私の剣幕にも動じず、部屋の中を見回しながら、ベッドの縁に腰掛けた。

「まあ、落ち着け。母親の件も、少し進展があった。だが、その前に…聞きたいことがある」

「聞きたいこと?」

「ああ」ラバァルは、真剣な目で私を見た。「お前が率いる王宮警備隊…その実態についてだ。動かせる人員、装備、練度、そして…王宮の外での活動はどの程度可能なのか?」


私は、彼の突然の質問に戸惑いながらも、隊長として把握している情報を正直に答えた。部隊の規模、主な任務内容、武器の種類、隊員たちのレベル…。


「…王宮の外での活動は、原則として国王陛下、あるいは宰相閣下の直接命令がない限りは認められていません。我々の任務は、あくまで王宮内の警備ですので」

「ふん、融通が利かんな」ラバァルはつまらなそうに言った。「それで、内部に妙な動きをしている者はいないか? 例えば、ムーメン家やゾンハーグ家に情報を流しているような…アウルのような暗殺団と繋がっているような、な」


「アウルですって!?」私は驚いた。「まさか! 私の隊に、そのような裏切り者がいるはずありません! 隊員は皆、王国への忠誠を誓っています!」

「甘いな、ラナーシャ」ラバァルの声が冷たくなった。「そんなものは、何の保証にもならん。金、脅迫、あるいは家族を人質に取られれば、人は簡単に裏切る。特に、このロット・ノットではな。スパイや内通者は、どこにでもいるものだ。それこそ、王族のすぐ傍にだってな。お前も、もう少し疑うことを覚えろ」


彼の言葉は、私の騎士としての誇りを傷つけるものだったが、同時に、否定できない真実も含んでいるように思えた。母を陥れたのも、評議会の重鎮と宰相だったのだから…。

私たちがそんな話をしていると、コンコン、とドアがノックされ、マレリーナ叔母様がハーブティーと焼き菓子の乗ったトレーを持って入ってきた。


「ラナーシャ、ラバァルさん。お話の邪魔だったかね? 少し休憩なさい」

「あ、叔母様、ありがとう」

「ごちになる」ラバァルは、素直に礼を言った。叔母様は、「ふふ、ごゆっくりね」と微笑むと、嬉しそうに部屋を出て行った。(本当に、姪に恋人ができたと思っているんだわ…)私は、頬が熱くなるのを感じた。


お茶と焼き菓子を黙々と平らげたラバァルは、不意に立ち上がると、私の腕を掴み、ぐいっと引き寄せた。

「きゃっ…! な、何を…!」

抵抗する間もなく、彼の唇が私の唇に重ねられた。それは、乱暴でありながら、どこか探るような、深いキスだった。私は驚きと羞恥で小さく抵抗したが、彼の力強い腕の中で、本気で振りほどこうとは思わなかった…いや、できなかったのかもしれない。


ラバァルは、私を抱き上げると、そのままベッドへと運び、静かに降ろした。彼の目が、夜の闇のように、しかし熱を帯びて私を見つめている。

「…言ったはずだ。お前は俺の女だ、と」

その後のことは、あまりよく覚えていない。ただ、彼が、ぶっきらぼうな言動とは裏腹に、驚くほど優しく、そして巧みに、私の知らない快楽の世界へと導いてくれたことだけは確かだった。それは、これまでの私の人生にはなかった、激しく、そして抗いがたい体験だった。

事が終わり、乱れた呼吸を整えている私を、ラバァルは優しく抱き寄せた。彼の腕の中は、意外なほど温かく、安心感があった。

「…ラナーシャ」彼の声は、いつものぶっきらぼうさの中に、わずかな優しさを滲ませていた。「これから、俺は時々、こうしてお前に会いに来る。だが、ただ体を重ねるためだけじゃない」

彼は、私の髪をそっと撫でながら続けた。

「お前には、もっと上を目指してもらう。今の王宮警備隊中隊長など、通過点に過ぎん。そうだな…最終的には、国王陛下を直接護衛する、ロイヤルガード…その隊長あたりが、お前には相応しいかもしれんな」

「ロイヤルガード…隊長…?」私は、彼の言葉に息を呑んだ。それは、王国騎士の中でも最高の名誉とされる地位だ。私のような、没落した家の、しかも女が就けるような役職では到底ない。

「む、無理ですわ、私なんかに…」

「無理かどうかは、俺が決めることだ」ラバァルは、私の言葉を遮った。「お前には、その素質がある。あとは、俺がお前をそこまで押し上げてやるだけだ。そのためにも、力をつけろ、ラナーシャ。剣の腕だけではないぞ、人を使う事、人脈、あらゆる事を利用して力を付けろ、そして…このロット・ノットで生き抜くための、狡さもな」


彼の言葉は、あまりにも突拍子もなく、現実離れしているように聞こえた。しかし、彼の自信に満ちた瞳と、実際に私の昇進を後押ししたであろう力を見ていると、もしかしたら…という思いが、心の片隅で芽生え始めていた。

(この男が見ている世界は…一体、どこまで続いているの…?)

彼の野望の大きさ、その底知れなさに、私は改めて戦慄した。だが、同時に、その巨大な力に引き寄せられるような、抗いがたい感覚も覚えていた。

気づけば、私は自ら、無駄な贅肉が一切ない彼の硬い胸にしがみついていた。

(…もう、後戻りはできない。この男から離れられないのなら…)

心の中で、新たな決意が固まる。

(…こっちだって、ただ利用されるだけじゃないわ。私も、この男を利用して、力をつける。そしていつか…!)

私は、ラバァルの胸に顔を埋めながら、そう誓った。この危険な男との関係を、自らの運命を切り開くための力に変えてみせると。ラバァルは、そんな私の決意を知ってか知らずか、ただ静かに、私の髪を撫で続けていた。ロットノットの夜は、二人の奇妙な関係を乗せて、静かに更けていく。




シュガーボム、ベルコンスタンの執務室、深夜


ラナーシャとの密会を終え、シュガーボムに戻ったラバァルは、休む間もなくベルコンスタンの執務室へと向かった。そこには、ベルコンスタン、クロード、そして傷も癒え完全に復帰したロメールとボルコフが集まり、アウル基地攻略に向けた最初の作戦案を検討していたところだ。部屋には、新たな地図や資料が広げられ、重苦しい雰囲気が漂っている。

「…それで、ベルコンスタン。アウル基地攻略の算段は、どこまで進んだ?」ラバァルは、ソファに深く腰掛けながら、切り出した。

ベルコンスタンは、広げられた廃坑の略図を前に、厳しい表情で報告を始めた。


「はっ、ラバァルさん。ジンの遺した情報から、基地の大まかな位置…ロット・ノット北西部の廃坑の奥深く…ということは掴めました。しかし…」ベルコンスタンは言葉を濁した。「…問題は、それ以上の情報がほとんどない、ということです。廃坑内部の正確な構造、敵の戦力、配置、警備体制、そして何より、我々がまだ知らない『秘密の入り口』の詳細…これらが全く不明なままです」

隣に立っていたボルコフが、腕を組みながら付け加える。


「正直に申し上げて、ラバァルさん。この状態で突入するのは、あまりにも無謀かと。敵は手練れの暗殺団です。地の利もあり、どんな罠が仕掛けられているかも分からない。現状での成功確率は…限りなくゼロに近い。我々の損害も計り知れないでしょう。下手すれば、全滅もありえます」

ボルコフは、先のムーメン家拠点襲撃での苦戦を思い出し、慎重な意見を述べた。他の幹部たち、クロードやロメールも、ボルコフの意見に同意するように、重々しく頷いている。


「…失敗の確率は99%、か。まあ、そうだろうな」ラバァルは、彼らの否定的な意見にも、特に表情を変えずに応じた。「だが、アウルをこのまま放置しておくわけにもいかん。奴らは子供たちを狙っている。そして、ムーメン家の後ろ盾でもある。いずれ、我々の前に立ちはだかるのは確実だ」

ラバァルは、資料を眺めながら続ける。

「それに、時間をかければかけるほど、リスクは増える。ジンが消えたことで、アウルも、そしてムーメンも、警戒レベルを上げているはずだ。我々が情報を得たように、奴らもこちらの動きを探っているだろう。時が経てば経つほど、こちら側の情報が漏れる危険性も高まる。いつまでも待ってはいられない」


「では、どうしろと…?」ロメールが、不安げに尋ねる。

「決まっているだろう」ラバァルは、集まった幹部たちを見回した。「勝てない戦はしない。勝てる状況を、こちらで作ればいいだけのことだ」


彼の言葉には、絶対的な自信が宿っていた。

「情報が足りないなら、徹底的に調べ上げろ。敵の戦力が不明なら、それを把握し、上回る戦力を整えろ。罠があるなら、それを見抜き、逆用しろ。時間は限られているが、やるべきことは山ほどある」

ラバァルは、壁の地図や資料を指さしながら、具体的な計画の骨子を語り始めた。


「まず、情報収集だ。ベルコンスタン、お前の情報網と、手に入れたカザンからのリークを最大限に活用しろ。アウルへの資金の流れを探れ。どんな組織も、金がなければ動けん。その流れを断ち切れば、奴らの活動を鈍らせることができるはずだ。同時に、アウルの構成員の詳細、特に幹部クラスの素性や弱点をもっと深く洗え」


「次に、サギーだ」ラバァルは、別の暗殺団の名を口にした。「奴らもアウルと同じく老舗であり、エシトン・ブルケリィ潰しにも関わった可能性がある。だが、老舗同士が常に仲が良いとは限らん。ベルコンスタン、サギーの動向とアウルとの現在の関係性を探り続けろ。もし、両者の間に亀裂があるなら、そこを突いて仲違いさせ、互いに潰し合わせることもできるかもしれん?  そこまでは無理だとしても互いを警戒させ、組まない様にする事は出来るだろう。その辺の可能性を探れ。危険を減らし漁夫の利を得るのも、戦術の一つだ」


ベルコンスタンは、ラバァルの発想に目を見張りながらも、「…承知いたしました。あらゆる手を尽くしてみます」と答えた。


「そして、最も重要なのが戦力増強だ」ラバァルは、ロメールとボルコフを見た。「キーウィの精鋭はもちろんだが、数で劣る我々にとって、オーメンの底上げは急務だ。ウィッシュボーンには伝えてあるが、お前たちも協力しろ。オーメンの連中に、対人戦闘、特に暗殺術、隠密行動、そして何よりも連携戦闘を徹底的に叩き込め。俺も時間を見つけて直接指導する。弱ければ死ぬ。それを骨の髄まで理解させろ」

ロメールとボルコフは、ラバァルの厳しい言葉に身を引き締め、「はっ!」と力強く応じた。

「装備も重要だ」ラバァルはベルコンスタンに視線を戻す。「ウィッシュボーンと連携し、作戦に必要な武器・装備を調達しろ。音を消す武具や対人戦用の火薬や毒等の品々、(もし闇市で手に入るなら)、壁を登るための登攀具、敵の施設を破壊するための工作用具…そして、ケガをした時の大量のガーゼや消毒薬、針や糸、痛み止めの薬剤等。


「計画策定も同時進行だ」ラバァルは、広げられた廃坑の予想図を指さした。「収集した情報に基づき、より詳細な基地の内部構造、敵の配置、警備ローテーションを予測し、複数の侵入・脱出経路を検討する。各部隊の役割分担、指揮系統も明確にしろ。ベルコンスタン、お前の『知略』の見せ所だぞ」


「最後に、子供たちだ」ラバァルの口から意外な言葉が出た。「タロッチやファングたち…奴らはゴースト・ナンバーズと接触した。ゴースト・ナンバーズの捕虜から、アウルに関する情報を引き出すというのはどうだ? 子供ならではのやり方で、大人が聞き出せないような情報を掴めるかもしれん。あるいは、彼らに陽動や偵察の一部を担わせることも…いや、それは危険すぎるか」ラバァルは少し考え込んだ。


「…ガキ共の利用は慎重に判断する。だが、奴らが持つ情報や能力も、使えるものは使う」

ラバァルは、集まった幹部たちを見据えた。

「やるべきことは山積みだ。時間も限られている。だが、一つ一つ確実に潰していけば、必ず勝機は見えてくる。いいな? 今この瞬間から、全員、気を抜かずに動け! まずは、それぞれの担当分野で優先順位をつけ、可能なことから潰していくんだ! 目的はただ一つ、アウルを壊滅させ、ムーメンの力を削ぎ落す! そして、我々がこのロットノットの裏側を仕切り巨大な影響力を持つ!」


ラバァルの力強い言葉に、その場にいた全員の士気が高まる。不安や懸念はまだ残る。しかし、明確な目標と具体的な計画が示されたことで、彼らの目には、困難な任務に挑む決意の光が宿っていた。情報収集、敵組織間の工作、戦力増強、装備調達、そして精密な計画策定…アウル基地攻略という目標に向けて、ラバァルの指揮の下、組織全体が多角的に動き始める。ロットノットの裏社会で、新たな、そしてより大規模な戦いの火蓋が、静かに切られようとしていた。




最後まで読んで下さりありがとう、引き続きつづき、つづきを見掛けたら読んでみて下さい。

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