転がり落ちて行くカザン
ムーメン家の頭脳と言われる百目のカザン、ラバァルはその男に目を付け調査をさせる事にした...。
その111
工作1:経済的圧力(偽装)
ラバァルは、オーメンを使って、カザンが娘の治療費を預けているとされる商人の店に、巧妙な強盗を仕掛けさせた。直接的な証拠は残さず、あくまで他のチンピラの仕業に見せかける。これにより、カザンは娘の治療費の送金が滞るのではないかという強い不安に駆られることになる。
中層地区、夜更け、商人『マルコ商会』裏口
月明かりすらない、ロットノットの夜。中層地区の一角にある、比較的大きな商人『マルコ商会』の裏口は、深い闇に包まれていた。この店は、表向きは香辛料や織物を扱っているが、裏では高利貸しや怪しげな品物の仲介も行っており、ムーメン家のカザンが娘の治療費を含む”裏金”の一部を預けているという情報を、ウィッシュボーンは掴んでいた。
今夜、ウィッシュボーン率いるオーメンの選抜メンバーは、ラバァルからの(正確にはベルコンスタン経由での)指示に基づき、このマルコ商会への「強盗」作戦を実行しようとしていた。目的は、あくまでカザンに経済的な不安を与えることであり、店の者を無用に傷つけたり、自分たちの正体を悟られたりすることは避けなければならないと強く指示されていた。
物陰に身を潜め、ウィッシュボーンは息を殺して店の様子を窺っていた。隣には、今回の実行部隊のメンバーである、作戦の間の呼び名、ガタイの良いブル、すばしっこいが口の悪いラット、そして無口だが手先が器用なサイが、同じように緊張した面持ちで待機している。彼らはまだチンピラ上がりだが、ラバァルの下で訓練を受け、以前よりは幾分かマシな動きができるようになっていた。
「…いいか、お前ら。例の計画通りだ」ウィッシュボーンは、低い声で最終確認を行う。彼の表情には、かつてのチンピラ集団のボスだった頃のふてぶてしさはなく、ラバァルという存在からの命令を遂行する責任感と、失敗への恐怖、そしてわずかな葛藤が見え隠れしていた。
(…ラバァルさんは、一体何を考えているんだ? カザンの金を狙う? だが、ただ奪うのではなく、不安を与えるだけ…まるで、もっと大きな何かを仕掛けているようだ…俺たちは、ただの駒なのか…?)
そんな疑念が頭をよぎるが、今は目の前の任務に集中するしかない。
「サイ、お前の出番だ。裏口の鍵、やれるな?」
無口なサイは、こくりと頷くと、懐から取り出した細い金属の道具を使い、音もなく裏口の鍵に差し込んだ。数秒間の集中。カチリ、と小さな音がして、鍵が開いた。
「…よし」ウィッシュボーンは頷き、他の二人に目配せする。「ブル、お前が先頭だ。中に見張りがいるかもしれん、気をつけろ。ラット、お前は周囲を警戒し、何かあればすぐに知らせろ」
「へい!」
「ちぇっ、面倒くせえな」ラットは悪態をつきながらも、素早く周囲に視線を走らせる。
ブルが、音を立てないように慎重に扉を開け、中へ滑り込む。ウィッシュボーンとサイもそれに続いた。店内は真っ暗で、香辛料の匂いが鼻をつく。帳場と思われるカウンターの奥に、目当ての金庫があるはずだ。
「…誰もいないようだな」ブルが小声で報告する。
「よし、サイ、金庫だ。時間はかけられんぞ」ウィッシュボーンが指示を出す。
サイは再び道具を取り出し、重厚な鉄製の金庫のダイヤルに取り掛かった。ウィッシュボーンとブルは、息を殺してその様子を見守る。外では、ラットが猫のように身軽に屋根に上り、遠くの衛兵の気配などを探っていた。
(…本当にこれでいいのか…? 同じ裏社会の人間とはいえ、商人に強盗を仕掛けるなんて…ラバァルさんのやり方は、時々、俺たちの流儀とは違う気がする…だが、逆らえば…)
ウィッシュボーンの心に、再び迷いが生じる。彼は元々、力はあってもどこか甘さのあるボスだった。ラバァルのような冷徹な計算高さや非情さは持ち合わせていない。
その時、金庫の中から「カチャリ」という、ダイヤルが合った音と、重い扉が開く金属音が響いた。
「…開きました」サイが短く告げる。
金庫の中には、予想通り、金貨や銀貨が詰まった革袋がいくつかと、帳簿らしき書類が数冊入っていた。
「よし! 手早く詰めろ!」ウィッシュボーンは迷いを振り払い、指示を出す。「だが、全部は取るな! あくまで『強盗に荒らされた』ように見せるんだ! そして、これを…」
ウィッシュボーンは懐から、別のチンピラ組織『ランブル・ダーツ』の紋章が汚く描かれた布切れを取り出し、金庫の中にわざと落とした。
「分かってるな、ブル?」
「へい。強盗に見せかけるんでしょ?」ブルは、金貨の袋を二つほど掴むと、他の袋の中身をわざと床にぶちまけ、書類も乱暴に散らかした。
「よし、撤収だ!」ウィッシュボーンが合図し、三人は再び音もなく裏口から外へ出た。ラットも屋根から飛び降りて合流する。
「異常なし。衛兵も気づいてねえぜ」
「上出来だ」ウィッシュボーンは頷き、懐から奪った金貨の袋の一つを取り出すと、ブルとサイ、ラットに数枚ずつ分け与えた。「これは、今回の働きに対する前金だ。残りは、後で山分けする」
「へへっ、あざっす!」ラットが目を輝かせる。ブルとサイも満足げに頷いた。オーメンのメンバーにとって、確実な報酬は何よりのモチベーションになる。
ウィッシュボーンは、部下たちに撤収を命じると、一人、闇に包まれたマルコ商会を見上げた。作戦は成功した。これでラバァルさんの計画はまた一歩進むだろう。だが、彼の心には、後味の悪さと、この先に待ち受けるであろう、より大きな闇への不安が、重くのしかかっていた。
(俺は…どこへ向かっているんだろうな…?)
彼は自嘲するように息をつくと、部下たちの後を追い、夜の闇へと消えていった。
工作2:病状悪化の偽情報
次に、ラバァルは(おそらく闇市の怪しげな薬師などを使い)療養所に偽の情報を流させた。「最近、ロットノットで娘さんと同じ病気に効果があるという『新薬』が出回っているが、非常に高価で入手困難らしい」あるいは、「娘さんの病状が、思ったよりも早く進行しているようだ」といった、カザンの不安を煽るような情報を、それとなく彼の耳に入るように仕向ける。
マルコ商会への「強盗」作戦が成功し、カザンが経済的な不安を抱え始めた頃、ラバァルはベルコンスタンに次の指示を与えた。
「金の次は、心の揺さぶりだ」ラバァルはベルコンスタンの執務室で言った。「カザンの娘…あの療養所に、病状が悪化している、あるいは高価な新薬がある、といった情報を流し込みたい。ただし、我々が関与していることは絶対に悟られず、かつカザンの耳に確実に入るように、だ」
ベルコンスタンは頷いた。「承知いたしました。しかし、ラバァル様、療養所は警備も厳しく、職員も口が堅いと聞きます。オーメンやキーウィの者を送り込んでも、すぐに怪しまれるかと…」
「だろうな。だから、お前の『人脈』を使うんだ、ベルコンスタン」ラバァルは言った。「このロットノットの裏社会には、情報操作や噂の流布を専門とするような連中がいるはずだ。表立っては動かず、しかし確実に目的を遂行できるような、狡猾な蛇のような奴がな。心当たりは?」
ベルコンスタンは少し考え込んだ後、思い当たったように顔を上げた。
「…一人、おります。名は**『囁き(ウィスパー)』のフィン**。かつてはどこかの貴族に仕える密偵だったとか、あるいは詐欺師だったとか、様々な噂がありますが…とにかく、人の心を操り、情報を巧みに捻じ曲げて流すことにかけては、右に出る者はいないと言われています。もっとも、金には汚く、信用できる男ではありませんが…仕事は確かだと聞いてます。」
「ほう、『囁きのフィン』か。面白そうな名前だ。そいつを使え。報酬はケチるな。ただし、絶対に足がつかないようにやらせろ。そして、今回の依頼主が我々だと悟られるな」
「お任せください。フィンとは、私も過去に何度か『取引』をしたことがあります。うまく使ってみせましょう」ベルコンスタンは自信ありげに請け負った。
囁きのフィンの暗躍
数日後。ロットノット郊外の療養所近くの、小さな村の酒場。その片隅で、一人の男が静かにエールを飲んでいた。年の頃は四十代半ば、身なりは質素だが清潔で、一見するとどこにでもいる旅人か、あるいは物書きのように見える。しかし、その観察するような鋭い目つきと、時折見せる計算高い表情は、彼がただ者ではないことを窺わせた。彼こそが、「囁き」のフィンだった。
フィンは、療養所から休暇で出てきた数名の看護師たちが、隣のテーブルで世間話をしているのに、さりげなく聞き耳を立てていた。彼は、偶然を装って彼女たちの会話に加わり、人当たりの良い笑顔と巧みな話術で、すぐに打ち解けていった。
「いやはや、療養所のお仕事は大変ですなぁ。特に、あのような重い病の方々を看るのは、心身ともに…」
「ええ、本当に…特に最近は、肺を患っていらっしゃるお嬢様の容態が、少しずつ…」看護師の一人が、つい口を滑らせる。
「おやおや、それはお気の毒に…実は、最近ロットノットの闇市で、そういう病に劇的に効くという『秘薬』が密かに出回っているという噂を聞きましてね。なんでも、東方の国から来たとか…ただ、とんでもなく高価で、ごく一部の富裕層しか手に入れられないそうですが…」フィンは、あたかも世間話のように、目的の偽情報を彼女たちの会話に織り交ぜた。
「まあ! そんな薬が!?」看護師たちは驚き、興味を示す。
フィンは、さらに話を続け、その「秘薬」がいかに効果的で、しかし入手困難であるかを、真実味を帯びた(もちろん作り話だが)エピソードを交えて語った。看護師たちは、彼の話に完全に引き込まれていた。
別の日、フィンは今度は療養所に出入りしている薬の納入業者に接触した。彼は、カザンの娘の病状について心配している遠縁の親戚を装い、業者から情報を引き出そうとした。
「…娘さんの病状、やはり進行は止められないのでしょうか…主治医の先生は、最近何か新しい治療法などを試されては…?」
業者は、守秘義務があるとしながらも、フィンの巧みな誘導と、「親戚」としての心からの心配(もちろん演技だ)に絆され、少しずつ情報を漏らし始めた。
「…先生も手を尽くしてはおられますが…やはり、今の薬では限界があるようで…最近、他の患者さんのご家族から、高価な新薬の噂を聞いて、先生も少し気にされてはいるようですが…」
フィンは、業者の言葉から、療養所の医師も新薬の噂に関心を持っていることを確認した。
フィンは、このように様々な人物に接触し、断片的な情報を集め、それを巧妙に組み合わせ、そして自身の作り出した偽情報を、あたかも真実であるかのように、少しずつ、しかし確実に療養所の内外に広めていった。「カザン氏の娘の病状が悪化しているらしい」「特効薬があるらしいが高価すぎる」「カザン氏も治療費の工面に苦労しているようだ」…これらの噂は、療養所の職員や出入りの業者、そして見舞いに来る他の家族などを介して、やがてカザン本人の耳にも届くことになった。
フィンは、自身の仕事が完了したことを確認すると、ベルコンスタンから約束の報酬を受け取り、再びロットノットの雑踏の中へと姿を消した。彼は、自分が流した情報が、カザンという男の心をどれほど蝕み、追い詰めていくことになるのか、おそらくは知る由もなかっただろう。ただ、依頼された「囁き」を届けただけなのだから。
カザンの苦悩
療養所を訪れるたびに、あるいは部下からの報告を聞くたびに、カザンの耳には、娘の病状悪化や高価な新薬に関する、不安を煽る噂が届くようになった。同時に、マルコ商会からの送金も滞りがちになり、ムーメンからの圧力も強まっていく。彼は、娘を救いたい一心で必死に金策に走ろうとするが、もはや八方塞がりだった。疑心暗鬼と絶望が、彼の心を蝕んでいく。毎晩、眠れぬ夜を過ごし、その顔には深い疲労と苦悩が刻まれていった。ラバァルが仕掛けた精神的な揺さぶりは、確実に効果を現し始めていた。
工作3:ムーメンからの圧力(偽装)
さらに、ムーメン家の名を騙り(あるいはムーメン家の下っ端を利用し)、カザンに対して「最近、金の動きが鈍いのではないか?」「何か隠していることがあるのではないか?」といった、圧力をかけるようなメッセージを間接的に送らせた。これにより、カザンはムーメンからの疑いと、娘の治療費問題との板挟みになり、精神的に追い詰められていく。
ベルコンスタンとウィッシュボーンの密談
「囁きのフィン」による偽情報流布が功を奏し、カザンが娘の病状と治療費の問題で精神的に不安定になっていることを確認したラバァルは、ベルコンスタンに次の指示を出した。今度は、ムーメン家からの圧力という「外的要因」で、カザンをさらに追い詰めるのだ。
「…というわけで、ラバァル様は、ムーメン家自身がカザンを疑い始めているように『見せかける』ことを望んでおられる」ベルコンスタンは、シュガーボムの自室で、ウィッシュボーンに低い声で説明していた。窓の外は既に暗く、部屋にはランプの明かりだけが揺れている。
「ムーメン家の名を騙って、ですか? しかし、もしバレたら…」ウィッシュボーンは懸念を示す。相手はあのムーメン家だ。下手に虎の尾を踏めば、ただでは済まない。
「だからこそ、慎重に、そして巧妙にやる必要がある」ベルコンスタンは頷いた。「直接的な脅しではない。あくまで『懸念』や『疑念』を仄めかす程度に留めるのだ。例えば…」
ベルコンスタンは、ウィッシュボーンに具体的な指示を与え始めた。
ムーメン家下っ端の利用
翌日、ウィッシュボーンはオーメンのメンバー数名を使って、ムーメン家の傘下組織「インクルシオ」の下っ端構成員の一人を捕らえた。その男は、以前から賭場で大きな借金があり、ウィッシュボーンはその弱みを握っていたのだ。
薄暗い倉庫の奥で、ウィッシュボーンは捕らえた男の前に立った。
「…おい、ダリオ。お前に、ちょっとした『仕事』を頼みたい」ウィッシュボーンは、男の借用書をちらつかせながら言った。「断ればどうなるか…分かっているな?」
ダリオと呼ばれた男は、恐怖に顔を引きつらせながら頷くしかない。
「簡単なことだ。お前の上司…インクルシオの幹部の中に、カザン様と比較的近い者がいるだろう? そいつに、それとなくこう伝えるんだ。『最近、カザン様の羽振りが少し悪いように見えるが、何かあったのか? モロー様も少し心配しておいでだ』と。あくまで、お前が個人的に聞いた『噂話』としてだ。いいな?」
「そ、そんなこと…もしバレたら俺は…!」
「バレなきゃいいだけの話だ。うまくやれば、お前の借金も少しは軽くしてやる。どうだ?」
ダリオは、借金減額という甘い言葉と、逆らった場合の恐怖を天秤にかけ、結局、ウィッシュボーンの指示に従うことを承諾した。
数日後、ダリオは指示通り、インクルシオの幹部に、あたかも他のチンピラから聞いた噂話のように、「カザン様の最近の様子がおかしい」という話を吹き込んだ。幹部は最初は半信半疑だったが、ダリオが巧妙に他の情報(カザンが最近資金繰りに奔走しているらしい、娘の病気が重いらしい、など、これもウィッシュボーンが流した情報だ)を織り交ぜて話したため、次第に疑念を抱き始めた。
カザンへの間接的な圧力
インクルシオの幹部から報告を受けたのか、あるいは別のルートからか、ムーメン家内部で「カザンの様子がおかしい」という噂が囁かれ始めた。それはまだ、モロー・ムーメン本人の耳に直接届くほど大きなものではなかったが、カザンの直属の部下や、彼と仕事上で関わる者たちの間に、微妙な変化を生み出していた。
例えば、カザンがいつものように部下に指示を出した際、以前なら即座に従っていた部下が、一瞬だけ躊躇うような素振りを見せたり、「…カザン様、その件ですが、本当にモロー様のご承認は…?」などと、遠回しに確認を求めてくるようになったりしていた。
また、ムーメン家の会計を担当する別の部署の者からは、「カザン様、先日ご依頼のあった資金の件ですが、少し確認が必要でして…」と、これまでならスムーズに進んでいたはずの金の流れが、僅かに滞るような場面も出てきた。
さらに、カザンが個人的に懇意にしていた商人の一人からは、「申し訳ありません、カザン様。最近、ムーメン家の方から『カザン様との取引は、少し慎重に』という『アドバイス』がありまして…今回の品物は、残念ながら…」と、取引を断られるようなことまで起こり始めた。これも、ベルコンスタンが裏で手を回し、ムーメン家の名を騙って商人に圧力をかけた結果だった。
これらの出来事は、一つ一つは些細なことかもしれない。だが、それらが連続して起こることで、カザンは確実に精神的な圧力を感じ始めていた。「ムーメン家は、私を疑い始めているのではないか?」「私の金の動きを探っているのではないか?」「娘のことも、知られたのではないか?」疑念と恐怖が、彼の心を蝕んでいく。
彼は、ムーメンへの忠誠を改めて示そうと必死になるが、金のトラブルと娘の病状への不安が、彼の判断力を鈍らせ、空回りさせる。部下への指示も厳しくなり、それが更なる反感を招くという悪循環に陥っていた。
追い詰められるカザン
ある夜、カザンは自室で一人、強い酒を呷っていた。机の上には、療養所からの娘の病状に関する芳しくない報告書と、ムーメン家からの更なる資金捻出を暗に求める(ように見せかけた、ベルコンスタンが流した偽の)内部メモが置かれている。部屋の外には、彼を監視しているかのようなムーメン家の部下の気配が常に感じられ(これもベルコンスタンの差し金による演出だ)、息が詰まるようだ。
(…もう、駄目だ…どうにもならない…)
カザンは、グラスを持つ手が震えているのに気づいた。金がない。娘の命も危うい。そして、長年尽くしてきたはずの主君、モロー・ムーメンからは、冷たい疑いの目を向けられ始めている。部下たちの視線もどこか冷たく、信頼していた商人にも裏切られた。自分が築き上げてきたものが、音を立てて崩れていくのを感じていた。
(このままでは、娘を見殺しにするか、ムーメン様に見捨てられるか…どちらにしても破滅だ。そして、ムーメン様に見捨てられれば、次は暗殺団アウルかサギーの連中が突然現れ俺を消すのだろう…!)
恐怖と絶望が、アルコールと共に彼の思考を蝕んでいく。彼は完全に追い詰められていた。
(…いっそ、全てを投げ出して逃げるか? いや、病気の娘を連れてどこへ逃げられるというのだ…それに、ムーメンの追手から逃げ切れるはずがない…)
(…ならば…このまま飼い殺しにされるくらいなら…一矢報いて…? いや、馬鹿な! 俺にそんな力などない…)
カザンは、グラスに残っていた強い酒を一気に呷り、頭を抱えた。もはや、まともな思考はできない。自暴自棄になり、衝動的な行動に出るか、あるいは完全に心を閉ざしてしまうか。彼の選択肢は、破滅的なものしか残されていないように思えた。
(誰か…誰でもいい…この状況から、俺を救い出してくれ…!)
心の奥底からの悲鳴が、声にならない叫びとなって、彼の内で響いていた。ラバァルが仕掛けた多方面からの精神的圧力は、カザンの心を完全に折り、彼を絶望の淵へと突き落としていた。あとは、そこに「救いの手」を差し伸べる者が現れるのを待つだけ、という状況を作り出していたのだ。彼は、ラバァルと接触する以前に、既に精神的に降伏寸前まで追い詰められていたのである。
工作4:アウルやサギーの影(偽装)
そして決定打として、ラバァルはジン(ムーメン家の幹部)と懇意である暗殺団アウル、ゾンハーグ家と繋がる暗殺団サギーの名を仄めかすような動きを、カザンの周辺で起こさせた。例えば、カザンの家の近くに見慣れない怪しい人影が現れたり、尾行されているような気配を感じさせたりすることで、「ムーメン家に見捨てられれば、暗殺団に狙われるかもしれない」という恐怖心を植え付けていった。
カザンの周辺、数週間にわたる工作
カザンを蝕む不安とプレッシャーは、もはや限界に近づいていた。金のトラブル、娘の病状、ムーメン家内部での孤立…。そして、それに追い打ちをかけるように、彼の周囲で不可解で不気味な出来事が頻発し始めた。ラバァルの指示を受けたベルコンスタンとウィッシュボーンが仕掛けた、最後の、そして最も陰湿な工作――「暗殺団の影」を演出する作戦だった。
ある夜、仕事を終え、やつれた体で自邸へと続く薄暗い路地を歩いていたカザンは、ふと、背後に人の気配を感じた。慌てて振り返るが、そこには誰もいない。ただ、街灯の頼りない光が作る、ゆらゆらと揺れる影があるだけだ。
(…気のせいか…?)
だが、その日から、彼は常に誰かに見られているような感覚に苛まれるようになった。
またある時は、屋敷の書斎で仕事をしていると、窓の外の庭の茂みが、ガサリと不自然に揺れた。衛兵を呼んで調べさせたが、小動物の類すら見つからなかった。しかし、カザンには分かっていた。あれは単なる風の音ではない、と。
ウィッシュボーンは、オーメンの中でも特に気配を消すのが得意なメンバー数名を選び出し、彼らに指示を与えていた。決して姿は見せるな、決して直接接触するな。ただ、カザンに「誰かに監視されている」「尾行されている」と感じさせるだけでいい、と。メンバーたちは、物陰からカザンの様子を窺い、彼が気づきそうな絶妙なタイミングで気配だけを残して姿を消す、という高度な嫌がらせを繰り返した。彼らにとっても、ラバァル直々の「訓練」の一環であり、失敗は許されなかった。
さらに、工作は巧妙さを増していく。
カザンの屋敷の門の前に、ある朝、一羽の黒い羽根が落ちていた。それは、暗殺団【アウル】が、標的に対する警告として使うことがある、という真偽不明の噂が、闇市の一部で囁かれているものだった(もちろん、これもベルコンスタンが流させた偽情報だ)。カザンはその羽根を見て、血の気が引くのを感じた。
また別の日には、彼が懇意にしている(まだ取引を続けている数少ない)商人の元へ、「カザンとの付き合いは、そろそろ考え直した方が身のためだ」という、差出人不明の脅迫状めいた手紙が届いた。その手紙には、【サギー】を思わせる蛇の印が、ごく小さく、しかし意図的に見えるように記されていた。商人は恐れをなし、カザンとの取引を完全に停止してしまった。
極めつけは、ある夜更け、カザンが自室の窓から外を眺めていると、向かいの建物の屋根の上に、一瞬だけ、黒装束の人影のようなものが見えた気がしたことだ。目を凝らすと、それはただの煙突の影だったのかもしれない。だが、カザンの精神は、もはや正常な判断ができないほどに追い詰められていた。
(見られている…常に誰かに…アウルか? サギーか? ムーメン様は、もう私を切り捨てたのか…? いや、まだだ…まだ利用価値があるうちは…だが、いつ…!?)
原因不明の金のトラブル、悪化していく(と思い込んでいる)娘の病状、ムーメン家内部での孤立、そして、いつ襲ってくるか分からない暗殺者の影…。四方八方から迫る脅威と不安に、カザンの心は完全に蝕まれていた。彼はもはや誰を信じていいのか分からず、夜もまともに眠れず、食事も喉を通らない。鏡に映る自分の顔は、生気を失い、まるで亡霊のようだった。
この数週間にわたる、巧妙かつ執拗な精神攻撃によって、“百目”とまで呼ばれたカザンの怜悧な頭脳は完全に麻痺し、ただ破滅の足音に怯えるだけの、哀れな存在へと成り果てていた。あとは、その絶望の淵にいる彼に、ラバァルという名の「」が、手を差し伸べるだけだった。ウィッシュボーンとオーメンのメンバーたちは、姿を見せることなく、影のように暗躍し、ラバァルの描いた筋書き通りに、標的の心を確実に破壊していったのである。
ラバァルの囁きとカザンの陥落
カザンが精神的に追い詰められ、絶望の淵に立たされたタイミングを見計らい、ラバァルはついに自ら動いた。彼は、ベルコンスタンを通じて、カザンとの秘密裏の接触をセッティングさせた。場所は、ロットノットの夜景が一望できる、新市街のはずれにある寂れた展望台。人目はなく、密談には最適な場所だった。
指定された時刻、やつれ果て、目の下に深い隈を作ったカザンが、不安げな様子で展望台に現れた。彼の周囲には護衛の姿はない。ラバァルは、闇に紛れるようにして、彼の背後から静かに声をかけた。
「…よく来た“百目”のカザン。」
「!?」カザンは驚いて振り返った。そこに立っていたのは、その容姿から報告資料にあったシュガーボムの『客人』だと判断した。カザンは一瞬で相手の素性を推測、相手に対し最大限の警戒心を露わにする。
「…何の用だ。なぜ俺を呼び出した?」
「話は早い方がいいだろう」ラバァルは、カザンの警戒など意に介さず、核心を突いた。「お前さん、今、かなりヤバい状況にあるようだな。金のトラブル、病気の家族のこと、ムーメンからの圧力、それに…背後から狙ってる暗殺者の影。このままじゃ、お前さんも、お前さんの大事な家族も、揃って破滅だぜ?」
カザンの顔が絶望に歪む。目の前の男が、自分の秘密と苦境を正確に把握していることに、彼は戦慄した。
「…貴様が、仕組んだのか…?」
「仕組んだ? さあな。俺はただ、お前さんが勝手に転がり落ちていくのを『見ていた』だけかもしれん。それより、お前に一つの『提案』があるんだが聞くか」
「提案だと…聞くかだと?」
「いや別に聞きたくなければ、このまま必要なかったと受け止め、このまま去るだけだ。」
ラバァルはここで最初の選択をさせたのだ。 するとカザンは...。 「待て。」
「ほ~話は聞いてみるか。」 「言って見せろ。」 ラバァルはこくりと頷き了承すると。
落ち着いた雰囲気を醸し出しながら夜景を見下ろし、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで語りかけた。
「ムーメンは、お前を便利な駒としか見ていない。使えなくなったり、邪魔になったりすりゃ、あっさり切り捨てるだろうよ。そうなったら、アウルだかサギーだか知らんが、奴らがお前さんや、その病気の家族を見逃すと思うか? まず無理だろうな」
「だが、俺には道がある。お前さんが、俺に『協力』するってんなら、話は別だ」
「協力…だと? ムーメンを裏切れと、そう言うのか!」
「裏切りじゃねえ。『これから先のマシな方』を選ぶ、ってだけのことだ」ラバァルは続けた。「俺につけば、お前さんが抱えてる金のトラブルは、俺が『何とかしてやろう』。病気の家族に必要な『最高の医者と薬』の手配もできるかもしれん。そして何より、ムーメンからも、暗殺団からも、お前さんの身の安全は俺が保証してやる。俺の力なら、それくらいは可能だ」
カザンは、ラバァルの言葉に激しく動揺した。それは、地獄の底で差し伸べられた、蜘蛛の糸のように思えた。だが、同時に、目の前の男の底知れない力と、その真意への恐怖も拭えない。
「…なぜ、俺にそこまでする? 貴様の狙いは何だ?」
「決まってるだろう」ラバァルは、初めてカザンの方へ向き直り、その目に宿る底知れぬ野心を見せつけた。「ムーメンを潰し、俺が更に上に登るためだ。そのためには、お前さんのその悪賢い『頭脳』が必要なんだよ、カザン」
ラバァルの言葉は、誘惑であり、脅迫でもあった。カザンには、もはや他の選択肢は残されていないように思えた。このままムーメンに従っていても破滅。ならば、この得体の知れない男に賭けるしかないのか?
「…俺に求める『協力』とは、具体的に何をすればいい?」カザンは、震える声で尋ねる。それは、事実上の降伏宣言だった。
「簡単なことだ」ラバァルは、冷たい笑みを浮かべながら。「お前さんは、これまで通り、ムーメンの忠実な『百目』として、奴の傍でいい顔してりゃいい。そして、要所要所で、俺に都合のいい情報をこっそり流すだけでいいんだ。ムーメンの計画、金の動き、弱点…俺が欲しい情報を、欲しいタイミングで、な。それだけで、お前さんと、お前さんの大事な家族の未来は保証されるようになる」
それは、カザンにとって抗いがたい取引だった。彼は、ラバァルという男の恐ろしさと、その深謀遠慮に、改めて戦慄しながらも、頷くしかないと思考したのだ。
「……わかった。協力しよう。ただし、約束は守ってもらうぞ。娘の治療と、俺たちの安全を…」
「当然だ。俺は約束は守る。ただし、お前さんが俺を裏切らない限りはな」ラバァルは釘を刺すことを忘れなかった。「もし、少しでもおかしな動きを見せやがったら…その時は、ムーメンや暗殺団より、もっと悲惨な死に方を考え実行に移すだろう、その事を忘れるな」
こうして、ムーメン家の頭脳である“百目”のカザンは、ラバァルの巧妙な策略によって、事実上、その軍門に下った。彼は、表向きはムーメンに仕え続けながら、裏ではラバァルに情報を流すという、二重スパイの役割を担うことになったのだ。ラバァルは、これでムーメン家攻略における最大の武器を手に入れた。彼は、もはや後戻りできないカザンを後にし、満足げに夜の闇へと消えていった。彼の計画は、また一つ、大きく前進する事となっていた。
最後まで読んでくれありがとう、引き続き見掛けたら読んでみて下さい。




