土下座からの始まり
訓練場に戻って来たタロッチ達はうなだれていた、それを見た大人たちは、(負けたな)直ぐに分かった。
そんな所にラバァルがス~と戻って来た。
その110
土下座とラバァルの覚醒
訓練場に戻ってきた四人の間に、重い沈黙が垂れ込めていた。悔しさと、自分たちの無力さを突きつけられた衝撃で、誰もが言葉を失っていた。ラバァルの言った通りだった。自分たちは、まだ何も分かっていなかったのだと、骨身に染みて理解していた。
「……忠告通り、だったな」
タロッチが、絞り出すように力なく呟いた。その声は、いつもの自信に満ちた彼のものではなく、ひどくか細かった。
「あと少しだったのに…! あと少しで勝てたはずなのに…!」
メロディが唇を強く噛みしめ、その瞳には涙が滲んでいる。ラモンは悔しさで顔を歪め、地面を睨みつけて俯き、ウィローは溢れ出る涙を拭うこともせず、ただ静かに肩を震わせていた。
そんな彼らの元へ、ラバァルが音もなく姿を現した。彼は、打ちひしがれた四人の様子を一瞥しただけで、何も言わずとも結果を察したようだった。その視線には、嘲りも、憐れみもなかった。ただ、厳しい現実を映す鏡のように、静かで、重かった。
「…言ったはずだ。貴様らでは、まだ早い、と」
その声が引き金になったかのように、タロッチは弾かれたように顔を上げた。そして、ラバァルの前に進み出ると、何のためらいもなく、その場に膝をついた。乾いた土に、ごしり、と額を擦り付ける。
「ラバァルッ! 頼むッ!!」
他の三人も、一瞬、タロッチの行動に目を見張ったが、すぐに彼の覚悟を悟った。彼らもまた、導かれるようにラバァルの前に跪き、プライドも何もかも投げ打って、深く頭を下げた。
その異様な光景を、訓練場の片隅で自分たちの鍛錬を続けていたオーメンのメンバーたちが、遠巻きに見ていた。
ウィッシュボーンから「ラバァル様が連れてこられた特別なお客様だ」と紹介され、あのヨーゼフを倒したという噂から、子供たちに畏敬の念を抱いてはいた。しかし、ラバァルが彼らを直接指導していることに、内心では「なぜガキばかり特別扱いを…」という複雑な思いを抱いていた者も少なくなかった。
だが、目の前で繰り広げられている光景はどうだ。
スラムのガキ大将に過ぎなかったはずのタロッチたちが、本気で涙を流し、あの絶対的な存在であるラバァルに土下座までして、教えを乞うている。その姿は、遊びや意地ではない、魂からの叫びだった。
「俺たちを…! もっと、強くしてくれッ!!」
タロッチが、地面に額をつけたまま叫んだ。
「あいつらに勝ちたいんだ! このスラムでふんぞり返ってるどんなグループにも、もう二度と負けたくないんだ! そのためなら…どんな地獄のような訓練だって耐えてみせるッ! だから…頼みます! 俺たちに、本当の戦い方を…生き抜くための牙を、くださいッ!!」
タロッチ(10歳)、ウィロー(12歳)、ラモン(9歳)、メロディ(10歳)。
四人揃っての土下座。それは、虚勢とプライドだけで生きてきたスラムの子供たちにとって、自分たちの弱さを認め、過去の自分を殺すに等しい、本気の懇願だった。
「……おい、見たかよ、あいつら…」
オーメンのメンバーの一人が、思わず隣の仲間に囁いた。
「ああ…ただのガキの喧嘩だと思ってたが…ありゃ、本気だぜ…」
「俺たちは…どうなんだ? ラバァルさんに拾ってもらって、前よりマシな飯が食えるようになったが…本当に、強くなろうとしてるか…? 命を懸ける覚悟が、俺たちにあるのか…?」
「………あんなガキどもに、負けてられるかよ…」
その一言が、導火線に火をつけた。
オーメンのメンバーたちの間に、それまで希薄だった熱い空気が、確かに生まれ始めていた。タロッチたちの必死な姿が、長い間スラムの淀んだ空気に染まり、日々の惰性で生きていた荒くれ者たちの心に深く突き刺さったのだ。彼らの中に眠っていたはずの向上心、競争心、そして何よりも、自分たちを拾い上げてくれたラバァルという男への純粋な忠誠心に、今、確かな炎が灯り始めていた。
ラバァルは、目の前で土に額を擦りつける四人の子供たちを、しばし無言で見下ろしていた。訓練場の乾いた風が、彼の髪を静かに揺らす。その心の中で、何かが確実に変わろうとしていた。
最初は、停滞期の暇つぶしだった。あるいは、将来便利に使えるかもしれない「駒」を作るための、
打算的な投資。それくらいの軽い気持ちだったはずだ。だが、目の前の光景はどうだ。彼らの必死さ、屈辱に塗れても折れない心、そして自分に注がれる、疑うことを知らない真っ直ぐな信頼の眼差し。それは、ラバァルがこのロットノットに来てから、忘れていた、あるいは意図的に蓋をして避けていた種類の感情を、無理やりこじ開けるように呼び覚ましたのだ。
(…こいつらは生き抜こうとする本能で動いている)
それは、かつて自分と共に【エシトン・ブルケリィ】に連れて来られ、その中で必死に生きようとしていた者たちが見せていた生存本能向きだしの子供達に似ていた。
そんな彼らの姿を見ていたラバァルは、今、このロットノットで、評議会の連中を相手に、他者を使って動かすという、どうにもスカッとしない戦いを強いられている現状への苛立ちからか、窮屈さを感じていた。そんなラバァルも、あいつらに刺激を受けたのだろう。
理由は定かではなが、彼の心の奥底で、錆びついていた何かがカチリと音を立て、熱を帯び始めたのは確かだった。
「……良し」
ラバァルは、短く、しかし決意の重みを込めて言った。
「貴様らに、とことんやる意思があるのは分かった。ならば俺も、本気で応えてやろう。」
その一言に、四人は弾かれたように顔を上げた。彼らの瞳には、涙の跡を残しながらも、確かな希望の光が宿っていた。
その日から、訓練場の空気は一変した。ラバァルの指導は、以前とは比べ物にならないほど本格的、かつ、ウィッシュボーンでも近づく事さえ出来ない程の雰囲気で指導し始めたのだ。
基礎体力のさらなる向上はもちろん、高度な体術、相手の急所を的確に突く打撃、無力化するための関節技や投げ技。メロディには、彼女の才能を見抜き、より高度で変幻自在な棍術を。そして何より、どんな逆境でも心を折らず、思考を止めずに最善手を探し続けるための、鋼の精神力。ラバァルは、自らが持つ知識と経験の全てを、惜しみなく四人に叩き込み始めた。
ラバァルが子供たちの指導に本腰を入れてから数週間。
訓練場では、常人ならば一日で発狂しかねないほどの過酷な特訓が、日々繰り広げられていた。タロッチたちは、文字通り泥水をすすり、何度も血反吐を吐き、意識も何度も失い、疲労困憊に陥りながら、それでも必死にラバァルの要求に応えようと立ち上がり、食らいついていた。
その鬼気迫る光景を、オーメンのメンバーたちは、自分たちの訓練の合間に固唾を飲んで見守りながら。
「おいおい、嘘だろ…そこまでやるのかよ。相手はガキなんだぜ…」
「馬鹿野郎、ガキ扱いするな。タロッチのあの目を見ろよ。獲物を狩る狼みてえな目をしてやがる…」
ラバァルの指導は、容赦がなく、一切の妥協がない。しかし、それにボロボロになりながらも食らいついていく子供たちの姿は、見る者の心を揺さぶった。日に日に動きが鋭くなり、無駄な肉が削ぎ落とされ、顔つきが変わっていく。その変化は、素人目にも明らかだった。
「…おい、今日のガキどもの動き、見たか? 土下座前とは別人じゃねえか…」
「ああ…あのラバァルさんの特訓は、人を化け物に変える代物だ。マジでヤベェ…」
「それに比べて、俺たちはどうなんだ? ウィッシュボーンの旦那の言う通りに体を動かしてるだけじゃねえか?」
「…情けねえ。俺たちも本気で気合入れねえと、いつかあのガキどもに追い抜かれちまうぞ」
当初は「ラバァルさんがガキの遊びに付き合っている」程度にしか見ていなかったオーメンのメンバーたちも、タロッチたちの死に物狂いの努力と、目に見える圧倒的な成長を目の当たりにするうちに、明らかに意識が変わり始めていた。自分たちの訓練にも、以前にはなかった真剣味と、自発的な熱気が帯びるようになっていく。
ウィッシュボーンも、その変化に気づき、内心で舌を巻いていた。
(ラバァルさんは、ただ強いだけじゃない。あの子供たちを鍛えることで、こいつら荒くれ者たちの意識まで変えちまったのか…)
一人の指導者が、一つの集団を変える。その圧倒的な影響力を目の当たりにし、改めてラバァルという男の底知れなさを感じていた。
訓練場全体に、これまでなかったような「強くなりたい」という純粋で、かつ強烈な熱意が、まるで熱病のように伝染し始めていたのだ。
一ヶ月後。タロッチ、ウィロー、ラモン、メロディの四人は、見違えるように成長していた。体つきは引き締まり、目つきは鋭さを増し、その立ち姿には、以前とは比較にならない自信と覚悟がみなぎっていた。ラバァルの地獄のような特訓を耐え抜き、彼らはもはや単なるスラムの子供ではなく、一廉の「戦士」の風格すら漂わせ始めていた。
そして、三度目のスチール・クロウとの決戦の日が来た。場所は同じ廃工場跡。
「…また来たのか。しつこい奴らだな」ファングは、以前と同じように冷たく言い放ったが、タロッチたちの変わりように、内心では少なからず驚いていた。明らかに、以前とは纏う空気が違う。
「今日こそ、決着をつける!」タロッチが宣言し、最後の戦いが始まった。
激闘だった。タロッチたちの連携は、もはや以前とはまるで違っていた。ウィローが鉄壁の防御でファングの動きを制限し、ラモンが神出鬼没の動きで他のメンバーを翻弄する。
「…メロディは、ラバァルから教わった三節棍を巧みに操り、相手の攻撃を受け流し、防御を崩し、あるいは武器を絡め取って動きを封じ、的確に打撃を加えていく。その動きは予測不能で、スチール・クロウのメンバーも翻弄されていた。」
対するスチール・クロウも、その実力は本物だった。ファングの圧倒的な戦闘センスと、鍛え上げられた仲間たちの連携は強力無比で、一進一退の攻防が続く。誰もが一歩も引かず、意地と意地がぶつかり合う、まさに死闘だ。
勝負は容易には決まらなかった。双方ともに満身創痍となり、倒れては立ち上がり、血と汗と泥にまみれながら、最後の力を振り絞って戦い続ける。もはや、どちらが勝ってもおかしくない状況だった。
その時、どこからともなく、鋭い声が響き渡った。
「――そこまでだ」
声の主は、いつの間にか現れていたラバァルだった。彼は、戦場の中心に静かに立ち、両者を制止した。その圧倒的な存在感に、タロッチたちも、そしてファングたちスチール・クロウのメンバーも、思わず動きを止める。
「これ以上の戦いはお前たちには早い。双方、もう力を出し尽くした。…この勝負、引き分けとする」
ラバァルは、有無を言わせぬ口調で判定を下した。
タロッチは、つむりかけた目でまだ戦い足りないという表情を見せたが、ラバァルの言葉には逆らえなかった。一方、ファングは、ラバァルの顔をじっと見つめた後、ふっと息をつき、意外にも素直に頷いたのだ。
「…引き分け、か。まあ、いいだろう。正直、これ以上やっても埒が明かん」
そして、ファングは、ボロボロになりながらも、まだ闘志を失っていないタロッチに向き直った。
「おい、タロッチとか言ったな。…お前、やるじゃねえか。まさか、ここまでやるとは思わなかったぜ」
その言葉には、敵意ではなく、純粋な賞賛の響きがあった。
タロッチも、ファングの強さを認めざるを得なかった。
「…お前こそ。激強だったぜ、ファング」
ラバァルは、その様子を見て、静かに口を開いた。
「お互いの力を認め合ったのなら、これ以上争う必要はないだろう。スラムの子供たちが、互いに潰し合っていては、それこそ他の大人たちの思う壺だ。どうだ? これを機に、手を組んでみては?」
ラバァルの提案に、タロッチとファングは顔を見合わせた。最初は敵対していた両者だが、死闘を経て、互いの実力と根性を認め合っていた。ラバァルの言う通り、ここで手を組めば、スラムでの彼らの力は格段に増すだろう。
「…悪くねえ話だな」ファングが先に口を開いた。「お前らとなら、面白いことができそうだ」
「…ああ、俺もそう思うぜ」タロッチも頷いた。
こうして、激闘の末、タロッチ率いるグループと、ファング率いるスチール・クロウは、互いを認め合い、同盟を結ぶことになった。それは、ラバァルの指導によって成長したタロッチたちが、自らの力で掴み取った大きな成果だった。そして、この同盟は、今後のロットノットのスラムにおける勢力図を大きく塗り替える可能性を秘めていた。ラバァルにとっても、計算外ではあったが、興味深い結果となった。彼は、成長した子供たちと、新たに生まれた同盟の行く末を、静かに見守ることにした。
シュガーボムへの帰還と状況報告
タロッチたちとスチール・クロウの予期せぬ同盟成立を見届けた後、ラバァルは子供たちの指導に費やした一月半もの期間を終え、久しぶりに新市街のシュガーボムへと戻ってきた。その間、キーウィやオーメンの運営はベルコンスタンとウィッシュボーンに任せきりだったが、大きな問題は起きていないようだった。
シュガーボムの内部は、以前と変わらぬ怪しげな活気に満ちている。ラバァルが奥の通路へ向かうと、見張りの構成員がすぐに気づき、彼の部屋ではなく、ベルコンスタンの執務室へと案内した。どうやら、ベルコンスタンの怪我がかなり回復し、執務に復帰しているらしい。
執務室に入ると、ベルコンスタンが書類の山に向かっていた。以前のやつれた様子はなく、顔色もずいぶんと良くなっている。彼の背後には、見慣れたキーウィの幹部たちが数名控えていた。
「ラバァルさん、お戻りでしたか! しばらくぶりでございますな」ベルコンスタンは椅子から立ち上がり、以前のような卑屈さではなく、一定の自信を取り戻した様子でラバァルを迎えた。
「ああ。留守中の様子はどうだ? 問題は?」ラバァルはソファに腰掛けながら尋ねた。
「はい、お陰様で私の傷もほぼ癒え、組織の運営も…まあ、なんとか」ベルコンスタンは言葉を濁した。「しかし…残念ながら、あまり芳しくない報告もございます」
「ほう、何だ?」
ベルコンスタンは、苦い表情で報告を始めた。
「…やはり、デュオール家の内紛…エマーヌ様の失脚と私の当主代行就任の情報は、完全に隠し通すことはできませんでした。どこからか漏れたのか、他の評議会議員たちの耳にも入ってしまったようで…」
「だろうな。それで?」ラバァルは特に驚きもせず、先を促した。
「…いち早く動いたのは、やはりムーメン家でした。彼らは、デュオール家の混乱に乗じ、傘下の組織や商人たちに接触。金や脅しを使って、多くの者を引き抜いていきました。『夜蝶の館』のマダムはなんとか繋ぎ止めましたが、『黒鉄商会』をはじめ、いくつかの有力な組織がムーメン側についてしまい…」
ベルコンスタンは深いため息をついた。「結果として、我々…元デュオール家の勢力は大幅に縮小し、資金力もかなり低下してしまいました。私が療養している間に、奴らにいいように食い荒らされた形です…まことに、申し訳ございません」
彼は深々と頭を下げた。
しかし、ラバァルは特に気にした様子もなく、鼻で笑った。
「ふん、まあ、あれだけの怪我をして寝込んでいたのだから仕方あるまい。それに、元々腐りかけていた組織だ、膿を出す良い機会だったのかもしれん。離れていった連中は、所詮その程度の忠誠心だったということだ」
ラバァルは立ち上がり、窓の外を見ながら続けた。
「だがな、ベルコンスタン。こっちを裏切ってムーメンについた連中には、後できっちりと『挨拶』をしてやらねばならん。裏切り者は、どうなるか…骨の髄まで思い知らせてやる必要があるからだ」
その言葉には、冷たい殺気が込められていた。ベルコンスタンはゴクリと喉を鳴らす。
「しかし、だ」ラバァルは振り返り、ベルコンスタンを見据えた。「いつまでも、そんな離反した雑魚どもを相手にしていても埒が明かん。ムーメン本体には、ほとんどダメージを与えられんからな。もっと奴らにとって手痛い打撃…**『大物狩り』**を考えるべきだ。どうだ、ベルコンスタン? そろそろ、お前の『知略』とやらで、面白い作戦の一つでも考えついたのではないか?」
ラバァルは、ベルコンスタンに新たなプレッシャーをかける。弱体化した現状を嘆くのではなく、次なる攻勢への具体的な計画を要求したのだ。
ベルコンスタンは、ラバァルの言葉に一瞬たじろいだが、すぐに意を決したように顔を上げた。
「はっ…! 実は、ラバァル様がお留守の間にも、いくつか策は練っておりました。ムーメン家の金の流れ、そして奴らの懐刀である幹部たち…彼らを直接狙うための計画です」
「ほう、聞かせろ」ラバァルは再びソファに腰を下ろし、ベルコンスタンの作戦立案能力に期待する視線を向けた。
ヨーゼフとの再会と作戦会議
それから数日が経ち、ベルコンスタンが練り上げた作戦計画の詳細を聞くため、ラバァルは再び彼の執務室を訪れた。扉を開けると、そこにはベルコンスタンだけでなく、数名の屈強な男たちが揃っていた。見覚えのある顔ぶれだ。先の報復作戦で重傷を負った、ボルコフを含むキーウィの主力メンバーたち。そして、その中心には、一際巨大な体躯を持つ、あの男――かつてラバァルが叩きのめした“無敵の傭兵”ヨーゼフ――が、まだ完全ではないものの、力強い足取りで立っていた。
「ふんっ、ようやく動けるようになったか」ラバァルは、特にヨーゼフに向けて、ぶっきらぼうに声をかけた。
ヨーゼフは、複雑な表情でラバァルを見返した。その目には、かつての敵意とは違う、ある種の畏敬と、戦士としての興味が混じっているように見えた。
「……なんとか」ヨーゼフは低い、嗄れた声で答えた。「しかし…よくぞ俺を殺さなかったな。あの時、てっきり俺は終わりだと思ったが…目が覚めたら治療を受けていた。どういう風の吹き回しかと思っていたが…まさか、貴様がキーウィの『客人』として、ここにいたとは...」
ヨーゼフの言葉には、皮肉と、理解しがたい状況への戸惑いが滲んでいた。
「ふんっ、たまたまだ。お前が意外としぶとかっただけのこと」ラバァルは、いつものようにはぐらかすように答えた。自分が手加減したことなど、おくびにも出さない。
ヨーゼフは、ラバァルのその態度を見て、ふっと息をついた。
「…まあ、いいだろう。理由はともあれ、命拾いしたのは事実だ。この借りは、いずれ返す。それまでは…貴様の『客人』としての立場、認めさせてもらおう」
ヨーゼフは、無骨ながらも、ラバァルの存在を(少なくとも表向きは)受け入れる姿勢を示した。元チャンピオンとしてのプライドと、自分を打ち負かした相手への敬意、そして生き残ったことへの複雑な感情が、彼の中でせめぎ合っているようだった。
ラバァルも、ヨーゼフの言葉を黙って受け止めた。今のキーウィにとってこの男の力は貴重だ。今後のムーメン家との戦いにおいても、大きな戦力となるだろう。
「…さて、ラバァル様、皆様、お揃いのようですので」ベルコンスタンが、場の空気を取り持つように咳払いをした。「先日来、練り上げておりました、ムーメン家への本格的な攻撃作戦について、ご説明させていただきます」
ベルコンスタンは、壁に貼られた新たな地図や資料を指さしながら、自信を取り戻した声で、次なる「大物狩り」の計画を語り始めた。その作戦は、ホークアイから得た情報と、ベルコンスタンの知略、そして回復したキーウィの戦力を結集させた、大胆かつ周到なものだった。ラバァルは、その説明を静かに聞きながら、計画の穴や、さらに効果を高めるための修正点を、頭の中で素早く組み立てていく。ロットノットの裏社会を揺るがすであろう、次なる戦いの火蓋が、今、切られようとしていた。
ホークアイ及び、ベルコンスタン経由から集め得た情報・
ムーメン家の金の流れ・主要収入源:
表向きの貿易会社を通じた利益(おそらく合法的な事業も一部行っている)。
密造酒の製造拠点(複数)と、闇市や他の都市への大規模な流通ルート(かなり詳細なもの)。
非合法な賭博(地下闘技場以外にも存在?)、高利貸しからの収益。
特定の貴族や商人からの「保護料」徴収。
「ラスティ・ジョッキ」のような、末端の飲食店や店からの上納金ルート(一部は既に把握)。
弱点: いくつかの金の流れは、特定の幹部(例えばカザン)に集中しており、そこを叩けば組織全体の資金繰りに影響が出る可能性がある。また、密造酒の製造拠点のいくつかは、衛生管理や秘密保持に問題を抱えているらしい。
傘下組織の詳細:
「インクルシオ」や「ラット・フィンク」といった、チンピラレベルの実行部隊の詳細(リーダー、構成員数、主な活動範囲、弱点など)。
より上位の、戦闘能力の高い私兵部隊の存在(名称や規模は不明だが、"鋼拳"バルガスが直接指揮している可能性)。
情報収集や謀略を担当する部門("百目"カザンが統括)。
第五軍デュランダル将軍との具体的な繋がり(金銭的な支援、便宜供与の見返りなど)。
暗殺団【アウル】との関係(モローと首領が兄弟という噂の真偽、具体的な協力体制)。
弱点: いくつかの下部組織間には縄張り争いや対立があり、連携が完全ではない。アウルとの関係は秘匿されており、露見すればムーメン家の立場を危うくする可能性がある。
当主モロー・ムーメン本人の弱み:
若くして成り上がったことへのコンプレックスと、それ故の過剰なまでの野心と猜疑心。
派手好みで浪費家な一面があり、常に金銭を欲している。
特定の女性(愛人?あるいは弱みを握られた相手?)への執着。
自身の出自に関する秘密(もしかしたら、高貴な血筋ではないことを隠している?)。
過去に行った非道な行為(政敵の暗殺、裏切りなど)の証拠の存在?
弱点: 感情的になりやすく、挑発に乗せられやすい。自身の出自や過去に関する秘密が最大の弱点である可能性。
幹部(バルガス、ジン、カザン)の弱み:
バルガス(“鋼拳”): 圧倒的な武力を持つが、頭脳戦は苦手。忠誠心は高いが、融通が利かない一面も。過去に守れなかった仲間や家族がいる?
ジン(“疾風”): 神速の暗殺者だが、極度の個人主義者。金やより強い相手との戦い以外には興味を示さない? 組織への忠誠心は希薄かもしれない。特定の毒物や薬物への依存?
カザン(“百目”): 怜悧な頭脳を持つが、直接的な戦闘能力は低い。莫大な富を築いているが、その金の出所には黒い噂が多い。部下を駒としか見ておらず、人望がない? 病弱な家族がいる?
弱点: それぞれの性格や過去、執着しているものが弱点となりうる。幹部間の関係も、必ずしも良好ではない可能性がある(互いに牽制し合っている?)。
標的の特定と追加調査命令
ベルコンスタンがムーメン家への攻撃作戦案を説明し終えた後、ラバァルはしばらく黙って地図と資料を眺めていた。ヨーゼフやボルコフたちは、力で敵をねじ伏せる作戦に期待するような視線をラバァルに向けている。しかし、ラバァルの思考は別の場所にあった。
(…バルガスの武力、ジンの隠密性も厄介だが、このムーメン家という組織を本当に支えているのは、おそらくあの“百目”のカザンだろう。金の流れ、情報網、謀略…奴の頭脳を潰すか、あるいは利用できなければ、ムーメンを完全に叩くことは難しい)
ラバァルは顔を上げ、ベルコンスタンに向き直った。
「ベルコンスタン、お前の作戦案は悪くない。だが、正面からの攻撃だけでは、ムーメンのような組織はしぶとい。もっと根本的な部分…奴らの頭脳を叩く必要がある」
「頭脳…と申しますと、カザンのことでしょうか?」ベルコンスタンは即座に理解した。
「そうだ」ラバァルは頷いた。「ホークアイからの情報では、カザンは頭は切れるが喧嘩は弱く、人望もない。そして…病気の家族がいる、という噂もある。この情報が真実なら、そこに付け入る隙があるかもしれん」
ラバァルは、壁に貼られたカザンに関するメモを指さした。
「ベルコンスタン、お前に新たな任務だ。ムーメンへの直接攻撃計画と並行して、このカザンという男について、再度、徹底的に洗い出せ。病気の家族ってのは具体的に誰で、どんな病気で、どこにいるのか。カザン自身の隠し金や、奴がムーメンに対して抱いてるかもしれねえ、ビビりや不満。どんなクソみたいな情報でもいい、全部だ。時間はかけられんぞ」
「は、はっ! かしこまりました! 直ちに!」ベルコンスタンは、ラバァルの新たな指示に身を引き締め、すぐさま行動を開始した。
カザンへの揺さぶり工作
ベルコンスタンとウィッシュボーンは、ラバァルの命令を受け、総力を挙げてカザンの身辺調査を再開した。情報屋への追加依頼、オーメンを使った尾行と監視、そしてデュオール家時代に培ったコネクションの利用…。数日後、彼らはいくつかの重要な情報を掴み、ラバァルに報告した。
カザンには、ロットノット郊外の療養所に、重い肺病を患う一人娘がいること。治療には莫大な金がかかり、カザンはその費用を何とか捻出し続けていること。カザン自身が不正に蓄財した金の一部は、娘の治療費のために安全な場所(特定の商人経由)に隠されていること。そして、カザンはモロー・ムーメンの冷酷で非情なやり方に、内心では恐怖と嫌悪感を抱いているが、娘のために従わざるを得ない状況にあること…。
「…なるほどな。娘か…それが奴のアキレス腱というわけか」
報告を受けたラバァルは、早速その情報が本当に使える情報なのか確かめる為、自ら動き始めた。
ロットノット郊外、療養所周辺、数日後
ベルコンスタンからカザンとその娘に関する詳細な報告を受けた数日後。ラバァルは、ホークアイから得た情報とベルコンスタンの報告の裏付けを取るため、そして何より、カザンという男を完全に手駒とするための確実な「楔」を打ち込むために、自ら動くことにした。
彼は、目立たない旅装に着替え、ウィッシュボーンに手配させた馬でロットノット郊外へと向かった。目指すは、カザンの娘が入っているという療養所だ。新市街の喧騒から離れた、森に近い丘の上にひっそりと建つその施設は、表向きは富裕層向けの静養施設のようだが、ベルコンスタンの情報によれば、実際には治療が難しい難病患者を隔離に近い形で受け入れている場所らしかった。
ラバァルは療養所の敷地から少し離れた森の中に馬を隠すと、アサシンとしての技術を駆使し、音もなく敷地内へと潜入した。昼下がりの療養所は、驚くほど静かだった。時折、鳥のさえずりや、遠くで響く鐘の音が聞こえる程度だ。建物は古いが手入れはされており、中庭には手入れされた花壇もあったが、どこか生命力の感じられない、寂れた空気が漂っている。
ベルコンスタンの情報にあった、カザンの娘がいるとされる病棟の近くまで、ラバァルは慎重に接近した。窓から中の様子を窺うことは難しい。下手に近づけば、警備員や職員に見つかるリスクもある。ラバァルは焦らず、病棟が見渡せる木陰に身を潜め、人の動きを観察することにした。
(…本当に、あんな男に病気の娘がいるとはな。どんな人間にも、守りたいものの一つや二つはあるということか)
そんなことを考えていると、一台の立派な馬車が療養所の正面玄関に到着したのが見えた。馬車から降りてきたのは、見覚えのある男だった。“百目”のカザンだ。彼はやつれた様子ながらも、娘に会える喜びからか、少しだけ足早に建物の中へと入っていった。
(父親の顔、か。面白い)
ラバァルは、カザンが面会を終えて出てくるまで、ここで待つことにした。彼の表情や様子から、何か読み取れるかもしれない。
しばらくして、カザンが病棟から出てきた。その表情は、入る前とは一変し、深い悲しみと、絶望に近い苦悩の色に染まっていた。娘の病状が思わしくないのか、あるいは治療費の問題で追い詰められているのか。いずれにせよ、彼の精神状態が極めて不安定であることは明らかだった。
カザンが自分の馬車に乗り込み、去って行ったのを見届けた後、ラバァルはさらに観察を続けた。カザンが去ったことで、何か変化があるかもしれない、と。
その予感は的中した。カザンが去ってから十分も経たないうちに、今度は別の、より豪華で、そして見慣れた紋章――ムーメン家のもの――が入った馬車が、療養所の裏手にある通用口近くに静かに停車したのだ。
馬車から降りてきたのは、ムーメン家の幹部の一人、”疾風”のジンを思わせる、痩身で鋭い目つきをした男だった。ただし、ジン本人ではないようだ。おそらくは、ジンの配下か、あるいはカザンを監視するためにモローが直接送り込んだ者だろう。男は、慣れた様子で通用口から建物の中へ入っていった。
(…ムーメン家の人間が、なぜこのタイミングでここに? カザンが去った直後に? まるで、カザンの様子を探るか、あるいは…娘に対して何かアクションを起こしているかのように…)
ラバァルの疑念は深まった。しばらくすると、男は再び通用口から姿を現した。その手には、小さな包みのようなものが握られている。男は、療養所の職員らしき人物に、その包みを渡し、何事か言葉を交わした後、足早に馬車に乗り込み、去っていった。職員は、男が去った後、包みを手に、周囲を気にするように見回してから、再び建物の中へと消えた。
(…あの包みは何だ? 薬か? それとも…別の何かか?)
ラバァルには、確証はない。だが、この一連の動きは、あまりにも不自然だった。ムーメン家は、単にカザンの忠誠心を疑っているだけではないのかもしれない。カザンの最大の弱点である娘を利用し、彼を完全に支配下に置こうとしている、あるいは、いざとなれば娘を人質に取るような、非道なことまで考えている可能性すらある。
(…なるほどな。カザンがムーメンを恐れ、逆らえない理由は、ここにもあったか。そして、この状況は利用できる)
ラバァルは、目的の情報――カザンの弱みが本物であり、かつムーメン家によって巧妙に利用されているという確証――を得て、満足した。そして、カザンを寝返らせるための、より効果的な「囁き」の言葉が、彼の頭の中に浮かんでいた。
彼は、誰にも気づかれることなく、再び音もなく療養所の敷地を後にした。カザン攻略の準備は整った。あとは、絶望の淵にいる彼に、最後の「救いの手(という名の罠)」を差し伸べるだけだ。
ラバァルは、実際に目にした情報を得て、冷徹な計算を巡らせた。そして、ベルコンスタンに具体的な指示を与えた。カザンへの精神的な揺さぶり工作の開始させたのだ。
数多くの中からこの文を読んでくれ、ありがとうございます、引き継続きまた見掛けたら読んでみて下さい。




