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ロスコフのお見合い その2

今回もロスコフのお見合いの過程ですが、まだ本人たちの会話までには到達しません。





                 その10




翌朝。ハルマッタン伯爵はまだ戻らない。


客室の息苦しい雰囲気から逃れるように、ロスコフは一人、伯爵邸の庭を散策していた。ひんやりとした朝の空気が、火照った思考を心地よく冷やしてくれる。露に濡れた芝生の匂いと、咲き始めた薔薇の甘い香りが混じり合い、遠くから聞こえる鍛冶場の規則正しい槌の音が、世界の静かな営みを伝えていた。


ふと、庭の奥にある樫の大木から、小気味の良い剪定鋏の音が聞こえてくる。パチン、パチン、と。視線を上げると、朝日に照らされた葉々の合間に、人影が見えた。


近づいてみると、それが若い女性であることに気づき、ロスコフは思わず足を止めた。

「……女性が、あんな高い木に?」

まるでリスのように軽やかな身のこなしで、太い枝から枝へと移り、迷いなく作業を続けている。ロスコフの知る貴族の令嬢たちの、刺繍や詩を楽しむか弱いイメージとは、あまりにかけ離れた光景だった。その瞬間、彼の頭脳はいつものように回転を始める。

(あの不安定な足場で、あれだけの作業を……。もし、蜘蛛のような多脚式の補助具を背嚢から展開できれば? 魔力で駆動するアームが幹を掴み、術者は宙で完全に固定される。そうすれば……)


彼が研究の空想に没頭していると、その女性が木の下に立つ奇妙な男に気づいたのだろう。するすると幹を滑り降り、柔らかな土の上に、音もなく着地した。


「どちら様でしょうか?」

鈴を転がすような、凛とした声だった。ハッとしたロスコ-フは、慌てて我に返る。


「えっと、私はロスコフ。昨日から客として滞在しております」


「私はリーゼ。この屋敷に住んでいます」

彼女の指先が少し土で汚れているのを見て、ロスコフは庭師か何かだと思った。


「すごいですね。あんな高い木に、女性が登られるとは。しかも、あれほど見事な手つきで」


「えへへ、家族には『おてんばが過ぎる』って、よく叱られるのです」

悪戯っぽく笑う彼女の頬が、朝日に透けてほんのりと赤く見えた。


その出会いをきっかけに、二人の会話は堰を切ったように溢れ出した。まるで、ずっと昔からの友人であったかのように。


「うふふふ♪ ロスコフ様ったら、面白いことをお考えになるのですね」


最初に話し始めたのは、ワーレン侯爵領の鉱山での話だった。友人のタンガとスペアー。三人でランプの灯りを頼りに、ひんやりとした坑道を探検した思い出。だが、話が怪物に襲われた件に及んだ瞬間、ロスコフの喉がひゅっと鳴った。

彼の脳裏に、あの日の光景が鮮やかに蘇る。肉が引き裂かれる鈍い音、鉄錆の匂い、そして光を失った友の瞳。十年経っても消えないトラウマが、彼の呼吸を浅くさせ、冷たい汗が背筋を伝った。その無力感こそが、彼を魔導具研究へと駆り立てる原動力であり、同時に、友であったタンガが「強くなるため」に彼の元を去った遠因でもあった。


彼の瞳が涙で潤むのを見て、リーゼはそっと言った。

「……辛いお話は、もうやめにしましょう」

その声の優しさが、彼の張り詰めていた心の琴線に触れた。

それからは、祖父との研究の話になった。彼の瞳は再び輝きを取り戻し、熱っぽく、夢中になって語り続けた。リーゼは、ただ静かに、楽しそうに相槌を打ってくれる。その心地よさに、ロスコ-フは時間を忘れていた。


「ははは♪ リーゼは本当に、話をする相手を気持ちよくさせる達人ですね」


「そんな、ロスコフ様ったら♪」

彼女はそう言って恥じらいながら去って行った。その残り香が、ふわりと風に乗って鼻腔をくすぐる。

「……居心地の良い人だった」

ロスコフは我に返り、パシっと自らの頬を叩いた。「いかんいかん、私は見合いに来たんだった!」


その頃、アンナの部屋に戻ったリーゼ――本物のアンナは、侍女と話していた。

「どんな方でした?」

「そうね……とても、興味深いお方でしたわ」

アンナはバルコニーから、求婚者たちが繰り広げる序列争いを眺め、うんざりしていた。だからこそ、庭師の娘「リーゼ」として彼らの素顔を探っていたのだ。

「私はまだ、もう少しこのままでいたいわ」

彼女の心には、他の誰にも感じたことのない、確かな興味が芽生えていた。


翌日の昼前。ようやくハルマッタン伯爵夫妻が屋敷に戻り、父であるワーレン侯爵の元へ謝罪に訪れた。部屋の空気は、張り詰めて重い。


「お許しください、ワーレン侯爵様。まさか、このような事態になっているとは……」


「……では、先に約束した話を、そちらの都合で一方的に反故にすると。そう、受け取っても?」

父の声は低く、静かだったが、その言葉の端々には、鞘から抜き放たれる寸前の剣のような鋭さが宿っていた。この縁談は、単なる婚姻ではない。ワーレン領の未来を左右する経済戦略の要なのだ。その焦燥が、彼の全身から威圧的なオーラとして放たれていた。


「ですから、出来るだけの優先権を……例えば、一番最初にアンナと話をする権利などは如何でしょうか?」


その提案に、ロスコフは父の背後で激しく首を振った。

(一番手など、ただの前座だ。印象はすぐに薄れる。それに、他のライバルたちの出方を観察し、変数を見極めてから動くのが、研究の定石だろう)

面倒事を避けたいという気持ちだけでなく、研究者としての冷静な計算が、彼に「最後」を選択させた。


それを見た父は、「ん~、息子は嫌がっておるのだが」と渋面を作った。


「ふむ、どうするロスコフ」

父に水を向けられ、ロスコフは待っていましたとばかりに答えた。

「それでは、皆が話し終わった最後に、少しだけお話をさせていただきます。それで結構です」


「なにっ!?」

父の目が、息子が本気で縁談を潰しに来たのではないかと、疑いの色を濃くした。だが、ハルマッタン伯爵はその提案に、救われたように飛びついた。


「流石は次期侯爵様! なんと堂々となさっておられる!」

息子を褒められ、父は「ふんっ」と鼻を鳴らし、渋々その提案を呑んだのだった。


その後、ロスコフはまるで当然のように、再び庭園へと向かった。

「ロスコフ様~♪」

遠くの花壇から、リーゼの明るい声が聞こえる。二人はまた、時間を忘れて語り合った。


その様子を、バルコニーからアンナが見つめていた。

(……あの方なら、あるいは……)

彼女の心は、ますますロスコフへと傾いていく。彼自身はまだ気づいていない。彼が研究者的な計算から選んだ「最後」という選択が、結果的に最も効果的な一手となっていたことを。




最後まで読んで下さりありがとう、また見かけたら宜しくです。

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