大都市アンヘイムから
題を変えました。元Today・Interactiveです。
富は、人を豊かにし、国を栄えさせる。
しかし、過剰な富は、時に嫉妬を呼び、争いの火種となる。
ノース大陸中央部に位置するリバンティン公国。
その首都アンヘイムは、まさしく富の象徴だった。
東西南北に伸びる街道が交わる交通の要衝として、人、物、金が絶え間なく流れ込み、街は尽きることのない繁栄を謳歌していた。
北の帝国へは、希少な魔晶石が。
東の聖地へは、敬虔な巡礼者が。
西の港からは、異国の珍品が。
人々は、この平和と繁栄が永遠に続くと信じていた。
街道を警備する騎士の存在が、その幻想を確かなものにしていた。
だが、彼らは知らなかった。
光が強ければ、その影もまた濃くなるということを。
南の大国、ラガン王国。
アンヘイムの富に歪んだ欲望を抱き、その輝きに嫉妬する目が、暗闇の奥から静かに、そして虎視眈々と好機を窺っていたことを。
これは、富によって引き裂かれ、戦乱の渦に飲み込まれていく者たちの物語。
一人の貴族が、守るべきもののために立ち上がり、時代の奔流に立ち向かう、英雄譚の序章である。
そして、運命の歯車は、最も邪悪な手によって回され始める。
嫉妬と欲望が、人ならざる者を呼び寄せた、その日から――。
その1
第一章 悪魔の契約
玉座の間に満ちる空気は、死んだように静まり返っていた。
ラガン王国の絶対君主、【ラ・ムーンⅤ世】は、自らの心臓の音がやけに大きく響くのを聞いていた。無理もない。先触れもなく、衛兵の誰一人として気づかぬうちに、一人の女が玉座の間の中心に、まるで蜃気楼のように現れたのだから。
「私の名は【アエーシュマ】。あるいは、ダエーワとでも名乗りましょうか」
若く、妖艶な美貌。しかし、その声は数千年の時が磨いた黒曜石のように、深く、冷たく、そして硬質だった。王は言葉を失い、ただ目の前の異質な存在に圧倒される。本能が、目の前の女が人間ではないと告げていた。
「――貴様、何者だッ!」
沈黙を破ったのは、王国最強の騎士と謳われる近衛騎士隊長ザップラーだった。彼は王と女の間に猛然と割り込み、その巨躯で主君を庇う。鞘から抜き放たれた愛剣には、瞬時に灼熱の炎が宿った。
「王に近づくな、魔性の者め!」
怒号と共に振り下ろされた魔法剣が、空間を焦がす。しかし、閃光が迸った直後、玉座の間を満たしたのは甲高い金属音と、硬いものが砕け散る乾いた音だった。
信じられない光景が広がる。ザップラーの剣は、女に触れるどころか、まるで見えない壁に阻まれたかのように粉々に砕け散ったのだ。
「なっ…!?」
驚愕に目を見開くザップラーに、アエーシュマは無感情な視線を向けただけ。指一本、動かしてはいない。それなのに、ザップラーの体は背後から攻城槌にでも打ち砕かれたかのように宙を舞い、断末魔の叫びと共に王の頭上を飛び越え、遥か後方の壁に叩きつけられた。轟音と共に石壁が砕け、王家の紋章旗が塵となって舞う。
「ラ・ムーンⅤ世」
アエーシュマは、虫けらのように転がる騎士たちには目もくれず、大理石の床をゆっくりと歩み寄る。残された近衛兵たちが狂乱したように斬りかかるが、彼らの刃はアエーシュマの周囲に展開された半透明のバリアに阻まれ、虚しく火花を散らすだけだった。
恐怖に身動きもできず、ただ玉座にしがみつく王の目の前で、アエーシュマは足を止めた。
「お前がアンヘイムの富に嫉妬し、停滞する戦況に焦り、兵士たちの不満に怯えていることも、全て知っている」
見透かすような瞳が、王の心の奥底を覗き込む。
「そして、それらを解決する方法も」
アエーシュマは、悪魔のように甘美な声で囁いた。
「我に、お前の国の『狂気』を預けてみないか? 鬱屈した兵士たちを解き放ち、あの豊かな街を、血と炎で染め上げてやろう。さすれば、富も、兵士たちの忠誠も、全てがお前のものになる」
その日、ラガン王国は、人ならざる力と契約を結んだ。後にリバンティン公国を恐怖のどん底に突き落とすことになる狂気の軍団、【ブラッド・レイン】の誕生である。
――30年後、リバンティン公国、ワーレン侯爵領。
ノース大陸でも屈指の産出量を誇る魔晶石鉱山。その坑道から吹き抜ける風は、夏だというのに肌寒い。
一人の男が、カンテラの灯りを頼りに、発掘されたばかりの巨大な魔晶石の原石を検分していた。歳は三十代半ば。高価な貴族服ではなく、動きやすい革の作業着を身に纏い、その顔には鉱石の粉塵がうっすらと付着している。しかし、その鋭い眼光は、石くれの奥に眠る真の価値を見抜く力に満ちていた。
「…素晴らしい。これほどの純度のものは久しぶりだ」
満足げに呟く彼の名は、ロスコフ・ワーレン。
この豊かな鉱山を、そしてリバンティン公国西部の広大な領地を治める若き侯爵である。
彼はまだ知らない。遠い南の大国で交わされた邪悪な契約が、彼が守るべき民と、この国の平和な日常に、取り返しのつかない影を落とそうとしていることを。
そして、この国が未曾有の危機に瀕した時、戦乱の運命が、この現場主義の貴族を否応なく物語の中心へと引きずり出すことになるということを。
物語は、静かに、しかし確実に動き始めていた。
もし面白そうだと思われたら、続きもまた読んでみてください。