私は翻弄されたがっている?
帰り際に本を返そうとチラッとケイくんを見ると、仕事中だった。
あー直接返せないか、そう思った時タタッと軽い駆け足でケイくんが来た!
ケイ「ありがとうございます」
すっと手を出して私の手から紙袋を受け取ってくれた。
やっぱりかわいい
いつもはクールな目元が優しく笑っていた。
こんなほんの一瞬が嬉しくて、泣きそうになる。
帰り道、ケイくんのことばかり考えてしまう。
私、やばいなぁ…
魂は老化しないということを思い出し、恋心も老化しないのかと思いながら半分の月を見上げた。
普通にバイト先のおばさんが大学生に恋とかやばい。
その思いだけでも迷惑だし、万が一ケイくんといい感じにでもなったらもっとやばい。
不倫をするような勇気はない。
秘密の恋を持てるほど器用でない。
もしバレたら誰も幸せになれない。
まだ何も始まっていないけど、始まってしまったら止められる気もしない。
ないないづくし。
本当はかなりケイくんのことが好きになっている。
でも私から好きという言葉を、言ってはならないだろう。
きっと何も始まらないから、気をもむだけ無駄かも。
その日から、夜眠れなくなった。
眠っても2時間。
ずっと考えてしまう。
考えていたいことを考えてしまう。
どうしよう。
これは、独身の時なら普通に告白をしている心理状態だ。
でもそんなことできないのだから、考えるだけ無駄だと、自分にいい聞かせては泣きたくなる。
弱い心が情けなくて、眠れなくなる。
ケイくんの事が頭から離れなくなって10日。
目の下のクマも出てきた。
2日連続で身体がクタクタになるほど働いても眠れない。
さすがにこれではダメだと、病院に行った。
当然、医師には、大学生が気になりすぎて眠れないなんて言えなかった。
診察後に、眠れない原因は、ストレスや環境の変化と言う事になり、睡眠導入剤を処方された。
焦らずゆっくり生活する様に指導を頂いた。
もう考えたくないのに、ケイくんの事を考えてしまう。
眠れなくなるほどの気持ちをどうしたらいいのか。
芽生えた気持ちをなくすために、どうすればいいか…
もしも、
①気持ちを伝えて玉砕すると、人間性を疑われて職場に居られなくなる。
②気持ちを伝えて万が一付き合えたとして、不倫が始まる。しかしバレると社会的に信用がなくなり、職場に居られなくなる。
それに、もし夫にバレたらケイくんにも迷惑がかかる。
③バレなくても罪悪感で精神が不安定になる。
④ケイくんにおかしな性癖が芽生えるかもしれない。
⑤好きな気持ちを伝えないでいると、眠れない状態が続く。
つまり、好きな気持ちをなくさせる事が必要!
そのためには、
①自分からケイくんに嫌われて距離を置く。
②自分がケイくんを嫌いになるしかない。
そこまで考えて、ケイくんを嫌いになる要素を考えたが、思いつかない。
もう嫌われて距離を置くことしか、考えられなくなっていった。
本当は、嫌われたくない。
でも嫌われてしまえば、私も冷静な気持ちに戻るかもしれない。
ケイくんの将来のためにも、私がケイくんに嫌われる作戦を起こす事にした。
人に嫌われる事は本当はしたくない。
でも、嫌われた方がお互いを守る事につながると、その時の私は思っていた。
ケイくんが好きな事は、
スポーツ系のアニメや漫画
友情ものや世界系のジャンル
友人との付き合いも大切にしている
だれとでも仲良くというより、本当に仲の良い数人を大切にするタイプ
香水が嫌い
バイクも嫌い
犬も嫌い
天ぷらが好き
ブラックサンダーが好き
サッカーが好き…
何だかやっぱりケイくんが好き…
気づいたら涙が止まらなくなっていた
情緒不安定すぎて自分でも驚く…
ものすごく久しぶりに人を好きになれていたんだと、キラキラした気持ちが溢れてくる
それでも、この気持ちは
風に飛ばすか
海に沈めるか
炎で燃やすか
どうにかしないと心身がもたない
もう、ケイくんの友達の事を悪く言おう。
友人を大切にしているケイくんなら、きっと私を軽蔑して嫌いになるだろう…
出来るだけ自然に、悪口を言おうと考えながら洗濯物を畳み続けた。
ケイくんの友達でバイト仲間の長明くんは、三国志のキャラクターにいそうな力強い顔つきの明るい大学生だ。
時々エッチな冗談を男性同士でしている。
聞こえていないふりをしているが、本当はちょっと困っている。
話を振られたらどんな風に返すべきか…
以前もドキりとする事があった。
異性と話すエッチな冗談は苦手。
その事を、ケイくんに話す時に、長明くんをディスる感じで話してみようか…
うまく話せるか不安になるが、少し困っている事は事実だし、普通だったら私が少し我慢して話さなくてもいい事かもしれない。
普通だったら?
そう思ってハッとした。
普通ではないんじゃないか。
職場でエッチな冗談は、エッチな冗談が好きな人同士でだけしてくれていたら問題はない。
職場で、そういう話が苦手な人にも聞こえるように話すことは、話題を振ることは、普通なのか?
あー私って生真面目すぎる。
そういうエッチな話題が苦手すぎる。
感受性が強すぎる。
やっぱり生きづらいタイプ。
人をどうこうしようと思ってもしょうがない。
その人にはその人の考えがある筈だ。
そう思いながらも、
でももう令和だし、
コンプライアンスにみんなで取り組んでいる社会だし、
少し空気を読めない行動をとってみる?
ただ、この話を職場ですると、最悪居づらくなってバイトを辞める事にもなるかもしれない…
もちろんケイくんには嫌われるだろう。
友達を変態呼ばわりされたと思うかもしれない。
スムーズな会話の中で自然に話すことが大切。
それなら、冗談には冗談で返すスタイルでいこう。
もしエッチな冗談で話を振られたら、ディスる感じの冗談で返そう。
長明くんにも多分嫌われようになるだろう。
全然2人とも嫌いではないし、嫌われたくもないけど…
本当にごめんなさい。
できたらケイくんと長明くんがいる時がいい。
そんなタイミングの良いことが、次のシフト日に起こった。
ケイくんに嫌われる作戦の全貌は…
友達を大切にしているケイくんに、友達がセクハラな発言がある事を伝える。
ケイくんが友達を否定されたと思い、友達を庇い、私を軽蔑する。
そして私を嫌いになる。
それがこのミッションのあらすじ。
このような流れで話が進めばいいのだが。
数日後、長明くんとケイくん、上司、私の4人のシフトの時に、そのチャンスがやってきた。
「そういえば私さんのことを長明がこの間変に言ってたんだよねー」
まさかの上司による発言!
長明くんが私の噂をしていた爆弾が投下された!
「えっどんなですか?」
私は恐々長明くんに聞いてみた。
近くではケイくんも仕事をしながら聞いている。
「何の事ですかな〜」
目を若干泳がせながら長明くんはとぼけて見せた。
「あれだよ、あれ!」
「何の事か分かりませーん」
上司と長明くんのとぼけ漫才のようなやりとり。
しかし明らかに不快な発言があったような匂わし…まぁ時々エッチな冗談聞こえてきてますから…
「えー聞きたくない!言わなくていい!」
大袈裟に両耳を手で塞いで冗談ぽく嫌がって見せた。
「セクハラ裁判開廷するぞー!」
さらに冗談ぽく言ってみた。
するとムッとした長明くんが、
「僕法学部だから負けません。」
空気が冷える。
冗談でない雰囲気に…
冗談通じない感じに急になるのはなぜ?
結果、普通に長明くんに嫌われただけ。
ケイくんはふーんみたいな顔で見ている。
あー人間関係って難しい。
その後、長明くんとは、仕事以外の会話0になった。
これって私が悪いの?
何なんこれ?
普通に職場環境が悪化しただけだった。
あー禿げそう…
きっと今夜も眠れないよ…
1人反省会だよ。
今回の作戦は失敗!
ケイくんに嫌われる事で、自分の恋心を消そうという作戦は、ただ長明くんに嫌われただけで失敗に終わった。
ひょっとしたら、長明くんに嫌われた事で、ケイくんにもこれから嫌われるかもしれないから、完全な失敗ではないかもしれない。
何してんだろう私。
恥ずかしい。
自分の気持ちのコントロールをできない事を、他人を巻き込んでどうにかしようとした。
ものすごくバカな事をしていることに気づいた。
恥ずかしい。
もう恋とかそういう問題ではないのかもしれない。
長明くんやケイくんに対して、思いやりが足りなかった。
私の気持ちって私がどうにかするしかない。
ただケイくんの事をずっと考えてしまう事が苦しい。
多分、恋することは別にいい。
人を巻き込んで迷惑をかけなければ、別にいいと思う。
ただ思うだけなら自由。
思うだけなら。
思うだけだから苦しい。
思うことしかできなくて苦しい。
だから、思いを無くしたかった。
頭を思いっきり打って、記憶喪失になりたい。
そういえば、高校生の頃付き合った彼がバイク事故で記憶喪失になった事を思い出した。
高校生の頃の彼氏は、同い年の他校生でバイクに乗っていた。
私も通学のため学校から許可を得て乗っていたので、意気投合してよくツーリングに大勢で出かけた。
温泉地や山道を何台ものスクーターやバイクで走って、お土産に買った大きなお饅頭を山頂のタワーでみんなで食べたっけ。
そんな彼が、夏の夜に1人で人気のない田んぼでバイクごと跳ね飛ばされていた。
単独かどうか、事故の原因は分からず、意識が回復するまでの3日間は本当に地獄のような気持ちだった。
泣いて泣いて泣いて、このまま死ぬんじゃないかと泣いた。
4日目の下校途中に病院に立ち寄ると、花柄ワンピースのロングヘアーの彼ママが、大喜びで教えてくれたっけ。
意識が戻ったって…
全く私の事や家族の事も忘れている彼が、生きててくれただけで良かったと思った。
もちろん記憶喪失だから、事故のことも分からなかった。
彼はしばらく入院していたら、少しづつ記憶が戻ってきた。
だけど、私との思い出は半分くらい忘れていて、性格も何だかキツくなって、命令口調っぽくなって、私は本当に困惑してた。
一緒に聞いたあの曲も、誕生日プレゼントにくれたあのマフラーも、全然覚えてなかった。
高校生の私には、色々キツくて…
特に入院中にかわいい看護師さんのファンになったと友達と騒いでいる彼を見た時に、スーと心が冷えて…
前とは違う感じになった彼を好きでいられる自信がなかった。
退院しても看護師さんに数人で会いに行ったと聞いた時に、別れを伝えた。
泣いて縋られたけど、泣く気持ちが分からなかった。
だって看護師さんにキャッキャ言ってたじゃん。
私には何だかよそよそしいのに。
本当は、私の事ちゃんと思い出せてないんじゃないかと思ってた。
きっと彼は、記憶の中にない、知らぬ間にいる彼女なんて、好きになれなかったんだと思う。
急にできた彼女なんて、誰それってなる。
きっと私は、そんな状態になりたいんだ。
ケイくんって誰それ?っていう気持ちに。
記憶喪失…
ケイくんの事を忘れるのは、嫌。
好きだという気持ちのコントロールができない事が、問題なんだ。
もし、夫が職場の女の子にこんな気持ちになっていたとしたら…
そう想像した時に、そういえば以前職場の女の子の事を色々言ってた時期があったと思い出した。
仕事ができてかわいいとか、お母さんが亡くなってかわいそうだとか…
何の嫉妬も出てこない。
何だったら応援したいくらいだ。
夫への気持ちは、恋とか愛とかではなく、もう家族としての何かに変わっている。
兄弟のような、同志のような…
もう好きという気持ちではない。
夫婦は、別れられる家族だとドラマで言っていた事を思い出した。
夫と別れてもいいと思う。
ケイくんの事は関係なく、別れてもいいと思う。
もう一緒にいる事に飽きている。
そんな夫への気持ちを考えていると、いつかこのケイくんへの気持ちも消えていくのかもしれないと気づいた。
スーと気持ちが落ち着いた。
そうだよ、好きな気持ちもいつかなくなるかもしれない。
どんなに今好きでも、
いつかはそれが日常になって、
なんて事ない気持ちになって、
飽きてしまうのかもしれない。
20年でそんな状態になっている。
私たち夫婦は、いつまでも思いやりをお互い持てる関係を築けなかった。
長い間一緒にいても、分かり合えない事があるのは当たり前だけど、それでも一緒にいたいと思えなくなった。
1人になりたい。
このまま我慢してずっと一緒にいたくない。
友達を作るなって言われたくない。
家族の事だけ考えていたくない。
私の幸せってなんだろう。
生まれてきた使命ってなんだろう。
死ぬまでにしたい事って、いくつ実現できるんだろう。
そこまで考えて、やっと分かった。
ケイくんの事を大切に、本当に大切に思っている。
だからこそ、私みたいなおばさんと時間を過ごす事はしない方がいいんだ。
ほんのちょっと人生が交わっただけなんだから、すぐ彼も大学を卒業してどこかに旅立つのだから、一瞬一瞬がとても大切なんだから。
ケイくんとの楽しい時間は、同僚としての大切な時間としてすごそう。
いつかはなくなるこの気持ち…
そう思えば、もう悩まなくていい。
やっと自分の気持ちが、ピタッと型にはまるような感覚。
ふぅっと肩の力が抜けた。
もう悩まなくていい…
どれだけ私は、翻弄されてるんだろう。
色んな事に敏感になりすぎていた。
刺激的な職場で気持ちが舞い上がっていた。
出来るだけ長く勤めたいと思っているから、もっとゆったりした気持ちで過ごそう。
大学生の彼らは、1年か2年でいなくなったり、途中で辞めたりするんだから、一緒にいる時間を大切にしよう。
彼らのために、自分のために。
自然と笑顔になっていた。
やっと私が今やるべき事が分かった。
それは、不倫ではなく、大学生に恋することでもない。
それは、自分の人生を豊かにしてくれるまわりの人を、大切にすること。
大切にしよう。
無視されても、嫌われても、連絡がなくても、会えなくても、何があっても、何もなくても、ただ大切にしよう。
みんな大切な存在。
「映画行きたいんですよー」
洗車しながらケイくんが言った。
色々落ち着いた気持ちにはなったが、昨晩も一睡もできていない私は、投げやりに
私「行けばいいじゃないか!」
ケイくん「一緒に行きますか?」
私「一緒に行けばいいじゃないか…」
えっあっ!私言い間違えた!変な事言った!
ケイくん「行きましょう!」
ぇえぇえぇー!
話題の映画に行く約束を、寝不足の頭でしてしまった。
私「じゃあ…そうしようか」
ケイくん「はい!」
ニコニコケイくんが嬉しそうに笑う。
もう!好きな気持ちが増えるでしょう!
ただやっぱり2人はまずいかと思い、その映画を観たいと言っていた高校生の娘も一緒に行く事になった。
ケイくんと娘の推しキャラが同じだという事もあり、話が盛り上がるかもしれない。
うん、それなら一緒に行ってもきっと社会的に見て大丈夫。
色んな言い訳をしながら、映画の予約方法を検索していた。