四言目
「久しい、久しいな。驚くほどにお前は変わらない」
彼女はベットから体を起こし、薄黄色の着物を正すと笑った。
「あなたも代わりないわね、もう五十年も経つというのに」
「もうそんなに経ったのか」
クスクスと彼女は微笑んだまま、急須にお湯を入れる。
「そんな訳ないじゃない。十年よ、十年」
「…………」
白い一人部屋の病室。窓に白いカーテンが掛かり、優しい風が部屋に吹く。
悪魔はグリーンのパイプ椅子に座り、彼女の顔をじっとみると抑揚のない冷たい声で言葉を発した。
「人の医者はなんといった?」
「原因不明ですって。まあ、当然よね」
彼女はそういって目尻を緩ませて笑った。
笑い方一つとっても品があり、家柄がうかがえる。彼女は彼にお茶と側の棚から羊羹を出た。
悪魔は差し出されたそれには手をつけず、じっと動かず彼女を見つめたままだった。
「人の身に起る病ではないということか。イナリはなんといった」
「人と獣の回路がどうとかいっていたわ。私には正直、話し方が難しくて全然。天狐様といい空狐様といい、彼らって何であんなに仰々しい喋り方するのかしらね?」
彼女はお茶を息吹で冷まし、ゆっくりと飲んだ。悪魔はじっとその言葉を聞き入っている。
一息つくと彼女は窓から外を眺めた。
辺りは木々に覆われていて自然が多い。延々と続く田園地帯が端に見える。
「結局、貴方の言ったとおりになった。本当に人は人ね。何かがそれになろうとしても、近づこうとも完璧にそれになることはできない。なったとしても何処かでガタが来る。ああ、でも子供はれっきとした人間よ? そこは化かされた貴方に感謝しないと。混ざり物はあっちでもこっちでも得しないもの」
「然子、戻りたければいつでも戻してやる」
彼女は彼の言葉に目を見開いて驚く。
どこか意外そうに。どこか信じられないものを見るように。
「それは……タダで?」
「無論だ」
ゼンコと呼ばれた女性は破顔すると胸元からキセルを取り出し、指を鳴らして火を点けた。
禁煙だから内緒よ、と彼にいうと胸一杯に煙を吸う。
旨そうに煙を吐き、悪魔の顔をみる。
「貴方がタダで物事を引き受けるなんて珍しいわね。人間には命せびってるって聞いてるわよ?」
「お前は例外中の例外だからだ」
「それだけ?」
「これ以上を俺の口から言わせるのか?」
然子はグリーンの瞳を面白そうに見つめて紫煙を吐いた。ベッドの上に十字架の煙が浮き上がり、それは彼に近づく前に霧散した。
「……折角だけど優し過ぎる貴方の申し出、断らせていただくわね」
「それは、父の為か?」
「無論それもそうだけど、私は持前然子なの。死ぬなら然子として死にたいわ」
視線を顔全体から彼女の両目に合わせ、彼はいう。
「お前は俺を化かしたあの男の娘だ。人として死ぬには惜しい。もっと長く生きたいと思わないのか?」
その言葉に彼女は老獪な笑みを見せ、咽る。そして胸を叩きながらお茶を飲んだ。
キセルは既に手にない。
「貴方が私をここまで褒めるなんて珍しいわね。化かそうとでもしてるのかしら?」
悪魔は微動だにせず相変わらず冷たい目で彼女を見つめ続けた。
彼女はその目をみて少し悲しそうに喋った。
「……貴方を見てると長く生きることは幸福じゃないんだって分かる。それに私は父上ほど才能もないわ。そりゃ先々々代は凄かったらしいけど、今じゃこんなあたしの落ちぶれ善狐の血しか残ってない」
「では何故、山を残している」
「意地……かなぁ。折角旦那が残してくれるっていうんだし、私もあった方がやっぱり嬉しいのよ」
静かに彼は席を立つ。然子は彼を見上げ、首を傾げた。
カーテンが緩やかに踊り、部屋に風が吹く。
「あら、もう帰るの? 貴方って相変わらずせっかちね。真紅の魔女もきっとそういったんじゃない?」
「そこまであの男が恋しいか」
彼女は微笑み、目を瞑る。
「ええ、勿論」
「何が……そうさせる?」
彼女はその言葉に嬉しそうに語る。
まるで自分のことのように、自分の手柄のように微笑んで語る。
「あの人、猟師の癖に罠に掛かった生き物を助けちゃうのよ? おかしいと思わない? それも代々そういう家系なの。しかもでっかい山持ってるのに貧乏なの。それを売れば一生楽できるっていうのに、売らないであたし達よりも質素な生活してるのよ? 修行中の坊主もびっくりよ」
「奴自信に惚れたのか? それとも助けられたから惚れたのか?」
然子は少し頬を赤らめて下を向く。目じりは“弧”を描き細くなる。
「両方ね。だから最初はおとぎ話よろしくで行こうと思ったけど、誓いは厳しいし子供は混ざり物だし、いつかそれは雪解けみたく解けちゃうっていうじゃない。だから父上に相談したのよ、そうしたらこうなってたってところかしら」
悪魔は帽子を目深に被り、思い出す。どこからどうみても完璧な人間がいった一言を。
――私の魂と引き換えにこれを人間にして頂けませんか?
「俺の知人に人間の結婚など幸せでないという者がいる。然子、お前は幸せか?」
「幸せよ」
彼は振り返り、少し頬を歪めた。彼女もそれを見て笑う。
「ならば俺はお前に言わなくてはならない。お前の魂がほしい、お前の魂がほしい。変わりに願いを叶えよう」
「やっぱり貴方は優し過ぎるわ」
どこか憂いの瞳で彼女は悪魔を見つめる。
「何を夢見る?」
「決まってるじゃない。私が死んだら魔法が解けちゃう。だからそうならないように、持前然子のまま、いざなってちょうだい」
「ああ、分かった」
「あとコレを夫に渡してもらえるかしら? 渡せばあの人でも理解できるはずだから。もしかしたらあの人、気づいてるかもしれないけどね」
「いいだろう」
何かの毛で作ったキーホルダー。それを彼は受け取る。
彼女は横になると小さく息を吐く。急速に体が冷え始め、体から力が抜けていった。
彼女は目を瞑り、小さくか細い声で囁く。
その言葉は彼にしか聞こえない。
「ああ、これが人の死なのね。凄く緩やかで…………暖か、い」
言葉が終わると同時に悪魔は指を鳴らす。すると彼女の口からガラスの破片ほどの小さな粒が出た。
七色に光り輝くそれを取ろうと悪魔は手を広げた。
「……………………」
途中でその手は止まり、彼女の差し出したお茶に向かう。
掴み、それは口に運ばれた。
ダージリン。
「女狐め」
光の欠片は気がつけば何処かに消え失せていた。
悪魔は帽子を被り直し、独り言をいう。
その言葉は彼以外の誰にも届かない。
「消えてしまったのならしょうがない。しょうがないな」
悪魔は去りました。
もう気づいてる人もいるかもしれないけど、全部違う書き方(方法?)で書いてます。
で?とか言われたら「特に何もないよ」としかいえませんが。