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二言目

「飯をくれ。お前が本当に慈悲深き神の信徒であるなら俺に飯をくれ」

 男は戸の向こう側で静かにそう言いました。木製の戸の向こうから透き通るような声が響きます。

 こんな時間に誰だろうといぶかしみました。祈りを止めて礼拝堂の扉に近づきます。

 一応年頃の彼女はどこもはしたなくないようにと、長い髪を撫で付けます。喉を整え、よく通る声で扉に向かって声を出しました。

「いいでしょう。迷える子羊よ。神はどんなものにも慈悲をお与えになります」

 重い扉はゆっくりと開かれ、黒いスーツに黒いソフト帽子を被った男が姿を現しました。

 シスターは身なりのいいこの男が飯を求めていることに疑問を抱きました。

 物取りでしょうか。それとも、暴漢かしら。それとも物の怪の類かしら。

「さあ、どうぞ。お入りなさい」

「いや、俺はここでいい」

 シスターは微笑みました。

 きっと彼は人ではない。ちらりと見えた帽子の向こう側がそれを彼女に教えていました。

 グリーンの瞳の人間など見たことも聞いたこともない。

「神の家に入ることができない……貴方は悪魔ですか?」

 悪魔はばつが悪そうに眉をひそめます。諸手を上げて卑屈にそれを否定しました。

「俺はただの人間さ。悪魔なんてとんでもない。それにそう、悪魔が人間に施しを受けると思うか?」

「確かにそれは奇妙ですね。では主の御名において貴方の名前をいいなさい」

 ぐっと息を呑んだ悪魔は、辺りに視線を這わせて観念したといった風に溜息をつきました。

「わかった、わかった。降参だ。俺は悪魔だ」

「よろしい。正直者には暖かいシチューを」

 シスターはにっこりと笑い悪魔にシチューを差し出しました。

 

 礼拝堂の前、階段の踊り場で二人は腰を据えて夜空を眺めていました。辺りは薄暗く、明かりといえばちらほらと光る街灯と空に浮かび上がる小さな星々。

 悪魔でも腹を空かせるのかとシスターは笑みを浮かべました。

「ねえ、貴方は何でこんな田舎に? 何か目的があるの?」

「目的なんてものはない。ただ人の欲を満たし、代わりに魂を頂いてる」

 悪魔はシスターを見ることなく、パンを口に放り投げました。

「いいわね。私もいつかそんな当ての無い旅をしてみたいわ」

「何を悩んでいる。悩みなら俺が聞いてやろう」

 シスターは目を見開き、次に笑いました。悪魔は自分が馬鹿にされているのかと眉をひそめます。

「ふふふ、ごめんなさい。でもね。でも、シスターが悪魔に懺悔するなんて不思議な話じゃない?」

「……ふむ、そいつはそうだな」

 悪魔はスプーンを咥えながらにやりと頬を歪めます。シスターは冗談めかして目を瞑り、神に縋る様に両手を組みました。

 彼女がシスターだからでしょうか、それはなかなか様になっていました。

「懺悔を聞いて下さい」

「ああ、聞いている」

「悪魔が名前を教えてくれません」

「他には?」

「パンが五つしか喉を通りません」

「他には?」

「そう…………ですね。この教会は……いいえ、それだけじゃないわ。この孤児院は今にも取り壊されそうなのです」

 急な彼女の真剣な口調に悪魔は、身を引き締めました。

「……ほう、それで?」

「本部に連絡を取り、司祭様に資金の援助を頼みました」

「……それで?」

「司祭様は特別扱いはできないと申されたのです」

「……それで?」

「そうされたくば、お前が持っているものを差し出せ、と」

「お前は……シスター。美しいお前はその意味を分かっているのか?」

「ええ」

 美しく賢いこの娘はその司祭の言葉に意味を理解しているというのです。

 悪魔は魂を取って終わり。

 しかし人間はその身すら食い潰す。

「神に縋らず、神の権威に縋る生臭坊主の生贄になるというのか!」

 悪魔はその悪魔のような司祭に怒りを覚え、吼えました。まるで地響きのような低いうねり声にシスターは少し驚きました。

 シスターは目を開けて微笑みます。彼が自分の為に怒ってくれてくれているのが嬉しくて自然と笑みが零れました。

 それは満月のように、夜空の瞬きのように美しく、輝いていました。

 

「それが信仰です」

 

 悪魔は食器を床に置き、シスターの瞳を正面から見つめます。エメラルドのようなグリーンの瞳が鈍い光を放っているように彼女には見えました。

「飯のお礼だ。お前が望むなら自由にしてやろう」

「あら、そんなことができるの?」

「自由をやろう。美しい世界への自由を。向こうの山の越えた紺碧に空を映し出す海を。向こうの山の越えた赤々と炎のきらめきにも似た、燃えるような紅葉を。向こうの山の越えた月光と星々の輝く銀世界を」

「素敵ね。でも私にはとっても贅沢で身に合わないわ。悪魔さん」

 シスターはそういって微笑みながら首を振りました。強く強く、首を振りました。

 何故だと問う、悪魔に彼女は答えます。

「私がいなくなれば子供たちが悲しむわ。それに私がいなくなれば変わりの誰かが連れて行かれるの」

 答えが見えているからでしょうか、悪魔は苦しそうにいいます。

「……ならばお前の魂を差し出せ。金だろうと自由だろうと司祭だろうとお前の望むままに変えてやろう」

「貴方は見かけによらず大悪魔なのね。でもいいわ、神の子たる人が悪魔と契約は結んではいけないから」

 悪魔は帽子を目深に被って立ち上がりました。そして重々しく彼女に言います。

「いいのか、苦行だぞ。苦痛だぞ。きっとそれは苦界だぞ」

 シスターも立ち上がって微笑みます。

「いいえ、これは試練よ。神が私たちに与えたもうた試練」

 彼は帽子を押さえながらシスターに強く硬く言います。

 それはさながら説得するかのように。彼女を案ずるかのように。

「救わない神を信じ。存在しない神を信じ。奇跡を起こさない神を信じ。お前は手を差し伸べる悪魔を笑うのか」

「そんなことはないわ。神は奇跡を、手を差し伸べて下さったわ。私はそれがあればこの先、どんな苦難が待ち受けていようと耐えていける」

 悪魔は静かに一歩、階段を降りました。コツリと心地の良い靴音がします。

「神がだと? 一体どんな奇跡を差し伸べた? 神はいつだって心優しい美しいものを刈り取っていくだけだ」

「……私にやさしい悪魔との出会いを結んでくださったじゃない。私に神がいるという証明の悪魔(あなた)をここに運んで下さったじゃない」

 悪魔は少し沈黙し、静かに言いました。まるでそれは詩を詠うようにどこか美しさを伴っています。

「……お前の為に雨を降らそう。自由の雨を。潮風を運び、紅葉を映し出し、雪解けの雫の雨を降らそう」

 彼女はその言葉に酷く悲しそうな顔をしました。でもどこか嬉しさも混じったような複雑な表情。

 それは悪魔をいとおしむような、彼に感謝するようなそんな表情。

「私知ってるわ。悪魔は泣かない」

「そうだ」

「だから悪魔は悲しい時に雨を降らすのでしょう?」

「…………」

 シスターは微笑みます。そして彼のために逆の十字を切りました。

「貴方に神のご加護がありますように」

「さようなら」

「ええ、さようなら」

 シスターは手のひらを空にかざして雨を待ちます。空を眺め、零れ落ちる雫を待ちます。微笑み、じっと耐えます。

 自身の涙が零れないように。自身の涙を誤魔化すように。

 今か今かと天から降りそそぐ、冷たくて暖かい涙を待ちました。

 

 悪魔は去りました。

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