一言目
本来は短編の予定だったのですが、書き留めていた続きを発見したので連載に変更しました。
評価してくれた方々並びに、お気に入りにしてくれた方々に謝辞を。
「お前の魂が欲しい。お前の魂が欲しい。魂と交換に願いを叶えよう」
悪魔はそういいました。どこか甘く、どこか優しく、恐ろしい声で。
轟々と音を立てて窓の近くをトラクターが過ぎた時だったでしょうか。よく知った声色の看護婦さんが私の部屋に彼を招き入れたのは、ほんの数分前のことのように思えます。
もう春の中頃だというのに、まだ空気はしんとしていて、毛布と掛け布団だけでは寒いように感じられました。
小さく咳払いをする私を気遣う看護婦にしびれを切らした私は、ついに耐えかねて訪ねました。彼はずっと沈黙を友としているのです。
「ねえ、看護婦さん。兄はどんな格好をしているの?」
看護婦さんはもったいぶった様に笑いました。その笑みというのは家族に会えたことが嬉しがってる少女に向けたものなのでしょうが、実際はいもしない兄をいぶかしんでいる私には些か……そう、不快でした。
「そうねぇ……背丈は高くて、黒いスーツと黒いソフト帽子、黒いネクタイに黒い靴。シャツだけはびっくりするくらい白いわ」
「まるでお葬式ね」
私の冗談に看護婦さんがはっと息を呑んだのが伝わりました。私はその様子を不快に感じるだとか、うろたえるというよりも、やっぱり私は余命幾ばくもないということを何とあなしに感じられて寧ろ、心が落ち着くのを感じました。
正直に私の寿命はどれくらいなのか、と聞いたところで曖昧な言葉が返ってきたり、ありもしない希望を持たされて最後に辛い思いをするくらいなら、はっきりとお前は死ぬのだと突きつけられた方が心にゆとりができるというものです。
私は辛いというよりも寧ろ清々しいというのに彼女は酷く申し訳ない気持ちでいっぱいらしく、沈んだ声で無理をしないようにと決まり文句をいいました。
「じゃあ、私はこれで……」
「ねえ、今日もお山は綺麗?」
「…………ええとっても」
取り残された彼はじっと何かを見つめているようで一言も喋りません。ここから見えるものといえばこの孤独な病室と私、それに窓から見える雄大な山でしょうか。
この病院から少し離れたところには、私が生まれるずっと前から大きな山があって、入院する前は、よく家族でその山へとピクニックに出かけたものでした。
山から見下ろすこの田舎町の景色は本当に美しく、広大で、ゴッホの絵のように力強い輝きを持っていました。夏の青い草木の香り、秋の燃えるような色づかい、冬の物々しい侘しさ、春の暖かな土の香り。どれもが懐かしいです。
三歳の頃に家族で山頂に蒔いたアジサイはどうなっているでしょうか。最後に見た赤紫色の花はあれからどうなったのでしょう。
窓から入る柔らかい風が頬を滑り、私の髪を揺らすのを感じます。先ほどから一言も喋らない見舞い客に私は少しじれったく思い、少し強い口調で訪ねてみました。
「私に兄はいないのだけれど、あなたは知っていましたか?」
「いいや」
「あら、そちらにいらしたの」
表情は冷静を保っていましたが内心酷く狼狽えました。彼はずっと私の足元、つまりはベットの端の方に立っているとばかり思っていたからです。
聞こえるはずの方角から低くも高くもない囁きが聞こえたものですから、本当は悲鳴のひとつでもついて出そうなものですが、強い口調で喋った手前、そんなみっともないことは私のプライドが許しません。
彼はいつの間にか私の傍に腰掛け、じっと私を見つめている。何か私は蛇に睨まれたように焦燥に駆られ、掌がじっとりと汗ばむのを感じました。
何か圧力を感じる視線から逃れたい私は空気を変えるためにも、彼の目的を知る為にも言葉を紡ぎます。
「あなたは一体何者ですか?」
「俺は……悪魔だ」
悪魔。どういう意味でしょうか。私には全く検討がつきません。
「……その悪魔さんが一体私に何のようですか?」
そうして悪魔はいいました。どこか苦く、どこか厳しく、優しい声で私に囁きました。
「お前の魂が欲しい。お前の魂が欲しい。魂と交換に願いを叶えよう」
そう告げられた瞬間、私の周りを包む空気は鋭く冷え切って、全身に鳥肌が穿ちました。窓の外からは鳥がここから逃げ出すように羽ばたく音が聞こえます。
目の見えない私にも本能的にそれが人ならざる何かであると感じられました。何故わかるのだと説明を求められたら、酷く困るでしょうが、恐らくは私が死の淵に片足を浸しているからでしょう。
「願い……」
私はその言葉を口の中で転がしながらじっと考えます。願い事――叶えたい思い。叶えたい夢。
きっと彼は本当に私の命と引き換えにありとあらゆる夢を叶えてくれるだろうという奇妙な確信がありました。本能的なものです。
彼は本当に悪魔で私の願いを叶える力がある。私は必死に怖気る肌に震えながら自分の夢を、欲望を、小さな脳で考えます。
そして考え抜いた末に出た答えは酷く単純なものでした。
「……私には何にも叶えたい願いなんてないわ。魂を掛けるくらいなら私は家族の幸せを祈っていた方が幸せよ」
全てを熟考した結果、私に魂を掛けるほどの願いは無いのだと思いました。欲が無いというわけではないのでしょうが、それを叶えるのは別に今ではくてもいいし、望めばすぐにでも叶えられる夢でした。
単純にいえば百円と十円が二枚あれば自販機で好きな飲み物を買えるし、テレビのコマーシャルでやっている美味しそうなチキンだって、お見舞いにくる家族に前もって言っておけばいいのです。私の好きな山だって看護婦さんに頼めばその様子を教えてもらえる。
隣の悪魔はそこにいるのかどうかわからない、曖昧な状態で何も言わず私を見つめ続けました。私にはそれが急かされているように感じられて、何度も見えていない目で彼の顔色を窺おうと探りました。
彼は私を罵るように冷たく、低い声で笑いました。
「お前に願いがないだと? そんなちっぽけでボロボロのお前が、重症のお前がか?」
何であなたにそんなことまで言われなければならいのだと、私も少し悔しくなって言い返しました。
「それでも家族がいるだけで十分幸せよ。今度あそこの山に生えているアジサイを持ってきてくれるの。この幸福さは家族のいないあなたには分からないわ」
悪魔はにやりと頬を歪めました。目の見えない私にも何となく彼がそうしたのが分かりました。
「お前だってわかっているだろう、今日で工事は終わりだ。だから俺はここにいる」
その濡れた刃のような言葉に私はぞっとしました。だけれど私にはどこかの工事が終わろうが全く関係の無いことでした。
反論のできないでいる私を畳み掛けるように悪魔はいいます。
「それではお前に足をやろう。野山を駆けることのできる丈夫な足を」
私は答えます。
「足があったって手がなければ起き上がれないわ」
悪魔はいいました。私は答えます。
「ならば手をやろう。何でも掴める器用な手を」
「手があったって目がなければ何も掴めないわ」
悪魔はいいました。私は答えます。
「ならば目をやろう。全てを色鮮やかに見通す目を」
「足がなければ外を見通すこともできないわ」
悪魔はくたびれたように笑いました。私もどこかこの押し門等を楽しんでいるような気持ちになって少し頬が歪みます。
「じゃあ何が欲しい。お前は何が欲しいんだ」
「私に欲しいものなんてないわ。家族が幸せであればそれでいいの」
本心からでした。父と母と弟が幸せなら私はそれでいいのです。悪魔はまるで普通のことのような口調で言いました。
「もうすぐお前は死ぬのにか?」
「……ええ、死ぬわ」
分かってはいるのですけど、いざそれを宣告されると体を何か気味の悪い物が突き抜けていくような気になって酷く落ち着きません。看護婦さんの時とは違う確かな何かに震えが、鼓動が高鳴るのが、止まりません。
私はその言葉を誤魔化すように深く、とても深く深呼吸をしました。それをみた悪魔は優しく囁きます。
どこか選ぶように。どこか気遣うようにして悪魔はいいました。
「ならば夢をみたらどうだ? 健やかで甘美な夢を」
私はクスクスと笑いました。彼は何故私が笑っているのか理解できず、どうしたと疑問を投げかけます。
悪魔の癖に人を気遣うという事実に私は笑いを隠せませんでした。
この優しい悪魔なら構わないかもしれない。
「……私のね、私のお父さんの会社は火の車なの」
お父さんの丸まったお腹と分厚い眼鏡が脳裏をかすめます。
優しくて綺麗なお母さんに野菜もちゃんと食べなさいと怒られていたのを思い出しました。
「ほう、それで?」
「私が死ぬと両親にお金が入るの」
二人はとってもお似合いで、笑うととても綺麗で、私も将来はあんなお母さんになりたいと思っていました。
「……それで?」
「弟は食べ盛りなの」
好き嫌いのない弟。私よりもずっと力が強いのに私に喧嘩で勝てない心の優しい弟。
「……それで?」
「それだけ」
「…………」
悪魔は黙り、私は笑います。
ゆっくりと彼は嘆きかけました。
「お前の魂が欲しい。お前の魂が欲しい。魂と交換に願いを叶えよう」
悪魔はそういいました。でも私はこう答えます。
「私に願いなんてはないわ。家族の幸せを祈るだけよ」
そう言い切ると彼は小さくため息をついて立ち上がりました。革靴のカツリという心地よい音が部屋に響きました。
私は見えない目で悪魔の方向に顔を向けます。そうすれば見えない彼の姿が見えるような気がしたから。
エメラルドのような深い緑の瞳、彫りの深い綺麗な顔、喪服のような黒い服。それらがそうすれば見えるような気がしたのです。何も映らなくなった私の瞳に映るような気がしたのです。
「……必死で決死のその意思に手を引こう。それでは楽しい会話のお礼だ。今日は雨を降らそう。お前の為にとびっきりの雨を」
「きっときっとそれは美しいのでしょうね。銀色で、両手いっぱいの雨が野原に降り注ぐのでしょうね」
キラキラと光に輝き、草木に弾かれ、土に消えていく。そんな儚く、脆い美しい雨。
もしも私に目があれば、山にかかる銀色のカーテンを見れたのでしょう。もしも私に目と足があれば体一杯に雨を浴びれたのでしょう。もしも私に目と足と手があれば沢山の雫を両手で掴み、踊ることができたのでしょう。
だけど私には、それはもうずっと前からない。
「そうさ、生物は歌い。植物は謡い。心は謳う。そんな雨をお前の為に降らそう」
私は痛む唇を無理やりに持ち上げて悪魔に答えました。
「ありがとう……そしてさようなら」
「ああ、さようなら」
カツリと革靴の心地よい音が聞こえました。私は言葉を零すようにして紡ぎます。
「山は……山は今日も綺麗かしら?」
「…………ああ、とても美しいよ。お前の手のように。お前の瞳のように。お前の足のように」
その例えがとても変わっていたからでしょうか私はまたクスクスと笑ってしまいました。
「明日も来てくれるの?」
「…………ああ、お前の魂を貰いに訪れよう。きっときっと」
「うそつき」
私は笑い、悪魔は何も言わずにコツコツと音を立てて去りました。
私は外を見つめ、外の静寂を。外の喧騒をまだかまだかと待ちました。
悪魔は去りました。