逃げるが勝ち
「おい、何とか言えよ!」
長い回想に耽っていたら、腕白小僧上森が現実に呼び戻した。
顔を上げると相手は前の机に腰を下していて、両サイドに手下2人が控えている。囲まれた時よりは離れてくれてよかった。
そして更に一歩離れたところに、4番目の男、近藤彰吾が立っていた。
どっと安心した。
私の憧れの相手。学校全体の憧れかもしれない。すらりとした爽やかな容姿をして読モでもやってそうなのに、目標に向かってコツコツ努力する姿を知っている。
近藤君ならバカなことはしない。これは惚れた欲目じゃない。
甲子園を目指す野球部が不祥事を起こさないのと同じ。近藤君には夢があるから。
「公立高校学区外入試は特別枠、下手な私立より競争率が高い。勉強もできりゃ、ヒイキもされるってか、僻地者のくせに」
橋本参謀はどうでもいい私のことなんかを皮肉る。私の存在が気に入らないのだろう。
「どうやって手下につけたの? 多田、体育の時間もアンタを見てて気持ち悪いんだよね」
腰巾着瀬田はその手の話が聞きたい様子。
――こっちだって教えてほしいよ、一度腕に支えた(抱かれたわけじゃない!)だけで先生その気になっちゃってるとか……?
「で? なんでサポーターしてんの?」
多田より高い、190近い身長から初めて低音が響いてきた。
――近藤君の声!
学校の期待の星、全国レベルの陸上部のホープ、スレンダーな走高跳び選手の近藤君。高校入ってすぐの5月の県総体で新記録更新、インハイ確実とささやかれている。
「今日は、部活は?」
口を開いたら、胸に巣食っていた質問が勝手に飛び出した。
「いいだろ、サボっても……」
くいっと顔を背けて、訊かれたくないことだったみたい。
「やっぱ多田とできてんの? 彼氏が顧問だから部活にも口出すって?」
リーダー格の上森は思ったより恐い顔で睨んだ。
「許されない関係ってヤツですかあ〜?」
こっちの腰巾着のほうが、ウザい。
そこへ教室の前のドアがガラリと開いて怒声が聞こえた。
「おまえら、何している!」
噂の多田先生だった。
鞄をむんずと掴んで男子のいないほう、後ろのドアに走り出た。途中で多田の「早坂、大丈夫か?!」という声も聞いてしまったが、立ち止まりはしなかった。
山間線電車の出る駅に向かってとぼとぼ歩く。いつもより遅れてしまった。便数が少ないから、遅れれば遅れるほど車両内にサラリーマンが増え、混雑する。
駅まで路面電車もないわけではないけれど、鈍いし遠回りだしお金はかかるしで、風の抜ける大きな川を右手に見ながら、その高い土手を遡って歩くほうがいい。今日は頭の整理もつけたかった。
――いったい何だったんだろう? 風紀違反が問題? 風紀の先生との癒着疑惑? つまらないゴシップ? それとも田舎者で浮いてるから? それはそれで悲しい。
「近藤君に誤解されたくはないなぁ……」
自分の本当に好きな人以外には、手首を晒すわけにいかない。全然その気はなくてもああなるということを、多田先生でさえ勘違いしているのかもしれない。心のどこかで自分は特別だと期待してるんじゃ? ただの条件反射なのに。
――女子高生を抱き止めるってそんなに嬉しいのかな?
男の人のことはよくわからない。兄貴は何度試しても心配するばかりで欲情はしなかった。逆に口を酸っぱくして「絶対バレるな」て言ってたっけ。
美人でもなければ胸も大きくはない、平均値だとは思うけれど、むさくるしいオジサンからしたら、若いってだけで「ラッキー!」とか思うのかも。
十代の男子だったら、誰でもいいから抱っこしてみたいもんなのかな? たぶん。
――兄貴、私、こんなでやっていける?