実演?
「男の人に左手首を掴まれると体の力が抜けるんです。立っていられない。兄は『両膝カックン腰くだけ』と名付けました。先生、立ってください、そして衝立ての裏に来て」
職員室に残る教師も減っていたが、目撃者は少ないほうがいい。多田先生も誤解を受ける。
「早坂君、いいから、実演はいいよ」
先生はとても初心な性格らしい。人目を忍んで女生徒と向き合うわけにはいかない、と真っ赤になっている。
「説明しても信じてもらえていないでしょう?」
剥き出しの左手をゆっくりと顔の横まで上げた。
「手首を握ってみてください。判ったらすぐ離して」
「いや、俺は触れるわけには……」
うろたえる風紀担当教師。
「先生」
身長差がかなりある。首が痛くなりそうなほど顎を上げ、「早くして」との思いを込めて、多田の目を見据えた。
おそるおそる、先生のアザラシ風なでかい右手が手首を包む。
その瞬間に、いつも通り、体はくにゃりと脱力した。
先生は「うおっ」と声を上げ、空いている左腕で制服の腰をくっと支える。
胸に顔を埋めるか、見上げればキスの体勢。お腹に股間の感触がするサイテー体験も、過去にはあった。
「すまん」
先生は急に左腕を緩めた。
「い、痛い、痛い」
一本の糸だけ残った壊れたマリオネットのように、先生の右手に手首だけでぶらさがるハメになる。
「悪い!」
ドサっ……
体重ごと床に落ちた。
「早坂君……」
先生は情けなそうに見下ろしている。
「これが私の『両膝カックン腰くだけ』です。素手でここを握られるとこうなります。意識はなくならないので、たいしたことはないといえばそうなんですが……」
多田は隣に膝をついて小声で話した。
「いや、判った。男の、というか人の自然な反応として、目の前で女の子が倒れかけたら空いてる手を差し出す。そして抱き止める。誰でも腰に手を廻す。君は手首を握られたら相手に抱き締められてしまう」
「はい……」
スカートについた埃をはたき落して、応接のソファに座り直して俯いた。お見合中のふたりのように気まずい沈黙が流れる。
「早坂君……、事情は判った。通学の電車はかなり混んでいるのか?」
「立っている人もかなり多いです」
「ラッシュで大人が間違えて君の手首を握ることもある。それはよくない。だが、学校では外してもいいんじゃ?」
「何かのはずみでバレて興味本位に試されたら……」
「あ、そうか、教育上アウトか。思春期男子が寄ってたかって君を抱き締めようとするとか……」
文章化されてこっちのほうがぞっとした。
「私はお礼を言わなきゃなんないんです。支えてくださってありがとうって。例え相手がどんな人でも。キスされかけたこともあって……」
こっちも苦肉の策だとわかってほしい。俯いていると悪い想像ばかり頭を巡る。
「だが、包帯だと心配する人が多いんだ。夏服になったらもっと目立つ。そうだな、サポーターはどうだ? テニスの。模様の無いもので」
「それでも同じですよね、どうしてしてるか説明しなくちゃならない……」
「去年の夏は、中学でどうしてたんだ?」
「発症して今年が初めての夏です……」
「そうか……」
もう先生と生徒というより、同じ問題を分かち合う仲間になってしまったようだ。作戦会議中。
「それっぽい理由付けが要るな。そうだな……、皮膚が薄くて内出血しやすい、左手首は何度もぶつけて血管が弱くなっている、くらいでどうだ?」
「え? えぇ?」
脳筋体育教師だと思ったのに、結構頭が廻るんだ。兄も自分もそんなこと思いつかなかった。
「もしものときは右にもすれば、体質だからと言って先生方も丸めこめるんじゃないか?」
「あれ? 先生たちにも黙っていてくださるんですか?」
多田はその日一番赤い顔をして答えた。
「俺だけ知っていればいいんじゃないか?」
困ったことにあれ以来、多田は陰から私を見守る騎士役を務めると決めたようだ。もしかしたら下心ありなんじゃないだろうかと、実は居心地が悪い。
――マズったよなあ、人選ミスだ。