体癖?
多田先生は柔道が得意な体育教官だ。2年生の副担任だからそれまで直接話したことはなく、朝、校門前で腕を組んで仁王立ちしている姿だけ認識していた。
あ、あと陸上部の顧問も柔道部とかけもちで、放課後グラウンドに居たりもするか。
「おはようございます」と笑顔で過ぎようとしたら、
「1年の早坂未来君だね? 放課後職員室で話がある」
と早口に言われた。
本当に自分が話しかけられたのか、ついきょろきょろしてしまったのに、校門までの道を歩いてくる生徒も自転車通学者もまだまだ疎ら。
電車の時間の関係で登校時間はどうしても早くなるから。一本遅らせると間に合わない。近所の子ほど遅刻しやすいというのは学校の鉄則だ。
体育倉庫や体育準備室、体育館裏!への呼び出しでなくてよかった、と、一瞬はマンガのシチュに変換してみても、嫌な予感は消せなかった。
相手はアラサー独身。父と兄以外の男の人とふたりきりにはなりたくない。風紀の先生と言えど異性全員まずは敵認定、を基本方針にしている。
――やっぱりこの、左手首のことだよね?
その日HRが済み次第職員室に赴くと、パーティションで囲まれただけのオープンな応接セットに座らされた。多田先生は複数生徒に対しては大声で喝を入れるが、個人的にはおずおずと話す人のようだ。
「君のその左手首の包帯なんだが……、辛いことでも……あるのか?」
中三の秋に異常に気付いてからずうっと、左手首に包帯を巻いている。中学では「ケガをしちゃった」「痕が残った」と言い張った。高校でも春のうちは長袖シャツの下に隠せると見込んでいたのに。
「あ、いえ……」
「学校に馴染めないとかで、もしかして……?」
大きな図体をして口籠る先生に、逆に申し訳ない気がしてしまう。入念な笑顔を作ってから、
「風紀違反になりますか?」
と尋ねた。
「え? ケガしてないのか? アクセサリーだったりするのか?」
「いえ、私には必要なんですが……」
「必要って、包帯だろ? ケガ以外、何のために?」
先生の目をじっと見返した。先生のほうがうっすら赤らんで先に目を逸らす。
「ケガじゃないなら外してみなさい」
多田は急に顔を振り向けると、先生ぶって命令口調になった。
毎日していることなので慣れている、右手片手でするすると包帯を巻き取った。掌より腕よりよっぽど白い手首が出てくる。青い静脈が少し気持ち悪い。もちろん、傷などないが。
「何ともないじゃないか。じゃあ、もうしないように。他の先生も心配しているから」
「しないわけにはいきません。電車通学中のアクシデントもあり得るので」
「アクシデントって、誰かが切りつけてくるわけじゃなし」
――詳細を言ったとして信じてもらえるだろうか?
「早坂君、手首っていうのは思わせぶりなんだよ。セルフカット、自傷という言葉は知っているね?」
脳内にハイデフィニションのスプラッタ映像が浮かび血の気が引く。
――ここを切ったら? 救急隊員に手首を掴まれ、その人の指の間から私の血が噴き出し、死体のようにずるずる引き摺られ救急車に?
…………想像なんかしなきゃよかった。
「早坂君?」
いつのまにか身についていたトラブル体質に流血映像をプラスしてトリップしていたというのに、現実の耳に入ってきた男の声は何とも情けなかった。
「包帯が必要なら外から見えないところにしたらいいじゃないか……」
笑いを噛み殺した。目の前の先生は相当困惑しているらしい。
自分で何を言っているのか判っているのだろうか? 見えようが見えなかろうが、不必要なところに包帯は普通しないと思う。
「試してみますか?」
賭けに出ることにした。普段は強そうな先生が向ける弱気な瞳に絆されたのかもしれない。
症状は兄貴とリモコンの取り合い中に発覚した。名付け親になり、包帯すれば大丈夫とわかるまで助けてくれたその兄は、もう遠くの大学に行ってしまった。
先生に理解を求めておいたほうが後々楽な気もする。
「試すって何を?」
「私の困った体癖です。先生が秘密を守ってくださるなら」
「たいへき? 秘密?」
「事実を見てくださったら納得してもらえるかと」
「事実って……?」