5.本心
いじめ。
そのシンプルで残酷な響きに、俺は打ちのめされてしまう。
登校拒否の原因として、いじめは決して珍しいものじゃない。だから、覚悟はしていたつもりだった。それでも現実として、こうも真っ向から受け止めるには、全く足りていなかった。
幸いなことに、俺は今までいじめに遭ったことも、見たこともない。だから浅い認識しか持ち合わせていなかったのだ。時折テレビで取り上げられる、違う世界での出来事。そう思っていた。
しかし、そんなことはなかった。
隣にいる黒木は実際にいじめに遭い、今もなお苦しんでいる。その事実が、いじめというものに輪郭を与え、現実を突き付けてくる。胸を締め付け、腹の奥をずんと重くさせる。
「い、和泉くん、大丈夫? 具合悪そうだけど……」
「……大丈夫だ。続けてくれ」
気分が顔に出ていたらしい。ひどい顔をしていたことだろう。
「あん子は、文武両道っていうか、なんでもできたから……それを快く思わない人もいたんだ。でもそういう人たちは陰口を言うくらいで、あん子も気にしてなかった。
「だけど、中学三年生の時に、いじめのきっかけになることが起きたんだ。去年の十一月、みんなが受験先を考えてた頃くらいにね。
「あん子、告白されたの。
「クラスで、うん、一番人気だった男子に。私も野次馬しちゃったんだけど、同じ高校に行きたいから、そんな時期に。まあ気持ちはわかるけどね。
「でも、あん子はフッた。…………これを好機だと思ったのが、さっき言った人たち。
「その人たちはフられた男子の味方、っていう体で、フッたあん子を悪者にしたの。その時フられた男子は……何も言わなかった。庇ったり、乗っかったりもしないでね。たぶん腹いせでもあったのかな、あん子が困ればいいって。…………ごめん、これは私の勝手な想像
「それで、あん子を悪者扱いする雰囲気が、ちょっとずつクラスに広まって……あん子は避けられるように、無視されるようになった。親しかったはずの人にも、ね。
「あん子は、ショックだったみたい。当たり前だけどね。でも、あん子は反発したりしなかった。もしかしたらあん子も、フッたことに罪悪感があったのかな……。
「それで、あん子も次第に人を避けるようになった。私は最後まで抵抗しようとしたんだけど…………結局は私も空気に飲まれてたんだと思う。あん子に避けられるようになって、学校に来なくなって、私はあん子と…………話さなくなった」
沢渡は泣いていた。大粒の涙が頬を伝い、カーペットに滴る。
慌ててティッシュを差し出すと、沢渡は「ありがとう」と言って涙を拭った。こういうとき、ハンカチを出せたら格好良かったのだろうけど。
「ごめんね、最後は私の話だった」
「……黒木と話したかったっていうのは、このことか?」
「うん、そう。謝りたかったんだ」
そう言って、沢渡は少しだけ笑顔を見せた。
「和泉くんに話したら、ちょっとだけすっきりしたよ。ありがとう、聞いてくれて」
「こちらこそありがとな。いろいろ聞かせてくれて」
それと。
「やっぱり、黒木と話したほうがいいと思う」
「えっ?」
「そのほうがすっきりするだろ?」
沢渡にとって、そして黒木にとってもそれがいいと思えた。過去の清算というやつだ。
沢渡の了解を得る前に黒木にアポをとる。すると、『LIMEの通話でなら』との返事がきた。あんなに渋っていた通話も、沢渡の名前が出ると簡単に了承するあたり、黒木も思うところがあったのだろう。
「久しぶり……だね、あん子」
「ああ、久しぶり……朋佳」
無事に通話が始まったことを確認し、俺は部屋を出た。二人の間に、俺は邪魔になるだろうからな。
階段の下で待つこと数十分、沢渡が部屋を出てきた。見上げた先の沢渡は、さんざん泣いたのが丸わかりの、やけにすっきりした顔をしていた。
「改めて、ありがとう和泉くん。おかげでようやく、あん子と仲直りできた」
「それなら良かった」
それからすぐに、沢渡は帰路に就いた。さほど遠くはないけれど、県を跨いでやって来たらしい。
去り際、沢渡はこちらを向き直って。
「あん子をよろしくね。あん子には、君みたいな人が必要だと思うんだ」
そう言った。俺も「任せとけ」と胸を叩き、沢渡を見送った。
その晩、俺が宿題を済ませていると、黒木から電話が。僅かに驚きつつも、喜んで電話に出る。
「よお、どうしたんだ」
「どうしたんだって、朋佳のことだよ。ありがとな」
「俺は何もしてないだろ? 興味本位で話聞いたりしてただけだって」
「朋佳引き止めたり、通話繋いだり、いろいろしたんだろ。朋佳が話してたよ」
こう、一日に何度も人から感謝されるとなんだか、こっぱずかしいものがあるな……。
「私も朋佳には謝りたかったんだ。あの時期は疑心暗鬼になって、裏切られるんじゃないかと朋佳のことも避けてて……今思い返せば、裏切ったのは私のほうだった。ずっと、後悔してた」
「……今の気分は、どうだ?」
「ずっと良くなったよ」
過去の清算はうまくいったみたいだ。おかげで俺も、こうやって黒木と話せている。喜ばしいことこの上ない。
「なあ、窓の外を見てくれ」
言われ、俺は窓辺に向かう。そこから見えるのは、カーテンに閉ざされた黒木の部屋の窓と、僅かな夜空だけだ。
今日は風も無いし、開けていてもそんなに涼しくないな。
なんてことを考えていると。
「よお、わかるか?」
向こうの窓の厚手のカーテンが開けられ、レースのカーテンの奥に、小さな人影が見えた。
はっきりとは見えないが、黒っぽい服と、ウェーブのかかった長い金髪は確認できる。そして何より小柄なシルエットが愛らしい。ちっちゃいというのは、沢渡の証言と一致する。
「あー、黒木か?」
「そうじゃなきゃ誰なんだよ」
「だよな、うん、はじめまして」
黒木と、カーテン越しとはいえ向かい合って話せたのは、もちろん嬉しい。嬉しい、が、なぜだか上手く反応できない。
……またも緊張してしまっているらしい。黒木に関わると、どうもそうなってしまう。
「なあ和泉」
「はいっ!」
「そんな急にかしこまるなよ……いやな、少し、訊きたいことがあってな」
今度は、黒木のほうがかしこまった風に、居住まいを正して。
「和泉、お前は私に……学校に出てきてほしいと思うか?」
そう問うた。
…………俺は、黒木の登校拒否の理由を聞いている。
今なおその状態が続いているのは、恐らく中学時代のようなことが起こるのが、怖いんだろう。人と関わらなければ、裏切られることもない。だからこそ、隔絶されたと言ってもいい状況を作り上げたのだ。
それなら、学校に出てこいだなんて言うのは酷である。再び、恐ろしい目に遭うかもしれない場所に戻れなどと、どうして言えるのだろう。
だが。
「当たり前だ。明るかったっつーお前が、人との関わりを断って一人でいるのが気に食わねえ。おい黒木、お前は一人でいて楽しいのか?」
「い、いや」
「じゃあ駄目だ! なんでお前が楽しみを奪われなきゃならねえんだよ! 俺はお前に高校生活を楽しんでほしいし、お前がいれば俺だってもっと楽しい。確信を持って言えるね! これは俺のワガママだ。俺は黒木と、一緒に学校に行きたい」
俺は思いの丈をぶつけた。