バッハのイメージ
※ 文章中の「アインシュタイン」は音楽評論家で、物理学者ではありません
最近、バッハを聴いている。と言っても、音楽的知識もないので漫然と聴いているだけだが。アルフレート・アインシュタインの音楽評論を読み込んでいるのと、バッハの中でも好きになった曲を聴いている、というだけの前提でイメージする事を書いてみたい。
バッハという人は今では大芸術家、偉大な存在として知られているが、当時はオルガン弾きとしては評価されていたものの、今ほどの評価ではなかったらしい。かえって息子のバッハの方が評価が高かったそうだ。
バッハは、アルフレート・アインシュタインの言うように、自分を芸術家とか、歴史に残るべき存在だと考えた事はなかったのだろう。彼は教会に仕える一職人だった。だが、彼が同時に独創的な存在だったのもまた明白であろうし、現在の我々からはこの混合は不思議な謎に思える。
しかしーーと最近は思うのだが、バッハや、同じくらいに宇宙的に巨大なシェイクスピア、そのような存在に謎を見出しているのはむしろ我々の方ではないかと思う。バッハは神様を心から信じていたのだろう。シェイクスピアはその当時の人気劇作家という以上のものではなかったし、それ以上であろうとも欲しなかった…しかし、今の我々にとっては、誰も到達しえない高みに辿り着いた存在に見える。
例えば、知識だけで言えば、バッハよりも僕の方が持っている、と簡単に言える。知識だけは……もちろん、それは僕が現代人であり、後から来た人間であり、色々なデータにアクセスできる環境があるからだ。音楽知識はバッハに比べると当然貧弱だが、それでも僕はバッハの知り得なかった、モーツァルトも、ベートーヴェンも、それ以降の実に様々な音楽の軌跡を知る事ができる。にも関わらず、何故、現代からはバッハは出ないのか。いや、そもそも、こう問うべきなのだろう。「現代からバッハが出る」とはいかなる意味なのか?
バッハを聴いていると、それが宇宙的に巨大な、あるいはアインシュタインの言うように、音楽そのものが語りかけているように思われる。バッハの音楽の秘密は、バッハという人間にあるのではない。僕にはむしろ逆なように思われる。すなわち、バッハは同時代に生きていれば、普通の人物、もしくは職人として、家庭の人として、十分、社会に位置づけられる存在であり、それ以上の偉大な存在であろうと望む事もなかった。
いわゆる芸術家の自己主張が問題になるはベートーヴェン以降であり、ベートーヴェンの自我の認証は、現代のディレッタントの、ベレー帽を被る事が詩人や画家への近道だと信じている通俗的な芸術家の自己主張とも地続きに繋がっている。ところが、バッハやシェイクスピアにはそのようなものはなかった…にも関わらず、彼等は芸術家として、異様に傑出した存在である事が後から(あくまでも後から)確認されたのである。
バッハの音楽の秘密はバッハの私生活にあったのではなく、むしろ、バッハは自らの中の謎を全て音楽という形で、我々に表してくれたのだ、と僕には思われる。バッハは孤独だった、と僕は思っている。それは、今、思われるような孤独とは違う意味だ。自己の内面の全てを世界に吐露するのが不可能な存在ーーというよりそのような吐露が可能である、とされたのがロマン主義であり、近代の発見であったのだろうが、そのようなものがまだ確認されておらず、ただバッハはバッハとして自己の生を、平凡な生を生きる他なかった。
彼は、誰に言われる事もなく、デモーニッシュなものに憑かれて、彼の音楽を創造した。その音楽は、未来の誰彼に向かって開かれていたが、バッハはそれを開かれているとも思っていなかっただろう。僕が言いたいのは、ある種の孤独は、完璧に至ると、もはや孤独という見掛けすら取らなくなり、ただ音楽による無限の自己告白といったようなものになりうる、という事だ。バッハは己の内面を共有できない、芸術家としての自分を認証してくれない、そのような事への嘆きというのはなかった。そんなものはないのが当然であり、それは想像すらされなかった。そのような時代に偉大な芸術家であるとは、ただ音楽を通じて語る事しかなく、そこで彼はまるで音楽の化身のように自らを形作っていった。そのように思われる。
シェイクスピアもまた、当時の人気劇作家ではあったが、彼の宇宙性が発見されたのは後の話だ。シェイクスピアもまた、自分が歴史に名を残すなど思っていなかったかも知れない。彼等は、自分が芸術家として偉大であると世界に認証させる必要などなかった。そんなものはそもそも存在しなかった。社会の中のポジションの為に極めて抑圧されたある精神が、何らかの形式に向かって開かれる。その時に宇宙的なものが現れるが、これは極めて狭い井戸を掘り抜いたその先の話だ。
彼等は、自分など顧みなかった。彼等は自然そのもののように語ったが、それは我々の知っているような、「芸術」という相互認証的世界がなかったからだ。彼等はそのように語るしかなかったのだ。音楽の世界が、自由とされている音楽の世界がない時、彼ーーバッハは自ら音楽そのものになるしかなかった。
抑圧された世界が開かれていく始めの時代に彼等は立っており、彼等は最初においてその後に現れる全てを占有してしまった、と言ってもいいだろう。芸術にとっては、完全なる自由は敵であり、完全なる不自由もまた敵である。バッハは現在においては、自らバッハたるべく、自分で自分を、過去の遺制の中で彼がそうであったように、牢獄に繋がなくてはならないだろう。芸術家が真の力を発揮するのは牢獄を蹴破る時である。牢獄を出てしまえば、ふやけた世界が広がるばかりだ。
僕の立場から、バッハという人が不思議なものに見えてしまうのは、その巨大性は、僕らの知り得ている事を何も知りえず、バッハは普通の常識人として暮らしながら、その巨大な音楽性を創造し、なおかつそれに無頓着であったという点にある。しかし最初に戻れば、これを不思議と見る僕の方が、バッハから見れば間違っているのであって、バッハの目の前には過去の遺産、整理すべき音楽的遺産があった。彼は単にそれを総合した。(このあたりは、音楽知識がないので、アインシュタインの評論をそのまま鵜呑みにしている)
例えば、そこに思想があったのか? 意図、何らかの思想や哲学があったのかと言えば、非常に微妙な問題に巻き込まれるだろう。ベートーヴェンに思想があったのは明白だろうし、彼はゲーテやカントとも連関して考えられる。しかし、モーツァルトに思想はあったか、バッハに思想はあったのかと考えると微妙な話になってくる。
今から見ると、バッハは「幸福な時代」にいたが為に大天才になった存在と単純に見る事もできよう。しかし、彼は自分が大天才だとは知り得なかった、そのような称号を与えたのは後の不幸な時代ーー我々である。我々はある意味では、バッハよりも遥かに豊かな、幸福な、それこそ、インターネットで世界に何かを発信できる、実に簡単な、広がりのある世界に生きている。ここでは抵抗がない故に不幸であるというパラドックスが考えられる。バッハが幸福な時代に生きたと考える事は、そもそも芸術というのは、人間というものの不幸、その孤独が底の底では、より広い宇宙に通底していると考えなければ言えない事ではないのか、と自分は考えている。
バッハは、思想の面でも、宗教の面でも、既存の秩序を破るような事はしなかった。ただ音楽の面だけそれをしたのであり、彼は音楽において革命家ーーそれ以上の存在だったのだろうが、生活においては、社会を壊そうともがいたりはしなかった。シェイクスピアも、先輩であるクリストファー・マーロウに学び、ギリシャ悲劇に学び、自分の劇を形作っていったにすぎない。では、それらが何故人類史的な大きさを持つのだろうか。
形式という側面ーー音楽というのは、形式によって彩られた内容であり、音楽とはフォルムそれ自体が彼の思想である。彼は奏でる事によって彼自身を語るが同時にある側面では極めて抑圧的、沈黙している存在である。彼は語る、いつまでも語るがその語りは、背後に巨大な沈黙を含んだ語りだろう。彼が、過去の音楽的遺産を相続し、総合する時、目の前にどのような光景も開かれておらず、後に自分が歴史に残るなども知りようがなかった。彼は期待する事を許されていなかった。そんなものはなかった。だからこそ、彼は自ら音楽そのものとなった。
彼は生活の中にどのような謎を作る事もできず、謎を他人と分かち合う事も考えられなかった。ところで、バッハという一つの精神ーーそういう謎はあった。謎は形になった。つまり音楽という形になったのであり、それが暴露であり、秘密であり、饒舌であり、沈黙でもある。彼はその全てを音楽という形で表してみせた。我々はバッハの音楽の向こうに、バッハという主体を探そうとするが、むしろ答えは逆で、生活の中で果たし得なかったバッハという存在が音楽として凝結する他なかったのである。それを我々は我々の耳で、「バッハの音楽」として聴く。
バッハやシェイクスピアの巨大性、宇宙性は、彼等の生活者としての凡庸性とは不釣り合いに見える。しかし、答えは逆でーーそもそも、生活の場では傑出した存在になりようがなかった精神が、自らを自然に作品の中に写し入れたとも考えられる。もちろん、そこには喪失の感覚もなかった。我々が保有している自由がないのは当時においては当然だった。彼等の巨大性は、ただ作品の中でのみ確認される。
彼等において、作者の存在を抹消しても問題はないかに見える。ベートーヴェンの背後に頑迷な、誇り高いベートーヴェンが見え、ゲーテにおいてはゲーテという個性抜きにしては彼の作品は見えてこない…(自伝を書いたのが象徴的だ)。ところで、シェイクスピアにもバッハにも自伝を書く余裕はなく、彼等は我々の考えるような自己を喪失した状態が当然であったから、その空白に彼らの作品の宇宙性が、真空に入り込む気体のように入り込んだと考えられる。
歴史は確かに天才を、巨大な天才を何らかの作用によって生むが、それに気付く時には、その天才を生む土壌は既に変化している。バッハの悲劇性とベートーヴェンの悲劇性は随分と形が異なっている。ベートーヴェンは己が理解されないのを嘆いてみせたが、バッハは嘆く事も考えられはしなかった。バッハは巨大な自然、音楽そのものとして自らを語り、ベートーヴェンは巨大な自己として、誇り高き偉大な精神として自己認証した後で己を語るのである。いずれもが歴史の上で演じられた悲喜劇だが、この劇は、世界と主体の何らかの差異によって演じられたと僕は考えている。現在にこのような差異があるかは疑わしい。
シェイクスピアもバッハも、我々からすると非常に狭い世界、少ない資材で自分の世界を構築したのだが、彼等にとってはそれで十分だった。彼等は、高い芸術を作り上げようと骨折ったわけではない。ただ目の前の事態を処理しただけなのだろうが、彼等の中のデモーニッシュなものが時代との関連でそれらを圧倒的な高みにまで引き上げた。
現在において彼等を真似するのは到底無理な話だろう。現在は全てが拡散され、享受され、互いに弱めあっているような状況であって、現在では、芸術家はまず芸術家たらんとするのを「捨てる」事から始めなければならない。なぜなら、社会によって完全に理解された芸術家などそもそも芸術家ではないからだ。「芸術家」というのは今や世界の認証要素としてその内部で完全に消化されきったものになっている。現在では、バッハの自然に到達するのに恐ろしいほどの意識的作用、不自然さをくぐらねばならないだろう。
(ドストエフスキーがいかなる精神の煉獄をくぐり抜けてシェイクスピアの「自然」に近づいたかが想起される)
「現代からバッハが現れるとはいかなる事か?」という問いに戻るのなら、仮に現在においてバッハのような存在が現れたとしても、それはバッハとはまるきり似ておらず、またその偉大さも高貴さも最初はまるで気づかれず、ごく少数の人間だけが心密かに認証するようなものになるだろう。現在にバッハが現れても、時代が、人々がこの存在を理解し尽くすにはまた何世紀もかかるだろうし、それだけかけても理解し切れないだろう。
それは、そのような存在が普通の我々の瞬間的な生とは違う時間軸を生きているからであるし、彼にはそう生きるだけの宿命があった。彼はその星を背負って自分の人生を全うするだろうし、この人生の意味は、作品の方から逆に照射されるものとなるだろう。いずれにせよ、バッハの同時代人がバッハの偉大さに気付いていなかった事を批判する余地は我々にはないし、我々はむしろ、時の歩みを遅れて歩く者に似ている。
歴史の生んだ大天才は大きな時間軸の中を通行するが、その天才性に気付くのには時間がかかる。それはあたかも、あまりに巨大な絵画を目の前にして、近視眼の連中が見える部分だけ見てぶつくさ文句を言うようなのもで、絵を見るには遠ざからなければならない。そうして遠ざかった時には、その絵が見られるようになった時には、もうその天才はこの世にいない。
我々は芸術を求める事ができるが、それは異なった時間軸の中で、後から、波のように押し寄せてくる。そうして、現在において瞬間瞬間として消費されるものは実に小さな絵ばかりで、それらは実は何者でもないといずれ証明されるだろう。この進歩と変化の時代においても、真の芸術家にとって世界は何も変わっていない。彼は人よりも何周も遅れて歩く。人々の走りよりも遅れて歩く。そうして遅れる事によって、牛の歩みによって、時代を何世紀も先駆ける。
しかし、その歩みの意味が見えてくるまで我々は随分と長い時間を待たなければならない。バッハの全貌が見えるまで我々はまだまだ歩き続けなければならず、そうして時代の本質性は、バッハの時代に比べて別段、進歩も進化もしてない。偉大な芸術家は今も、のろくさい歩みをする事によって、人々よりも前方に走り出る運命を義務付けられているだろう。