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直会

作者: 雨森 夜宵

「美味しくなあれ、って気持ちを込めるの」


 おばあちゃんは口癖のようにそう言っていた。大学に入って、一人暮らしを始めて、誰もいない小さなキッチンで自炊をするようになっても、おばあちゃんの言葉は僕の中にある。キッチンにはいつでもおばあちゃんがいた。今だって、この一人暮らしのキッチンにだって、おばあちゃんはいる。そばにいる。その声が聞こえる。


「口に出してご覧なさい。絶対に美味しくなるんだから」

「そうだね、おばあちゃん」


 南瓜の入った鍋には、日本酒を軽くひと回し入れて落し蓋をしてある。後はもう少しだけ放っておけばいい。うちの南瓜はいつも濃い目に味を付けた。それは、おばあちゃんが南瓜を煮ながら他のおかずを作るからというのもあったし、父さんがそれをつまみに酒を飲むのが好きだからというのもあったし、何より僕がそれを好んだからでもあった。夕食を終えた後、酒を飲む父さんの隣に座って熱い緑茶を飲む。すると父さんがすっと小皿を持ってきて、黙ったまま南瓜を二つ、三つそこへ分けてくれる。それを僕はお箸で削るようにして食べた。なくなってしまうのが勿体ない気がしたのだ。おばあちゃんはなかなか減らない僕の南瓜を見て笑いながら、また作ろうね、と言ってくれた。僕はいつもそれが楽しみだった。


「料理はね、きみくん。美味しく作るだけじゃダメなのよ」


 おばあちゃんは南瓜の煮物を教えてくれた時、そう言った。僕が初めておばあちゃんから習った料理だった。


「美味しく作ったら美味しく食べられなきゃ、料理は本当の意味で美味しかったとは言われないの。ね。美味しかったって言ってもらって、初めて、ああこれは美味しい料理だって思えるの。だからね、きみくん」


 きみくんの料理を、美味しいって言ってくれる人を大切になさい。


「その通りだよ、おばあちゃん」


 ぽつりと零した言葉は鍋の中に落ちていった。僕の料理を美味しいと言ってくれる人。これはその人の胃の中に入るために、初めて意図的に多く作られる南瓜だ。僕以外の人に食べさせるために煮られ、僕以外の人の美味しいという評価を貰う、初めての南瓜としてここにある。彼は、僕の南瓜を美味しいというに違いなかった。既に一度、聞いているのだ。何週間か前に作りすぎたものを持っていったら、彼はまん丸に目を見開いて褒めてくれた。


「君すごいね。あんなに美味しい南瓜、食べたことなかったよ」


 ぱああ、という効果音すら聞こえてきそうなその笑顔は、思い出すだけで頬が緩む。味の染みていく南瓜を煮ながらニヤつく男子大学生なんて、ちょっとどうなんだと思わなくもない、けれど。そう思いながら漏らした溜め息が、思いのほか甘ったるい。とかく、美味しい料理はいいものだ。作る側にも美味しく、食べる側にも美味しい。


「僕、野菜はほとんど食べないからなあ……」


 どこか恥じるように笑っていたのを思い出す。自炊はあまりしないと、そう言っていた記憶もある。

だったら、と不安が過ぎる。だったら、別に他のものだって良かったのだ。褒められたからって二度連続で南瓜を持っていくのはちょっと、浮かれすぎなんじゃないか。もっと王道の肉じゃがとか、或いはシチューとか、野菜をほとんど食べないならほうれん草のお浸しとかきゅうりのぬか漬けとか、もっと色々選択肢はあったはずなのに。好きなもののひとつも聞いておくんだった。美味しいと言われたから同じものをまた作るなんて、やっていることが幼稚園児と同じじゃないか。

 成長しないねお前は。いつまでたってもガキのままで。

 ぐつぐつと音を立てる鍋を見つめる。その音に耳を傾ける。


「僕は君を持っていくべきかな」


 ぐつぐつ。南瓜に味が染みていく。


「あれ君また南瓜作ったの、とか言われたりしない?」


 ぐつぐつ。南瓜は何も言わない。

 もしこれを、とふと思う。もしこれを、南瓜が全部聞いていて、こっそり彼に伝えていたりなんてしたら。


「……いやいや。そんなまさか」


 まさかね、と言いながら、やはりなんだか気になってしまう。この南瓜を彼が食べるのだ。箸でつまみ、口にいれ、咀嚼し、嚥下する。あの白い喉が、震えるようにこの南瓜を飲み下す。熱い緑茶と一緒に味わってくれたらいい。削るように名残惜しく、でもぱくぱくと小気味良く平らげてくれたらいい。そうしたらまた美味しかったという言葉を聞ける。僕はまた南瓜の煮物を作れる。南瓜は決して安い買い物じゃないけど、それを彼が食べるのなら……。


「ねえ南瓜」


 話しかけたって意味はない。それは分かっているけれど。かけた言葉が、味とともにほんの少し染みるような気もしていた。これは彼に食べられる南瓜だ。彼の口に入り、吸収され、彼の体を構成するものだ。


「彼は何が食べたいんだろう。……やっぱり南瓜かな」


 ぐつぐつ。言葉がほんの少し染みる。


「今度訊いておいてよ。何が食べたいのって。言ってくれたらなんでも作るって。毎日でも毎食でも……」


 ぐつぐつ。


「料理上手ってわけじゃないけど、ちゃんと好みの味に近付けるし。精一杯美味しく作るし。勿論毎日じゃなくたって、気の向いた時に言ってくれればいつでも」


 ぐつぐつ。


「……でもやっぱり、僕の味を美味しいって言ってほしい」


 ぐつぐつ。


「何がいいんだろう。彼が美味しいって言うもので、僕が好きな味で、出来れば急に作って持っていってもおかしくないものって……」


 ぐつぐつ。


「……あれ。ものすごく煮詰まってる?」


 慌てて火を消して落し蓋を取る。下の方にあったひとつを菜箸でつまみ上げて、四分の一ほど切り取った。ふう、と息を吹きかけて口に運ぶ。心配した割に問題はなかった。ちゃんと祖母の味がする。断面も、真ん中の方までしっかり色が馴染んでいる。これならあげてもいい。あげても恥ずかしくない。

 もうこれでいい。行こう。

 タッパーにきっちり詰めて、ほとんど靴を引っ掛けるようにして部屋を出た。外気は刺すように冷たかった。ぶるぶると体が震える。ふう、と息を吐いて、隣の部屋の表札の前に立った。表札と言ったって、物差し並みに細いプレートに油性ペンで千田と書いてあるだけだった。それでもこれは彼の手書きの字だった。きゅっと、全身が強張る。

 スイッチ・オン。

 インターホンを。

 押した。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 ぷつっ、とインターホンの繋がった音がした。


「はーい」


 どくん、と心臓が跳ねた。


「あ、ま、真崎です」

「ああ、はーい」


 ぷつっ。

 一秒。扉が大きな音を立てて開く。彼の右半身がぬっとその隙間から出てきた。部屋着らしき濃紺のパーカーはかなり大きなサイズだった。表情は、分からない。視線がそれ以上上がらない。


「どした?」


 えっと、と答える前に彼の視線が全身を精査する感覚があった。


「ていうか寒くない?」


 そういうところばかり敏感だ、と思った。


「いや、ううん。大丈夫。じゃなくて」


 ぐっとタッパーを突き出した。


「南瓜煮たから、よければどうぞ」

「えっ、いいの?」


 彼の声は明らかに普段よりも上擦っていて、きっとその目はキラキラしているんだろうと思わされる。


「うん。どうぞ」

「やった、じゃあ遠慮なく」


 タッパーに軽い衝撃が伝わり、彼の手がタッパーのふちを掴んだ。するりと、手の中の感触が抜けていった。空になった手のやり場がなくて、体の横でぎゅっと握った。彼はタッパーのそこに手を伸ばして、慌ててふちに戻した。


「うわこれほかほかじゃん、君わざわざ煮てくれたの?」

「ううん、いや、そうじゃなくて……作ってみたらちょっと多かったから、お裾分けしようかなって」


 しどろもどろに言いながら顔が赤くなるのが自分で分かった。より一層恥ずかしくなった。


「ふうん、そっか」


 さらりと流した彼の余裕が眩しい。


「そう。それだけだから」


 だから。自分で言って動揺する。だからなんだ。それだけなんかじゃないのに。でも今はそれだけだ、だから、だから。


「うん。ありがとね、毎度」

「いえいえ」


 にっ、と彼がはにかむように笑う。


「いやあ、ホント助かってるんだよ。めっちゃ美味しいし、どれだけもらっても困んないくらい」

「本当?」

「うん。ああでも、貰ってばっかりじゃ君が大赤字だ」

「そんな、いいよ、気にしないで」

「いや、そうはいかないでしょ」


 慌てて付け足すと、彼はまた笑みを深めた。


「そうだな、今度何かお礼するよ。んで、例えばそれを使って、君が好きなものを作ればさ。どうしても気になるようなら、できたのを少し分けてくれればいい」


 どう、と彼は訊く。


「それ、いいね」


 いいけど、と少し思う。気付きすぎるくらいよく気付く。僕の思うことも欲することも、まるで見透かすように。そう思うと、本当に見透かされているような気がしてきた。窓の外を眺めるように、僕の思考が簡単に分かられているなら。

 細められた目の奥、どこまでも黒い瞳がこちらを見ている。

 知れてはいけないことまで、知られているとしたら?


「まあ、なんか考えとくわ」

「……ああ、うん」

「それじゃ、また今度」

「うん」


 応じると、彼は何の躊躇いもなく、普通に扉を閉めた。大きな音がした。自室の扉を開けて、閉めて。

 スイッチ・オフ。

 気付いたら、自分の部屋の玄関マットに腰を下ろしていた。

 目の前には扉があった。無機質で冷たかった。随分と暗く見えた。キッチンを兼ねた廊下の電気はつけっぱなしだ。背後がいやに明るいから、余計に目の前の光景が暗く見える。それにほんの少し滲んでいた。頬の火照りがまだ残っている。その上を滑り落ちるものがあった。視界が少しクリアになった。

 ……あれ。僕、いつから泣いていたんだろう。

 体の冷えも、頬の火照りも、まだここに残っている。自分の部屋に戻ってきて数分も経っていないはずだった。その間何をしていたのか、はっきりとしてこない。まさか、戻ってすぐここに座り込んで、そのままたった今まで泣いていた、なんてことが。

 あるな、と思った。ある。僕は泣いていた。今までずっと。でも、泣いていたという表現は正しくないのかもしれなかった。涙が出ているだけだ。感情が溢れて止まらないわけでもないし、ましてや嗚咽するわけでもないし、ただ、ただ涙が出ているだけに過ぎない。なんだかよく分からない。分からないけれど、今までにも時々こんなことはあった。悲しくもないのに、ただ涙がぼろぼろとこぼれ落ちていく。なんで、という問いだけがぽつんと浮かんでいる。誰も答えてはくれないし、僕自身も答えを持ち合わせていない。そういう、空っぽの涙。それを泣くと表現するのは、どこか違うような気がする。泣く理由はあるけど、涙が出る理由はない。

 なんで。

 なんでなの、お母さん。


「なんでか分からないものって、もうどうしようもないのよ。時間が経つのを待つしかない」


 祖母の声がする。


「そういうのは少しずつ癒えるから。ね、きみくん。無闇にそのことを考えたり、治すのを急いたりしちゃダメよ。治すんじゃなくて、治るんだから。気長に待つだけよ」

「そうだね」


 答えた自分の声は至って平静だった。胃の奥から込み上げる何かの波をやり過ごして、そうして吐いた息は少し震えていた。


「そうだね、おばあちゃん。そうだね」


 ひとりきり、玄関マットに腰を下ろして涙を流していても、祖母はそこにいた。


「今日の晩御飯、何がいいかな」

「南瓜はあるし、あとは……冷凍の生姜焼きが残ってた気がするけど、どうかしら」

「じゃあ後はお米炊けばいいかな」

「十分じゃない?」

「そうだね。そうしよう、おばあちゃん」


 *  *  *


 インターホンが鳴る。彼かな、と思う。一昨日南瓜の入ったタッパーを渡してからずっと、気になって気になってたまらない。おかげさまで講義の予習は全然進まなかったし、変なところで物を落としたりぶつけたり、それはもう散々だった。ほとんど、怯えと一緒に暮らしていた。もし南瓜はもういいと思っていたら。余計なお世話だったら。

 そんなことやれなんて誰が言ったんだよ。当てつけか。当てつけなのかよ。答えろ。

 ぶんぶんと、頭を振る。インターホンに手を伸ばす。


「はあい」

「千田でーす」


 ちだ、という文字列を認識した瞬間、ぴりっとした痛みが全身に走った。はあい、と答えた声が危うく裏返りかけたのを聞きながら、慌ただしく扉を開ける。すうっと冷たい風が入ってきて、思わずセーターの首元を握った。

 スイッチ・オン。

 目の前に、紺色のパーカーが見えた。


「どうかした?」

「いや、これを返しに来たんだけど」


 見慣れたタッパーは綺麗に洗われていた。右腕に提げたスーパーの袋がゆらりと揺れた。


「ああ、うん」


 左手で扉を押さえたまま、右手だけでそれを受け取った。ひどく軽い気がした。


「お粗末さまでした」

「いや、めっちゃ美味しかったよ」


 ぎゅっと、タッパーを持つ手に力が入る。


「――本当に?」

「うん。本当に」


 彼はまっすぐに僕を見て頷いた。


「本当に?」


 うっかり滑り落ちた言葉に、確認なんかしなくたって、と半ば呆れる。


「うん」


 彼はまるで訊かれることを知っていたかのようにすぐ頷いてみせた。そっか、と溜め息のような声が漏れた。


「よかった……」


 ふふ、と彼は笑った。鼓膜をくすぐるようなその声は柔らかい。


「ああ、それでさ」


 何かと身構えていると、彼は腕に提げていたスーパーの袋を手に取ってその口を広げた。


「これなんだけど」


 覗き込んだそこには、濃い緑色のいんげん豆が数パック分ほども直に入っていた。


「いんげん?」

「そう。いや、あのね。さっき実家から仕送りが来たんだよ」

「うん」


 そういえばさっき隣のインターホンをうちのと聞き間違えたな、と思い出した。あの時だろう。


「それ開けたら一番上にこれが入ってたの」

「ふうん」

「で、この前の話覚えてる?」


 この前、と首を傾げるまでもなかった。


「お礼したいって話?」

「そう」


 まさか。


「だから、これ貰っちゃってくれない?」


 思わず上げた視線が彼の大きな目に捉えられた。眼鏡のレンズの向こう側からこちらを見つめてくる瞳は、吸い込むように大きく黒い。その中に僕の顔が映っている。

 その目がぱちりと、瞬きをした。


「……いいの?」


 辛うじて絞り出した言葉のしょうもなさが、なんだか自分で悲しかった。


「うん」

「こんなに?」

「うん。あ、もしかしていんげん嫌いだったりする?」

「ううん、大好き」


 大好き、と口から飛び出た言葉の響きが反響する。

 ううん、大好き。


「じゃあそれ、僕が料理するから、できたら半分こしよう」


 ぱちり、とまた瞬きをした。


「えっ、いや、半分もくれなくていいよ」

「うーん、でも、南瓜のお礼にしてはちょっと多すぎると思うけど」

「そうかな?」

「うん」


 んー、と彼はほんの僅かに首を傾げて少し考えた。


「……まあそれもそうか」

「うん。だから、やっぱり半分こにするべきだと思うよ」

「ん、そうだねえ」


 へにゃあ、と彼が微笑む。


「じゃあお願いするよ」

「うん、任せて。何がいい、なんでも作るよ」


 君のためなら、という言葉をすんでのところで飲み込む。途端にアルコールを煽ったような熱が体の奥から広がった。君のために料理ができる。君とその話をしている。


「胡麻和えかなあ」

「分かった。胡麻和えね?」

「そう。僕胡麻和えが一番好きなんだよ」

「ああ、そうなんだ」


 一際強い風が吹いて、僕らは少し体を震わせた。


「ごめん、寒いのに長々立たせちゃって」

「いや、いいよ。じゃあこれ」


 差し出された袋を受け取ると、彼はきゅっと身を竦ませた。


「ありがとう。お預かりします」

「お預かりじゃないでしょうよ」

「そうだね」


 えへへ、と驚くほど甘い笑い声が出て自分でびっくりした。


「じゃあ、作ったらお知らせします」

「ああ、うん。じゃあまた」

「はーい」


 がちゃり、と扉を閉め。

 スイッチ・オフ。

 そのまま、崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。もらった袋が床に触れてぐしゃっと音を立てた。それを拾い上げて胸に抱えた。まだ胸の動悸は激しかった。ざらついた喉が削られるように音を立てている。まるで息を止めていたかのように、全身が激しく動悸を伝えている。ゆっくりと大きく息をした。

胡麻和えが一番好きなんだよ。


「あったかいうちに食べてもらわなくちゃね」


 おばあちゃんの声がする。


「作らなきゃ」


 ぽつりと落とした言葉が、自分の中にひとつ波を立てた。


「……作ろう」


 できる限り早く。早く作って、彼のもとへ届けたい。早く彼に食べて欲しい。僕が作ったもの、彼が欲しいというもの、できる限り早く、届けないと。

 改めて袋の中を覗き込んでみた。持った重さからしても一キロ弱はありそうな量だった。


「……これ全部胡麻和えにしてもな」


 いくら好きだからって食べる量には限界がある。


「きいちゃんはいんげん嫌いだから、胡麻和えとか天ぷらだと全然食べないのよね」


 おばあちゃんは昔、残念そうにそう漏らしたことがあった。


「だから、きみくんが自分でご飯作るときは、お肉巻きにするのが一番簡単でいいと思うわよ。それならきいちゃんも食べられるし、ご飯のおかずにもなるし」


 それだな、と思った。それなら小さい頃から何度も作ってきた。とはいえ、二品にするにしても一品ごとの量が多すぎる。冷蔵庫の中を見る必要があった。袋とタッパーを傍らに置いて靴を放り出し、キッチンに辿りついて冷蔵庫の中を覗き込む。卵がいくつかある。クッキーに入れようと思っていたすりごまもあったし、冷凍庫にはちょうど白菜と蒸し物にしようと思っていた豚バラが残っていた。あったからすぐ思いついたんだろうな、という気がした。野菜室にはバイト先でもらってきたいくつかのサラダと、その上にきゅうりとトマトが乗っている。


「炒めちゃおうか」


 いんげんとトマトと卵で中華炒めにする。それといんげんの胡麻和えと、豚バラ巻き。野菜とご飯さえ補えばかなりいい献立になるはずだ。


「よし」


 気合を入れて、エプロンをつけた。お気に入りの音楽をかける。コンロが一口しかないこの部屋で三品仕上げるには、かなりの時短が必要だ。


「焦っちゃダメよ。出来るなと思った時だけ、出来ることをするの。それで、やらなきゃいけないことができたら、やってたことはすぐ諦めてそっちに手を付けるの。すぱっと諦められないと思ったら、早めにやめて待つのよ」

「うん。そうだね、おばあちゃん」


 スピーカーから、アップテンポな音楽が流れ始める。


『今宵は宴 いざ おもてなし

 その身 満たすはこの私

 我が意は潜め 今 影もなし

 ただ毒を食らわば この心まで 共に召しませ――』


 *  *  *


 やっとできた。作ったものをタッパーに詰めて、三つ縦に重ねた。落とさないようにそれを抱えて部屋を出た。恐ろしく寒い夜だった。抱えたタッパーが温かくて、どこか寂しいような気もしながら、表札の前に立つ。千田。彼の名前。彼の文字。

 スイッチ・オン。

 インターホンを。

 押した。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 ぷつっ、とインターホンの繋がった音がする。


「はーい」


 どくん、と心臓が跳ねた。


「真崎です」

「あ、はいはーい」


 少しの間の後、がちゃりと扉が開いた。逆光の中に浮かび上がったシルエットは大きめのパーカーだ。色は、灰色。


「どした、ってか、まさかそのタッパーは……」


 おどけて言う声音が愛おしくて、伏せた視線がタッパーの青い蓋を捉えた。この中に、僕が作った料理が入っている。


「うん。出来たから、届けに来たよ。これが胡麻和え」


 一番上のタッパーを渡す。彼が受け取る。


「これは豚バラで巻いて焼いたやつ」


 真ん中のタッパーを渡す。彼が受け取る。最初のものの上に乗せる。


「あとこれが、トマトと卵と一緒に中華炒めにしたやつ」


 最後のタッパーを渡すと、それも上に乗せた。


「えっ、こんなにいっぱい作ったの?」

「うん。胡麻和えだけこんなに渡されても困るかなって」

「そんな、気にしなくてよかったのに」


 余計なお世話、という言葉が脳裏をよぎって、背筋に冷たいものが走った。


「なんか、嫌いなものとか入ってたりした?」

「え?」

「いや、胡麻和えだけの方がよかったら、それと同じくらいの量はうちにあるから――」

「あっ、ごめん、違う、そうじゃな――あっ」


 手を振ろうとした拍子にタッパーを落としかけて。

 咄嗟に押さえにいった手が彼の手ごとタッパーを掴んだと分かったのは、その一瞬後だった。

 温かな、とても温かな、その手。


「うわ、君の手冷たっ」


 言われて慌てて手を離した。


「ご、ごめん、冷え性で……」

「あ、そうなの?」


 意外、とでも言いたげに彼の両眉は跳ねる。


「うん。冬場はしんどい」

「あれ、でも君寒いところの出身じゃなかったっけ」

「そうだよ。だからこの辺の冬はマシかな」

「そっか」


 ふふ、と彼は笑う。それを聞くと、自然と頬が緩んでしまう。ほとんど無意識に、僕は両手を握り合わせていた。その間に彼の手の感触が残っていた。それをぎゅっと握り締める。握り締めて、潰す。

 彼の目が、ちらりとそこに向けられたような気がした。


「あっ、ちょっと待って。君チョコ好き?」


 急に問われて一瞬戸惑った。バレンタインはもう一ヶ月以上先だった、と思う。


「え、うん」

「じゃあ上がって」

「え?」


 彼は徐に言って、扉をもう少し広く開けた。


「いや、上がっていって。君にあげたいものあるから」


 にこ、と微笑まれてしまっては選択の余地がない。


「……じゃあ、お邪魔します」

「どうぞどうぞ」


 言いながら、彼はすたすたと廊下を進んでいった。後ろ手に扉を閉め、靴を脱ごうと身を屈める。全く同じ間取りの玄関に、見慣れない黒の運動靴が揃えて置かれていた。たった今まで彼が履いていたものだ。そう思うと、胸がちくりとした。振り切るように靴を脱いだ。揃えた靴は黒の運動靴の隣に置いた。でもなんだか悲しくなって、それも少し離した。彼はシンクの隣にタッパーを重ねて置くと、更にその奥の部屋に入っていった。ぱちり、と電気を点けた音がする。廊下の向こうから少しずつ暖かい空気が満ちてきて、僕は玄関を後にした。進むたびに暖かさが増すような気がした。


「失礼」


 恐る恐る部屋に入ると、そこは驚くほどあっさりしていた。味気ない、とさえ言ってもいい。備え付けのクローゼットに、大きめの本棚とありふれたシンプルなパソコンデスク、それとしっかりした作りのベッドが一台。自分の部屋だって似たようなものだけれど、ここはなんだか不思議なほど味気なかった。


「ベッドくらいしかないけど、まあ座ってて」


 彼は何故かクローゼットを閉めると、キッチンの方へ引き返していった。


「いいの?」

「うん。机の方の椅子でもいいけど、ベッドの方が多分あったかいから」


 冷え性だと言ったのを気にしてくれていると気付いて、もうそれだけで十分温かくなった気もしたけれど、お言葉に甘えてベッドに座ることにした。思ったよりも深く沈んでいくのに驚きながらもう一度部屋の中を見回して、趣味のものが少ないことに思い至った。僕の部屋は漫画も並べてあるし、ポスターも貼るし、とにかく趣味のものが多くてひと目でそれと分かってしまうような部屋になっている。この部屋は、分からない。何も分からないと言っていい。本は専門分野のものの中にいくつかの文学作品が混じっているだけだし、机の上はパソコンとデスクライトしかない。一体、普段何をしているのだろう。

 彼は冷蔵庫を開けると牛乳を取り出した。鍋にそれを入れて、火にかけた。パチパチとコンロの点火する音がよく聞こえる。他に物音がほとんどしないのだ。エアコンの低い唸りとそれを除けば、後は自分の息遣いが一番よく聞こえる。沈黙はあまり得意じゃない。自室でも音楽をかけたりテレビをつけたりしないと落ち着かないのに、この静寂は、息が詰まりそうになる。

 うるさい。静かにしてろって言ったでしょ。何度言ったら分かるの、このごくつぶし。

 ぞくりと、背筋が震える。静寂は緊張だ。僕はその緊張が、嫌で仕方ない。それはいつも前触れだった。静けさは常に嵐の前に現れた。後に起こることなどないと分かっていても、身の竦むのを止められない。

 でも、彼が静寂を好むなら。

 静けさの中で動いている彼の姿に見入るのも悪くない。悪くないどころか。


「……?」

「うん?」


 鍋の中に向かったまま彼が放った言葉を、僕は聞き取りそこねた。こんなにも静かなこの部屋で、それでも聞き取れないような小さな言葉だった。


「ごめん、聞いてなかった」

「ああ、いいよ。そんな大事なことじゃないから」

「……何作ってるの?」

「これ?」

「うん」

「……さあ、なんでしょう」


 あっさり言うものだと思っていたから、その意図を汲むのに数瞬を要した。普段こんな絡み方をすることはないと思っていたけど。今日はなんだか、いつもと違う。


「……ホットミルク?」

「いや、今のところはそうだけど」


 流石に呼び出してまでホットミルクは飲ませないなあ、と彼は心底楽しげに笑った。


「ココア?」

「あ、それはかなり正解」

「ホットチョコレート?」

「おっ、せいかーい」


 彼はキッチンの隅に置いてあった瓶を僕から見える位置に掲げ、少し振った。中で茶色いものが揺れ、からからと音を立てた。きゅぽん、と音を立てて瓶を開け、その中からひとつひとつ取り出しては鍋の中へ落としていく。


「いやね、これも仕送りに入ってたんだ」

「随分色々送ってくれるんだね?」

「うん。多分、要らないものは取り敢えず送っとけって発想なんだと思うよ」


 彼は木べらで暫く鍋の中をかき回していた。時折流しの下や冷蔵庫を開けては、少しずつ何かを足していく。ふわりと甘い匂いがしてきた。思わず胸いっぱいに吸い込むと、肺の奥の方まで温かさが広がっていく。

 そうだ。彼は料理をしている。キッチンで。


「……シナモンだ」

「あ、そうそう。えっ苦手?」

「ううん、全然」


 シナモンは多すぎないのが……。

 聞こえ始めた声を追い払うように頭を振って、彼から視線を逸らした。そっちはダメだ。ましてやここは、彼の部屋だ。スイッチを切るわけには、いかない。じっと、膝の上で握り締めた自分の手を見つめた。握り潰す。余計な声を、余計な言葉を、奥の方へしまい込む。


「あと、ブランデーも少し入ってるけど」


 そう言う彼はこちらを見なかった。声色も変わらなかった。


「うん、それも大丈夫」


 努めてさりげない声を出す。悟られないように。


「マジか、よかった。てかごめんね、先に訊くべきだったわ」

「ああ。まあ、結果オーライだよ」

「それな……こんなもんかな」


 彼はおたまでマグカップに少し取って覚ますと、小さなスプーンで味見をした。ん、と小さく頷いて、もう一方のマグカップに半分くらい注いだ。最初のマグカップの方にも同じくらい注ぐと、両手にそれを持ってくるりと向き直った。必死にマグカップだけに意識を向けた。それは白地にシンプルなエンブレムがひとつだけ入ったものだった。


「はい。これ」

「ありがとう」

 受け取ったそれから立ち上る湯気は、甘くて、柔らかくて、優しい。ふう、と息を吹きかけて、啜るように口の中へ含むと、シナモンの香りと共にチョコレートの甘さが広がって、その奥からほんの微かにブランデーが抜けていった。熱が喉を通り、胃の中に収まる。体を握り締められるような緊張感が、ほんの少し緩んだ気がした。


「……これ、すごく美味しい」

「本当?」

「うん。美味しいし、あったかくなる」

「そう、寒い日にいいんだよ」


 満足げに笑って、彼はそこに立ったまま、自分でもマグカップを傾けた。


「よく作るの?」

「いや?」


 言いながら、彼は少し首をかしげた。


「時々余ったチョコで作ったのを飲んだりしたけどね。作ってたのは、うちの祖母」


 祖母。

 急に飛び出した単語が頭蓋の中を跳ねまわる。

 キッチン。料理。

 おばあちゃん。


「まあ祖父が甘いもの好きだったから作ってたわけで、死んじゃってからはほとんど作らなくなったけど。それをずっと横で見てたら、勝手に作り方覚えちゃって……どした?」


 真顔になってこちらを見つめる、目。その黒さの中に、吸い込まれるように、ぎゅっと体が締め付けられて。

 ほろりと。


「料理はね」


 口をついて、言葉が出てくる。

 おばあちゃん、の声がする。


「料理はね。見て覚えなさいきみくん。ようく見るの」


 ぎくりと表情をこわばらせたのが分かる。分かるけど、言葉がどんどん溢れてくる。黒い目が僕を見つめている。


「何もなくてもできるのが一番いいのよ」

「見た目だけじゃなくて、匂いとか、音とかでも出来具合はわかるものだから」


 壊れかけのスイッチが、点滅している。


「本もタイマーも大さじ小さじも、何もなくても、包丁とお鍋かフライパン、あと菜箸ね。それと材料があればできるようになさいな」

「何もなくても」


 おばあちゃんの声は聞こえる。聞こえてはいけないから、言葉が飛び出す。聞こえるのはおかしいのだ。だから、あれは僕の言葉なのだ。僕の言葉でなければならない。おばあちゃんの声であってはならない。上塗り、しなければならない。


「男の子だって料理は出来ておくべきよ、これからは特にね」

「料理を覚えれば、お買い物も自然とできるようになるわ」

「一人でもできるようになりなさい」

「きみくん一人でも」

「……真崎くん」

「一人でも生きていけるように、一人でなんでもできるように」

「真崎くん」

「自分で」

「――きみくん」


 ふっと、言葉が途切れた。

 名前を、呼ばれた。

 僕のマグカップを、持っている僕の手ごと包んだ人がいた。足元にしゃがんで、眼鏡の向こう側から僕を見つめている。

 その瞳に僕が映っている。


「ねえ。きみくん。君、今いくつだい?」

「……じゅう……に……二、十。二十」

「うん、そっか。ちょっとコップ貰っていい?」

「……うん」


 差し出したマグカップを彼が受け取って、パソコンデスクの上に置いた。


「ここ、どこだか分かる?」


 言われて見回した部屋には、覚えがあった。感覚は次第にはっきりしてくる。部屋の全容が分かり、目の前にしゃがんでいる君が分かる。そこにいるのが君だと分かる。


「君の、部屋?」

「うん。僕の部屋だよ。僕の名前、分かる?」

「……千田くん」

「うん」

「千田、菊馬、くん」

「そう」


 ふう、と彼は息を吐いた。


「大丈夫そうだね」

「何が?」


 ぱちり、と彼は瞬きをした。


「……えーと。ここ五分間くらいの出来事は思い出せる?」


 ここ、五分くらい?

 思い出そうとしてみると、頭の中に靄がかかったようではっきりしなかった。何故分からないのかも分からなかった。何もかもがぼやけて、はっきりとしない。

 怖い、と思った。心臓を素手で触られるような、そんな感覚。


「……分かんない。僕、何か……どうしよう、何も……」

「うん、いいよ。無理に思い出さなくていい」


 取り敢えず深呼吸しよう、と彼が言う。言われた通りに吸い込んだ空気が、ほんのりと甘かった。その甘さに覚えがあった。


「……ホットチョコレート?」

「あ、そうそう。飲む?」

「うん」


 彼は立ち上がると、一旦机の上に避難させられていたマグカップを持って戻ってきた。差し出されたそれが手の中に戻ってくると、少しずつ落ち着いてきた。一口飲むと胃の中にじんわりと温かさが広がる。持ってきたタッパーと同じ温かさだ、と思った途端に、記憶がぎゅっと押し寄せて鮮明になる。

 おばあちゃんだ。


「……ごめん」

「ん、何が?」

「思い出した、どうなったのか」

「ああ」


 じゃあひとまず大丈夫そうだね、と彼は笑みを深め、キッチンに置きっぱなしだったマグカップを持ってくると、僕の横に座った。少しベッドが揺れた。空っぽになったキッチンが目にとまった。この部屋のキッチンも空っぽだった。実家のキッチンも今は空っぽだ。キッチンどころか、家が空っぽになってしまった。父と姉がいなくなり、母が出ていって、おばあちゃんが死んで、僕が一人暮らしを始めた。家はなくなった。空っぽだ。でも、今は隣に彼がいる。

 だけどやっぱり、キッチンは空っぽだ。


「美味しい?」


 小さく頷いた。


「そっか」


 彼は何も訊かなかった。それが優しさなのだと分かっていても、部屋を満たす静寂が苦しかった。静寂は前兆で、そして嵐の後に残されるもので。胸騒ぎが、する。まるで沸騰するように、何かが僕の内側に湧き上がって、内壁を不規則に舐る。

 吐き出したい。今、君に。


「ねえ」


 でも。


「うん?」

「……なんでもない」


 何から言っていいか、分からなかった。

 こんなに優しい声を出せる人に、何から話せばいいんだろう。何から話しても、きっと僕は、この人を傷つけてしまう。この人を傷つけたら、僕自身がきっと、戻れなくなる。何も言えなくなって、どうしようもなくて、また、元の静寂の中に沈んでいく。


「ご飯、食べていく?」


 ふと彼が言った。僕は首を横に振った。


「ううん。今日はいい」

「ん。まあ、おかずは君がくれたのになっちゃうからなあ」

「食べに来る?」

「いやあ、いいよ。また今度にしよう」

「そうだね」


 ふっと、言葉が途切れる。静寂が満ちていく。

 また今度、か。また今度が、あるって言ってくれるのか。


「……あのね」


 少しだけ。


「うん?」

「おばあちゃんがね」

「うん」


 上手く言いたいことがまとまらなくて、もどかしい。


「僕に料理を教えてくれたの、おばあちゃんなんだ」

「そうなの?」

「うん」

「そっか」


 本当はそんなことが言いたいんじゃ、ない。だけど。


「僕を一番大事にしてくれたのが、おばあちゃんで……だから」


 だから。なんだというんだろう。


「……君が初めてなんだ」

「ん?」

「キッチンが、ダメなんだ。キッチンは……キッチンは、おばあちゃんの場所だから……」

「他人の家のキッチンに入ったのが、初めてってこと?」

「いや……うん、それもだけど……」


 はっきり言えよ、みっともない。男なのに季依より女々しくなりやがって。


「……っ」


 全身に痺れるような緊張が走った。大きく揺れたホットチョコレートの水面がちゃぽんと音を立てる。

 何も言えないなら最初から喋るんじゃねえよ。余計なこと。


「ごめんなさい」

「……どうかした?」


 ほとんど反射的に飛び出した言葉に、彼が引っかかる。

 心配かけるぐらいならさっさと死ね。


「ううん、違う、なんでもない。全然なんでもないよ」


 ぽろぽろとこぼれ落ちていく言葉を何処か遠くに聞いていた。空っぽの言葉だ。プログラミングされたメッセージだ。


「なんでもないんだ。時々ちゃんと言葉が出ない時があって、それが急に今始まっちゃっただけで、でも別に僕自身には何か異変が生じてたりするわけじゃないからいいんだ。本当に大丈夫だから気にしないで、ね。僕元気でしょ?」

「……」

「どこもおかしくなんてないしどこも痛くないし、僕平気だから。大丈夫、全然大丈夫、心配しないで」

「そう?」

「うん。そう。大丈夫」

「本当?」

「うん」

「無理はしないでね」

「無理なんて――」


 無理なんて?

 ああそうか、と思った。ここには母はいないんだった。

 ホットチョコレートを一口飲む。強張りが解けていく。


「――無理なんてしないよ。……しなくていいんだ」

「うん。そうだね」


 どこまでも静かに言うその声音が、少し、ほんの少しずつ重たくなっていくような気がした。


「ごめんね」

「何が?」

「いや、なんか変な感じにしてしまって」

「いいよそんなの」


 ふふ、と笑ってマグカップに口を付ける。白い喉が嚥下する。


「……まあ、取り敢えずチョコ飲みなされ」


 少しおどけて言うのが嬉しかった。まるで何もかも見透かすようだと思った。なんだか、いつもそんな感じがしていた。見透かされる感覚、気付かれているという感覚。隠し事はできないんじゃないかとさえ思うような的確極まる言葉。それから、深い深い闇のような瞳と、蛇のような、眼差し。

 傾けたマグカップが空になった。時間切れだった。


「もう少しいる?」

「ううん、ごちそうさま」

「ああ、お粗末さまでした」


 いたずらっぽく笑いながら、彼は僕の空になったマグカップを受け取った。僕は立ち上がった。ベッドが二人分の凹みを少しずつ元に戻していくのを眺めてから、もう一度彼の方に向き直る。


「本当にありがとう」

「いやいいって。料理のお礼なんだから」

「そういえばそうだったね」


 ふふ、と自分の口から笑いがこぼれて少し驚いた。随分と優しい笑い方だった。シャボン玉のような、つつけば弾けそうな笑い声だった。


「君忘れてたの?」

「いや、すっかり忘れてた」


 あはは、と今度は彼が笑った。声を上げて笑う人だ、と思うと少し気が楽だった。うちの家族には誰も、そうやって声を上げて笑ってくれる人はいなかった。

 彼は僕の家族じゃない。家族じゃなくて、大切な人だ。だから、僕はこれ以上、彼には縋れない。縋っちゃいけない。


「じゃあ、この辺で」

「うん。また遊びに来なよ」

「うん」


 どこか逃げるような感覚の中、玄関へ行く。黒い運動靴と、僕の黒いスニーカーとが少し離して置いてあった。そういえばそれは自分で離したのだった。思い出すと一気に惨めな気がしてきて、乱暴にそれを履く。後ろから衣擦れの音がしたのは彼だろう。足音は聞こえなかった。きっと静寂を守るためにそうしているのだろうと思った。とんとん、と爪先を打ち付ける音が虚ろに響いた。

 よいしょ、と立ち上がり、扉を開ける。吹き込んだのは刺すような、思った以上に冷たい風だった。びりびりと、肌を削り取るように、押し寄せては去る。嵐の匂いがする。

 痛い。

 やめて。


「じゃあ、またね」

「――うん」


 閉まりゆく扉の隙間に、グレーの靴下を履いた彼のつま先が見えた。逃げるように自室へ転がり込む。中は真っ暗だったけれど、電気をつける気力もなかった。靴を履いたまま廊下へ倒れた。体が重い。息が苦しい。

 嵐が来る。

 顔が傷つけられないように俯せになって、肘を立てて、頭を下げて。かつて、一日に何度もそうしたように。

 スイッチ・オフ。

 息が、止まる。

 甘ったれるなクズが。人に心配かけるくらいなら死ね。お前はあたしの子じゃないんだ、養ってやる義理なんかないんだ、言って分からないならこうだよ。ほら、こうだよ。

 ぐわんぐわんと脳を揺さぶられる感覚。吐き気を誘う轟音の中、ばちりと、激痛がスパークする。


「ごめんなさい」


 そんな弱っちい声出したって誰もお前のことなんか気にかけないし愛さないんだよ。余計な心配させんなクソが。こっちは大したことないようにしてんだ、そのくらい分かるんだよ。このろくでなし。

 スパーク。稲妻の閃き。


「ごめんなさい」


 もっと。はっきり。何がごめんなさいなんだよ。言ってみろ。言えないってことはそう思ってないってことなんだろ。言葉だけ並べて済むと思うな。あたしが納得できるように言ってみろ。ほら。言ってみろってんだよ。それができないからあの人はお前を捨てたんだ。季依を連れて出て行ったんだ。お前があたしからあの人と娘を奪ったんだ。お前のせいだ。全部お前のせいだ。お前が全部悪いんだ。

 スパーク。


「ごめんなさい」


 何がごめんなさいなんだよ。ちゃんと言え。言えよ。

 背中に落ちる衝撃。食いしばった歯列。視界の端に転がる酒瓶。噎せ返るアルコール臭。塞き止めていたそれが、今流れ出したのを、それでも僕は少し幸運だと思った。彼の目に触れさせずに済んだ。こんな姿を、見せずに済んだ。

 スパーク。


「言うことに背いて、心配を、かけてすみません、ごめんなさい、僕は大丈夫です、よく分かってます、分かりました、だから、殴らないで、終わりにしてください、やめて……」


 俯せに倒れ込んだきり、体がぴくりとも動かない。痺れたような重たさが全身に満ちる。今も残っている傷跡が、かつてあった痣が、痛い。涙腺が壊れてしまったように、涙ばかり床に落ちて音を立てる。でもここで逃げ出せば、母は、壊れる。母が背負いきれないものを、僕はこのまま背負って、持っていなくちゃならない。誰にも渡しちゃいけない。誰も壊さず、誰も苦しめず、誰にも心配をかけずに……。

 ひとりで。自分の中にあるものだけで、生きていく。


「そうでしょう、おばあちゃん」


 ぽつり、と落とした言葉で、痺れがふっと抜けていくような気がした。がくがくと震えながら、言葉を待って。


「……きみくん」


 ほろり。零れ落ちる。


「お料理しよう、きみくん。今日は何が食べたい?」

「なんでも言ってごらん、おばあちゃんが教えてあげるから。なんでも、なんでもいいから、言ってごらん……」

「言えないよ、おばあちゃん。言えない」


 言えない。こんなこと、言えない。


「何事にも、対価が必要なんだ。だけど、でも、聞いてもらうための対価なんて、そんなもの……僕は、持ってない。僕はただ……ただ彼から奪うだけ。何も与えられないまま、奪うだけで、いつか、いつか僕は、彼を……彼を壊してしまう。奪うことしか、できない、僕は……僕は、彼を壊すくらいなら、このままで、いい、このままがいい、このまま……」

「きみくんが壊れるより悪いことなんて、おばあちゃんには」

「いや違う」


 遮った言葉は苦く。はは、と自嘲的な笑いが飛び出した口に、溢れた涙が入って塩辛かった。


「もう壊れてる。……とっくの昔に、壊れてる」


 *  *  *


 逃げるように、よろめきながら部屋を出ていった彼の背が、扉の向こうに消えた。どうにか隠し通したのだと思った。彼自身も、そして、それ以上に僕自身も。怪しまれることなく、警戒させることなく、あくまでも親切で優しい同期として振る舞いきった。このフラグが、僕には必要だった。この姿を彼の目に触れさせることが、どうしても。

 キッチンを通り過ぎると、まだ残っているホットチョコレートの香りが濃厚に漂っていた。部屋に戻り、クローゼットを開ける。慎重に、物音を立てないように。彼はここを閉めたのを怪しんだだろうか。物陰に溶けるように隠れていた受信機を取り出し、イヤホンを耳に入れて、少しずつ音量を上げていく。微かにノイズが聞こえてくる。ノイズとしか思えなかったそれが、荒い吐息であると分かる。その合間にわずか、すすり泣くような、言葉になりきらない声が零れ落ちる。

 ――……。

 聞き取りそこねた声は決して大きくはない。さっき聞こえた物音からするに、廊下にそのまま倒れ込んだのだろう。くぐもっているのは、何かしら被っているのか、或いは頭を抱えているのか。

 受信機を持ったまま立ち上がり、部屋の入り口まで戻る。こうすると廊下全体が見渡せる。この部屋の間取りと君の部屋の間取りとは同じだ。玄関は明るかったが、空っぽで、そしてしんと静まり返っている。ちょうどその辺りに、君がいるのだろう。でも寝転んでいるのか、しゃがみこんでいるのかは分からない。その姿は思い描けない。ただ、声だけは、聞こえる。

 ――ごめんなさい。

 搾り出すように、その声は紡いだ。


「……君が何をしたって言うんだろうね?」


 ぽつりと零した言葉は君に届かない。知っている。君は今、そのひとりぼっちの部屋で、何かと戦っている。おばあちゃんの手を借りて。でも、やっぱりひとりぼっちで戦っている。僕が差し伸べた手を振り払ってまで、ひとりになって。多分、それも自分の負うべきものだと思ってるんだろう。自分自身で乗り越えるべきものだと。他人の手を煩わせるわけには行かないと。或いは、もうそんなこともできないくらい、自分の中に根付いてしまったものなのかもしれない。

 でも、それにしたって君のおばあちゃんは既にいないし、お母さんだって同じようなものだろう。帰省はしないと君は言った。大学に上がる前は知らないけれど、大学に上がってからはもうほとんど会っていないのだろう。

 泣きながらごめんなさいと繰り返すような、そうして向かい合わざるを得ないような相手に、会いたいと思うのなら別かもしれないけど。


「……これ、すごく美味しい」


 そう言って笑った表情を思い出す。


「ごちそうさま」


 そう言って笑った表情も、一緒に思い出す。純粋な驚きを湛えた優しい微笑と、痛みに耐えるような寂しい微笑と。無理に笑っていたのだろうか。ああして笑っていた君が、壁一枚隔てた向こうで苦しんでいる。ここだから笑っていたのか、僕の前だから笑っていたのか。それとも、誰もいない場所だから苦しむことができるのか。

 ――殴らないで、終わりにして……やめて……。

 押し殺した、限界まで平板にした声が聞こえる。感情を殺しているのだと、そればかりがビリビリと伝わって来る。その平板さの向こう側に、傷つき血を流しながら耐える君が見える。傷を庇うこともしないまま、ただじっと打擲を受け続ける、それによって何かを守り抜こうとする君の、痛々しくも美しい姿が。そうやって何かを守って、自分は誰にも守られない。奉仕だ。既になくなったものに君は奉仕している。それが虚しいものであると理解できないまま。

 それは文字通り、虚無への供物だ。


「狂ってるよ」


 にい、と自分の口角が釣り上がるのが分かる。


「狂ってるんだよ、君は」


 狂っているから、だからこそ君は滑稽で、綺麗だ。狂っている君だから、好きだ。時間をかけて少しずつ、君の狂気を深めていこう。おばあちゃんを奪って、代わりに僕を与えよう。それからキッチンを奪って、君の料理を、味を奪って、何もかも奪って、そしていつか、僕は君から僕自身を奪う。その時の、窒息するような君の絶望が、君の狂気をどれほど、どれほどの深みにまで至らせるのか……。

 ぞくり、と全身が総毛立つ。ああ早く、早く手に入れたい。おばあちゃんなんて捨ててしまえ。そんなものに縋るのはやめてしまえ。全部捨てて身軽になって、そして、早くこっちへ。

 ――なんでも言ってごらん。


「そうだよ。なんでも言ってごらん。僕が聞いてあげる」


 囁いた声は届かない。届かないけれど、いずれ僕はそれを聞くことになるだろう。遠くない先に、この耳で。イヤホン越しなんかじゃない。君の声帯の震えを、僕の鼓膜が直接受けることになる。待つだけだ。既に君は、僕の差し伸べた手に触れたいと思い始めている。

 ――言えないよ。


「言えるよ。言える」


 僕はその時を待つだけだ。じっくり、のんびり。君がおばあちゃんと一緒に作った、虚無への供物を食べながら待つ。


「あとは時間だけだろう、君に必要なのは」


 ――対価が必要なんだ。

 震える彼の言葉に、僕は僅かに首をかしげる。


「もう受け取ったと思ったけどなあ」


 ちらりとやった視線の先に、三段重ねのタッパーがあった。これが対価でないなら、僕はもっと君から奪わなければならないわけだ。それは実際好都合と言っていい。僕は奪うことしかできない。君と一緒だ。なら、次は君のキッチンを奪おう。キッチンに立つ君の、その隣に僕が立つ。かつておばあちゃんが立っていた、その空白に。


「さて」


 タッパーを手に取った。

 晩ご飯にしよう。今晩はご馳走だ。


 *  *  *


 スイッチ・オン。

 がちゃりと扉を開けた、その音が二重になって聞こえた。何事かと視線を走らせると、隣室の扉が同じように開いているのが見えた。今日の二限は同じ講義を受けているから、部屋を出るタイミングが見事に被ってもおかしくはない。でも、それにしたってこんなにぴったり被らなくてもいい。扉を開ける音までぴったり揃うなんて。よりによって今日、昨日の今日で。


「……おはよう」


 見かけたからにはと声をかけると、彼はこちらを向いて、驚いたように目を見開いた。


「ああ、おはよう」


 にこ、と表情が崩れる。


「昨日の、食べた?」

「あ、うん。めっちゃ美味しかったよ、久しぶりにご飯おかわりしたもん」

「えっ、本当に?」


 飛び出した声が思ったよりもはしゃいでいて、自分で少し動揺した。


「うん、ホント。ありがとね」


 眩しい位の笑顔で、彼は言った。


「いえいえ、口に合って何より」


 答えた声が途中から笑い混じりになる。互いに笑い合うこのひと時は、どれほど貴重で幸せなものか。そう思うと、笑みは自然と深くなる。これが幸せなんだ。きっと。


「……行こうか」


 その向こうに感じた言いようのない不安は、見なかったことにした。そうしておきたかった。


「うん」


 そう応じて歩き出す。すると数歩も歩いたところで、彼はあっと小さく声を上げて引き返した。何事かと振り返ると、ポケットの中を滑稽なほど必死に探っているのが見えた。


「あっぶな、鍵閉めてなかったわ」

「あ、それは危ない」

「ね。危ない危ない」


 がちゃり、と鍵の回る音がする。


「よし、行こう」

「うん」


 後ろから来る彼の足音は、やっぱり不安になるほど静かだった。振り返ろうかと悩むほど音がしない。彼がポケットにしまったのであろう鍵だけが、ちゃりん、ちゃりん、と音を立てている。階段を下りていっても、やはり鍵の音だけが付いてくるようだった。でも、彼が背後にいるのはよく分かる。彼が視界の外にいるとき、時折感じるのだ。獲物を見据える蛇の目のような、じっとりと冷たく絡みつく視線を……。


「ところで君さ」

「うん?」


 階段を下り切ったところで、彼は唐突に言った。


「スノーボールクッキーの作り方って知ってたりする?」

「うん、作れるよ」

「おお、流石」


 流石と言われたのが少し嬉しかった。


「じゃあそれ、今度教えてくれない?」


 さらりと言われたそれに、少し背筋のぞわりとするのを感じた。


「……君に?」

「そう」


 つまり、僕が彼の隣に立って、教える。キッチンで。やりきれるだろうか、という思いが、真っ先に脳裏をよぎった。また昨日のようになったら、今度こそ僕は、取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない。


「僕で、いいの?」

「いやいや、君がいいんだよ」


 悪戯っぽく言う、そんな様子を見せられたら、断れない。心底ずるいと思う。どうしたって逆らえないじゃないか。君がいいだなんてそんなこと、言われてしまったら。


「本当に?」

「うん。まずはホットチョコレートの対価を、ねえ」


 対価。

 ……対価?

 それが、対価?


「ああ、でも別に都合が悪ければ他の人に――」

「ううん、大丈夫。僕でよければ」


 思わず言ってしまってから、はっとする。


「本当に?」


 驚いた、嬉しそうな表情を浮かべる彼の眼差しは。


「じゃあ今度日程を決めよう」


 蛇のように冷たく湿っている。


「……でも、どうして急に?」


 やっとの思いで発した問いを、彼はその眼差しで受け止め。

 それから一瞬、ほんの一瞬。

 にたあ、と笑った。


「いや、必要になったんだよ。ちょっとしたお供え物が」

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