8 こんなホテルに泊まりたくない!
「技術吏員・森山直樹 福祉部生活保護課勤務を命ずる」
2003年4月…恭子は隣市の病院に転職し、私も北部児童相談所から、大阪府庁の生活保護課に異動した。通常、一般職員の異動スパンは3年から4年であるが、私は2年と少しで北部児童相談所を出ることになった。どうやら恭子と結婚したことで、義母・佐倉広子と親族関係になったことがネックになったらしい。義母は非常勤職員ゆえ辞めさせるわけにもいかず、それなら私を異動させてしまおう。どこへ持っていく? 専門職を求めていた生活保護課や! ということのようである。
内々で山下所長から話があった際、国松課長は呆気に取られ、私を残すよう強く言ってくれたそうであるが、人事はそんなに簡単に覆るものではない。国松課長は異動内示後、
「また本庁に戻すんやったら、なんで北部に持ってきたんや…。俺の跡取りが…」
と悔しそうな表情を見せた。私は国松課長のそんな表情がうれしかった。でも、「国松マインド」は私の仕事の礎であり、国松課長の考え方や技はきちんと引き継いだと自負している。
生活保護…「福祉の原点」とも言われるが、私が学生時代、最も苦手としていた分野である。福祉事務所指導監査が主な仕事のようで、失礼ながら少しホッとした。生々しい生活現場に出ることはおそらくない。
どうやら生活保護課は生活保護現場経験者を求めていたようであるが、残念ながら私にはそのような経験はない。馬鹿にされるのが悔しかったので、生活保護手帳と別冊問答集を持ち歩き、必死になって勉強した。しかしながら、長時間残業や休日の急な電話連絡等がなくなったので、精神的にはかなり楽になった。
強い苦手意識を持っていた生活保護をはじめとする生活困窮者対策…その後の私の職業人人生の中で、ライフワークとも呼べる柱に育っていくのだからわからないものである。もし恭子と結婚していなかったら、私がこの世界に足を突っ込むことはなかったと思う。人生は、先の読めない物語である。
2003年8月。恭子と休暇を合わせて、1年ぶりに信州にやってきた。前回は恭子の紹介も兼ねて、木曽路にある私の行きつけの民宿に宿泊したが、今回は同じ信州でも目的地が異なるため、諏訪市内のビジネスホテルを利用することにした。「ビジネス」といいつつも、温泉大浴場のついた立派なホテルである。
初日の夜…恭子が泣き出した。オイオイ、また始まったぞ…。
部屋がタバコ臭い、壁にシミがあるから嫌だという。結局1時間以上泣き続け、最後は疲れて寝てしまった。旅行気分など台無しである。
帰宅後、早速義母から電話があった。旅行の事の顛末は聞いた。申し訳なかったと…。別に義母が謝ることではない。それよりも、やはり話が漏れていることが気になった。
一体この親子は何なんや…?
恭子に母親とのメールについて話を聞いた。別に深い意味はない。習慣みたいなものだという。思い返してみれば、私が友人たちとバイクツーリングに出かけることを了解していたにもかかわらず、とある瞬間から難色を示し始め、最後には心配だからと泣き始めたり、2人で海に出かけようかと決めていたのに、とある瞬間から、危険だからと難色を示し始めたり…。
「とある瞬間」の前にはおそらく義母とのメールでのやりとりがあり、無意識で遠隔操作されているに違いない。義母がNOと言えば、恭子もYESがNOに変わる…そう考えればすべて合点がいく。
バイクツーリングに反対される、お出かけが中止になる…はっきり言って、そんなことは些細な話である。ところがこの奇妙な親子関係が、数年後森山家に大きな亀裂を生み、空中分解につながっていく。義父は口数の多くない人であったが、どうやらそのことを懸念し、何とか食い止めようとしてくれていたようである。しかし、佐倉家の司令塔は義母である。最後は問題の切り口をすり替えて、自分の手は一切汚さず、人を使って間接的に私を攻撃してくることになるのだが…。
表面的には裕福で落ち着いた佐倉家…そこにはとんでもない家族病理が潜んでいたのである。