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6 結婚

 良いことは早くしましょうということで、結婚式は年内、2002年12月に挙げることになった。しかしながら、相手は「ええとこ」のお嬢様である。結納金やの式は高級ホテルでやの言われるのではないかと、親父と戦々恐々としていたが…


 結納不要、式は身内だけで小ぢんまりとしましょうということで落ち着いた。どうやら、佐倉家はそういう「儀式」にはあまり興味がないようである。結婚して数年後、恭子の祖母、すなわち佐倉さんの母が亡くなった際、お葬式すらしなかったのには驚いたが…。


 私自身も「儀式」に全く興味がないので、願ったり叶ったりである。結婚式は身内だけで執り行い、私と佐倉さんがいる北部児童相談所の皆さんが、別途披露宴を設定してくださった。皆さんの寄せ書きやたくさんのプレゼント…心底うれしく思うとともに、新生活への期待が泉のように湧き上がっていった。


 披露宴の最中、親父がテーブルに置かれた亡き母親の遺影を前に涙を見せた。たぶん心の中で、母親と会話をしていたのだろう。親としての責任を果たしたぞ。息子はいい奥さんをもらったぞと…。


 もし母親が生きていたならば、母親はこの結婚には反対したと思う。母親は鑑識眼の鋭い頭のいい人だった。私が5才の時に大阪市内から堺市へ引っ越しをし、私を溺愛する父方祖父母から私を引き離したエピソードは既報の通りである。ひどいことをするもんだと思っていたが、今は、私と祖父母が「一卵性…」になるのを防ぐためにそうしたのだと思える。


 だとすれば母親は、佐倉母娘が「一卵性親子」であるということ。そして、それが私の結婚生活、人生に何を引き起こすのかということを見抜いたと思う。


 母親が亡くなったのは1998年…私が26歳の誕生日を迎える直前である。決してマザコンではないが、私にとっては人生の見本であり、尊敬すべき偉大な母親であった。その存在がなくなったことから大きく狂い始めた人生の歯車…。


 過去に「たら」「れば」は禁句であるが、これだけは言わせて欲しい。


 母親が生きていてくれたら…

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