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すばらしき新世界へようこそ  作者: 金屋かつひさ
第5章 すばらしき新世界
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44 記憶障害

「こんにちはミオさん。気分はどう」

「はい、先生。だいぶ良くなりました」


 ドクターは部屋に入るなりミオに明るく呼びかけた。それに対するミオの返事は一見すると元気そうに聞こえる。しかしその口調は明らかに以前のミオがドクターに話しかけるものとは違っていた。どこか他人行儀なところが感じられた。


 哲也はエリカとともにベッドから少し離れた部屋の入り口あたりでドクターとミオの会話を聞いていた。状況を理解するのにはそれで十分だった。以前のミオならばドクターのことを「先生」と呼ぶはずはなかった。


“俺は間違っていたのだろうか”


 哲也の心に迷いが生じていた。ミオを連れてくるためにチップを破壊したのはミオのためでなく単なる自分のワガママだったのではないか。ミオの幸せのためにはチップを破壊すべきではなかったのではないか。


 哲也の迷いは大きくなる一方だった。確かに自分は「(はた)から見て不幸になる道であったとしても自分の責任のもとでそれを選び取るという自由」と言った。こうなる危険があると理解していながらミオのチップを破壊するという選択をしたのは自分だ。しかし果たして“本当に”理解していたのだろうか。


“俺は本当は何もわかっていなかったんじゃないだろうか”


 哲也は苦悩した。自分はわかったつもりになっていた。でも実はわかっていたのはほんの少しにすぎなかった。自分は能力が足りなかったのではないか。自分は自由を行使するのにふさわしい存在ではなかったのではないか。


 哲也の脳裏にレイラの言葉が響いた。


「自分が正しいと信じた選択でさえ偶然や想定外の事態に翻弄される。良かれとしたことが容易に自分や他人を傷つける。かつての私がそうだったように」


“もしかしたらレイラが過去に経験したのもこんなことだったのかもしれない”

 哲也は思った。


 彼は自分の選択が正しいと信じた。しかしそれがもたらした結果の重大さは彼の想定をはるかに超えていた。しかしそれは哲也の今回の選択に限ったことではない。ひとりの人間が事前に想定できることというのは選択の結果起こったこと全体のほんの一部でしかないことのほうが多い。レイラの言葉はまさにそのことを言っていたのだ。彼の能力が足りなかったからとは限らないのだ。そしてレイラは『個々人での進むべき道の選択』をその誤りの多さゆえに放棄し、政府という『集団による進むべき道の選択』を選んだのだ。


 しかしそれでも哲也には彼女の選んだ道が正しいとはどうしても思えなかった。選択の結果が想定を超えることが人の常だとしても、その超える量を小さくするために努力することは個々人でもできる。超えた結果を受け入れて前に進むことだってできる。


 でもミオは? 自分の選択の結果もたらされた不幸が自分以外の他者にまで及んだときに他者にそれを「受け入れろ」と言えるのだろうか。たとえ“自立した自由な人間”であったとしても他者にそこまで求めることができるほど偉い存在なのだろうか。


 哲也には答えを出すことができなかった。ただたったひとつだけ彼にも理解できていることがあった。自分は自分の選択のせいでミオの記憶を失わせてしまった。もしこの状態がずっと続くのだとしたら、自分は一生をかけてミオのために尽くそう、自分の自由をミオの幸せのために使おう、それが今自分が選ぶべき「選択」なのだ、ということを。


 ふと、哲也は顔を上げた。ミオがまっすぐに自分を見ていた。


 ミオは不思議そうに哲也を見ていた。その表情は自分が見ている対象が一体誰なのかをわかっていないことを示していた。

 哲也の心にどっと悲しみが押し寄せてきた。今ミオは自分の目の前にいる。しかし哲也の心は、ミオが永遠にどこか手の届かない場所に行ってしまったかのように感じていたのだ。


 哲也は一歩また一歩とミオのベッドに近づいた。それはまるで一歩ごとに彼と彼女の距離を確かめるかのようだった。

 哲也とミオは互いの息も感じられそうなほどに近づいた。しかしミオが哲也を見る目は、何か知らないものを見るようなままで変わらなかった。


「ミオ……」

 哲也は思わず声を漏らした。心の中から絞り出すような声だった。


 無言の時間が続いた。哲也にとって、それは永遠とも思える長さだった。


 ミオがぽつりとつぶやいた。


「テツ……ヤ?」


 その場に立つ全員がハッとした。自分たちの耳が信じられなかった。


「テツヤ、テツヤなのね!」


 ミオは歓喜の声をあげると哲也の首にすがりついた。哲也もミオを抱きしめた。


「ありがとう、ミオ。帰ってきてくれたんだね」


 喜び合うふたりを残して、エリカとドクターは病室を後にした。


「一体何が起こったんだ」

 エリカはあふれ出る喜びを押し殺すように静かな声で言った。


「きっとテツヤ君の声、そしてもしかしたら匂いがミオの記憶を呼び覚ましたのかも知れません」

「声と匂い、だと」

「そうです。聴覚というのは人間の五感のうちで、死に際しても最後まで残る感覚だと言われています。また嗅覚は人間の脳の最も古い領域、つまり本能に繋がっている感覚だとも言われています。匂いから過去の記憶や感情がよみがえる現象には『プルースト効果』という名前までついているくらいです」

「『失われた時を求めて』のマルセル・プルーストか。確かそんな描写があったな」

「ええ。ですからもしかしたら、そんな感覚である聴覚と嗅覚が心よりも深い位置にある“(たましい)”とでも呼ぶべき何かに響いたのかもしれません」

「“魂”か。普段の私なら一笑に付すところだが、あんなものを見せられると、この世にはまだまだ人知の及ばない何かがあると知らされるな」


 エリカがふっと微笑んだ。

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