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子羊たちの異世界恋愛事情   作者: 松田主水
1/1

夢のはじまり

 

 夢も現実も、戦いの連続。

 勝利者は何を望み、何を失い、手にするのだろう。

 

 

 

 

 私ではない…でも確かに『私』の物語…。 


 


 「天気は快晴、降水確率は0%。洗濯物もよく乾く、すごしやすい陽気となるでしょう」  

 朝のニュースでお天気お姉さんが、爽やかな笑顔で告げていた予報は当たったようだ。     

 昼過ぎの小春日和の空を、のんびりと雲が横切っていく。教室窓の外の気だるげな景色を、千奈(ちな)は頬杖をつきながら眺める。 (あぁ…あの雲に乗って、あたしものんびりと漂っていたい)

開いたままの白いノートの端っこに雲を落書きしながら、千奈は教室内に響くチョークの音に眉間を寄せる。不快なのではなく、むしろこのチョークの音が心地よすぎる。お昼ご飯で満たされた胃袋は、強烈な睡眠欲を引き寄せる。

 (…午後イチに古文とか…勘弁してよ…) 

 手の甲をつねっても、まぶたが落ちていくのを止めることができない。教師の話し声とチョークが黒板を走る音が、次第に遠くに聞こえてきた…視界もぼやける。

 「………っ」

 ずり落ちかけた頭を持ち上げ、黒板を睨む。机の上に転がるシャーペンを取ろうと、右手を浮かせたその時。

 「………ん?」 

 なぜか、自分の手は血塗れの剣を手にしていた。


 ◆◆◆


 薄暗い夕闇の中、小高い丘の上に彼らはいた。

 目の前に拡がる森と、その向こうに立ち上る煙と、灯りの群れ。その灯りの先に、この国の主の城があるはずだ。

 「ちょっと遅れちまったかな…?」

 葦毛の馬に跨がった若い男の呟きを、右隣に馬を並べた小柄な影が聞き咎める。

 「ねェ…マジで行くの?今から行っても間に合わないって。あの城は落ちるわ。落ちるとわかりきってる所に、なんで行かなきゃならないのよ!」

 男は応えずに、顎を撫でながら思案している。その様子に左隣にいる栗毛の馬に乗っている長髪の男が、やや呆れながらぼやく。

 「っていうか…その…姫さま?とっくに城から逃げ出してるって。高貴なご身分の連中は、家来や兵士なんて見捨てて自分らだけ尻捲(しりまく)って逃げちまうってのが、セオリーだろ?」

 「そーよね、絶対逃げてる。城の抜け道で待ってれば落ち合えるわよ。わざわざ城に行って戦うとか、面倒くさいのも必要もなし!」

 男を挟んだ両隣で男女が盛り上がるが、応える気配はない。そこにややずんぐりした、髭面(ひげづら)の年配の男性が寄ってくる。

 「隊長、アンタの予想通り。お姫さま達が逃げた痕跡はない…というか、抜け道にはとっくに敵兵が侵入してる。城内で火の手もあがっていたそうだ。城門が破られるのも時間の問題だろう」

 その報告に、男女は眉間にシワを寄せて「うわ、最悪」「なんでまだ逃げてないのよ、バカなの?」などと言いたい放題だ。すると思案していた男が首肯する。

 「その通り。あの女は、昔からバカなんだ」

 男の言葉に周りは目をむく。昔から?

 「時間がないな。仕方がない、王道だが陽動作戦でいこう。オレが囮になるから、お前らは本隊と城の下から潜ってきてくれ」

 絶望的な報告の内容に一向に動揺した様子もなく、男は迷いなく指示を出す。

 「バカはアンタだよ!隊長!オレ()殺す気!?」

 「そーよ!隊長が囮になってどーすんのよ!っていうか、下?下って、まさか下水!?アタシはイヤ!隊長(アンタ)が行け!」

 とたんに左右から罵声の応酬が始まったが、やはり男は動じない。その様子に髭面の男は苦笑しながらも、指示を配下へと伝えに行く。

 まだ若い隊長だが、勝ち目のない戦いはしない。これまでの実績が、それを裏付けている。まぁ今回もなんとかなるんだろう。 

 何より、自分らは半分死んでいるようなものだ。この救われることのない生き地獄の現状よりも、死ぬ方がマシという連中ばかりだし。しかし…。

 (焔に飲まれかけている城から、姫君を救い出す)

 なかなかロマンチックな死に方だな、と男は小さく笑った。

  


 それは悪夢のような光景だった。

 窓の外から響いてくる、おびただしい怒声と、悲鳴と。見下ろすと、夜闇を焦がすほどの松明の列が、破壊された城門から城内へと続いている。扉の向こうから、甲冑のぶつかる音と、剣戟(けんげき)に紛れて兵士の絶叫が絶え間なく聞こえる。

 少女は窓辺からゆっくりと離れて、腰に差している細身の剣に目をやると、ベルトの留め金を外す。

 その時、扉からまろぶように、一人の少年が飛び込んできた。10代半ばの小柄な少年だ。 

 「姉上!!早くお逃げくださ……!」

 少年は、剣をテーブルの上に置く少女の姿に目を疑った。すぐそこに敵兵が迫っているのに、護身の剣を手放すとは…。

 「姉…上?何を?」

 「ミラン、モリスを見ませんでした?」

 「それより…早く!もうこの城は……もうもちません…逃げて…」

 ミランは煤で汚れた顔を歪ませて、姉の手を取った。しかし少女はその手をゆっくりと外して、静かに首を振る。

 「モリスに怪我人や町の民を、城の裏手から逃がすように頼んでいたけれど…」

 全員を逃がし終わるまでの時間は、あまり残っていない。外で戦っている兵士も、もう限界だろう。

 「私が指揮官のもとへ投降して、民の助命を願い出てきます。ミラン、あなたは早くお逃げなさい」

 「な…!できませんよ!そんなこと!」

 ミランは激しく首を振る。我が身可愛さに、姉を見捨てて一人だけ生き延びるなど、愚かなことはできない。

 しかしミランが叫びかけたその時に、突然扉が開き一人の年配の男が入ってきた。

 「モリス!無事でしたか。もう全員脱出…」

 「申し訳ありません、奥様。裏手の秘密通路が…爆破されました。脱出は不可能です」

 少女の言葉を遮るように、男は絶望的な現実を、表情を変えることなく淡々と報告した。ミランは顔色を白くしたが、少女は静かに首肯しただけだった…覚悟は出来ている。

 無言で扉へと向かう姉の肩に、一瞬遅れてからミランは慌てて手を伸ばす。少女の手が扉に触れようとした時だった。

 「ーーー…!」

 外から、城を震わせるほどの大音響が響いてきた。はっと、3人は同時に窓へと視線を走らせる。これは、角笛の音…兵士たちへの突撃の合図だ。遅れて兵士の咆哮と絶叫が聞こえた。少女は窓へ駆け寄り、城下を見下ろす。城の中へ雪崩れ込む、新たな群れ。彼らの掲げる軍旗を見て、ミランは叫ぶ。

 「あれは……ラム兵団!?」

 あり得ない奇跡が、起きた。少女は驚きと歓喜に震えた。彼が、来てくれた…もう二度と会えないと思っていたのに。昔見た彼の姿を思い起こしながら、少女は目尻に涙を浮かべて彼の名を呟いた。

 


 ◆◆◆


 ガタンッと、大きな音が教室に響いた。

 「鳥井(とりい)?どうした?」

 教師からの問いかけに、はっと顔を上げた。椅子を倒して立ち上がった自分と、そんな自分に向けて一斉に降り注がれているクラスメイト達の視線と。すぐに状況は理解したので。

 「あ~…すみません…寝惚けました」

 と、正直に応える。応えた瞬間に、(ヤベ。正直すぎた)と思ったが後の祭り。教師はその解答に頷きながら「先生は正直者は大好きだ」と、言った。おっ?と千奈の表情が動きかけた時。

 「でも授業中に寝られるのは、それ以上にキライだ。5分、立ってろ」

 項垂(うなだ)れる千奈に、教室内のあちこちから失笑が漏れた。まさか授業中にどっぷり寝落ちするとは…と、熱くなった顔に右手をあてかけた時、鉄臭さを感じた。目を掠める、赤い色も。 

 「……っ!?」

 驚いて右手のひらを凝視したが、何も付いていない。一瞬、夢の情景が頭をよぎる。ドキリと、心臓が妙に大きく脈打った。

(ただの夢じゃん。なにビクついてんの、アタシ)

 自分を叱咤して、教室の時計の秒針を睨む。5分…早く、早く。

 秒針の動きをじれったく感じながら、千奈はしきりと右手を擦り続けた。


 右手にまだ、あの生温かいぬめった感触が残っていた。



◆◆◆


 夜空一面を、くすんだ灰色の雲が居座っている。

 時折雲間から射し込む月明かりが、山裾にのびる深い森を照らすが、生い茂る葉に遮られ地面までは届かない。そう…山道を騎乗で疾走する男の前にも、ただ重苦しい闇が広がるだけだ。

 整備された路ならともかく、密生した木々の隙間を縫うような獣道を、灯りも持たずに馬で駆けるなど自殺行為だ。馬も騎乗する主も、まともとはとても言い難い。しかし彼らは闇を恐れるどころか、迷いのない速さで暗闇を切り裂いていく。虫も獣も息を潜めて、深夜の静寂を荒らす彼らが駆け去っていくのを見つめていた。

 「………」

 ふと、男は手綱を引く。従順な馬は、不安定な山道の上に積もった落ち葉を散らしながら、疾走の勢いを巧く殺しつつ、停止した。主の無理な要求にも従ってくれる頼もしい相棒を労うように、軽くたてがみを手ですいて男は馬を降りる。鞍に引っ掛かけてきた矢筒を手にすると、片手をあげて合図をした。馬はそれだけで主の命令を理解し、静かに後退して木立に潜む。いつもながら、当意即妙なやりとりだ。 

 男は弓の弦の張りを確認しながら、少しずつ前進する。道から外れて緩やかな傾斜に差し掛かると、矢筒から矢を一本を引き抜いて、身体を低くする。傾斜を下った先に、人の手によって整備された路が見える。路からちょうど死角になる樹に身を隠して、男は目を閉じて耳をそばだてた。

 やがて、眼下の路をひとつの影が滑るように駆けてきた。頭から膝裏までの外套を羽織った影は、やがて男のほぼ正面の位置で、立ち止まる。それを待っていたように、男は静かに目を開いた。そしてーーー放つ。

 「……!…えっ!?」

 路に立つ影の背後の樹上から、何かが身動ぐ気配がして、突然影の足元に重いものが落ちてくる。とっさのことで反応が遅れて、一呼吸あとに驚いて影が後ずさった。やがて落下物から、短く痛みにうめく声が聞こえてくる。落ちた時の音からして、かなりの高さから受け身をとらずに背中から落ちたようだ。

 「…あ…あの、カイン?…大丈夫ですか?」

 影が、おそるおそる落下物を覗きこもうと、一歩近付きながら声をかける。その時、向かい側の樹上から呆れたような口調が聞こえた。

 「…阿呆か…オレはこっちだ…ミラン」

 ミランと呼ばれた影は、あわてて外套の内側を探り、携帯用のカンテラを取りだし、小さく呟く。ふわりと、炎よりもやわらかい光が灯り、外套に隠れていたミランの幼さの残る顔を照らし出す。そっと樹上を伺うと、軽やかに男が降りてきた。

 「うぇ…?えっ?じゃあ、これは誰!?」

 ミランは灯りを持ち上げて、弓をしまいながら近付く男ーカインの顔を確認する。灯りに照らされたカインは、ミランの手からカンテラを取り、落下物の様子を見ながらつまらなそうに応えた。

 「お前を殺して、密書を奪おうとした、勤勉な斥候サマだよ」

 「………?…密書?ボクそんなの持ってないけど…?」

 「うん、オレらがそう仕向けといたから」

 ほい、お疲れサン、とミランの手元にカンテラを戻すと、腰のベルトに巻いていた細いロープで器用に落下物を縛り上げる。まだ事態がよく飲み込めてないミランは、消化不良をおこしたような顔をする。

 「………すみません。なんか今、ものすごく非人道的な話を聞いたような…。えーと……つまり、ボクは囮役ってコトでしょうか?」

 「うん。ま、とりあえず帰ろうぜ」

 ちゃっちゃと手早く作業をするカインの背に、恨みのこもった視線が刺さるが、まったく意に介していない。ミランは彼から、この時間にこの場所へ来いと指示されていたのだ。ミランの姉には話せない重大事のため、誰にも言わず、見られず、幕舎の裏手から密かにと………。

 あ、それでか…と、ようやく納得する。こんな深夜に人目を避けて本陣を離れれば、斥候の目にはそれは怪しく見えたことだろう。とりあえず、事態は飲み込めた……しかし。

 「おい、なにボンヤリしてんだよ。先に行っちまうぞ」

 カインは、悪びれた様子もない。そうだ…この人はこーゆー人だよね…と、ミランは手で顔を覆う。泣いちゃダメよ、ミラン。男の子でしょ。

 カインは細身のミランより、頭ひとつ分背が高く、筋肉質の引き締まった身体をしている。短く刈り込んだ焦げ茶の髪と、暗い灰青色の瞳。黙っていればギリで、頼もしげなハンサムに見えないこともないが、口を開いたとたんに幻滅させる。少々機微に欠けるというか…。

 そのいささか機微に欠けるカインが、縛り上げた斥候を肩に担いだのを見て、ミランは眉間に皺を寄せる。

 「…なんでその斥候、わざわざ持ってくんですか。死んだんでしょ?」

 死体なんてその辺に転がしておけば、野犬たちが後始末をしてくれるのに…と、渋面でぼやくミランに、カイは振り返って応える。

 「うん、まぁ、死体だったら棄ててくけどな。コイツにはまだ生きててもらわないと、困るんだよ」

 ミランはちょっと目を見開いて、カンテラの灯りごしに男を見ながら表情で問う。彼の腕前なら暗闇の中でも、人ひとり射殺すことなど容易いのに…故意に生かした…何故にそんな手間をかけるのか?

 「っていうか、野郎だったら迷わずあの世に送るが…キレイなお姉ちゃんだしな。お前だってイヤだろ?」

 イヤだろ?って…。疑問形だが、明らかに同意を求める発言に、ミランはまじまじとカインを凝視した。自分を殺そうとしていた斥候の命を惜しむ理由が、一体どこにあるのか?まさか『キレイなお姉ちゃん』なら、暗殺も善しとすべきと?

 「…………なんで?」

 「え?…だってお前………」

 苦笑まじりに応えかけたカインが、ふと背後に視線を走らせた。カンテラの明かりの外に広がる深い暗闇に、ほんの数瞬意識を凝らしたが、すぐに口許に指を乗せて鋭く鳴らす。すると(やぶ)の中から、するりと馬が軽やかに躍り出てきた。驚くミランと、肩に担いでいた斥候を馬の背に放り込むと、カインはミランからカンテラを取り、次の瞬間には駆け出していた。馬は主とは逆に…ミランのやって来た方角に向かって駆けて行く。

 「…っ!ちょっ……カイン!」

 突然駆け出した馬の鞍にしがみつきながら、ミランは背後で小さくなっていく光に向かって叫んだ。ミランのすぐ前に荷物よろしく、腹這いで載せられている斥候がずり落ちそうになるのを、とっさに後ろ手に縛られた結び目を掴むことで支える。状況は飲み込めないが、夜目の効くカインが、わざわざカンテラを持って走るということは…何者からか、自分たちを逃がすための囮になっているのだろうと、察しがついた。

 彼を信じて、今は助けを呼びに行く。

 ミランは片手で手綱を手繰り寄せて体勢を整えると、ぐっと奥歯を噛みしめて前を睨んだ。 



 ミランが必死に馬の背にしがみついている頃。

 そこから人の足で半刻ほど行った先に、小さな森がある。森の奥…人も立ち入らない険しい峡谷に、いくつかの天幕と、少し離れた場所に繋がれた馬の姿も見える。天幕の内側から微かに人々の談笑と、天幕の周りを見回る夜番の兵士の足音が聞こえる。夜闇に染まる木々の間から、辺りを照らすやわらかな光が見えるが、不思議と松明の焼ける匂いも、火の粉のはぜる音も聞こえてこない。さらにその灯りは宙に浮遊していた。

 すると小振りの天幕から、小柄な影が出てきた。近くにいた見張りの兵士が、それに気付く。

 「シンシア様?いかがなさいました?」 

 背後からの声に、小さな影がびくっと跳ねる。そっと振り返って見知った顔を認めると、ほっと肩の力を抜いた。 

 「エレナ。ちょうど良かった、弟を…ミランを知りませんか?」

 「ミラン殿?……あの…カイ…隊長から聞いてませんか?」

 問いかける兵士…エレナは、首をかしげる少女の様子に目を見張る。こめかみに手をあてて数秒沈黙してから、エレナはとりあえず天幕の中にシンシアを伴って入った。天幕の中のランプに手をかざすと、すぐに灯りがともる。天幕の外の灯りもすべて、エレナ自身によるものだ。 

 「いつもながら、お見事ですね。詠唱なしで魔力を行使されるなんて…」 

 その言葉に、エレナは苦笑した。エレナは女性の平均的な身長だが、シンシアは彼女よりこぶしひとつ分は小さい。細くしなやかな小鹿のような肢体と、見る者を魅了してやまない愛くるしい美貌…思わず庇護欲をかきたてられる容姿だ。対してエレナは兵士らしく、全身ムダなく筋肉がついている。愛嬌のある顔立ちに、くるくるとよく動く大きな黒瞳、肩で結んでもあちこちに跳ねているクセの強い黒髪。腰までまっすぐに伸びているシンシアの金髪は、エレナにとって密かな憧れだ。

 「ありがとうございます、シンシア様。寒くはありませんか?よろしければお茶を淹れましょうか…」  

 「お茶なら私が淹れますわ。…いえ、これくらいはやらせて下さい。みなさんには助けて頂いてばかりで、私…なんのお礼もできないままなのに…」

 茶器を手にしようとしたエレナの手を取って、シンシアはうつむく。思わずエレナは呆けてしまった。

 (ちょっと…なんなのよ、このいい子ちゃんは…。美少女で健気って…反則じゃん…!) 

 伏せ目がちに茶器に手を伸ばすシンシアの頭を撫でてやりたくなって、手がわきわきしてしまう。が、その覚束(おぼつか)ない手付きにあわてて「お手伝いします」と、エレナはカップを手にした。一目で高級品とわかる茶器である…欠けでもしようものなら、あの口煩(うるさ)侍従(じじゅう)に何を言われることか…。 

 ハーブティーを淹れて、カップを手にシンシアは椅子に腰掛ける。エレナも椅子を勧められたが、それはさすがに辞退して立っている。ハーブティーをひとくち含んで、ほっと満足気な吐息を漏らしたシンシアに、エレナは静かに語りかけた。

 「…落ち着かれましたか?」

 「はい…何だか、お茶をいただくのがものすごく、久しぶりに感じます」 

 「無理もありません。この半月足らずの間に、いろいろなことが起こりすぎましたから…」

 やさしく労るエレナの言葉に、シンシアは目元が熱くなってきた。じわりと湧いてきた涙を、散らすように瞬きしてカップからたちのぼる湯気を眺める。

 そう……この国に来てまだ半月。『あの日』の出来事は、まだほんの7日前のことだ。ついこの間のことなのに…『あの日』をなぜか遠く感じている。ぼんやりとシンシアは思った…まるですべて他人事のようだったと……。



 今から300年ほど昔、人々は1つの大きな大陸に10の国を興した。10の国々はひとりの皇帝と、9人の王によって共同統治される《ヴァルド共和帝国》と呼ばれた。

 《ヴァルド共和帝国》は、大きく6つの自治領と4つの公国に分かれている。自治領は、6人のそれぞれの王が治める直轄地。公国は東西南北に、それぞれヴァルド帝室縁(ゆかり)の4人の侯爵により統治されている。つまり、ヴァルド帝室は共和帝国内の4ヶ国を支配する、実質的な最大勢力を有する一族なのだ。ちなみに、皇帝はこの4家の侯爵の中から選抜される。

 シンシアは西ヴァルド公国侯爵家の3番目の姫であるが、諸事情あり、シンシアと侯爵は本当の親子ではない。しかしシンシア自身は、正統な帝室の血縁者であるため、養女ではあったが、その立場は侯爵の他の姫達となんら変わらなかった。

 今から半月前に侯爵が決めた縁談により、シンシアは西ヴァルド公国の隣に位置するタルシード自治領の王室に嫁いできた。現タルシード王の第一王子との縁組みと聞いていたのだが…。

 タルシード城にたどり着いて2日後、ミランは頭をかきむしりながら叫んでいた。

 「ふざけてる!タルシード王との婚儀?冗談でしょ?王はもう70のジイサンですよ?」

 シンシアにあてがわれた南向きの一室で、右往左往するミランを眺めながら、当の本人はのんびりとお茶を飲んでいる。

 「とりあえず落ち着きなさい、ミラン。これはタルシード王家との縁談ですから、王家のどなたと婚姻を結ぶことになっても、おかしな話ではないのです」

 「イヤイヤ、おかしいでしょ!?なんで息子を差し置いて、息子より10以上若い姉上と結婚なんて話になるんです?」

 謁見の間で、シンシアはタルシード王とその息子のマグルーにはじめて対面したのだが、そこで事件が起きた。シンシアを一目見るなり、王は自分の正妃として迎えると宣言したのだ。その言葉に、謁見の間に控えていた臣下やマグルーは驚愕し、そして抗議した。どうやら彼らも寝耳に水だったらしい。

 「そもそも、マグルー殿下へ王位を譲るこの機会に、我が西ヴァルド公国との縁談を、王が望んだという話ですよね?僕は父からそのように聞いてます!息子の縁談を父親が横取りするなんて…!」

 シンシアもため息をついた。

 「私も…あれには驚きました」

 謁見の間は王の爆弾発言によって騒然となり、そして盛大な親子喧嘩が勃発した。今にも掴みかからんばかりの迫力で、怒鳴りながら王に詰め寄るマグルーと、それを押し留めようとする家臣の叫びと。玉座から息子に怒鳴り返す老王の姿に、シンシアとミランは呆気にとられながら眺めているしかなかった。

 そしてその結果…。

 シンシアは頬に手をあてて呟く。

 「まさかマグルー殿下を、城から出してしまわれるなんて…」

 タルシード自治領の南西部の国境近くに、山賊が出没し領民を悩ませている。王はマグルーに、一軍を率いて山賊の討伐をしてこいと命じたのだ。山賊相手に王子と軍が赴くなど、聞いたことがない…内容はもはや追放に近い…。

 命令が下されるや否や、翌日には王子は300の兵士を伴い城を後にした。見送りに赴いたシンシアとミランに、マグルーは笑顔で挨拶に応じてくれていたが。抑えきれない憤りのためか、表情には強張りがあった。そして…マグルーの進軍を見送ると、王はシンシアとの婚姻を早めると言い出した。

 「…姉上、本当にいいんですか?いや、よくない。いいわけないんです、やめましょう。70すぎたジイサンとなんて、あり得ない!とりあえず一度帰りましょうよ」

 なおも言い募るミランに、シンシアは苦笑で返すしかない。この縁談は、いわば両国家間の政略結婚である。先ほどシンシアが言った通り、姻戚による同盟が結ばれれば相手が誰であろうと問題はない。無論シンシアも『70すぎたジイサン』に進んで嫁ぎたいなどとは思っていないが、この縁談に自分の意志は関係ないのだ。

 しかし意外なところから、タルシード王の企みは阻まれた。


 

 カタンッ…と響いた微かな物音に、シンシアは物思いから覚めた。ティーカップをテーブルに置いたエレナは、シンシアの膝の上に小さな紙包みを置いた。

 「庶民の菓子ですので、お口に合うかわかりませんけど…よろしければお召し上がりください」

 シンシアが不思議そうに包みを開くと、中から甘い香りがした。

 「まぁ…懐かしい!ラッカですね」

 笑顔になってはしゃぐシンシアに、エレナはちょっと驚いた。ラッカとは砕いたクルミやハシバミの実に蜂蜜を絡めて、親指の先くらいの大きさに固めた食べものだ。先ほど言ったように、これは庶民が口にする菓子だ。貴族や王族が食べる機会は、ない…はずだ。エレナがそう問うと、シンシアは少し黙ってから「…昔、カインから頂きました」と小さく答えた。

 懐かしさと、もうひとつの感情を束の間よぎらせ、ラッカをひとつ頬張る。食事中にコリコリと音のなる物は下品だという理由で、こうしたものは目にしたこともなかった。はじめて食べた時、口内に響いた音に驚き、それ以上に素朴でやさしい甘味に感動した。ひとつ食べただけで顎が痛いと言うと、彼は呆れながらも笑ってくれた。あの、やさしい笑顔。

 甘い味が蘇らせた思い出を噛みしめながら、シンシアはゆっくりと肩の力を抜いた…久しぶりに自然と笑みが浮かんだ。

 「ミラン殿は、隊長と一緒に出掛けてます」

 目を見張らせて、シンシアはエレナを見上げた。エレナはやさしく微笑みながら、ゆっくりと続けた。

 「ちょっとお手伝い頂きたくて、街道に行ってます。隊長がいますから、なにも心配ありませんよ。どうぞご安心下さい」

 ふいに、シンシアは再び涙腺が弛んでくるのを感じた。弟の姿が見えないだけで、こんなにも心細さを感じていた自分の気持ちに寄り添うような、エレナの労りと優しさに胸が苦しくなった。

 さらに、エレナは続けた。

 「それと、シンシア様。どうぞ私達にお気遣いは無用に。私達は軍隊とは名ばかりの暴れるしか能のない、下賤の集まりです。むしろ、学も品もない粗野な連中の素行に、シンシア様がお気を悪くされることが多いでしょう。それが少々気がかりなくらいです」

 シンシアは、おどけた表情で語るエレナに目をみはる。ここ数日見てきた普段の彼女は、男ばりの豪快な言動が目立つが、それとは真逆の細やかな一面に好感が湧いてきた。

 「まさか…皆さんとても親切で、いい方達ばかりです。それに粗野…というよりも、気取らない、とても活気のある雰囲気です。私は好ましく思いますよ」

 「………そう…ですかね?」

 にこやかに応えるシンシアと、笑顔をひきつらせるエレナ。

 (え~と………親切とか気取らないとか聞こえだけど…)

 今、自分の言った内容に一切脚色はない。一歩間違えば山賊か、無法者の巣窟のようなこの隊の統制は、これまた信じられないことに、隊長のカインの力なくしてはあり得ない。

 ニコニコと笑顔でラッカを頬張るシンシアを眺めながら、エレナはしばし悩んだ。

 (…なんか激しく、このヤローどもを誤解しているようだけど……)

 このむさ苦しいヤローどもの殺伐とした空気を、気取らないと評するあたり…。

 (……恐ろしく天然だわ……)

 これは育ちの良さの弊害か、本人の気質によるものか。いずれにせよ、彼女とカインの関係性が掴めない。唯一の共通項は「昔」。

 しかし一介の兵士と王族が出会うことなど、通常ではまずあり得ない。ましてや、王宮の最奥で大勢の家臣や召し使いに護られた姫君…何かしらの異常事態でも起きない限り…。

 ふと、エレナは視線を感じてシンシアに意識を戻した。

 


 

 

 

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