依頼
自らの不注意、いや、この場合は不運だろうか、どちらにしろ目頭を抑えたい状況に変わりはない。
この私が如何程の精密さと早さを以って状況判断を行うのか、
何程先見の力に長けるのか、あるいは……どこまでの暴力に対抗できるのか。
目の前で煙草を燻らす彼女が、そんな私のありとあらゆる能力を推し量った上で、この場に臨んでいることは間違いなかった。
敵を知り己を知れば百戦危うからずと云う言葉がある。それならば逆に、敵の正体が分からず、己の素性や能力が丸裸にされていたなら、どんなに絶望的だろう。
要するに私は、このとき既に「どうしようもなかった」のだ。
***
「探偵社……ですか」
「ああそうだ。そして我々はある事件を追っている途中でね。
そこの黒鎧に膝を付かせたその腕を見込んで、こうして私から折り入って頼みにきたんだよ。
君には我が探偵社からの依頼を請け負う形で、我々と共にその事件を追ってもらいたいんだ。
クライアントや事件の詳細について多くは話せない。その代わり依頼を完遂できた暁には君の望む額の報酬を支払おう」
「そのような怪しいお話、私が請けると本当に思っています?」
その返答を予期していたのか、彼女はうんうんと頷き、それから優雅に笑って云う。
「旅行者の行方について…」
彼女は、私の驚愕を確かめるように、意地悪な間を挟む。
「…気になるかね?」
彼女が口にした言葉で、私は思わず目を見開いてしまった。
彼女は満足そうに微笑んでから、さらに言葉を続けた。
「そうとも、気になるだろう。
それは当然だよ。私たちは全て知った上で、この話を持ちかけたのだから。
悪いが君のことを調べさせてもらったよ。
君の素性、経歴、能力、君が彼を追う理由、すべてね」
なるほど、私が想像している以上に、私の置かれている状況は抜き差しならないものらしい。
この分だと、そこの黒鎧と相対した頃には既に、私は搦手の渦中だったのだろう。
「全く驚くべき素性だね。
果たして、本当の君は何者なのか……」
私は不快感をあらわにする。
「ああ、すまない、そんなことは今はどうでも良いんだ。
今、我々にとって大切なのは、君の能力だけでね。
もしその貴重な能力を以て、我々に協力してくれるのであれば十分な金銭と、それ以外の特別な対価も提供する用意がある。
つまり、一生遊んで暮らせるだけのお金と、君が追う"旅行者"の行方について我々が得た情報を渡すということだ」
私は歯噛みした。それは今の私が最も必要としているものだった。
もちろん彼女はそれを知った上で、交渉の条件として提示しているのだろう。
「見返りの内容には期待してもらって構わないと思うよ。
我々とそのクライアントを含めれば、君の情報を洗いざらい丸裸にできる程度の力は備えているから……
何だ、怪しいと言った顔だな。何なら君のスリーサイズを今この場でバラそうか」
「なーー」
「先週、君の組合の健康診断があったろう、そのときのものさ。確か上から……」
「や、やめなさい、云わなくて良い。
信じます…!信じますから!」
私は、火のついたように赤い顔をぶんぶん振りながら全力で拒否する。
「くっ、ふふっ…すまない。場を和まそうと思ったのだが…君も年頃の女子だものな」
彼女は、吹き出し笑った。
私は、軽く涙目になっていた。
「まあそう警戒しないで欲しいと…言っても無理か。
信じてもらえないだろうが、小賢しい手を使ってしまって申し訳なく思っているんだよ。
本来ならこんなスマートじゃない交渉はしないんだ」
「他人のプライバシーを平気で侵害するような人間のセリフとは思えません」
彼女は苦笑する。
「あはは、我々も大分後がなくてね…切羽詰っているんだよ」
その言葉は脅しにも聞こえる。「我々にも後がない」だから取りうる手段は選べない、と。
だが相手方の状況が分からぬ以上は、どれだけ穿って考えても所詮は憶測だった。
それに仮令、彼女らが力づくで命を奪うぞ、と脅しにきたとしても、私だって腕っ節にはそこそこ自信がある。
この場で取っ組み合いになろうとも、こちらとてただでやられはしない。
お互いに手痛い傷を負うことになれば本末転倒だし、脅迫を前提とした協力関係など、これから取り組むものが難事件であればあるほどに、役に立たないものになるだろう。
......であるならば、彼女は私にどうやって首を縦に振らせるつもりなのだろうか。
私は彼女の手管を計り兼ねていた。
警戒するにこしたことは無いが、情報が無ければ身動きも取れない。
ならばいっそ…と思い、こちらから聞くことにした。
「腹の探り合いはやめましょう。そちらの要求を話してください」
「そうだな、では短刀直入に言おう。
我々に君の戦闘能力を提供してもらいたい。
代わりに君には、我々の能力、情報を収集する能力を提供する。
この事件の解決後も、我々は君の"旅行者"探しに協力することも確約しよう。
そういう協力関係を結ぶことを、私は提案するというわけだ」
つまり、情報を餌に、私を、荒事に対抗する戦力として雇いたいということだった。
「そちらの要求は理解しましたけれど、対価の支払いについての約束が守られる保証はありません。
これでは私が圧倒的に不利な条件ではありませんか」
「必ず守る、なんて声色良く約束してみたところで、君の信頼は得られないだろうな」
「そうですね。いきなり襲いかかってきた上、突然呼び出して、開口一番、私のプライバシーを掻き荒らす人たちを信用しろというのは、到底無理な話です」
私は肩をすくめながら、言った。
「その通りだ。
だけれど、どうかひとまずは私の話を最後まで聞いてもらえまいか。
私にとって、そして君にとって、とても大切なことを、まだ少しも伝えられていないから」
苦笑しながら言って、彼女は立ち上がり、眺めの良い窓際へ歩み寄り、外を一瞥してから、こちらへ向き直り、それから一差し指を立ててみせる。
「この契約が正しく履行される保証が無い、という疑念については君の云う通りだ。
だから今回は我々が用意できる限りで、最も信用のおける機関に契約の仲介を依頼した」
「機関…ですか。たとえば、我々の協会のような」
機関、協会、ギルド、呼び名は多種多様だが、各産業、業種ごとに、会員の情報交換や相互扶助を主たる目的とした組織が、世界各地に設立されている。
私が所属する西方大陸魔法協会もそうだ。大陸西方部を主立った活動地域とする魔法使いの互助組織である。
各地にある組織の性質、規模、影響力、その差もまた様々だが、このような組織が、所属する組合員が結ぶ契約事について、後ろ盾となり信用を担保する、というのは良くある話だった。
彼女らの生業である「探偵」についても、業務の内容からすれば、なんらかのバックボーンがあると考えた方が自然だろう。
「ふふ、良い目の付け所だ。もちろん君の組合を通すというのも一つの選択肢だ。
だが今回に限っては、残念ながら不正解だよ」
彼女のモノクルが、窓から注ぐ西日を反射して、きらりと輝く。
「我が協会は...下手な組合などよりよほど信頼が置けます」
この西方大陸において大陸全土に三万を超える会員を抱える協会の規模は、大陸の最大宗教である神聖教会、六大強国の国家権力に次ぐ、世界で最も大きい権力の一つと言って差し支えない。
探偵の労働組合があったとしてその信用能力が、協会に勝るとは思えなかった。
「今回の後ろ盾は、我々の所属する探偵組合ではない。そして君の所属する西魔協会でもない」
「ならばどこへ...」
「この契約に関しては、帝国政務官立会いの元、帝国国務院から"正式な証書"を発行してもらう」
「これがその許可証」と云いながら、彼女はひらひらと書面を振ってみせる。
彼女はまるで、いたずらを仕掛けてくる子供のように笑いながら話す。
「帝国政府…ですか、確かにそれなら…」
「ああ、それも皇帝印付きの一番上等のやつ。ふふ、特別製ってやつさ」
「なっーー」
さしもの私も、これには思わず声をあげた。
がらがらと、事態が自分の思慮が及ばぬ領域に転ぶ音がする。
「皇帝印ですってーー…」
「そう、皇帝印」
皇帝印ーー分かりやすく云えば、この国で一番偉い人間しか用いることの出来ない印章のことだ。
皇帝勅令、あるいは国家間条約、そうった類いの文書に押される皇帝の御璽。
この印が押捺された書面は、この国の主権の及ぶ地域に於いては、最も強い強制力を持つ公文書となる。
そんな印の押された契約を反故にしようものなら、この国の軍隊が私を殺しに来るだろう。
「まあ端的に言えば、この国で最強の紙切れだよ」
彼女はくつくつと笑ってみせる。
「まさか、そんなこと…」
言って私は察した。
もし"そんなこと"があり得るとすれば、それがどう言った事態であるかを。
彼女が、クライアントについては明かせぬといった意味を。
彼女が語らずに伝えようとするその真意を。
彼女のモノクルの奥の金色の瞳が煌く。
私がまるで、彼女が予期した回答に至るのを待っていたかのように、再び話し始める。
「君は賢い。
今の私の話で、きっとこの事件の奥行きを察してくれただろう。
お察しの通り、この事件が解決できなければ最悪、我々の"クライアント"は身を滅ぼすことになる。
それが何を意味するか、君にも想像はつくだろう?
それは我々にとっても、君にとっても、非常に都合の悪い結果だ。
それだけはなんとしても避けねばならない」
私は彼女を見る。
「これが我々があとに引けぬ理由だ。理解いただけたかな」
「なるほど…ずいぶんと厄介なことに巻き込んでくれるのですね…」
私の視線に少しも臆せず、彼女は優雅に笑いかけてくる。
「...これを渡しておこう。
我々が今、君の信頼を得るために提示できる、せめてもの誠意の証だ」
ポケットから取り出し、彼女が顔の横にぶら下げて見せたのは、金色の懐中時計だった。
私は息を飲んだ。
決して見紛うはずもない。この世界に存在しない"彼の祖国"の"彼の家の紋章"が刻まれている懐中時計だった。
「これが、我々と君を引き合わせたものだ」
そう言って彼女は、私の手のひらに、鎖でぶら下げた懐中時計を乗せる。
「知り合いの魔法使いが云うには、まだ記憶が残っているそうだ。
"現像"の魔法で、この時計が経験した現実の断片を再生できるはずだとも言っていたよ。
これの持ち主が、これを最後に手にしていたとき一体何をしていたか…もしかすると分かるかも知れない」
「どうしてこれを……?」
「入手した経緯か、それとも渡す理由か。
まあ良い…両方答えよう」
彼女は続ける。
「さっき言ったように、これは我々の誠意の形だ。
突然君を襲撃したことへの詫びと、ここへ足を運んでくれた礼だ。
もしこの一件を君が断るのだとしても、それはそのまま持って行きなさい。
"旅行者"を探す手がかりとして、君の大きな助けになるだろう」
「だが...」と区切り、彼女は言う。
「私はこの一件を、君が断るべきではないと思っている」
彼女は私を見据え、力強い言葉で語りかけてくる。
「この時計は、"私の友人"が、持ち主《Traveler》から直接受け取ったものだ。
そしてその"私の友人"は、とある事件の調査中に突如消息を断った。
彼女は失踪直前までの潜伏先に、私への手紙と、この懐中時計を残していた。
その手紙に、この時計の持ち主についての微かな情報が書き綴られ、その最後に、"蒼の短剣へ届けられたし"という一文が添えてあった。
最初はその言葉の意味すら分からなかったが、詳しく調べていくうち、君に行き着いたというわけだ」
私は黙っていた。
彼女は一度、窓の外を遠目に見据え、それからもう一度私に向き直る。
「消息を断った彼女は、ちょうど1週間前、あの川のほとりで見つかったよ。
丁度ここから見える、向こうの橋の辺りだ。明け方、既に冷たくなっていた彼女を巡回中の警官が見つけたそうだ」
より強く芯のある声で言った。
「もう察しているだろうが、我々が追うことになる事件は、彼女が追っていた事件だ。
そして私にとってこの事件は、"親友が殺された事件"になった。
彼女が命を落とした理由は明白だ。
知ってしまったんだよ。この事件に関わる誰かにとって、とても不都合な事実をね。
そして、今のところ情報は少ないが、それでも確信を持って言える。
君の探している、"その時計の持ち主"は、間違いなくこの事件と繋がっている」
「君はこの事件に関わるべきだ。いいや、関わらねばならない。
もしかすると、この事件の中心に居るのは……
いや......すまない推測を重ねるのはよそう」
それから彼女は、今まで見せなかった感情を絞り出すような声で、付け加えるように言った。
「私は、この事件の真相を知りたいんだ」
彼女は締め括る。
「これで、私の話はおしまいだ」
筋道のたった論拠は無いが、私は彼女が「信頼に価する人間」であるように思えた。
まあ、女の勘というやつだ。
「こちらの要求する報酬はこの国の通貨できっちり20億リーカ。そして貴方がたの持つ"旅行者"についての情報すべてです」
「承知した。解決の暁には必ず支払おう」
ふっかけの額を即答で承諾する。
明らかに異常で危険な匂いのする依頼。
しかし彼が関わるのならば、私は命さえかなぐり捨てででも、その事件とやらの秘密を明らかにせねばならない。
「請けるか、請けないか、それは依頼の内容によります」
彼女が頷く。
「もちろん、それも君の自由だ」
彼女は、ぽんと手を叩き、立ち上がった。
「では、今日はひとまずここまでにしよう。
私から矢継ぎ早に話してしまったし、君にも、状況を整理し、頭を冷やす時間が必要だろう」
彼女は隣に置いていたスーツケースを取り、私に差し出す。
「これが今開示できる範囲で依頼内容をまとめた資料だ。持って帰りたまえ。
ああ…もし荷物になるなら、そこの鎧に運ばせようか…」
私は首を横に振った。
既に住処は知られているのだろうから、そちらの心配するのは無駄なのだろう。
それでもあんな無粋者と帰路を共にするのはご免だった。
「また明後日、この場所で返答を聞かせてもらえるかな」
頷く私に、彼女は満足気に笑む。
「承知した。では良い返事を期待しているよ。蒼の短剣、いや、お姫様...と呼んだ方がよろしいのかな」
私は言葉無く部屋を出た。
私は、どちらの呼び名も好きではなかった。