Act.0
『死』とは、何よりも辛くて、苦しくて、悲しいものである。
この仕事を始めてから特に、彼はそう考えることが多くなった。
死を間近に控えた人間は皆一様に、カウントダウンが0に近づくのに反比例して生にしがみつきたがる。まだいける、まだやれると自らに言い聞かせ、消え入りそうに頼りない命の灯火、その焔をいたずらにかき消して、苦悶と悲痛に醜く顔を歪めて散っていく。
「死にたくない」「助けてくれ」「まだやり残したことがあるんだ」…そう懇願する声を、彼はいくつも耳にした。不慮の事故や天災に見舞われた人は特にそれが顕著に現れ、なかには彼に向かって手を伸ばしてきたり足元にしがみついてきたり、果ては土下座をしてまで救いを求める者さえいた。
ときには何も要求せず、ただ静かに最期を待つだけ、というような者もいた。これは病に侵された者に多いのだが、それは死を受け入れたというわけでは決してない。すでに諦めてしまっているのだ。
抵抗をやめた人々の顔にはきまって深い絶望の影が射していて、そのような者が時折見せる微笑はときに、生にしがみつこうともがく者たちの姿よりも、はるかに惨めなものに見えることさえあった。
そんな人々の声を、心を、彼はいくつもいくつも身に受けてきた。
そして――そのすべてを、無視してきた。
心はまったく痛まない…そう言い切ってしまえば、それは完全に嘘でしかなかった。罪悪感に胸が押し潰されそうになったことも、目の前にいながら救い出す術を持たない自分を呪ったことも、一度や二度ではなかった。
けれど、仕方がないのだ。彼に人の生死は決められない。そんな権限は――ない。
彼に出来るのはただ、見つめ、迎え、還すだけ。
謝ることすら許されない――泣くことすらも。
人の死に私情を挟むことは禁忌であった。それが、彼の仕事。
そういうものなのである。
もっとも――同業者の中で死を前に心を痛める者など、彼の知る限りでは彼一人なのだけれど。
他の同業者は皆、何も考えず何も感じず、ただ黙って機械的に死を見つめるだけである。それが本来のあるべき姿なのだと頭では理解していても、心がそうすることを拒絶した。
けれど、表立ってそれを示すわけにはいかない。そんなことをしてしまえば、彼はすぐにでも居場所を失うであろう。
だから彼は、死を前に自ら仮面を被る。ときには冷酷な、ときには空虚な仮面。
もしかしたら他にも、自分のように仮面を被っている者がいるかもしれない――一度そう期待してみたことがあったが、それもすぐに裏切られた。
彼らの瞳に見えるのは、いつもきまって悲しみだった。生を諦めた人々が抱く絶望にも似たそれは、常に彼らを構成する要素の中に組み込まれている。他には何の感情もない。
仮面を被ろうにも、隠すべきものが何もないのだ。
泣けない代わりに、笑うこともかなわない。
それはきっとあまりに不条理なことで、けれど彼には、そうと言い切るだけの力がなかった。
そういうものなのである。
彼は胸の内に溜まったもやもやした何かを吐き出すように重いため息をつくと、まだ幼さの残る黒目がちな瞳をすっと動かした。
民家。たばこ屋。飲料水の自販機。古びた電話ボックス。名も知らぬ黄色い花。小屋の中で丸くなりすやすやと眠る子犬。十字路。二本の電信柱。
小さな町の、ありふれた風景。
けれど、彼は知っていた。
二本の電信柱の、その一方。十字路を渡って向こう側、彼の右向かいに立つそれの脇に、かつてはひしゃげた空き缶が転がっていたことを。
そして、それより以前のある時期には、その空き缶にも色とりどりの可憐な花が週ごとに生けられ、さらにその横には、幼い子供が喜ぶような菓子がたくさん供えられていたことを。
小さくとも平和なこの町で起こった、児童轢き逃げ事件。
小学二年生の少女が、居眠り運転の軽自動車に轢かれて死んだ。
その現場こそ、この十字路だったのだ。
容疑者である若い男の運転手は、目撃者がナンバーを記憶していたこともありすぐに逮捕された。だが、少女は病院に搬送されて一時間後に、静かに息を引き取った。
わずか七年と一ヶ月の、短すぎる生涯。
それを看取る人の群れの中に、彼もまた、いた。
声を上げて泣き崩れる母親。拳で壁を殴り続ける父親。まだ状況が理解できる年齢ではないのだろう、きょとんとした顔で両親を見上げる弟。
そして、ぎゅっと目を瞑りうなだれ、頭を振る医師や看護師たち。
しかし、彼の頬を雫が伝うこともなければ、瞳が潤むこともなかった。ただ少しだけ、この幼い弟が羨ましいと思った。
そして、それを咎める者は誰もいない。
そういうものなのである。
死の直前、少女は彼を、彼だけを見つめて、ぽつりと呟いた。
たった一言、「怖いよ」と。
彼はそれを無視した。何も答えなかった。仮面を被った自分には、答えられるはずもなかった。
彼はただ黙って、少女の魂が肉体を離れるのを見届けた。
ただ黙って、
少女の魂を、無に還した。
その刹那の少女の表情を、彼は今でも覚えている。七歳の少女が見せるにはあまりにも不釣合いな、ひどく悲しげな…それでいて、何かが吹っ切れたような、笑顔。
そこに射す影はやっぱり絶望の色をしていて、彼はまた自分を呪った。
ときには、彼にこの仕事を与えた存在を恨むこともあった。けれど、それもどうしようもないことである。彼の存在理由のすべては、この仕事のみにかかっているといっても過言ではなかった。
むしろ――それ以外に何と言い表せばよいのだろう。
せめて、謝罪だけはさせてほしかった。
そうしたところで許されるかどうかは、また別の問題なのだけれど。
件の空き缶は、それから少し経った頃に置かれ始めたものだった。少女が愛されていたという証が、そこには溢れていた。
けれど今はもう、この場所に事件の――少女の面影は、欠片として残っていない。あれから、ずいぶんと時間が経ちすぎた。
少女の家族は、とうに新しい生活を始めているのだろう。少女のいない生活。それがもう、当たり前になっているに違いない。
きっと立派な青年に成長したであろう弟は、幼くしていなくなった姉のことを――覚えているのだろうか。
考えたところで、彼には知る由もない。さらに言ってしまえば、それは彼にはまったくもって関係のないことだった。
それでも、何故だろうか。
なんだか、ひどく胸が痛んだ。
彼は一度目を伏せ、それから、ゆっくりと空を仰いだ。
ぼんやりとした、薄紫色の空。遠くには、やわらかな黄色い光。
もうすぐ――夜が明ける。
今日もまた、仕事がある。とても辛い、けれど決して逃げ出すわけにはいかない仕事。
この仕事以外、彼には何もないのだから。
「…ごめんなさい」
誰に対しての謝罪か、押し出すように呟いた言葉は、さわ、と吹き抜けた風がどこかへと運んだ。
彼の少し長めの黒髪が、ふわりと揺れる。
そして、
次の瞬間にはもう、彼の姿はそこにはなかった。
立ち去ったわけではない。文字どおりに、消えてしまった。
まるで、薄い闇色にとけこんでしまったかのように。
彼の黒い瞳も黒い髪も黒いローブも、なにもない。あるのはただ、民家。たばこ屋。飲料水の自販機。古びた電話ボックス。名も知らぬ黄色い花。小屋の中で丸くなりすやすやと眠る子犬。十字路。二本の電信柱。
小さな町の、ありふれた風景。
彼が消えるまさにその瞬間、夜勤帰りらしいサラリーマン風の男が十字路を通りがかった。が、男は眉ひとつ動かさずに、早足で家路へと歩を進めていった。
当然である。
何故なら男には、初めから彼の姿など見えていなかったのだから。そして、見える必要もない。
男だけではない。他の誰が通ったとして、彼の姿を認識できるのは、わずかばかりの特殊な人間だけであろう。そんな人に、彼は申し訳ないと思っていた。
見えるより、見えないほうがずっといい。出来ることなら、永遠に。
けれど、それも無駄な願いであった。
命あるものは必ず死ぬ。そして彼は、それを見つめる。
そういうものなのである。
<死神>とは、そういうものなのである。
†Act.0 了 Act.1に続く