濁世改定
「くぁ――ッ! もう一杯ッ!」
杯を掲げて叫ぶ。
ここは薄汚れた場末の酒場。
やくざ者たちが夜な夜な集まるほの暗い憩いの場である。
そこで私は今、酒を飲んでいたのだった。
――ぐびぐびと、深酒をしていたのだった。
「もう六杯目よ? そろそろ終わりにしたほうがいいんじゃないかしら」
ふんわりとした雰囲気の女が、隣の席から声をかけてくる。咎めるような内容とは裏腹に、柔らかいだけの声音だ。
空の杯を木の卓に叩きつけて、私は吐き捨てた。
「……これがッ、飲まないとやってられるもんですかッ!」
漂うおのれの吐息が酒臭い。目が釣り上がっているのが自分でもわかる。
じろりと視線を向ける私に、女が艶やかな唇を開く。
「またいつもの?」
「そうよ!」
その暖かく優しい、春風のような声が私の耳をくすぐる。が――そんな声調も、私の憤激を抑えることはできなかった。
「なんでチンコどもはあんなにあんななのに、私はこんなにこんななのッ!」
私の気勢を間近で感じても、女の柔らかい笑みは崩れない。
「ふふ。へるまちゃんったら相変わらずね……。あと男の人のことをちんこって言うのは止めたほうがいいと個人的に思うわ」
微笑む女。その名をセプレという――『一角白馬』の異名を持つ冒険者だ。私のギルド仲間でもある。
そう、私は冒険者だった。
同じ世界にありながら決定的に異なる魔境、『迷宮』。そこに侵入し金銭を稼ぐことを生業とする者たち。彼ら彼女らを指して、人々は冒険者と呼んだ。
多飲を諌めておきながら、セプレは私の手元に六杯目の酒を注いだ。セプレ自身は下戸なので、彼女の杯はほとんど減ってもいない。
注がれた酒を一息に流し込んで、私は気炎を吐き出す。
「くぅっ……なんて、なんて不平等! どうしてチンコどもは碌な努力もなしに、あんな筋力を手に入れられるのよ!」
セプレはあくまで穏やかに言う。
「この世がそうできているんだから仕方ないわ、へるまちゃん。それに、男の人の筋力には敵わないけれど、私たちにはあるじゃない」
微笑むように続ける。
「魔力が」
その言葉は、私の怒りに更なる薪を焼べた。
両眼が燃えるように熱くなり、ほとんど勝手に口が動く。
「魔力がなんだってのよっ! 私はっ! 筋力が欲しいの! ……それに魔術師でもない限り、チンコどもの筋力には到底勝てないわ……」
ギリ、と歯噛みする。
魔術師。
……ざっくばらんにいうならば、アホみたいに魔力の強い女のことだ。
男は力に優れ、女は魔力に優れる。その女の中でも、稀に非常に強力な魔力を持って生まれる者がいる。それが魔術師だ。
彼女たちは、その強力な魔力で肉体強化の魔術を使い、尋常ならざる筋力を長時間に渡って得ることができる。
その細腕で、男相手に殴り勝てる。
しかし翻せば、男の力に匹敵できる女は魔術師ぐらいしかいない。膂力。体格。体力。肉体のあらゆる点において男は女を凌駕している。
どれだけ頑張ったって、どれだけ祈ったって、それを覆すことはできない。
それはこの世の真理だった。
なんという理不尽、なんという不条理だろう。限界高度は生まれたときから決まっている――。
「は、ぁ……」
えもいわれぬ思いを宿した呼気が、虚空に消える。
――私は冒険者として伸び悩んでいた。
持てる戦闘技術は完全に身につけ終え、改良し尽くした。身体能力も限界まで鍛え上げている。
そんな私が次の段階に行くために足りないものは明確だった。
基礎の力、つまり筋力だ。
応用力は我ながら高い。
しかしそもそも応用するための基礎が、私には乏しい。
剣術には優れていても振るう剣そのものが劣悪。それが私だった。
目をつむる。
この閉塞した現状を打破できなければ後はもう、絶頂期である今から劣化していくしかない。年をとり、老いて、私は……
これ以上考えるな、ヘルマ。
セプレから杯を奪い、飲み干す。焼けるような喉ごしが脳髄を直撃する。
酒はいい。暗い気分を吹き飛ばしてくれる。
そうすれば、残るのは苛立ちだけ。どうにもならない悩みなんて、しないでいられる。
考える。怒りを燃やす。
私に男並みの筋力があれば。
私に魔術師を名乗れるほどの高い魔力があれば。
「……糞……糞チンコが」
近づいてきた男が私の台詞に震え上がって去っていく。
私はその後ろ姿を鼻で笑った。情けない男だ。
そう嘲るのは酷なのだろう。荒くれ者どもを拳骨ひとつで黙らせるここの厳つい店主でさえ、この状態の私に話しかけてくることはない。
だが私は奴らに情けなどかけない。
かけるものか。
この――情けないチンコが!
そこまで考えて、私は呻いた。
「くっ……」
その情けない男でさえ、私より力強い。
杯を握る手に力が入る。
私が願ってやまないものを、彼らは生まれた時から備えている。
怒り。嫉妬。虚しさ。絶望。様々な感情が入り乱れ、私を更なる酩酊の深みへと誘う。
心から統一性が失われ、波間を漂う流木のように私の芯が揺れた。
もはや私自身把握できない情動にまかせるまま、ギリギリと歯を鳴らして虚空を睨む。
今の私にとって、世界は理不尽そのものだった。黒く濁り、澱んでいるそれを、私は幻視した。
「ね、」とセプレの和やかな声が聞こえた。
ふっと気が逸れる。その声に吊り上げられるようにして、酩酊の淵から思考が引き返した。
セプレ。酒乱と化した私を避けないのはこの女だけだ。
「そういえばへるまちゃん、さっき男の人とどっかいってたみたいだけれど」
ずい、と変わらない表情で顔を寄せてくる。
何よ、とそちらを見やる。
セプレは白い髪を揺らし、
「ちゃんと処女だよね?」
と言った。
なんたることかッ!
この女、こともあろうに仕事仲間に向かって純潔の是非を尋ねてきたではないか……ッ!!
などと今更驚いたりなどはしない。
一角白馬のセプレことセリア=プリット=レクンドイユ。彼女は生粋の純潔主義者であった。
いや、はっきりいおう。処女信仰者であった。
穢れなき乙女の会などという怪しげな宗教団体を設立し、教主として少なくない信者たちを従えている。崇めているのは処女神とかいう聞いたことのない謎の神。おそらく実在しない。
なんだかんだで教会のために労力を割いている様子も無いのに、金回りは仲間内で最もよい。なぜ冒険者などというバクチ打ちを続けているのか正直さっぱり理解不能である。
――そんな女から投げかけられたるは、処女か否かという下世話極まりない問い。
まあ、普通の女なら、唖然とするか黙りこむか逃げ出すかであろう。しかし私とセプレはそれなりの付き合いだ。このやりとりも初めてではない。
「そうよ」
私は酒臭い吐息をセプレに吹きかけた。
あひぃとセプレが恍惚の吐息を漏らす。
そう。これが、これこそが……最適解であり最速法なのであった。なんの捻りもないなと言われればその通りだが、何事も奇を衒わない方が却って上手くいくものである。
何やら周囲がざわつくが、そんなものは一睨みすると収まった。
セプレは陶然として、
「ああ、よかった。処女こそ至高。処女こそ最高。天が与えたもう純粋なる美の形……!」
と酔いしれるように言う。
再びざわめく周囲。
私の一割も飲んでいないのに私よりよほど酔ってるように見えるけど、大丈夫なのだろうか。頭。
というかそもそも、こいつは一目で見分けられる『膜眼(本人命名)』という妙な特技を持っているのだ。本人に訊く必要性など本来皆無である。
このようにセプレは全体的にやり口がねっとりとしているというか、気色悪かった。セプレがうちのギルドでも屈指の変態だとされる所以である。
入団の際に全員の処女非処女を言い当てた事件など、忘れられる気がまったくしない。あれは酷かった。あの清純なアンナちゃんがまさか……いやこれはいい。
「はあ」
嘆息ひとつ。
まったく、変な奴の相手は疲れる。処女処女って品が無いったらありゃしない……。
宙に向かってそう呟くと、酔いが少し冷めた。
自分を省みて、さすがに飲みすぎだったかと反省する。
少し血の気が多くなりすぎてたわね。水でも飲んで頭冷やさないと……あ、店主さん、お冷いっぱ……
私の台詞を遮り、
「やっぱり美少女はみんな処女でいるべきよね。さすがへるまちゃん。事実、その悲しくなるくらいに貧しいお乳も処女補正で美点になってるんだよ」
「私はッ! 断じて貧乳ではない!」
何をほざくかこのユニコーン女郎ッ。
世界の真理に反する妄言を吐いたセプレに私は胸を押し付ける。
どうだ。確かに大きさには欠けるが、はっきりと柔らかさが感じられるだろう。さあ、その許されざる前言を速やかに撤回せよ!
「私の腕に肋骨がごりごり当たっているわ。まるで洗濯板のような胸ね」
セプレは明日の朝食何にする? とでも言うような調子で答えた。まったく平素な声音だった。
「…………………うぇ」
なんとも情けない嗚咽が一音、私の喉から漏れた。
……こいつ本当に人間か? それとも何? そういう魔物なの? 友人の心を抉るのが特徴の魔物なの?
ド外道な台詞を口しながらもセプレは変わらず微笑んでいて、そのお顔はかなり愛らしかった。
無垢とでもいうべきか。幼児に通ずる可愛いらしさだ。
ちくしょう。
お下劣ユニコーンの癖して美少女とは。
男どもの件といい、つくづく世界は間違っている。
はんっ。美人はいいですね。私なんて最近言われたのは……確か……「目が凛としている」「目つきが鋭い」「眼力すごい」「目ぇコワっ」「純潔へるまちゃんぺろぺろ」「目が怖い」。
…………。
「そんなに私の目が怖いかァ――ッ⁉︎」
「いい感じに酔いが回ってきたようね、へるまちゃん」
両腕を突き上げた後、卓につっぷす。こんな時でも無意識にささくれ立ちを避ける自分が憎い。
少し顔を上げてセプレを見る。
「うう……私そんなに目つき悪い……?」
「そうね……」
セプレは頬に手を当て、答えた。
「強いて悪くいえば、軽く虐殺とかしてそうな目つきよ」
「……強いて悪く言うなぁっ!」
ぐて、と項垂れる。
世界が回る。ぐるぐる回る。
「ううう……糞……」
「はいはい、帰りましょうね。へるまちゃん」
柔らかい腕が体に回され、浮遊感。尻と体の前面に優しい圧がかかる。
くて、と頭が前にもたれた。
微かに甘い上品な匂いが鼻腔をくすぐる。
僅かにまぶたを上げると、はっきりとした白髪。
背負われたのか、と私は得心した。セプレは特段大柄というわけではないが、私が小柄だ。重くはあるまい。そう朧げに考えて、大人しく身を預けた。
脱力した腕に力を入れて、その首に手を回す。
「では店主さん、これで失礼します」
じゃら、と音。硬貨の音。
付き合わせたのは私なんだから、せめて奢らせろ。
視界を支配する白色に、覚束ない口どりで抗議する。
セプレは「ふふ」と笑った。いつもなら胡散臭く感じるそれは、今ばかりは眠気を誘った。
ゆったりと、意識が闇に落ちていく。
最後に見た相変わらず綺麗なその白髪は、まるで本当のユニコーンのようだった。
……。
……糞。
*
というのも今は昨夜の話。
珍しく寝落ちてしまった私はあの後あのまま帰路に着き、ギルド所有の家で夜を過ごしたのだった。
一夜明けて。
私たちは、迷宮の入り口に立っていた。いわずとしれた迷宮探索。冒険者の本分だ。
今回、付き添いはセプレのみ。つまり二人だけの冒険となる。これは通常から考えると非常に少ない。
まあそれだけ危険度が低い迷宮に挑むというだけのこと。
私は眼前の『それ』に目を移した。
ぽっかりと、大地に開いた大穴。ともすれば巨大な生物の口腔のようにも思える不自然なそれ。瘴気、とでも言うべき禍々しい雰囲気を垂れ流し周囲の大気へ混ぜ込んでおり、ただ存在するだけで世界を侵食するような圧迫感を放っている。
そして、その奥底から舌のように伸びて来る階段――。
迷宮、その入り口だ。
「行きますか」
「行きましょう」
私たちは、石畳の階段に足をかけた。
そうすると、さあ、もう迷宮だ。
うなじがざわつく。
熱帯地域に放り出されたような、あるいは濃霧に入り込んだような、明確な違和感――。
これを知覚した時、私は自分が、人の常識が通用しない魔境に踏み込んだことをどうしようもなく意識する。
私の頭が、日常を謳歌するためのものから、戦うためのものに一瞬で切り替わる。
セプレもだ。先ほどまでとは明らかに目の色が違う。
感情の揺らぎが限りなく薄く、零に近づく。
迷宮の中に情緒は持ち込めない。
そんなことをすれば死ぬ。
今いるのは、そういう世界だ。
私たちは、階段を一段一段進んでいく。
余談だが――この『切り替え』、非常に大事なものであるという。
それなりにできる冒険者たちは皆これが可能であり、早死にしたり新米から抜け出せないような冒険者たちには不可能である、らしい。
まあ、適正というやつなのだろう。私の知り合いにできない冒険者はいないから、おそらく真実である。
――さて。
階段を降りきった先は、見渡す限りの石畳とその合間から伸びた大樹の群れが成す森が広がっていた。古びた石畳は濃緑に苔むし、草花が萌え出ている。そして高い木々とその枝葉が作る緑の天井からは、寒々しい色合いの木漏れ日が。ここ地下なのに。
これが迷宮、魔色の樹海。
準臨死級……つまり難易度順に上から四番目の迷宮で、出没する魔物は主に鳥獣系。時々蟲系。稀に植物系。といっても、実際遭遇するのは九割が単頭の魔犬という鳥獣系民魔だ。
ここは複数の区画に分かれており、それぞれ出現する魔物の傾向が違ってくる。
それは落ちてくる木漏れ日の色で判断できて、最初のここは青白く、奥へ進むにつれ暖色を帯びていく。ここ一帯の危険性は大して高くないが、木漏れ日が黄色になるあたりから凶悪な魔物が出始めるので要注意だ。
今回の目的は、単頭の魔犬10匹の討伐。
公魔、士魔、民魔と呼称される魔物の中で最も低格の民魔。それを10。難しい課題ではない。
しかし最低格といっても、民魔が弱いわけではないので侮ってはならない――というのは、冒険者なら聞き飽きた言葉だろう。
戦闘役は主に私で、セプレは荷物係。
いつもなら四人くらいでくるのだが……ここは飽きるほど来ている危険性低めの迷宮であり、目標設定も気楽なので、この運びとなったのだった。
私は前を見たまま、小声で囁く。
「四番行くよ」
足元に広がる石畳には苔が生えていない部分がある。冒険者の通り道になっているところで、この迷宮における恒例の道筋だ。
苔が禿げてできた道路は、全部で四つ。私が指定したのは最も魔物の出入りが多い地域へ続くものである。
セプレは無言で頷き、歩き出した。
私も後に続く。
進む。進む。冷え冷えとした木漏れ日の中、二人の足音が控えめに鳴る。
……動員人数を考えればわかるように、今回は本格的な冒険ではない。いうなれば『本業』とは別の小遣い稼ぎだ。空いた時間にこうでもしないと懐が寒くてかなわないのだ。いつでも金欠、それが冒険者なのである。
私は両足に取り付けた六つの鞘から、すらりと一本の短剣を抜いた。
握った短剣の刃を鏡にして、後方を警戒する。魔力は視力周りの強化に完全集中。
両の目に熱が集まる感覚と共に、視覚の質がぐんと上がる。
ちなみに今まさに魔術を使っている私だが、魔術師ではない。
魔術師といっても二種類あるのだ。
ひとつは正真正銘の魔術師。私たち凡人がありえないと思うようなことを成し遂げてしまう連中。
もうひとつは劣化版の魔術使い。魔術は使えるけども、魔術師と呼ぶには貧相な魔力しか持たない連中。
区別するために玄魔術師、素魔術師といい分けることもある。
大多数が後者であり、私も勿論そうだ。
本職の魔術師からすれば失笑ものの魔術しか使えない半端者。剣でいえば、刃無しの鈍未満。
しかしそんなチンケな武器でも、あるとないでは天地の差だ。特に迷宮冒険においては使用の可不可が明確に生死を左右する。
――魔術。
その単語を、私は感慨深く反芻する。
魔術の習得は、とても、非常に、すんごく、大変だった。
魔術師、なんてほとんど御伽噺の単語のように思っていた私の周囲にまともな師匠など見つかるはずもなく。当時の貧相なツテを駆使して、幾重もの艱難辛苦を乗り越え、辿り着いたのが今のギルド。
ギルド長が魔術師だったのだ。
そしてなんだかんだあって仲間に入れてもらい、現在に至る。と。
結果から考えると、当時の選択は間違っていなかったといえる。
冒険者として、今の私は恵まれている。
冒険者などというものは所詮、いつ終わるともしれない綱渡りの生活を続けるやくざ者に過ぎない。駆け出しの頃の仲間が今も生き残っているのは望めないことで、昨夜酒杯を交わした人間の訃報がその次の日に届くなどというのはありふれた話である。
いや、死んだとわかれば相当いい方で、冒険者は最期、人知れず迷宮の肥やしになるのが定番なのであった。
その日暮らしが当たり前のこの業界で、そこそこ安定した生活を営んで。
生死の境目を行き来し心を病んだ人間が溢れる中で、わりと幸せな日々を送っていけて。
未来の心配など贅沢な悩みであろう。
それは、わかっている。
糞、という悪罵を、私は噛み殺した。
「もうすぐか」
極小さく呟く。
目配せ。
二人、頷きあう。
そろそろ目的地だった。
世界を穏やかに照らす光が、氷のような色から薄い翠色に変化してきている。
枝葉でできた天井から、水の中に揺蕩う光のような翠色がゆっくりと落ちてきて、石畳と私たちを照らした。
あの上はどうなっているんだろう……
そう思うが、私に確かめる術はない。
ここの大樹は異様に高く頑丈で表皮もツルツルだとか、『天井』付近には危険な魔物が棲んでいるらしいのだとか、登れない理由は色々あるけど。要するに。
私に力が足りないから、できない。
頭の中に反響したその一言が、封じ込めていた苛立ちをざわめかせる。薄皮一枚の下で情緒が蠢いていた。
――糞。駄目だ。
私は静かに頭を振った。
近頃の私はどうも不安定なようだった。迷宮を生き抜く上で必要な、鋼の如き冷徹さが維持できない。
積み重なった不快な感情が、歯車に挟まる異物のように思考の切り替えを妨げている。
深い吐息をついた時。
視界に、異物が映った。
足を止める。
首を動かさず手首を捻り、短剣の鏡で確認。
それは――犬だった。
茶色の毛をした大柄な犬。
右方の木陰に半ば隠れる形で潜んでいる……つもりなのだろう。しかし丸見えである。おそらく己の視点が低いから、上方からの視認に対する警戒が薄いのだ。他者の気持ちがわからない。知恵なき獣の定めである。
もちろん迷宮に棲んでいる以上、ただの獣ではない。
魔力の影響を受け変性した生物――魔物だ。
その名は単頭の魔犬。
いや単頭ってあんた頭が一つなのは当然じゃない。
といわれると確かにそうなのだが、二つ首や三つ首の魔物が有名すぎて、その低格版にあたるこの種類はこう名づけられたのだ。
チッと軽く舌を鳴らして、セプレに魔物の出現を知らせる。
足音が止んだ。
二人して足を止めたことに、犬は何か感じたのだろう。
早速、木陰から襲いかかってきた。
しかし、いくら犬が犬の常識を超えて俊敏であろうとも、これだけの距離があれば回避は容易い。
危うげなく避けて、向き合う。
セプレが大人しく後退するのを私は肌で感じた。
逃げる者と対峙する者。犬も戦う相手がわかったのだろう。殺意は明らかに私へと突き刺さってくる。
私は焦らず、肺の中の息を、ゆっくりと吐いた。
両の目玉にあらゆる魔力を、改めて集中。
全力で、見る。
四肢の位置。眼球の方向。筋肉の状態。姿勢。健康状態。
こいつらとは腐るほど戦ってきている。
その骨格から挙動の前動作、簡単な表情に至るまで、個体差を考えた上ですべて私は理解できる。
狙いは――
注意深く犬を観察し、私は結論する。
――私の首筋か。
犬が身構えた瞬間、限りなく純度の高い透明感が私の脳内を支配した。
研ぎ澄まされた感覚が、時の流れを遅くする。
ぐっ、と犬の体が地面に擦れるほど落ちた。
ゆっくりと四肢に力が入っていく。
入り終わる。
双眸が輝く。
その全身が攻撃の準備を完了する。
その様を、私は完全に認識していた。
お手軽魔術『照光』発動。
犬が攻撃動作に入った瞬間、つまり後戻りできなくなるその瞬間を狙っての一撃。一点に窄めた光が犬の片目に命中し、網膜を軽く灼いた。
犬の瞼が閉じる。
半瞬遅れて、犬の全身の力が解放された。
同時に、私は斜め前へ。
逆手に短剣を持った片腕を振りかぶり、下ろす。
「――ふッ!」
佇んでいた私の頚部は当然、犬の頭よりも上方にある。
それを狙う犬は地面を駆けるのではなく、斜め上へ跳ねるようにして来るわけだ。犬からすればひとっ飛びで詰められる間合いだし。
そして、盲いた犬が十分な高度に達し、牙での攻撃に移れるようになるのは、私がその場でじっと動かない場合のみ。
私が斜め前へ動けば中途半端な高さの犬が隣にいる。
その上には、短剣の切っ先。
突き降ろしが、犬の首に命中した。
――この魔物は並みの刃物では傷もつかない異常発達した背骨を持っているが、背骨を構成する骨同士の間には僅かな隙間が空いている。おそらく打撃などを受けた際にがっちり噛み合い、柔軟性の代わりに更なる防御力を得るのだろう。
だが、その仕組みにこそ付け入る隙がある。
この犬に限った話ではないが、人も魔物も一番弱いのは、守っていない場所ではなく、守った気でいる場所なのだ。
そこを狙えば一撃必殺。
肉の合間と骨の隙間をするりと縫い、短剣は脊髄に突き刺さっていた。
刹那。太い神経や血管を断った手応えを感じつつ、私は短剣を手放した。まだ犬の体は高速で運動中なのだ。放さないと私の腕がもげてしまう。
一瞬の邂逅が終わる。
犬はすっ飛んで行き、胴体から地面に落ちた。そのままの勢いで何度か転がって、全身苔まみれで止まる。
横目で確認すると、横たわった状態でびくびくと震えている。
もう首から下は動かせないだろう。
「ん……」
痙攣する犬に近づき、短剣を掻き回しながら引き抜く。
すると途端に、毛皮に埋れた小さな傷から夥しい量の血液が溢れかえった。どくどくと、心臓の鼓動だろう。それに合わせて赤い噴水が上がる。
飽きる間もなく、石畳は赤色に染まった。
出血が終わり、やがて痙攣も止まる。死んだのだ。
腕を振り、短剣に付着した体液を払う。
死体を見つめながら、大きく息を吸い、吐く。
手に、命を奪う感触が残っている。意外と弾力のある脊髄を貫く感触。
実のところ、嫌いではない。
奪命とは究極の略奪。相手の存在を丸ごと奪って自分の物にするという食事にも似た行為。根源的な支配欲をこれでもかと満たしてくれる。
迷宮内においては冷静たらんとしているが、この瞬間だけは抑えがたい興奮を覚えてしまう。棚上げしていた苛立ちさえもが僅かながらすっとする。
いけない……警戒しなくては。
一瞬仄暗い陶酔に入り込んでいた思考を、頭を振って正常化する。
糞。
これで三度目……今の私は本当に駄目だ。これが終わったら、しばらく休暇をとろう。酒飲もう。
心に誓って、周囲に視線を巡らせる。犬は半日くらいここに寄ってくることはないだろうが、もしかしたら他の魔物が出てくるかもしれない。過去に一度も起こっていない万が一だが、無視するには危険すぎる可能性である。
視界の端で、セプレが犬の死骸から爪と背骨の一部を切り取っている。
魔物の体は金になるのだ。冒険者が迷宮に来る最大の理由である。ちなみに、セプレの目当ては換金額が最高の二箇所だ。いや、正確にいうと内臓が一番高く売れるのだが、処理や持ち運びの観点からそれは廃棄。
あっという間にバラされる単頭の魔犬。
こいつは犬のくせに群れず、同種の死臭を感知すると逃げるという特徴を持つ。おかげで冒険者たちは軽い休憩をとって次の一戦に備えることができる。この迷宮の危険性が低いとされる所以だ。
背中の袋に収獲物を入れ、セプレが立ち上がる。
妄に声をあげるのは警戒の都合上よろしくないので、目線で会話する。
――休憩は?
――要らない。
無言の問いかけに応えた時、セプレの白い眉がピクリと動いた。ふんふんと小さく鼻を鳴らす。
セプレは足元に転がる小石を蹴り上げ片手で受け取り、離れた大樹の根元へ投げ放つ。
風を切って飛んだ小石は頑丈な根に命中――しなかった。その直前の何もないところに当たり、跳ね返る。小石があらぬところに落ちると同時に、一匹の虫が虚空から現れた。
紫に白い斑という奇妙な模様を持つその虫は、ひっくり返って細い肢を痙攣させている。その棘だらけの甲殻は何かと衝突したように深く凹んでいた。
虫も殺さないような顔をしたセプレが歩み寄り、ぐりゅっと虫を潰す。拳大の蟲系魔物は体液を撒き散らしながら四散した。
この虫、名称を透明虫という。
名前そのまんま透明になって潜むという能力を持つ民魔だ。特殊能力持ちなので戦闘能力は碌にない。大抵は鳥獣系の魔物にひっついて一緒に透明化させ、おこぼれにあずかっている寄生型の魔物。
こいつがひっつくだけで魔物の危険度が激増する。しかも斃してもロクな素材にならない。更にキモい。
三点揃ってまさしく害虫だった。
冒険者界隈でも見つけ次第殺すことが推奨されている。しかしそれでも一向に数が減らず、実は高位魔物の眷属ではないかとの憶測が飛び交っている。
独特の臭いがするので最初からその存在を警戒してさえいれば発見は難しくない。現在私は視力を強化しているが、セプレは嗅覚を強化している。透明虫を発見するためだ。
いやまあ、こんな話はどうでもいいのだ。
問題は――後方に現れた魔物。
背筋にぴりっとした感覚が走る。
これは、よろしくない気配だ。
私は再度、舌を鳴らした。歩き出そうとしていたセプレの足が止まる。
魔物と遭遇する生活をある程度送っていると、その本質的な強さ、とでもいうべきものが肌でわかるようになってくる。民魔だと軽く神経が昂ぶる。下級の士魔だと肌が焼けるような、上級の士魔だと焦げるような感触がある。公魔は……一度見かけたことがあるが、気絶した。強いていうなら、灼熱の津波に飲み込まれたような感覚だったか。
これは、それとは別枠の感覚だ。
伝わってくる強さは、民魔のそれと変わらない。しかしそれに付随してくるこの感覚は、熟練の戦士のそれに似通っていた。
強い、のではなく、危ない。
剣そのものの品質が高い、のではなく、持ち主の技量が高い。
そんな感覚。
ところで話は変わるが――世の中には、本当に同じ人間かどうか疑ってしまうような超人がいる。
魔術師などその最たるものだし、天才だとか鬼才だとか呼ばれる人間もそうだろう。
人間の中には、恐ろしい天才がいる。
ならば。
魔物の中にもそういうのがいたとしても、おかしくはないのではないだろうか。
人間に英傑がいれば、魔物にだって英傑はいる。
戦いの天才。
現れたのは、そんな英傑だった。
*
見た目に大した違いがあるわけではない。
種別も同じ、単頭の魔犬。所々――傷跡であろう――毛が変色しており、歴戦と長生を思わせる。
それだけ。それだけだ。
なのに――違った。
明らかに、格が違う。
泰然とこちらへ歩み寄って来るその姿には、獣らしからぬ隙があった。明確が隙が。誘うように、尾を柔らかく振っている。
それは陽動だった。勿論、普通の犬はこのような仕草はしない。
背に汗が滲んだことを私は自覚した。
目を、見る。
爛々と輝く黄色の双眸。他の人間にはわからないであろう。しかし、幾多もの犬と対峙し葬ってきた私にはわかった。
その瞳には、知性の光があった。
王魔の、卵。
間違いない。
ああ、最悪だ。
何も、今出てくることないではないか。
眩暈にも似た絶望が、心臓の鼓動を逸らせる。
なりふり構わず、私は叫んだ。
「逃げて!」
「逃げるわ」
涼やかな響きが追随する。ほとんど私の声と同時だった。
「え、っちょ……もっと、もっとなんかないの? ねえっ⁉︎」
「ないわ」
言葉を皮切に足音が遠ざかっていく。
信じられない薄情さであった。
いや……口答えされるよりか何倍もいいのだが。
セプレは荷物運搬役。少なくとも今回に限っては、邪魔にしかならない。
犬は見ると、泰然としている。余裕という言葉が透けて見えそうな雰囲気だった。
――さて、どうやって生き延びるか。
嘲笑うような視線をジリジリと感じながら、私は戦慄に肌を粟立たせる。
セプレのことはどうやら見逃して――そう、見逃してもらえたようだが、私も、というのは虫の良すぎる期待であろう。ただ逃げても、数歩進む前に首を齧り取られるのは必定である。
改めて手札を確認しよう。
私の装具は、四肢と指の負傷及び欠損を防ぐための、両腕と両脚を覆う赤翅硬質薄鎧・改二式。あとはありきたりの動きやすい服。
武器は、粗製の短剣三本、特別頑丈な青骨短剣三本。安物の毒針数十本。ギルド長から貰ったとっておき。
私の防御力は皆無といっていい。赤翅硬質薄鎧・改二式は保護を目的としたものであり、直接的な物理攻撃には大した耐性がない。よって一撃もらったら十中八九終わりである。
短剣六本は品質の違いはあれど特殊機能はないただの刃物だ。毒針は……忌々しいことに犬は毒に非常に強い種類である。効きはすまい。
よって私の鬼札は『とっておき』、ギルド長からいざという時に使えと渡されたアレになるわけだ。
なるわけだが。
「……こ……故障…………っ!」
雷を発し獣の類を麻痺させるという強力な魔導具は、起動しなかった。
肝心な時に役に立たない人、それがギルド長である。
あ、あ、あの、糞幼女……赤眉金髪女朗……ッ。
絶望した私を、一体誰が責められただろう。情緒の封印などとっくに吹き飛んでいた。
だが犬は、私の心情など斟酌しない。
私が陽動に掛からないと見ると、その瞳に刺々しい光を宿らせ、全身に力を込めた。地面に口付けるように、犬は頭を下げる。
気づいた時には、私の体は勝手に動いていた。今までの経験で染み付いた、完璧な回避。
体のすぐ隣を何かが猛烈な勢いで通り過ぎる。
避けた――思った瞬間。
強烈な衝撃が腹部を襲った。
汗が噴き出す。傾ぐ体を辛うじて支え、着地した犬の姿を捉えたまま、視界の端で腹を見る。
石が、めり込んでいた。それはぽとりと地面に落ちる。
一拍遅れて激烈な痛みが脳に届いた。
「いっ……ぐ……!」
突進は確かに避けていたはずだった。
一体、何が。
悠長な仕草で、犬が頭を下げる。その口元。そこには石が咥えられていた。涎の零れもない完璧な『掴み』だ。
石を投げ……!?
驚愕が私の体を駆け巡る。犬の口でそんなことできるのか、という疑問はモノが現実として存在している以上、もはや愚劣であった。
犬が力を込めた。
それを、私は見た。
投擲。
全身を鞭のようにしならせて放たれた石を、短剣で逸らせえたことは奇跡だった。
火花を散らしながら、石は後方へ消えて行く。受け流した片手はじんじんと痺れて、短剣を握ることさえ覚束ない。
犬はそんな私を笑った、そんな気がした。
ゆっくりと回るように歩き、少しずつ近づいてくる。
その一歩一歩をとってみても、身のこなしが違う。犬のことなら一晩語れるほど熟知している私だが、明らかに初めて見る種類の挙動だった。地力はそう変わらないはずなのに、私が見るに、おそらく肉体能力は五割増しだ。
それは人間の言葉でいうところの、そう。武術だった。自身の肉体の性質を理解し、戦いの中で鍛錬したのであろう。
これこそ、まさしく王魔の卵だ。
王魔の卵――それは、叡智を得た魔物。人間を超える魔力と膂力の上に、考える力さえ持って生まれた非常の獣。公魔をも見下ろす絶対神の卵。
人のように賢い魔物。それが王魔の卵だ。
人が魔物より秀でているところなど頭の良さだけだ。
その優位が消えてしまえば、人が魔物に適うわけがない。
私は犬の顔を見る。
その瞳は、凶悪というよりも性悪なそれだった。悪童が小虫を弄ぶ時に浮かべる表情。
いたぶっているのだ。私を。
感じたそれは正しかった。
それから、犬はある程度の距離を保ち、時折石を拾って投げることを繰り返した。その度に私の体に傷が増え、体が動かせなくなる。
苦し紛れに幾度か毒針を放ったが、犬は「知っているぞ」とでも言わんばかりにそのすべてを見切り、余裕をもって避けた。地面に落ちた針で遊んでさえしてみせた。
「あ……ぐ」
どっ、と私は倒れ伏した。
既に冗談では済まされない量の血が私の体内から流れ出てていた。服は四肢を除いて散り散りに破け、全身の至る所に打撲跡と内出血が散りばめられている。内臓も駄目だ。これは、破裂している。
力が入らない。
まるで全身の腱と筋が一本残らず断たれてしまったようだ。
ついにまっすぐ歩み寄ってくる犬の姿を前に、私は掠れる声を出した。
「……ここまで、なの……?」
犬が止まり、身構えた。最後は一息に殺すつもりなのだろう。その筋肉が絞られていく。
「せめて……せめて私に……――が、――があれば……」
翠色の木漏れ日がなんでもないように降り注いでいる。
「こんなやつけちょんけちょんにしてやるのに……!」
どことも知れない方向へ手を伸ばす。
「私に……」
頬に一筋の涙がつたう。
「チンコがあれば……!」
……カチリ。
何か、音が聞こえた気がした。
*
目蓋が開く。
見覚えのない天井が視界に広がった。
背中に伝わりくる感触は硬く、床に直接横たわっていることを私は知った。
冷やりとした未知の手触りを掌に感じながら、身を起こす。
そこは、灰色の部屋だった。
広くない部屋の中に垢抜けない意匠の金属製の家具が処狭しと並び、海の香りが流れ込む窓からは斜陽が差し込んでくる。
あれ、何してたんだっけ。
私はぼやけた頭を振った。
ふと、何かを感じた気がして振り返ると、寝台に一人の女性が腰掛けていた。壮麗な女性だった。
女性は不思議な色合いの髪をかき上げながら、美しい唇を開いた。
世界を震わせる、鈴のような声。
「わたしは――ちんこの精霊です」
「あなた頭大丈夫?」
反射的に言葉が出た。
女性は顔色を変えず、
「そのお言葉そのままお返しましょう」
と言い返してきた。
言葉を忘れる私に、女性は続けざまに言う。
「今際にちんこと言祝ぐようなあなたに、私を蔑む権利はないのですよ」
「……今際?」
「イマヮ」
女性はこくりと頷く。
今際。その言葉に額を押さえ、俯き――電撃が奔ったような気がした。
迷宮。犬。痛み。
愕然と目を見開き、声にならない嗚咽を漏らす。
ああ、そうだ。なぜ忘れていたのだ。
私は女性に詰め寄る。
「ここはどこ!? 私は……死んだの!?」
「ここは私の部屋で、あなたは生きています」
「生きて……」
生きている。
呆然と呟く私に、女性が言う。
「瀕死のあなたをここに招いたのです。ついでに怪我は治しておきました。感謝してもよいのですよ」
そうだ。それよりも、気にすべきことがある。
眼前の女性に焦点を移す。
「あなたは、一体……」
「わたしはちんこの精霊です」
「……。……あなたは一体……」
「わたしはちんこの精霊です」
「…………」
耳がおかしくなったのかという疑いと、最初の問答は幻聴だったのだという考えは飛散した。
口を半開きにしてパクパク開閉させる私に構わず、女性は再度口を開く。
「一日のうちに百回、自然に、かつ性的興奮を伴わずに、それでいて確固とした意思を込めて『ちんこ』……そう口にした女性」
情感たっぷりに言い放つ。
「つまり心の底からちんこを欲した女性の前に、わたしは現れるのです」
私はゴクリと唾を飲んだ。
たらり、と頬に汗がつたう。
こいつ…………モノホンのキチガイだわ。
ちんこちんこって。やんちゃ坊主が言うならまだわかる。でもね。ない。仮にも女性がこれはない。どうやらこの人、頭イッちゃってるわね。きっとどこかの男根崇拝の宗教施設でひどい目にでもあったんだわ――。
私は沈鬱な面持ちで彼女を哀れんだ。
見る限り手遅れである。知り合いに凄腕の治療魔術師がいるが、これはもうどうにもなるまい。
どのような手段でかは定かでないが、助けてもらったのは事実であるらしい。
私はせめて、と諭すように話しかける。
「チンコの精霊なんて、いるわけない」
そもそも精霊とは、高純度の魔力に魂が宿って生まれた魔物のことを指す。石精霊と闇精霊の二種類からなる純精霊とその他の亜精霊たち、それを総括して精霊と呼ぶのだ。純精霊は純粋な魔力だけで構成された魔物とされ、亜精霊はなんらかの性質が混じって色の付いた不純な魔力で構成された魔物とされる。
よって本当にチンコの精霊なるものが存在したとするとそれは亜精霊に分類されるわけだが、亜精霊の元となる不純な魔力に宿っているのは、大抵が『火の性質』や『水の性質』などの単純かつありふれたもの。『チンコの性質』などという複雑怪奇なものが魔力に染み付き亜精霊になるなどとは到底考えがたい。
という主旨の説明を、私はした。
「わたしの言う精霊とは、そういう杓子定規な分類法則に基づけるものではない、もっとスピリチュアルでファンタジックなモノなのです」
女性はこともなげに言ってみせる。
私は半笑いで、
「いやいや、じゃあなに? 酒の精霊とかもいるの?」
「そんなのいるわけないじゃないですか」
真顔の私の額に、ビキ、と青筋が立つ。
「そんな字面からして髭爺っぽい妖精なんて需要ありません。常識的に考えて」
「……。……どの口が言って……?」
辛うじてそう言った私は、相当怪訝な顔をしていたのだろう。ただえさえ目つきが悪いなどと評される顔だ。こうやると大抵の人間は怯えて体を竦ませる。
私の視線に、女性は怯えたように体を揺らし――ぁん、と喘いだ。
あん?
女性は頬を上気させ、不思議な色合いの瞳を輝かせる。
「ああその胡乱なものを見る目、いいです。はぁはぁ」
「気持ち悪い……」
完全な本音が口から漏れる。
これは流石に間違えたかと私は内心焦りを覚えたが、女性は息を荒げ、
「もう一声」
「……。冗談抜きでキモい」
「もっと!」
「変態」
「もあ!」
「変態! 変態っ!」
「……………………ふぅ……」
女性は爽やかな表情で額の汗を拭う。
「病み風味茶髪ロリに罵られるだなんて……なんというご褒美なのでしょう。これだけでご飯三杯いける」
なんだこいつ……。
乗っておきながら文句をいうのはどうかと思うが、なんだこいつ……。
わけのわからない言葉が所々混じるし(何をいいたいのかは雰囲気でなんとなく理解できるが)、狂っているのではないだろうが、洒落にならない変態濃度だ。
変態慣れしている私でさえたじろぐ領域である。
私は思った。やはりこいつ、変態か……
「いいえ。私は正真正銘、ちんこの精霊です」
あまりに呼吸の合った台詞に、私の肩が跳ねた。
驚愕している私を見て、女性は目を細めた。その表情に確信する。
思考を、読まれ……!?
ぐらり、と頭が揺れた気がした。
頭の中を読む術、というのは存在する。
人の感情に呼応する魔力の動きを感知して感情の変移を逆算するという、確かそういうものだったはずだ。しかしそれは、あくまで心の動きを大雑把に把握するだけのものであり、相手が思い浮かべている文字列を読み取るものではない。それなのにどうだ、こいつの顔には『わたしは変態ではないですよ』とハッキリ書かれているではないか。
変態だが、ただの変態ではない。
私を助けたことといい、常人とは何か違っている――それはわかっていたが、これはあからさまに、人間の領分を超えた行為だった。
「ええ。わたしは人を超えた、ちんこの精霊なのですから」
……ああ。
本当に。
突っ込みたい。
しかし、そうすれば負けの気がした。
「突っ込みたいのですか? ならまず突っ込むモノを授けましょう」
ふざけないで。
頭の中でそう返す。
もはや声を出すのも億劫だった。
「いえいえ。わたしはまさしくそのために此処にいるのですから」
何……?
眉をひそめていると、唐突に頭の中に声が響いた。
とにかくわたしがちんこの精霊であることを信じていただかなくてはなりませんね。
何!?
唖然とする私に、女性は不適に微笑んだ。次いで、頭に直接意思が届く。
わたしなにせちんこの精霊ですから……こんなこともできます。
え、ちょ……な……
うろたえる私へ、思念が容赦なく襲い掛かった。
ちんこおちんこおっちんこ〜。
げ、下品……!
頭に反響した音声のあまりの下劣さに、私は目を白黒させる。
ちんちちちちんおってぃんてぃん〜。
ってちょっと! これじゃ私が卑猥な歌考えてるみたいでしょ! やめなさい!
ちちんっちん。ちちんっちん。てぃてぃんてぅぃん。
あ、おい、やめ……
やめろっつってんでしょッ!
「信じられましたか?」
「悔しいけどね……」
ゼェゼェと荒い息をついて、私は汗を拭う。
駄目だ……常識的な観念が通用する相手ではない。
見た目は人間の姿をしているが、中身など知れたものではなかった。
いや、決めた。こいつは魔物だ。私の知らない、人の姿をとる魔物だ。
キッと視線を上げて、睨む。
「あなたがチンコの精霊だってことは信じてあげる。――結局、問題はそこじゃないんだから」
短剣の柄を握ろうとして、私はようやく、見覚えのない服を着ていることに気がついた。
焦り。服装が違うということは武装もない。
「あなた、なんのために私をここによんだの?」
いつでも動けるように体勢を整える私に、女性は「よくぞお訊きになりました」と胸を張った。
「そう、それはまさしく……ちんこを与えるためです」
「……いい加減に……っ!」
詰問しようとする私に手で制し、女性は続ける。
「先ほど言ったように、一日経過する前に百チンコを口に出すとわたしの元へと呼ばれます。そこでわたしは、ちんこを望む女性にそれを授けるのです」
口を閉じた後、女性は言い忘れたみたいに付け加える。
「あ、百ちんこと言いましたけれど、条件はそれだけではなくて……綺麗なひとだけですね。美女美少女美幼女にちんこが生えるのがいいのであって、不細工にちんこが生えても」
ちょっと……と女性は続けて、「わかるでしょ?」的な視線を寄こす。
それを完全に無視して、ふと思ったことを質問する。
「ちなみに私で何人目なの?」
「一人目です」
「おい」
何故か得意げな笑みを浮かべ、女性は話を戻した。
「あなたが死の間際直感的に察したように、ちんことは『男』の核です」
「核?」
「あなたの言葉でいうところの『男の性質』ですね。ともかく――」
女性ははっきりと言った。
「ちんこを手に入れれば、あなたは強くなります」
その言葉にくらりとしたのは、けして気のせいではなかった。
「……それで? あなたはなんで、他人を強くするなんて博愛的なことをしてるわけ?」
「や、強くなるのは副作用でぶっちゃけわたしはちんこが生えた美少女をじっくり鑑賞したいだけなの」
女性は言った後、「……おっと」と零した。わざとらしく咳をする。
私は途轍もなく残念な気分になった。
じろりと睨むと、女性は顔色を悪くして瞳を揺らす。
「んん……こほん。はい。ええ。わたしは死に瀕した不幸な方たちを救おうと――ごめんなさい。可愛らしい女の子たちに禍々しい男根が生えているのが見たいのです」
「変態?」
「はい」
かくりと女性は俯いた。
不思議な色合いの髪の隙間から覗く頬が上気しているのに辟易する。
女性の声が止んで、耳が痛くなるほどの静けさが部屋を満たした。
誰も、何も喋らない――私は尻をもぞもぞさせた。
静寂にいたたまれなくなって、口を開く。
「……そ、それで? 強くなる……だっけ? あなたが……その……どうしてもって言うんなら? 私もやぶさかじゃない、こともない……こともないけど……」
女性がガバッと顔を上げた。
満面の笑みだった。
「じゃあ早速やりまっしょい!」
「この変態女朗」
女性は懐をごそごそと探り、爪程度の大きさの輝く玉を取り出した。女性の髪と同じ、世にも不思議な色合いである。
「それは?」
「わたしの魔力の使えない部分を凝縮した上で処理したもの。言ってみればうんこみたいなものですね」
「言ってみるな」
女性は窓から入りくる淡い日の光に玉をかざす。
玉は強く輝いて、赤く染まった。
その様に、密かに驚く。隠している様子でもないのに、魔力の動きが微塵も感じられなかったからだ。
こうも簡単に超常現象を突きつけられると、本当にこいつは人間ではないのだなと納得してしまう。
「これに術を編みこんでいます。後は飲み込むだけで発動します」
女性が差し出した玉を、私はそのまま口に含み、飲み下した。微かに塩のような味がした。
頭の中に声が響く。
思い切りがいいですね。
そっけなく応える。
今更迷ってもしかたないから。
赤い玉は、胃に入る前にすっと溶けた。
私の体中に私でないものが広がっていくのがわかる。
それは段々と私に馴染み、私の一部と化しながら、それは下腹部の一点に凝集した。
股間から――光が――包み込んで――
「ッッッ!」
私の眼球に映ったのは、襲いかかろうとする魔物だった。
犬だ。
英傑。王魔の卵。単頭の魔犬。
犬が空中に浮かびながらこちらへ接近してきていた。
胸に湧き上がる動揺を、私は自然に封印する。
どうやら私は、あの女性の元に連れてこられる瞬間に戻ってきたようだった。
しかし……。
犬を見る。ひどくゆっくりだ。
犬が遅いのではなく、私の感覚が速くなっているのだ。
まるで、時間が何倍にも引き伸ばされているよう。
今までとは比較にならないほど私の思考は透き通っていた。
なにはともあれ、避けなくては。
今、私は四つん這い。
そこから更に頭を下げる。四肢を曲げ、最低限のタメ。
――横へ回避して、犬の動きを目で追って、即座に来たら上へ逃げる。
両腕と両脚の力を解放しながら、そう一瞬で考え。
地面。
――地面?
犬を捉えていたはずの眼球に映ったのは、苔むした石畳。
近い。
このままだと顔から突っ込む。
「――ッ⁉︎」
咄嗟に腕で顔を庇う。
石畳が腕当てを削る感触を感じつつ、前転ぎみに地面を柔らかく押す――このまま石畳の上を転がるのは悪手だ――考えた私は全身の筋肉を使って、前方へ跳ねる。
何が何だかわからないまま、目に入ったのは一本の大樹。
ぎしっ、と木の幹に足を着けて、勢いを殺す。
体が、軽い? いや、これはいったい――?
迫り来る犬。その後方には弾け飛ぶ苔。犬はこちらへ飛びかかってきていた。
「――!」
着地する暇もなく、動きを抑えるためにたわめた両脚を、今度は跳躍のために目一杯伸ばす。
私は、地面と平行に跳んだ。
空を駆ける犬。その上スレスレの空間を、私の体が通る。
犬は反――私は反射的に短剣を振った。水面を切ったような感触。
空中でのすれ違いが終わる。
私と犬は石畳の苔を剥がしながらそれぞれ着地し、再び向き合う。
「なに…………?」
驚愕の声が漏れるのを、私は抑えられなかった。
こちらに振り返った犬の左眼は、周辺の肉ごと大きく抉り飛ばされていたのだ。
その時。頭に、声が響いた。
『はい。ちんこの精霊です』
「……説明して」
犬は牙をむきだしにして、低く唸る。片方だけになってしまった眼球が禍々しく光る。見るも痛々しい傷口が翠色の木漏れ日に照らされている。
滴った血液が石畳を汚して、草の緑を赤く上塗りした。
「――あれ、私がしたの?」
『わんちゃんのおめめのことを仰っているのなら、その通りです』
確かにあれは私の短剣が与えた傷だ。しかし私の力では、目蓋を浅く切るのがせいぜいのはず……
そもそも切った感触すらなかったというのに、と眉を寄せる。
いや……あの柔らかい手ごたえが『そう』だったのか?
犬と睨み合いながら、虚空に問いかける。
「私は強く……なったのよね?」
『はい』
「具体的にどう強くなったの」
『説明しましょう!』
甲高く響いた声に眉をしかめる。
『あなたは『男の性質』――つまり『男性』を得ましたが、これはわたし特製の術により、ある方向性をもって形を成しています』
「方向性……」
『あなたが『もし男として生を受けていた場合』の可能性を体現するということです』
「つまり……」
どういうことだ。
全力で犬を威嚇して、どうにか膠着状態を保ちながら、無言で更なる説明を要求する。
女性は心を読んだのか、即座に補足した。
『例えば、あなたの腕に男であった場合の筋力が宿るといった具合です。もちろん、体現するのは力だけではなく、重さ、体力、頑丈さ……などなど全部できます。オンオフ切り替えも完備です』
「……『男』の長所をまるごと手に入れたってこと?」
頭の中で尋ねると『そんなところですね。短所も体現できますよ』と返ってくる。
『そしてどうやら、あなたは男に生まれた場合……筋骨隆々の益荒男になっていたようですね』
大男の筋力でこの貧相な体を弾き出したら、どうなるか。
一撃の瞬間だけ大男の重さで攻撃すれば、どうなるか。
「これは……反則的ね」
私は唇を固く引き締める。そうでもしないと笑みが零れてしまいそうだ。
それはいけない……だって下品ではないか。
全身にかつてないほどの力が漲っている。
視力強化に注ぎ込んでいる魔力さえ、心なしか増しているように思えた。
短剣の柄を、握り締める。
犬は、どこか戸惑うようにこちらを注視していた。
嬲られていたときの震えは、戦慄だった。
今は、違う。
犬の姿が重なる。この濁った世界に。
「粉々に砕いて――」
犬が吼えた。
「――私が改定してやる!」
犬が跳ぶのを見た後で動く。
突進を横合いに避ける。加速が過ぎて体が振り回されるが、それを制動する膂力を今の私は備えている。
ガガガ、と石畳に足を擦り付けながら、体ごと回るように短剣を振るう。
銀色が瞬き、犬の横っ腹が裂けた。
血液の雫を空中に残しながら着地する犬に追い縋り、浮かぶ血の珠を弾き潰す。顔、胸、腹、足、手。体の前面に赤い雫が弾けて、私を斑に染める。
振り下ろした一撃は、犬の毛皮を掠って石畳に突き刺さった。
飛びずさった犬。
その片耳がぱっくりと裂ける。
その顔面に焦点を移すと、犬の双眸は憤怒に染まっていた。笑うように口の両端を持ち上げ牙を剥き出しにして、体の奥底から異様な唸りを漏らす。
形振り構わず全力をもって地を蹴り、私を噛み殺さんと迫り来た。
私は短剣から手を離しながら、鼻で笑う。
――それは知恵のない獣の目よ犬っころ。
低く跳ぶ。地面を擦るようにこちらに爆進する犬、その上へ。
犬に背を向ける形で石畳に別れを告げ、空中でくるりと回る。背中と背中が向き合う。
私の指の背が石畳を優しくなぞり、短剣の柄を掴み取る。
短剣を支えに片手で倒立する姿勢に移行し、そこから回転の力を利用して短剣を抜く。
両足と片手で着地しながら、私は犬の尻を切り上げた。
尾が、飛ぶ。
悲鳴を上げて跳ねる犬の後姿を、舐めるように見る。
ひょこひょこと、滑稽な仕草で反転した犬。それに合わせて私も距離をとる。
短剣がもう駄目になってしまっていた。
目標と角度と力加減を無視した、今までと真逆の乱雑さでふるったからだ。
刃が欠けた短剣を一瞥し、私は思った。
最ッ高……!
できるだけ優美に、繊細な技術を用いて戦っていたのは、そうする必要があったからだ。私の筋力では弱点の中の弱点を正確に狙い打ち、しかも体力の温存のために一撃二撃で決めなければならない。
ならなかった。
それが、こんな雑な攻撃で……容易く……!
犬に向かって投げ放ち、二本目の短剣を抜く。
短剣を避け体制を崩した犬に一瞬で肉薄し、右の前脚を切る。
肉が、骨が、裂けて。溢れる血が地を染める前に、間接を完全に砕く。
一瞬、視線が交差する。
映る色の位置は、反転していた。
その顔面に、血濡れの短剣を向ける。
狙いは残った眼球だ。
犬は一瞬の差で体を捻り、すんでのところで回避した。
私は眉をひそめて、追撃する。自分でも驚愕の早業が短剣を操る。
一閃。二閃。
――回避。またしても回避。
余裕のある避け方ではない。本当に間際のところで、犬は刃から逃れた。
なぜ? 攻撃が当たらない。
私はいぶかしむ。
さきほどの切りつけは、どれも間違いなく当たるはずのものだった。
犬が速くなったわけではない。脚の一本を負傷したのだから、むしろ鈍くなっている。
ならば、順当に考えて、問題があるのは犬の方ではなく。
思索を巡らせて、はっと私は閃いた。
私の動きが阻害されているのだ。
他ならぬ、股座に現れた一物のせいで。
私は驚愕と感心を足して二で割ったような感情を覚えた。
くっ……男たちはいつもこんな巨大な物を抱えて戦っているの……!?
それは下着の隙間から飛び出し、へそを通過し、腹の上に横臥している。衣服と擦れて、何か非常に奇妙な感覚が私の背筋を襲った。
先ほどまでは気にならなかったのに、どうして急に……!
――いや。股間の邪魔者など、今は無視だ。
ただその違和感を感じとって、いつもとどれくらい違うのか調査する。
知れ。学べ。調整しろ。
弱点なんてどうでもいい。当たりさえすればいい。
ただ全力で、攻撃を加える。
少しの間、動きを止めていた私。
それを千載一遇の好機と見てか、犬は壮絶な唸りと共に飛びかかってくる。
途轍もない速さで覆いかぶさるそれに、私は体を捻った。
短剣を持っていない方の腕で、力の限り殴り上げる。
犬の体が山なりに曲がり、宙に浮かぶ。
その頭の真正面へ、両手に持ち直した短剣を振りかぶり。
苛立ちを、虚しさを、絶望を、込める。
渾身の一撃が、頭蓋を破壊した。
*
底のない安堵が私のすべてを包み込んでいた。
体の芯から解かされるような温もりに、全身の隅々まで弛緩しきっている。
まるでこの世のありとあらゆる幸福を凝縮したような至福の時。
「ん……」
「……あっ!」
手を伸ばせば届く距離から高い声が鳴った。聞き覚えのあるその響きは次いで「ヘルマ起きたよー!」と音を紡ぎ、私の意識を呼び覚ます。
どたどたと騒がしい無数の足音。
いやに重い目蓋を上げると、幾つもの顔が私を覗きこんできていた。
「……なに…………?」
私は横たわっていた。ベッドに。
ここは……ギルドか。
身を起こそうとする私を、大量の目が押しとどめる。どこからともなく腕が一本伸びてきて、私の額を押した。
枕に後頭部が深々と埋まる。
「なによ……」
「皆であなたをえっちらおっちら運んできたのよ、へるまちゃん」
ひょっこりと視界に白い頭が現れた。
「……セプレ」
「無事よ。処女なへるまちゃんの柔肌には傷一つないわ」
頭が回転を始める。
記憶に残っているのは、犬の頭を砕く手応えを感じたのが最後。
おそらくあの後、私は気絶したのだ。
そこに、逃げ帰っていたセプレがギルド仲間を連れて戻ってきたというわけだ。そして倒れている私を見つけて、ここまで帰ってきた、と。
私は目を閉じる。
短い間にあれほどのことがあったのだ。昏倒するのも無理はない。
しかし、助けがきて本当によかった。深い安堵の吐息が漏れる。
あのままだったら魔物に見つかって食い殺されるか、宮賊――冒険者を狩ることを生業にするものども――に身包み剥がされた挙句に犯し殺されていただろう。
どちらも絶対に御免である。
砂糖菓子のような舌足らずの声が投げかけられる。
「まだヘルマさん処女なんですかぁ? いいかげん蜘蛛の巣はりますよぉ」
「黙れこの糞ビッチ」
ふんわりと雲のように捉えどころのなかったセプレの声が異様な剣呑さを帯びる。
「埋めない穴に存在意味はないんですよぅ」
「未踏の地こそが最も美しいのよ」
「人の手が入らない場所なんて無いも同じですぅ」
「虚無は虚無であるからこそ――」
「凹は凸に――」
割り込んだ声と言い争いを始めるセプレから視線を外し、私は下のほうにある金色の頭に話しかけた。
「ギルド長……」
「なんだね。いつにも増して不機嫌そうな声音じゃないか」
小さな影が飛び出してくる。赤い眉と鋭い双眸が特徴的な小さな子供だ。その外見は幼さを主張しているが、外見以外のすべては底知れなさを主張している。
口にキセルを咥えた幼女は不敵に笑った。
私は真顔で言う。
「ギルド長の魔導具壊れてたんですが」
「それは運が悪かったな。あっはっは」
「そうですね。はっはっは」
「そうだろう。はっはっは」
虚しい笑い声がこだまする。私は一旦口を閉じ、間を空ける。
ぽつりと一言。
「死にかけました」
「…………」
「死・に・か・け・ま・し・た」
「わかったわかった。新品二つやるから許せ」
仕方ない。それで手をうってやろう。
生ゴミに向ける目でギルド長を見つつ、頷く。
ギルド長が驚いた顔をした。
「なんですか」
「いつものお前なら舌打ちして人を殺すような視線を寄越してくるところだぞ。機嫌悪そうだと言ったが見間違いだったな。何か吹っ切れでもしたか」
「…………」
股間に意識を集中する。
……ある。
夢じゃない。あれも、これも。
ギルド長を見ると、純粋に不思議そうな表情だ。いつもは底意地の悪そうな笑みを絶やさないが、こうしていると本当に可愛らしい幼女にしか見えない。
……言っていいものか、迷う。
ギルド長も皆もほとんど家族のようなものだ。いや、それ以上といってもいいだろう。
だからこそ迷う。
一体なんて言えばいいのだ。
何? チンコ生えました? それとも変な変態に遭いました?
いやいやいやいや。
……それにしても、先ほどから覚えのない空気が鼻を刺激している。
料理、ではない。この部屋自体の香りだ。
私は内心首を傾げる。
あれ、ここってこんなにいい匂いしたっけ。
ふと視界を確認すると、目に映るのは見事に女だけだ。うちのギルドは女性限定なので当然である。
彼女らを見ていると、食欲……でもない。何かとても根源的な衝動が体の奥底から突き上げてくる。
「傷だらけの犬が死んでいたけど、アレは何があったの? ド頭潰れて、全身の骨はボッキボキ。内臓破裂に……あと脚も一本もげていたわ。あんなぐっちゃぐちゃの死体久しぶりに見た」
「ああ……うん」
眼鏡をかけた黒い頭の問いかけに、上の空で返す。
すると純真なあどけない声が、
「ヘルマぁ、それなあに?」
「え?」
指したのは布団の一部。ぽっこりと棒状のものが突き出ているのだ。まるで誰か手で持ち上げているかのような突起だった。
突然、頭の中に声が響いた。
『光が強いほど影は濃くなる。闇が深いほど灯は際立つ』
朗々と、
『非操作性はちんこに一点集中していますので悪しからず』
ざわざわと視線が突起に集中する。
頬に汗がつたう。
無数の視線の中で、私は内心叫んだ。
「鎮まれ……! 私のチンコ……ッ!」
人物紹介。
ヘルマ
ひがな一日チンコチンコ呟いている変態。
茶髪茶眼の華奢な少女。ちっさい。病みロリ。異様に目つきが悪く見えるのは、前髪の陰と鋭い吊り目の相乗効果。
武器は短剣を始めとする手軽なもの。毒針。
酒飲みだが、内臓が非常に強く二日酔いを知らない。妹がいる。
齢17にして既に手練れといっていい領域にいる天賦の才の持ち主。しかし力に劣る女性の中でも非力に分類される人間であり、魔力も平均以下。自信の伸び代のなさに深く懊悩している。
ちなみに単頭の魔犬を一撃のもとに斃しているが、これは「滑らかな毛皮と分厚い筋肉を筋に従って綺麗に切り貫き、僅かな骨の隙間を縫って脊髄を断つ」という離れ業である。
セプレ
重度の処女厨。ふんわりとした天使系美少女
ギルド長
変態。金髪眼帯の幼女。魔術師。紅い太眉。魔力色は赤。眉毛に発色。キセル。女色家。ギルド員の半分は食ってる。ヘルマより更に頭ひとつ小さい。だって幼女だもの。
アンナ
糞ビッチ。
ギルド
人系魔物退治を専門とする。アットホームな雰囲気。ギルド長が手ずから集めた見込みのある女の子たちで構成されている。戦闘員、非戦闘員共に実力派揃いの中堅ギルド。
しかしてその実態は、驚愕の変態率5割超という変態の巣窟。まともな人の気苦労が絶えない。
ちんこの精霊
ちんこの精霊ではない。
酒の精霊
実はいる。