バリスタさんと雪ウサギ【木ノ下視点の小話】
ダージリンの香りに、ふっと心がほどけた。
笑みを含んだ息を吐けば、ぴくりと隣の青年が反応する。
彼がランドセルを背負っていた頃からの付き合いで、その頃は彼の祖父がこのカフェの常連であり、木ノ下はバイヤーではなくまだバリスタだった。
思えば、精一杯背伸びをして大人の飲み物を無理に飲み込み、子供じゃないと主張していた頃から、彼は珈琲贔屓だったものだ。
彼にとっては木ノ下の淹れる珈琲は一番美味いのだそうで、光栄ながらバリスタとしてライバル視して頂いているらしい。
木ノ下はバイヤーに職を移し、カウンターに立つのは定休日にただ一人の常連客を迎える時だけなのだが。
「明智さん、ご機嫌ナナメさんですね~。紅茶もおいしいですよ? 飲んでみませんか?」
ニコニコと少女が首を傾げてみせる。
「断る」
触れたら切れそうな即答。
むすっと結ばれた口の端がピクリとしたのは少女には判らなかっただろう。
木ノ下からすれば彼は未だにあの頃のまま。小学生の子供に見える。最近客に珈琲を強要しなくなったのは偉いが。
「一口どうぞ~」
メゲない少女は己が口を付けたカップを全く気にせず素気ない相手に差し出す。
彼女は珈琲をそのまま飲めない。紅茶の方が好きだが、今飲んでいる茶葉がダージリンだと、先程木ノ下が教えた事を覚えているかどうか。おそらく、そこまでは紅茶に興味はないだろう、という程度。
「っ、……断る!」
メニュー表を少女の顔にグイグイ押し付けるのは、果たして如何なものだろう。
直ぐ不機嫌になるところも、直ぐ手が出る喧嘩腰のところも、直ぐ耳が赤くなるところも。本当にまだまだだ。
メニュー表を退けると、少女が鼻や首を擦るのを見て心配そうにするクセに、ブサイクになったら責任とってください、と睨めば、知るか、と後ろめたく目を逸らすあたりも。
「……ちょっと裏行って来ます」
神妙なかおで明智は木ノ下に許可を求めた。
そうですね、頭を冷やしていらっしゃい、と言わずもがなな台詞は胸の内にしまい、頷いて木ノ下は少女の前に立つ。
子供の悄気た背中が少女からは見えない様に、さり気なく。
「明智さん今日もお疲れですね~」
私なら美味しいもの食べたり飲んだりすれば元気になれるのにな~、とカップを揺らす。
どうやら彼女なりの親切心であったらしい。
「勉強家なので、鋭意努力中なだけですよ。今日は夜まで雪の予報です。明智くんに送らせましょう」
朝から散り止まぬ風華。積もりはしないが、足場は悪いだろう。
彼女の来る日は雪が降っている。カフェのマスターをしている木ノ下の伯父から聞いたところによると、明智は雪が降るとそわそわし出すらしい。主の帰りを待つ忠犬の様だとか。
「あはは、私、一人でもヘイキですよ~?」
天然な彼女ばかりが明智の気持ちを知らずにいる。
「明智くんも男の子ですからね。女の子を真っ暗な中、寒い雪の日に帰らせるのは沽券に関わります。送られて下さい。そうしたら僕も安心出来ますから」
「オトコがスタる」
難しいかおをして精一杯の低い声で彼女は不機嫌げに言う。
そして吹き出した。
「明智さんがこの前言ったんです。こんな暗い中オンナひとりで帰らせるなんてオトコがスタる、……だって!」
直ぐおへそ曲げちゃうし、かと思えば大好きな珈琲一つで直ぐご機嫌になるし、と彼女は声を上げて笑う。
「明智さんてちっちゃいコドモみたいですよね~」
年下の彼女に言われる様では……と木ノ下は胸の内で溜息を吐く。
「降りますね~。雪ウサギさん作っちゃおっかな」
木ノ下は雪ウサギという単語に彼女を見つめた。
珈琲をそのまま飲めない彼女に明智が淹れるのはカプチーノ。ラテアートの巧みな明智は、絵柄を任されると決まって雪ウサギを描く。
「明智さんの大好きな雪ウサギさん」
クスクスと笑う彼女は知らない。
雪の日にばかり来る彼女を、カフェのスタッフが雪ウサギという愛称で呼んでいる事を。
知らないから、可愛いもの好きだなんて意外だと笑う。
「私、明智さんのラテアートの雪ウサギさん大好きです!」
スッゴい可愛いんですよ! と彼女は楽しげにカウンターに頬杖を突く。
「だから、私も雪ウサギさんが大好きになっちゃいました!」
木ノ下は他愛ない少女の話に微笑みを誘われる。
「では、明智くんが帰って来たらカプチーノを淹れて貰いましょうか。戻って来ないようなら僕が淹れますが」
店内に戻るに戻れず困っている気配が、焦りに変わる。
湯を沸かし始めると、何食わぬかおで明智は戻って来た。
「戻りました」
ややバツの悪そうなかおだろうか。
「明智くん。彼女にカプチーノを」
場所を譲りながら、木ノ下は仕方ないなと苦笑する。
全く、子供は手が掛かる。
ラテアートを真剣に丁寧に描く明智を見れば、誰でもそれが特別なものなのだと気付く。
それを饗す時の赤い耳を見て、外は寒かったですか、と的外れに問う少女に、明智がムッとする気持ちは解らないではない。
だが、彼女に決して言うなと愛称について秘密にしたのだから、彼女にとってそれはファンシーなラテアートでしかない。
頬を摘んでよく伸びるだなんて憎まれ口を叩くより、愛称だと明かし、だからどんなモチーフより大事なのだと告げた方がどんなにか早道だろうに。
今度少女にラテアート体験だと称してハートマークでも描かせてみようか、と木ノ下は目の前の兄弟喧嘩の様に微笑ましい、しかし不毛なやり取りを眺める。
木ノ下は今日何度目かの溜息を胸にしまい、子供達に菓子を饗して一先ず喧嘩を治め様と材料を手繰り寄せ、暫し思案する。
大人としては、迷い、蛇行し、足踏みばかりする子供の歩みを見守るべきか、導くべきか。
それが問題だった。