バリスタさんと雪ウサギ 07
「オレンジ・ペコ? ○コちゃん?」
ワインレッドのテーブルには湯気の立つカップが一つ。瀟洒な揃いのアンティークの椅子に掛けた少女が、きょとんと首を傾げる。両耳の後ろで結わえた長い髪がウサギの耳の様にぴょこんと跳ねた。
数間幸平は俯いて口を手で覆ったが、その肩はぷるぷる震え、もう片方の手も震える腹に当てられていては、笑っている事を隠せるものではない。
笑われたー、と少女はぱちぱち瞬き、違いましたか、と逆側に首をこてんと倒す。ツインテールが再び揺れ、ぷひゅっと変な音を立ててとうとう幸平は吹き出し、ツボった! と笑いながらしゃがみ込んだ。
少女はポカンとして床でゲラゲラ笑い転げる男を見つめ、そんなに可笑しかったのかな、というように首を捻っているが、単に幸平が笑い上戸なだけだ。
「紅茶の茶葉の等級の一つだ」
無愛想な声が代わりに答えた。少女の視線を受けて隣のテーブルを磨く手を一旦止めたのは、幸平の後輩、まだこのカフェでは新米バリスタである明智だ。
柔和で常に笑っている幸平と違い、明智は割とムスッとしている事が多い。そういうところがまだまだ若いと周りから言われるのだが、そうすると拗ねて益々眉を寄せ口を曲げる未だ子供の様な男だ。
「とー……東京!」
クイズではない。だが、正解閃いた! という様にぱあっと顔を輝かせた少女に、幸平は床をタップしてギブアップを表明し、酸素を要求した。明智は斜め上な答えに呆気に取られて固まり、周囲は微笑ましいとばかりに生温かい視線で見守っている。
此処は一見さんには道の判り難い、少し入り組んだ袋小路にあるカフェだ。常連客は皆、紅茶や珈琲の愛好家。少々年齢層が高い為、高校の制服を着てあまり紅茶等の知識の無い彼女は浮いている。
が、迷い込んでこのカフェに来てから度々通うようになった彼女も常連客だった。
夜にはバーになり、幸平は厳密に言えばそちらでシェイカーを扱うのが本業なのだが、ソフトドリンクの事も少しは出来なきゃね、と始めたら昼のカフェでもシフトを組まれ、なし崩しにカフェ店員も兼ねている。
幸平は笑いの余韻にぷるぷる震えつつ、あー腹痛い、と目尻の涙を拭い、漸く立ち上がった。
「も、うさちゃんには、脱帽だよ……! 何なの、一周回って天才なの?」
「東京の紅茶なんですか?」
「ご、め……ギブアップ……! もー、ムリ! 降参……お兄さんのライフはゼロよ!」
キラッキラした目で見ないで! と幸平は床で腹を抱える。
「もう、あんた休憩行け」
明智は怒りを通り越して呆れの溜息を吐いた。
軟派の幸平と硬派の明智ではタイプがまるで違う。幸平は幸平なりに後輩を可愛がっているのだが、面白がって揶揄ったりつついたりする方が忙しい為、当然煙たがられている。
「ごめん、恩に着る」
明智にひらひら手を振り、幸平は少女ににっこり笑った。
「明智くんに怒られちゃった。お兄さんはちょっと居なくなるけど、うさちゃんとおしゃべり出来なくて淋しいみたいだから、明智くんを構ったげてね?」
ウインクをした幸平に、明智がギョッと目を剥く。テーブルを磨いていた布巾を振りかぶるより早く幸平は射程圏からサッサと退避し、バックヤードに逃げた。
明智は布巾を握り締めてバックヤードの入り口を悔しげにギリギリと睨む。
幸平の余計な言動に常に振り回される明智は、構わなければ良いのにその度反応を返してしまうので、こんな風に遊ばれてしまうのだった。
「仲良しさんですねー」
うさちゃんと呼ばれた少女は幸平の淹れた紅茶にミルクを入れ、グルグル渦を巻く様子に夢中ですっかり他人ごとである。
かと思えば、ハニーーポットの蓋を開け、何種類もある蜂蜜を吟味し始めた。
「明智さん、どうしましょう」
脳天気な少女には珍しく、実に深刻な声音に、テーブルを磨き終わった明智がぱっと顔を上げる。
「どうした」
シュガーポットもハニーポットも切らさぬ様チェックしていた筈だ。だがチェック漏れがあったのかも知れない。それとも何か気付ぬ別の不備があったのか。
「蜂蜜が私を誘惑します……!」
どれも美味しそうです~、どうしましょう! と、苦悩に満ちた声音だが、内容があまりに馬鹿らし過ぎて明智は返事をする気にもならないのか、別のテーブルを磨き始めた。心なしか、その手付きが荒い。心配して損した、とその背に書いてある様な気がする。
案の定少女はむくれた。彼女にとっては真剣な悩みなのだ。
「明智さん冷たいです」
テーブルを磨きながら客に呼ばれていないか店内に視線を走らせる明智は、少女の拗ねた声音に溜息を吐いて振り返る。
目が合うと少女は構って貰えるのが嬉しいのかうふふと笑い、一つ一つ指を指して、コレはキラキラしてて、こっちはとろってしてて、と説明を始めた。
明智は顔をしかめる。面倒だ、どれも同じだろ、とその顔には書いてある。
だが。
「どれにしましょう」
明智ならきっと素敵な解決方法を導き出せるに違いない、という無駄に大きな期待と信頼を寄せるキラッキラした目を少女は明智に向けた。
明智はひくりと頬を引き攣らせる。
この男は律儀である。毎度毎度碌な事にならないと知りつつも、結局面倒な先輩の揶揄に一々反応してしまうし、少女の素っ頓狂な言動にも逐一振り回される。
「……順に試せば良いんじゃないか?」
明智は迷いに迷って、月並みだが妥当な答えを返した。
「そうですね~」
少女はにこにこと笑っている。明智の回答を気に入った様だ。
明智はホッとした、様に見えたのは一瞬で、直ぐまたムッツリと顔をしかめてテーブルを磨き出す。
「明智さんはどれが好きですか?」
別に他意のない質問だ。明智が目の前にいるから明智に訊くが、幸平が目の前に居れば幸平に訊……くのだろうか? とふと眉をひそめる。いや、幸平はナイかも知れない、と明智は思い直した。
少女は幸平が面倒な生き物だと本能で見抜いているような節がある。
明智は少女を見ない様、チラリと蜂蜜を見やった。
彼は珈琲至上主義で紅茶の知識はあっても正直紅茶はそれ程好きではない。だが、扱うのだからとティーハニーの味見はした。遠い記憶を手繰り、コレ、とぶっきらぼうに指でハニーポットを叩く。
少女がふにゃっと笑った。
「私もコレ好きなんです。甘いけど甘すぎなくて、ちょうどイイんですよね~」
今日はコレにします、と彼女が言うのを見て、明智は背を向けてまた別のテーブルを磨き出す。
その耳が赤いのは、どうやら少女には見えない様だ。
が、客達には見えている。明智が気付かないのは彼らが見てみぬふりをしている為だ。
彼らはあくまで若者達を生温かく見守るだけなのだった。
「あ。そうだ」
キラキラした蜂蜜が紅茶に揺蕩う様に頬を緩ませていた少女は唐突に思い出して顔を上げた。
「東京の紅茶って、結局なんだったんですか?」
その質問に溜息を吐きはしても、明智は律儀に答えを返す。
「東京の紅茶じゃなくて、紅茶の等級だ。等級、解るか? グレード、ランク、階級」
知識を教えるのならば簡単だ。やや口調も柔らかいのは、まだ少し機嫌がよいのだろう。
「らんく……グレード……キングサイズとかクイーンサイズとか、後スイートルームとか!」
私の答えは今度はバッチリだ! というその無駄な少女の自信はどこから来るものなのか。またも答えが斜め上過ぎて明智は頭を抱えた。
「あれ? 違いますか?」
あるタイヤ会社の名前を口にして、おかしいな、誉められると思ったのに、と少女は首を捻る。ぴょんぴょん跳ねるツインテールを見て、タイヤ会社がどうした、と思ったが、最後のそれは合っていると言えなくも無いことに一拍遅れて気付いた。
格付けガイドブックの話ならば、合っている。
「正解だ」
「テレビで見ましたから!」
得意げだ。
基本、幼子の様なものである。目の前の物事に一喜一憂し、目まぐるしく変わる喜怒哀楽を素直にかおに出す他愛のない生き物だ。そして、にこにこにこにこと、何が楽しいのか大抵は笑っている。
明智は無愛想に、そうか、とだけ言った。だが、目元にも口調にも険はないので、明智さんご機嫌さんですね~、と少女の口端はふにゃっと持ち上がる。
誉められた~、と勝手に解釈して喜んでいる様だ。
彼女が笑顔だと、明智は少し機嫌がいい。機嫌が良くてもムスッとしているので、表面上は判り難いが。
幸平が笑顔だと逆に明智は不機嫌である。幸平の笑顔は柔和であっても、決して無邪気ではない。
揶揄いの種である明智にとっては幸平の笑顔は猫が獲物を爪で転がす様なものだ。明智はハリネズミの様に毛を逆立てる。それがまた幸平に面白がられる辺り、悪循環だ。そういうところを見ると明智にとっては幸平は天敵の様なものかも知れない。
さて、その天敵は先程から明智に気付かれない様に店内を覗いて笑い転げていた。
「あの二人何なの……ヤバい、腹筋痛い」
ぷるぷるする腹筋をなだめ、よいしょと立ち上がったところで少女と目が合い、幸平はひらひらと手を振る。
少女はこつんと首を傾げた。すると明智が振り返って睨み付けて来るのが、幸平の腹筋にトドメを刺す。
判り易い後輩が可笑しくて堪らない。
明智は喜怒哀楽は大抵ねじ曲がって怒っている様な表情になるのに、感情表現は実はストレートだ。好きな子と好みが同じで耳が赤くなるところなんて、非常に判り易く照れている。
しかも相手はあの素っ頓狂な少女。会話のちぐはぐさが一々幸平の腹筋を鍛えてくれる。
「数間、仕事しろ」
カウンターで夜の仕込みをしているマスターが呆れて幸平の頭を小突く。
後輩の恋をつつくのが仕事ではない。
「はあい。休憩ありがとうございました。お仕事します」
幸平がホールに出ると、幾人かの客が注文の為手を上げる。見回すと、明智と目が合った。
掃除をすれば掃除だけ、洗い物をすれば洗い物だけ。一つの作業を始めると周りが見えなかった明智が、ちゃんと客を見ながら作業する様になって来ている事に気付いて幸平は口端を上げ、心の中で加点する。
暫く明智はホール業務から離されていた。彼には宿題が出されているのだ。マスターを窺えば頷き返された。
注文を承った幸平は後輩を呼ぶ。
「手が足んないから明智くんもおいで」
一瞬、明智は微かに笑みを浮かべ、次いで口をぐいと結んだ。
スッゴいやる気だけど、珈琲にみなぎるやる気って必要なの? と幸平は胸の内でツッコんで笑う。
明智くんはちゃんと宿題の答えが出せたのかな?