バリスタさんと雪ウサギ 06【数間視点】
「ご馳走さま。旨かったよ。今日のはまた良い豆だった」
「昨日入った豆です。木ノ下バイヤーが昨晩の内に焙煎した分なので……」
「ああ、木ノ下くんか。彼はいいバリスタだった。彼の淹れる珈琲は今でも飲みたくなるよ」
朗らかに笑い声を立てる客にコートを手渡す明智が面を伏せ、見るからに落ち込んだのを見て、数間は意外に思いながらテーブルを拭く手を止め、熱を遮断するが重いドアを開けて閉じぬ様押さえる。
「足元滑るんで、気を付け下さいね」
「ああ、数間くんありがとう」
「いえ。寒いんで、風邪に気を付けて、また来て元気なかお見せて下さい。待ってますんで」
客を見送った後空を仰げば、分厚い陰鬱な雲が粉砂糖の様な雪を振るい落とし続けている。
数間が竹箒を取ってサラサラした雪を入り口から退けてから店内に戻ると、明智は雪雲そっくりに陰鬱に珈琲カップを磨いていた。
カゴいっぱいのカップを見るに、見習いの通過儀礼、茶渋落としをマスターから命じられた様だ。いつもより使えないと判断されたのだろう。アレは地味だが地味故に千本ノック並みにキツい。おそらく棚のカップ全てを磨かされるぞ。
何だか其処だけ妙に暗い様に見え、数間は、うわあ……空気おっも……勘弁して欲しいな、と内心うんざりする。
勝ち気でやんちゃ坊主な後輩の鼻っ柱はいつかへし折ってやるつもりでいたが、数間が望んでいたのは叩きのめしてへこませ、清々する事ではない。役に立たないプライドや、過ぎて業務の妨げになるこだわりを適切なところに収め、バリスタとして使える様にする事だ。
人前で弱った姿を見せた事の無い明智の悄然とした様子に、定休日に木ノ下に大分こってり絞られたのだろうかと数間は怪訝に思う。数間の知る限り、木ノ下は保育士の様に優しく穏やかで、何でも許容する様な男だ。
客が手を上げたのを見て数間は思考を切り替え、オーダーを取りに行く。
「ねえ、数間くん。明智くん、具合でも悪いのかしら? 随分元気が無い様だけど」
オーダーと共に客に問われた。客に心配される程度には明智も可愛がられている。不甲斐ない後輩に気を揉みつつも、数間はホッとした。
「ここんとこ、明智があんまり目に余るんで、マスターが木ノ下バイヤーに指導頼んだんですよ」
声を落として答えれば、木ノ下、という名前に、客は目を輝かせる。こういう反応を見る度、木ノ下に憧れながらも、反面嫉妬する明智の気持ちも解らないではない。
だが、木ノ下は木ノ下、己は己。
周りに八つ当たりするなど未熟さの露呈でしかない。追い付きたいなら地道に足掻くしかないのだ。
「随分大人しくなっちゃって、マスターも心配してるんです。早く使い物になって欲しいんですけどねえ」
そうねえ、と客は笑った。
「早く大人になってくれるといいわね」
苦笑混じりに言う客を見れば解る通り、明智はバリスタとして認識されていない。
元々常連としての方が長い明智を、客達は未だに近所の子供扱いをしている。故に、未熟な彼を客は許すのだ。明智はその辺りでも勘違いをしているのかも知れない、と数間は蟀谷を押さえた。
コンロにケトルを掛ければ、明智がパッと顔を上げる。
「コレはおれの仕事。明智くんはカップ磨いてね?」
数間は明智の手元を指差した。
茶渋を重曹で磨き落とすのも重要な仕事だ。
明智もそれはよく解っているだろう。ただ、マスターから見習い同然の仕事を言い渡され、益々落ち込んでいる様だ。
常ならムッと睨んで来る明智は、唇を噛んでせっせと手を動かす。重症だわ、こっちも滅入る、と豆を挽きながら明智を盗み見る。
明智は乱暴でガサツな振る舞いをするが神経質な性質なので、仕事ぶりは丁寧だった。シミ一つ見逃すまい。
珈琲を淹れられない事は、内心堪えているだろう。
明智の珈琲への態度は敬意があり真摯だ。知識と理論、そして、美味い一杯を知るが故に必死に努力し、技術を身に付けた。
客に訊けば、明智の珈琲を純粋に誉めた。しかし、ただ……、と言葉を濁される。
数間も明智の珈琲は美味いと思う。もしかしたら己が淹れるより美味いかも知れない、とも。
だが。数間もまた、明智の珈琲を飲みたいとは思わない。
明智に出されたのは簡単な宿題だ。コレで解らないなど、本当に頭でっかちなお子様だな、と数間はドリップしながら窓にチラチラ視線を投げる明智を盗み見る。
雪の降る日には常連になった少女がやって来る。彼女は雪が降る日にしか来ない。
明智は雪が降ると店の外を見る回数が増える。どうやら無意識の様だが。
「お待たせいたしました」
珈琲をテーブルに運ぶと、明智がカウンターを出たのが数間の視界の端に見えた。
からん。
ベルを鳴らしてドアを開け、手で押さえて、いらっしゃいませ、と明智は客を中に招く。
おや、と数間が振り返ると、明智の待ち人がドアを潜るところだった。
「ただいま~」
店内の客達がポカンとした。流れるジャズすら止まった気がする。
寒い中を歩いて来て、温かい空気に、思わず猫が陽向で微睡む様にふにゃりと笑った少女は、猫だましを食らったようにハッとした。
「あ。ままままちがえました! こ、こここここんにちわっ?」
ニワトリか!
「あのー、明智さーん? 固まらないでください! どうせなら笑ってください!」
少女は恥ずかしそうな赤いかおで、ギョッとしたまま固まった明智の腕を掴んで揺すっている。
その度耳の後ろで結ばれたツインテールがピョンピョン跳ねるのも微笑ましく、そして可笑しい。
数間は吹き出しそうな口を押さえ、面を伏せたが、震える肩はどうしようもない。
「笑っちゃ失礼よ、数間くん。あらあら、明智くんったら固まっちゃったの。数間くん、行って差し上げて?」
かしこまりました、と数間は入り口で騒ぐ少女に近付き、お帰り~、と笑いかけた。
「お嬢ちゃん、コートとマフラーお預かりしますよ。脱いで?」
「あ。……は~い!」
少女は数間の顔を見て、返事までの一瞬の間、首を傾げた。最後に巫戯けて付け足した言葉に無反応なのお兄さん淋しいんだけど。それより、今の間、気になる。もしかして……。
「明智。睨んでないで、ほら、お客様を席にご案内して」
数間が気付くより早くお客様に気付いて、しかもドアを開けて出迎えるなんて、彼女にしかしない待遇だ。先刻まであんなに大人しかったのに急に元気になって。
現金なコドモだ。
「寒かったでしょ。明智がイヤならおれもオーダー承るんで、気軽に数間さんって呼んでね」
明智が睨んでる睨んでる。元気になったじゃないの。
「えっと、上の名前おしえて欲しいです」
少女が困った様に首を傾げた。成程。名乗った事があるのに忘れられたかと思った。
が、だとすると面白い事になったな。
「男は苗字呼びするタイプ?」
数間が面白がって問えば、彼女は、ハイと頷いた。
「おれは数間幸平。数間は苗字です」
「わ~、知りませんでした」
ポカンとしたまま少女は目をぱちくりさせる。
反応うっす! 傷付くなあ。じゃあ、これはどう?
「じゃあ、お嬢ちゃんがいっつも呼んでる明智。下の名前だって知らなかった?」
少女がポカンとして明智を振り返る。まじまじと穴が空く程眺められて、明智が視線を揺らし、困った様にすうっとあらぬ方へ逃すのを横目で見つつ、数間はニヤリと笑って少女のコートを奥に掛けに行った。
が、気を利かせたというのに、結局明智は少女を案内しなかった。
カウンター行け、とだけ言って、カウンターの中に逃げ帰ってしまう。折角加点したが、これは減点だな、と数間は頭の中で採点し、肩を竦める客と苦笑しあいつつ、カウンターに戻る。
ホールに気を配りつつ、粗方終わった夜の仕込みをチェックし、捨てる素材と余剰素材をチェック、賄いの準備を始めた。
明智は丁寧にドリップし、生クリームに蜂蜜を垂らしてホイップして小鉢に。泡立てたミルクをエスプレッソにふわりと載せ、真剣な面持ちでラテアートを描く。
周りなんか全く見えてない。客が入店すれば、いらっしゃいませとヤマビコするが、客が注文の為に手を上げても、会計にレジに立っても気付かない。
勿論、オーダーに掛かり切りになるのは仕方ない。が、そうでない時も周りが見えてないのが問題なのだ。
先程の事が尾を引いているらしく、バツが悪そうなぎこちないカンジで椅子の上でモジモジしていたクセに、カプチーノに少女はわーいと喜び、ウキウキと耐熱グラスを引き寄せ、かわいいカワイイと眺める。
小さな子供の様に無邪気で他愛ない。
特別可愛いというわけではない。よく見れば可愛いかな、という程度。素直で裏表がなく、感情表現がストレートで嫌味がないので、突付くと面白いが。
明智には、木ノ下のファンである彼女は試金石なのだろう。己の目標とする味に近付けているかどうかを量る為の。
いや、だった、というべきか。
彼女の喜ぶ様子に明智の口の端が少し持ち上がってる。耳だけ赤いし。
珍しいもの見ちゃった~。マスターに写メろう。
「あの~」
彼女がハタと気付いた様に眉尻を下げて明智を上目遣いで見上げると、明智はすっと仏頂面に戻った。耳は赤いままだが。
「あ~……えと、ラテアート写メりたいなあ~って」
「断る」
言い終えないのに素気なく一刀両断。
明智の感情表現はストレートに見えてねじ曲がっている。ピシャリとはねのけたが、これは実は照れているのだ。照れ隠しで怒ってる様に見えてしまう。同様に、嬉しい時も怒ったかおだし、落ち込んだ時も怒ってる様に見える。普段ならば。
今日の様な落ち込み様は珍しいのだ。
「そうですか……」
メゲない彼女が俯いてしゅんとしたのに明智はギョッとする。どうしていいかわからない様子で固まった。
ラテアートの件は、多分言い出し難い他の話題の代わり。誤魔化しただけだろう。明智は解っていないようだが。
でも女の子を慰めるくらいしなさいよ。
数間はスマホの設定を弄り、パシャリ。
シャッター音に、二人は数間を振り向いた。
「雪ウサギちゃんゲット」
数間がスマホをひらひら振ってニヤリと笑って見せると、少女は、おお~、と手をパチパチ叩いた。キラッキラした目で見て来る。何かヒーローにでもなったみたいだ。
……名前教えた時より反応良くてお兄さん泣けてくるんだけど。
明智はギョッと目を見張った後、キッ、と睨んで来る。
「消せ」
ハイハイ、妬かないの。
「マスター、明智くん休憩でーす」
休憩から戻って来たマスターに言うと、明智が焦って違うと否定したが、マスターは空気を読んだのか、明智を休憩にやった。
「明智の切れ長な目って真剣なかおしただけで怖いよね」
ポカンと怒る背を見送る少女に、カウンターから少し身を乗り出して肩を竦めて見せれば、彼女は首を傾げた。
「でもコワい人じゃないです。おこりんぼさんですけどね」
くす、と笑う彼女は解っている様だ。ただ、あの仏頂面の下にある感情までは読み取れていない様だが。
「あの~」
言い難そうに彼女は声を掛けて来る。
「上の名前……」
「じゃあ、これは知ってる?」
「え?」
少女はキョトンとした。
「その耐熱グラス、明智が買って来たんだよ」
彼女はカプチーノの入ったグラスを両手で持ち上げて光に透かす。柔らかなグラデーションを描き、僅かずつ色が変わる。今は中身が入っているのでよく判らないが。「明智さんは、こっそり優しいんです」
コトリとカウンターに置き、やや歪んだハートの持ち手を撫でて、それに、と彼女は笑う。
「意外に可愛いものが好きですよね~」
「ね~?」
数間もつい笑ってしまった。
「じゃあもう一つお兄さんが教えてあげよう」
「何ですか?」
「お兄さんの名前はこういう字を書きます。フリガナも振ってあげよう」
リングメモを引っ張り出して書き付け、ぺりりと剥がして彼女にウインク。
彼女はクスクス笑って受け取り、キョトンと大きな目を瞬いた。
「写メっちゃった」
「明智さんにですかっ?」
実にいい反応だ。目が零れ落ちそうになる彼女に、数間は思わずクスクス笑ってしまった。
ニヤニヤ笑って、彼女の手の中のメモを指差し、数間は更に揶揄ってみた。
「おねだりしてみてごらん?」
「明智さんにですかっ?」
「おれにおねだりしてみる?」
それも面白そうだ。
ん~、と少女は首を傾げ、それから頭を振った。
「エンリョしときます」
「……雪ウサギちゃん、ちょくちょくおれに冷たくない?」
「そーですか?」
「そーですよ。お兄さんは淋しいです」
「そーですか?」
「そーです。……やっぱ冷たい。何、おれ嫌われてる?」
「イエ、なんとなく?」
「……」
感覚で生きてそうな子には警戒されがちな数間だった。
「じゃ、消されない内に明智くんからゲットしてね?」
「ラジャりました!」
大きく頷いて、彼女は、ん? と首を傾げる。
「雪ウサギちゃん?」
彼女は己を指差し、数間に首を傾げる。
おっと。
「雪ウサギばっかりラテアートされてる雪ウサギちゃん」
彼女は成程と頷いた。
雪の日ばかりに現れるツインテールの彼女を雪ウサギと呼ぶのはスタッフの間だけだった。
初めは皮肉ってラテアートに雪ウサギを描いてた明智の中で彼女への思いが変わり、ラテアートの雪ウサギは特別になった。
それで彼女に内緒にする様スタッフに口止めし、結果、彼女だけが未だに知らないのだ。
今のはバラしてないからセーフだろう。多分。
さて。雪ウサギのラテアートと雪ウサギちゃんのツーショットを前にして、明智はどんなかおをしているだろう。
まして。
その雪ウサギちゃんからメールが来たら……一体あの生意気な後輩はどんなかおをするだろう。
メモとスマホを見比べながら少女がメールを送信するのを眺め、数間は悪趣味な想像を巡らせた。