バリスタさんと雪ウサギ 05【明智視点】
明智にとって、このカフェも、珈琲も、木ノ下というバリスタも、特別だった。
全ては祖父に繋がっている。
仕事で家に居ない親よりも、家に居てキャッチボールや囲碁や将棋で遊んでくれ、オヤツをくれる祖父に懐くのは、薄情にも思えるが、仕方のない事だった。
人並みに愛情を注いで貰ったし、親に不満など無かったが、子供の狭い視野と小さな世界では、そんなものである。
喧嘩もしたし、笑ったり、泣いたり、怒ったり、祖父とは随分たくさんの思い出があるが、切り離せないのは珈琲だ。
大の珈琲党で、このカフェに足繁く通っていた。
杯を重ねる事はせず、一杯を大事に味わって飲む。
気ままなお喋りを楽しむ若い世代ではなく、中高年の珈琲好きの集まるカフェは静かで、煙草の煙や碁石を打つ音や腹の探り合いで偶に殺伐とする碁会所とは全く違った。品が良い人ばかりの場所で、明智は借りて来た猫が安全な場所かどうか慎重に探る様に息を潜めていたものだ。
祖父がイタズラっぽく珈琲を飲ませて来たのもこのカフェだった。味なんて解らないだろう、というかおをされて、負けず嫌いの血が疼き、一気飲みをした。
あの頃は本当に味の解らない生意気なガキだった、と明智は過去を振り返る。
祖父お気に入りの若いバリスタが明智にくれた珈琲フロートは旨かったし、悔しいが、今でもあの味は忘れられない。
珈琲の味が解るようになり、夢だったバリスタになっても、目標は変わらない。
今でも常連客は、木ノ下の淹れる一杯を慕って溜め息を吐く。目指す場所は間違ってない、と明智は味を追求しようと努力した。
新しい常連客が木ノ下の淹れる紅茶のファンだと言って、明智が覚えたのは嫉妬だった。
バイヤーになっても、木ノ下の淹れる一杯は新規の客まで魅了する。
追い付きたい目標があまりに遠くて、八つ当たりの様な感情を抱いた。
だが。
珈琲を受け付けない常連客に、珈琲ゼリーを食わせ、あんなに美味そうに食わせるなんて、明智には思い付かなかった。
そうか、アイスか! 目の前であっという間に即席アイスを作ってみせるパフォーマンス……確かに、この客はこういうのが好きそうだ。
しかし……あのゼリー、いやに光沢がなかったか? その上、妙に柔らかそうだった。バットから器に移す時に弾んだんだぞ?
「では、反省会をしましょうか」
明智はハッと我に返る。
敗北感に打ちひしがれている内に少女は帰り、外は真っ暗になってしまった。
「どうぞ」
木ノ下はにこやかに明智の前に珈琲カップを置いた。
明智の好きだった香り。湯気が立つ表面は外の静かな闇そのもの。
「おじいさまの好きだった珈琲ですよ」
「知ってる」
明智の好きな珈琲でもある。
飲んで、ああやっぱり敵わない、と明智は理解した。木ノ下の淹れる珈琲は美味い。
木ノ下の前にも同じ珈琲があり、明智が息を吐くと、彼はカップをソーサーに戻し、微笑んだ。
「明智くん。珈琲や紅茶が嗜好品と呼ばれているのは御存知ですね?」
反省会と聞いて身構えた明智は、見当外れの方向に転がった話に内心首を傾げつつ、頷いた。
「僕は、それでいいと思います。食事として必要な栄養素ではない。必ず飲まなければいけないものではないけれど、好きだから飲みたくなる」
それでいいんです、と木ノ下は言う。
「ですから、お客様の好きなものを淹れて差し上げて下さい。珈琲の方が美味しい、だから珈琲を飲めだなんて言われても、お客様は困ってしまいますよ」
う、と明智は呻いた。あの常連の少女に八つ当たり気味に珈琲の良さを説き、飲ませようとした事もどうやらマスターから筒抜けの様だ。
祖父に叱られた事がある。
此処は珈琲だけではなく、紅茶も中国茶も日本茶も、ジュースも。ソフトドリンクを各種扱うカフェなのだ。
子供の頃、他の客の好みに口を出して、祖父に拳骨と説教を食らったものだ……。
「聞いていますか、明智くん?」
保育士になれそうな穏やかな男は、ニコニコと祖父の言葉をわざわざ使って懇切丁寧に指摘してくれた。
明智があの頃と何ら変わっていないと。
「明智くん」
己の小さい頃を知る相手というのは性質の悪いものである。えてして、己が忘れた様な、恥ずかしい、小さな、どうしようもない失敗を持ち出して来るものなのだ。
この反省会いつまで続くんだ、もうライフ空っぽだぞこのヤロウ!
「伯父さんが明智くんの腕が上がったと誉めていましたよ」
う、と明智は再び呻く。
アプローチの仕方が変わり、身構えてないところに被弾した。
「ただ、接客が苦手で困るとも言ってました」
上げて落とすのか!
「明智くんが味を追求するのは間違っていません。ただ、お客様の満足を得るのは、味だけではありませんよ?」
……??
木ノ下は口を開き掛けて、それから微笑んで珈琲カップに口を付けた。
待ってみたが、木ノ下は珈琲で続く言葉を飲み込んでしまったらしい。
「宿題にしましょう」
全部僕が説明してしまっては、身になりませんから、と木ノ下は席を立った。
「考えてみて下さい。解ったら伯父さんと答え合わせして下さいね」
味じゃない? 否、味だろう。味じゃなければなんだと言うんだ。
木ノ下は悩む明智を放置して余剰食材でテキパキとフィンガーフードを作り、伯父の私物だという酒を明智に饗す。
余剰というか、捨てるところばかりだ。賄いとはそういうものだが、明智には思い付かない組み合わせと料理で、舌を巻く。
これが旨いから、悔しくて堪らない。
負けず嫌いに火がついて、明智は木ノ下を睨んだ。
根負けして尻尾巻いて逃げるなんて男が廃る!
「ヒントは?」
些か格好が付かないが、ヒントぐらい良いだろう。
木ノ下はニコニコと、そうですね、じゃあ、と暫し考え、告げた。
「例えば、今日の珈琲ゼリーや、あの日の珈琲フロートの様な……」
わかりましたか? と木ノ下はニコニコと微笑む。
「デザート? 否、珈琲フロートはデザートじゃない……」
明智がブツブツあーでもない、こーでもない、と呟くと、木ノ下の微笑は微苦笑に変わった。
「簡単な事なんですが……ええ、ゆっくり考えてみて下さい。きっと、おじいさまも昔仰っておられた事の筈ですから」
さりげなくヒントを増やして、木ノ下は珈琲カップを傾けた。
その日の夜半、祖父に食らった説教と延々向き合った明智は、夢の中でまで叱られ、嫌な汗を掻いて夜中に目を覚ます。
だが、そんな疲れる体験をしても、全く答えが掴めない、頭が固い明智だった……。