シナリオは忠実に
「おじさん。戻りました」
『ただいま』はおばあちゃんが亡くなった後、1度も言ってない。
「おかえり結ちゃん。今日はいつもより遅かったね」
立派な一軒家。いや豪邸といってもいい。とても立派な家。私はおじさんとこの家でふたりで暮らしている。嶺高へは電車で片道2時間の距離だ。家から駅までは自転車で10分くらい。毎朝5時起きは決して楽ではないが、苦にもならない。通勤ラッシュとは逆方向だし、地元の高校に通っていた時よりも(といっても1ヶ月程度だが)ずっと充実している。
おじさんはトドみたいな体型で、笑うと目を開いてるのか閉じてるのか分からなくなるほど目が細い。常にパソコンとにらめっこしている。どんな仕事をしているのかは知らない。年も外見からだとよく分からない。お金持ちであることだけは確か。ドアが開きっぱなしになっている仕事部屋から顔だけこちらに向け、おじさんは相好をくずした。私は頭を下げ、
「申し訳ありません。稽古が長引いてしまいました」
「いやいや、謝る必要なんてないよ。がんばってる証拠だもの。でも結ちゃん年頃の女の子だし、夜道の一人歩きは危ないよ。今度から遅くなりそうな時は電話ちょーだい。車で迎えにいってあげるから」
「はい。ありがとうございます」
おじさんは私の遠い親戚にあたる人だ。といってもおばあちゃんが死ぬまで1度も会ったことはなく、私は自分に親戚がいることさえその時まで知らなかった。
「ご飯にする?それともお風呂にする?」
「ご飯は済ませてきたので、お風呂を頂いてもよろしいですか?」
「いいよお。おじさんも一緒に入っちゃおうかな」
「――はい」
新婚のお嫁さんみたいなことを言ってきたかと思うと、次の瞬間オヤジ化した。
別にやらしいことをされるワケじゃない。はじめはそれも覚悟したけど、おじさんは私のことを溺愛していて、単に可愛がってくれているだけだ。正直年頃うんぬんを言うなら、もっと気を遣ってくれるとありがたいのだが。
私はおじさんに”NO”を言わない。
おじさんが望めばなんでもする。この家に来たときから決めていたことだ。
「パソコン仕事してると目が疲れるから、結ちゃんは目の保養になるんだ」
普通に目薬してとか思うが、私は笑って冗談だか本気だかわからないおじさんの言葉と汗を流した。
お風呂後。先に上がっていたおじさんが白いガウンを羽織って優雅にブランデーを飲んでいた。巨大なてるてる坊主に見える。
「おじさん。おやすみなさい」
「おやすみ結ちゃん。んーむっ」
投げキスを無視して私は2階の寝室へ向かった。文字通り寝るためだけの部屋だ。自室は他にちゃんとある。まるでどこかのご令嬢みたいだ。
ひとりでは大きすぎるベッドに身をゆだねる。昔の家の薄っぺらなお布団とは大違い。私は手を伸ばしても一生届きそうにない天井を眺めながら、そばに置いてある携帯をたぐりよせた。視線を移し、目的の番号を探して発信する。4回目のコール後、相手は電話に出た。
「もしもし~」
「もしもし。ごめんねこんな時間に。もう寝てた?」
「うん~。でも大丈夫だよ~ふぁ~」
「あはは。あんまり大丈夫じゃなさそう」
悪いとは思うのだが、可笑しくてついつい笑ってしまう。
彼女は響の親友だった子で、響を傷つけるために私が奪い取った。今では毎晩のようにおしゃべりする程の仲だ。
ごめんね響――なんて、心にもない謝罪をしながら私は勝ち誇った気分だった。特に嬉しかったのは、学校で深海さんが響に言い放った台詞だ。あれで私は救われた。響はさぞや傷付いただろう。
「期末の結果驚いたよ。深海さんて頭いいんだね」
「そんなことないよ~。双葉さんも上位だったでしょ~」
「私は中学から進学塾に通わせてもらってるから、全然大したことじゃないよ。深海さんはどこも通ってないんでしょ?」
「うん~」
期末テストで深海さんは学年1位だった。1科目だけ99点で他は全て100点。答案用紙を見せてもらったらそれは数学で、回答欄に式を記入してしまったが為の1点減点だったそうだ。そういえば中間テストの順位も深海さんが1位だった気がする。にも関わらず塾に通っていないなんてにわかには信じられないが、本当の秀才はそういうものなのかなと私は納得していた。
「勉強のコツってよくわからないんだ。今度教えてよ」
「コツっていうか~。人に勉強教えてたらいつの間にか勉強が楽しくなってきちゃって~」
「え、家庭教師とかしてるの?」
「ちがうよ~。友達に教えてただけ~」
「そうなんだ」
「うん~」
それは誰?と聞くのは悔しいのでやめた。
私は枕に顔をうずめるようにして、深海さんに別の質問をした。
「ねえ、つまんないこと聞いてもいい?」
「どうぞ~」
「中学の頃の響ってどんなだった?」
「天上さんはぼそぼそしゃべる暗い子でね~。みんなを避けてるような節があったの~」
「へえ……」
私の知る響は自信家で、人を見下したような態度を取る子だった。その響と、深海さんの言う響の印象はだいぶかけ離れている。けどそれはさして重要なことではない。なぜなら響はどんな風にも自分を演じ分けられるからだ。そうやって人を騙すんだ。私にしたみたいに。
「深海さんはどうして響と友達になったの?」
「理由はないんだけど~。私が天上さんと友達になりたいと思ったから熱烈なアプローチを~」
「どうして?」
理由はないと言ってるんだから、それ以上の答えを深海さんは用意できない。なのに私は繰り返しそう聞いていた。ひょっとしたら深海さんの優しさを利用して、そこにつけ込むために響がついたウソ(演技)だったのかも知れない。そう思うとおなかの辺りが熱くなった。
「ん~どうしてだろ~。なんでそんなこと聞くの~?」
「アイツはそうやって人を騙すから。深海さんのことだって傷つけようとしてたに決まってるよ」
「そうやってって~?」
「いかにもな態度で友達を演じるけど、全部ウソだってこと。こっちがそう思ってても、アイツは微塵もそんなこと思ってないんだよ」
吐き捨てるように私は言った。穏やかに訪れ始めていた睡魔は刺々しい気持ちに追いやられ、どこかへ行ってしまった。
「双葉さんは~」
「うん?」
「なんでもない~」
「なに。気になるから言ってよ」
「怒らない~?」
「怒らないよ」
「じゃあ言うね~」
深海さんは前置きし、
「双葉さんは天上さんのことがよっぽど好きだったんだね~」
私の傷を思い切りえぐった。
「……そんなわけないでしょ」
怒らないと約束していなければ、声を荒げていたかも知れない。だけど声のトーンが下がるのは抑えられなかった。
「あるよ~」
それ以外で、何年も恨み続ける事は難しいと深海さんは言った。
「ちがう」
私は否定する。
「ちがくないでしょ~?」
「ちがうっ」
私は頑なに否定した。
やっぱりこんな話しするんじゃなかった。私が後悔していると深海さんは唐突に話題を変えた。
「白雪姫にそっくりだね~」
「え?」
「白雪姫は王妃に何度殺されかけても生き残って~最後は王子様と幸せに暮らすでしょ~?」
「うん」
「だから~双葉さんは白雪姫にそっくり~」
私が?なにをばかなことを言っているんだろう。そんなわけないじゃない。
「王妃の結末を双葉さんは知ってる~?原作の方の~」
「ううん。いくつか結末があるのは知ってるけど、詳しくは…」
「王妃はね~。白雪姫と王子様の結婚式に招待されて~そこで処刑されるんだよ~」
「そうなんだ」
因果応報だろう。白雪姫を殺そうとしたのだから。バチが当たったのだ。
「真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて死ぬまで飛び跳ねたんだって~」
「いい結末ね。スカッとするわ」
「白雪姫は王妃のことを恨んでいたと思う~?」
「当然恨んでたでしょ。散々ひどい目に遭わされてきたんだから。深海さんが言うように私が白雪姫とそっくりだって言うなら、私も響を――王妃を殺してやりたいと思う」
「双葉さんは天上さんに死んでほしいの~?」
「――そうよ。あんな奴、死ねばいいんだわ」
そこまで言うつもりはなかった。だけど勢いでつい言葉にしてしまった。私の口から出た台詞は携帯に吸い込まれて消えた。
「そうなんだ~。でも王妃が死んだら白雪姫の物語も終わるよ~?」
双葉さんの言葉の真意が読めなかった。
「どういう意味?」
「秘密~」
「教えてよ」
「だめ~」
「……もう」
その後はとりとめのない話しをして通話を終え、私は眠った。
おばあちゃんの夢を見たのは久しぶりだった。
週末、私は深海さんとクラスメイト数人を誘い赤坂の劇場で開演する劇団『春』の初日公演に招待した。人気脚本家、式羽臣の創作劇を中心に活動する劇団で、多くの有名俳優を輩出したことでも知られる。私も何度か雑誌のインタビューを受けたことがあった。
今回の作品は『ロミオとジュリエット』を現代風にアレンジしたものだ。コミカルな要素も随所に組み込まれている。私がロミオ役で、ヒロインのジュリエット役は今年喜寿を迎えるおじいちゃん団員が務めた。
大きな拍手に包まれ、記念すべき初日第1回公演は幕を閉じた。
***
「双葉さんすごかったねー!演劇ってちょっと堅苦しいイメージあったんだけど、全然違ってびっくりした。面白かったよ!」
「ありがとう。みんな来てくれてありがとうね」
興奮醒めやらぬ様子で褒めてくれるみんなに礼を言い、ミーティングがあるからまたねと言って別れた。初日は4回公演で、2回目と3回目はキャスティングが入れ替わる。本当はみんなとご飯を食べに行く位の時間はあったけど、演技のことだけを考えていたかった。
4回目のトリを飾るのは私だった。全て終わったのは夜の9時過ぎ。精根尽き果てた私はふらふらになりながら劇場の裏口から外に出た。月のきれいな夜だった。
駅に向かって歩きながら今日の出来を採点する。
求められた演技は出来たが、それだけだ。失敗しなかっただけだ。それじゃダメだ。70点もいけばいいほうだ。
式羽先生は言った。「悪くはなかったけど、もっと良くできるはずだ」と。
それは私の可能性を信じての評価なのだろうか。
必死に稽古に励んで3年以上経つ。『そら』から数えればもう6年目だ。
主役を務めるようになって、わかったことがある。
プレッシャーが半端ではないということ。大きな舞台になればなるほどそれは大きくなり、私を押しつぶそうとする。ライバルだって多い。ちょっとしたミスで簡単に主役の座から引きずりおろされてしまうこの世界で、そのちょっとしたミスをしない私は劇団のトップを張り続けている。しかし、仲間たちからは快く思われていない、気がする。
(――あれ)
軽い既視感を覚えた瞬間だった。
耳をつんざく車のクラクションに驚き、私は尻もちをついてしまった。
目の前を猛スピードでトラックが通り過ぎて行く。
交差点の信号は赤だった。気付かず渡ろうとしていたらしい。
「あ……」
周囲の視線が恥ずかしくて私はあわてて立ち上がり、スカートについた汚れを手で払った。待っている時間がやけに長く感じられた。ようやく信号が青に変わり、早足でその場を離れる。
さっさと帰ろう。
トドみたいなおじさんとお風呂に入って、深海さんに電話して、お姫様みたいなベッドで眠ろう。
私は何も間違ってない。間違える選択肢さえなかった。
私は間違ってなんかない。