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-After_Snow-

それは運命の日。

 稽古後に先生から配布されたプリントを私は最初みることが出来ず、閉じた目を恐る恐る開けていく。ぼやけていた文字が、次第にその意味を明確なものへと変えていく。



 卒業公演『白雪姫』キャスト一覧

 白雪姫役:双葉結

 王妃役:天上響



 ひどい話だけど、その他のキャストは全く目に入らなかった。

 私は頭の中が真っ白になって、


「結。主役おめでと」


 祝福してくれた響に、人目もはばからず抱きついてしまった。


「響………夢みたい」

「なに言ってるの。全部現実。これが結の実力だよ」

「よかったなぁ双葉ちゃん。うちも嬉しいで!おめっとー!」

「おめでとう双葉さん!」


 瑞穂や他の子たちまで私を祝福してくれる。

 演技で泣くのは難しいのに、この時は自然と涙があふれた。


「ほら、泣かないの。これからが本番なんだから」

「うん………」


 これでやっと、おばあちゃんに言える。

 響と共演できるって。しかも私が主役なんだよって。

 私は嬉しくて、しばらく涙が止まらなかった。





 年が明けて、1月。

 私はおばあちゃんと初詣に出かけた。


「すごい人混み。おばあちゃん、手を離さないでね」


 おばあちゃんと手をつないで歩く。数年前は私の手を引いて前を歩いてくれたおばあちゃん。今は私が先頭にたって、おばあちゃんの手を引く。

 おばあちゃんは今日のために、私に晴れ着を買ってくれた。

 おばあちゃんからの早めの小学校卒業祝いだっていってくれて。

 すごく嬉しかった。

 私は着付けなんてできないから、毎年おばあちゃんにしてもらおう。

 お賽銭箱の前で会釈し、お賽銭を投げ込んだ。

 鈴を鳴らしてから、手を2回叩き、願い事をしたあと、会釈をして引き返した。

 何をお願いしたのとおばあちゃんが聞いてきたので、答える。


「おばあちゃんがずっと元気でいられますようにって」


 おばあちゃんはにっこり笑ってありがとうと言った。


「おばあちゃんは?」


 私の質問に、おばあちゃんは私とおなじことを願ったと答えた。

 長生きして、ひ孫の顔を見るまで死ねないわなんて冗談交じりに。

 私は恥ずかしかったけど、おばあちゃんと一緒にいられることに幸せを感じていた。



***



 2月に入り、響が稽古を休むようになった。

 家庭の事情らしい。本番までもう日も差し迫っている。私は不安になって、その日の夕方響の家に電話を掛けた。


「もしもし」

「もしもし、天上さんのお宅ですか?私、響さんの友達で双葉と申します」

「結?」

「あ、響?ごめん、急に電話しちゃって……」

「いいよ。稽古のことでしょ?」

「……うん」


 用件は言わずとも伝わった。響の家の事情を考えない自分の浅はかな行動が嫌だった。けれど私はどうしても『白雪姫』を成功させたかったのだ。


「心配かけてごめんね。ちょっとごたごたしてて。でも心配しないで。台詞はもう完璧に覚えたし、リハの日には顔出すから」

「うん、わかった。またね」


 電話を切り、ひと安心した後、私は『白雪姫』の台本を何度も読み返した。一言一句見逃すまいと、忘れるまいと何度も何度も読み返した。





 3月3日。本番一週間前。

 リハーサルはこれ以上ないほどの出来だった。

 久々に顔を出した響は、私の心配など余計なお世話だといわんばかりの最高の演技を見せてくれた。

 リハーサル後、私は響のもとへ駆け寄って、


「響。来てくれてありがとう」

「どう致しまして。どうだった?あたしの王妃は」

「うん。きらきらしてた」

「それって喜んでいいの?まあいっか。結の白雪姫、とても上手ね。妬けるわ」


 にやりと笑う響はまだ王妃モードが抜けていなかった。白雪姫の美貌を妬む王妃の狂気そのままに。私はぞくっとした。やっぱり響はすごい。


「残すは本番だけね。がんばりましょ?」

「うん。がんばろうね!」


 一緒に帰りたかったけど、響は用があるらしく先に帰ってしまった。私は夜ご飯の買い物をして家に帰った。


「ただいまー」


 私のコールにおばあちゃんはおかえりのレスポンス。

 それがうちの日常だ。

 でも、この日はいつもと違っていた。


「おばあちゃん?」


 返事がない。でも玄関の明かりはついているし、おばあちゃんの靴もちゃんとある。

 私は靴を脱ぎ、居間へ向かった。

 この時間はいつも居間にあるテレビでお茶を飲みながらニュースを観るのがおばあちゃんの日課だった。私が稽古から帰ると一緒に夕飯の用意をしてくれる。


「………おばあちゃん?」


 テレビからはニュースが流れている。テーブルに置かれたお茶からは湯気が立ち上っている。私の手から買い物袋がずり落ちる。おばあちゃんが床に倒れていた。


「おばあちゃん!」


 驚いて駆け寄り声を掛ける。体をゆする。反応がない。


「おばあちゃん、ねえどうしたのおばあちゃん、しっかりして!」


 おばあちゃんはぴくりとも動かない。喉の奥からかすかにひゅー、ひゅーと呼吸音が聞こえた。落ち着け、落ち着いて。私は近くの電話から乱暴に受話器を取り119番に掛け救急車が来るまで、大事にしていた喉が枯れて声がかすれてもガラガラになってもおばあちゃんを呼び続けた。いくら呼び掛けてもおばあちゃんは目を開けてくれなくて、だけどそれでも呼び続けることをやめなかった。



***



 3月10日。卒業公演本番。

 私は控室の鏡の前に座っていた。鏡はひとりの平凡な少女を映す。

 私の名は双葉結。2年前おばあちゃんと一緒に響の演技を観て、響に憧れて劇団『そら』に入団した。

 おばあちゃんはあの後すぐ病院に運ばれた。幸い命に別状はなく、2日後には元気に退院した。疲れが溜まっていただけらしい。今日はこの会場のどこかで私の出番を待ってくれている。木の役からここまできたよ、おばあちゃん。私が主役だよ。

 今日の演目は『白雪姫』。劇団『そら』での最後の公演。まぶたを閉じ、精神を集中させて、ひとつ息を大きく吸ってゆっくり吐く。

 ――わたしの名は白雪姫。真っ白な雪のような少女。無垢な瞳を、無垢な心を持っている。

 まぶたを開ける。

 鏡は白いドレスに身を包んだひとりの可憐な少女を映し出した。

 時間だ。

 物語の幕が開ける。

 わたしはライトアップされた舞台へと歩いて行った。




 物語は進んでいく。

 美しく成長した白雪姫は王妃の怒りを買い、その命を狙われるが家来の計らいによって救われ、小人たちの家に住まうことになる。

 白雪姫がまだ生きていることを知った王妃は怒り狂い、再び白雪姫を殺そうと魔法を使って毒リンゴを作り、老婆へ姿を変えて森へと出かけて行った。小人たちとの約束を破り、家のドアを開けてしまう白雪姫。

 黒いローブに顔を隠した老婆は、その手に乗せた魅惑の赤いリンゴを白雪姫に差し出して言う――。


「美しいお嬢さん、甘い甘いりんごはいかが?」


 ――その台詞が、老婆の口から出てこない。

 わたしは待った。けれど老婆の口は魔法にでも掛かったみたいに動かない。よくみるとその体は小さく震えていた。

 わたしはハッとして私に戻り、響にしか聞こえない声でささやいた。


『美しいお嬢さん、甘い甘いりんごはいかが?』


 私は『白雪姫』に出てくる全ての人物の台詞を覚えていた。誰にだってミスはある。ミスをしない人間なんていない。響だって例外じゃない。私は響を助けてあげたかった。響は私を演劇の世界へ導いてくれた。いつもきらきらしていた。私の演技を好きだと言ってくれた。そして私たちは親友だ。だから私は響を助けてあげたかった。

 けれど、一瞬開きかけた響の口は固く閉ざされた。唇を噛んで、意地でも言葉が出てこないようにしていた。

 これ以上は待てない。私はわたしに戻るしかなかった。


「まあっ甘くて美味しそうなりんご!ありがとうおばあさん」


 リンゴを受け取った白雪姫は笑顔なのに、その瞳からは涙がぽろぽろこぼれていた。震える手でリンゴを一口かじる。白雪姫は倒れ、家に戻った小人たちは物言わぬ彼女を見つけ、悲しみに暮れた。その後偶然通りかかった王子様のキスで白雪姫は目を覚まし、二人は幸せに暮らした。

 ハッピーエンドに会場は沸いた。



***



 その日の夜、おばあちゃんは再び倒れた。

 すぐに救急車を呼んだけど、おばあちゃんは2度と目を覚まさなかった。本当はもう手の施しようがなかったんだって、動ける状態じゃなかったんだって、私を引き取った叔父さんが教えてくれた。だけど悲しんでる様子は微塵もなかった。


「今日からぼくが結ちゃんのお父さんだよ。なんでも好きなもの買ってあげるし、毎日ごちそうを食べさせてあげる」


 そういって叔父さんは笑った。

 色々なことが終わり、新しい家に高そうな車で向かう途中、私は早送りみたいに流れては消えていく景色を眺めながら、少しだけ記憶を巻き戻していた。






 病院から家に戻る途中、私は駅近くの歩道橋の上で響と会った。彼女は驚いた様子だったが、私は何も感じなかった。


「偶然ね。こんなところで会うなんて」

「………」


 私は言葉が出てこない。ただ呆けたように目の前の響を見ていた。


「卒業公演、お疲れ様。あたし緊張して台詞忘れちゃってごめんね?」


 もし私に演技の才能があって、数え切れないくらいの公演に出演していたら、主役も飽きちゃうくらい抜擢されていたら、おばあちゃんが生きていたら、許せただろうか。


「…………」

「何か言おうよ。もしかして怒ってるの?いいじゃない別に、『そら』なんてしょせん学芸会に毛が生えた程度の―」

「……どうして?」


 響の言葉を遮り私は質問する。響は怪訝そうな顔をした。


「なにが?」

「どうしてあの時響の台詞教えてあげたのに、言ってくれなかったの?」

「あれ、そうだったっけ。全然気が付かなかった」

「そういう嘘はやめて」


 私の言葉に響は押し黙る。私を見る目を細め、冷たくなり、トーンを下げた声で再び口を開いた。


「………随分な言い草ね。つまり、結はあたしのミスが許せないんだ?」


 ずっときれいで崇高なものだと思っていた二人の絆に、ヒビが入る。

 私が何も言わないでいると響は口元を歪めた。


「この際だし、ハッキリ言っていい?」

「うん」

「あたし、結のこと嫌いなの」


 驚いた私を見て、響は畳み掛けてくる。


「やっぱり。結、あたしのこと親友か何かと勘違いしてたでしょ?冗談キツイ」


 舞台で演じる悪役どころではない。刃物みたいな台詞が私をズタズタに引き裂いた。


「そもそも住む世界が違うんだから、友達ヅラしてあんまり調子に乗らないでほしいわけ。あたしはね、小さい時から毎日毎日血の滲むような努力をしてきた。『そら』に入ったのは親に『お前の力がどれだけ通用するか試してこい』って言われたからよ。結も知ってるでしょ?あたしがあそこでなんて呼ばれていたか」


 ――天才。響を表現するならその2文字で事足りた。事実彼女に敵う者などおらず、誰もが彼女を認め、称賛の限りを尽くした。


「あたしごときがそんなふうに認められてしまう『そら』のレベルの低さに心底嫌気がさしたわ。言っとくけどあたし、『そら』の公演で1度も本気で演じたことなんてないから。舞台外のことだって全部演技ウソ。あたしはずっとあなたたちを騙してたの」


 私は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。響は言っているのだ。

「あたしとあなたはなんでも無かった」のだと。


「…………信じてたのに」

「そう思わせるのが狙いだったのよ。お友達ごっこ、楽しかったでしょ?ま、卒業公演でミスしちゃったのは悪かったわ。せっかく結が初めて主役とれたのにね?台無しにしちゃったんだもの」


(………ああ、そうだったのか)


 やっとわかった。

 私があの時、響のために台詞を教えたという行為は、響のプライドを傷つける以外の何物でもなかった。響は怒っているんだ。演劇を始めてまだ間もない私が、出過ぎた真似をしたことを怒っているんだ。


「結。あなたには才能があるけど動機が弱い。それでもあなたのおばあさんを喜ばせるくらいならこれから先も出来るでしょ。あなたが演劇続けるかどうかは知らないし、興味ないけど。精々がんばってね。さよなら」


 響は決別の言葉を言い放ち、私に背を向けて行こうとする。


「……………もういない」


 うつむいて独り言のようにつぶやいた声は、響を立ち止まらせた。


「え?」


 響は振り返り、私を見る。


「私のおばあちゃん、もういないの」

「いないって、どういう意味よ?」

「あの日の夜倒れて、今日の朝、死んじゃった」


 『死』という言葉を発した瞬間、まるで時間が止まったみたいに、道路を走る車の音も、周囲の雑踏も聞こえなくなった。

 私は顔をあげる。響は口元をおさえ青ざめていた。


「倒れる前におばあちゃん私の演技を褒めてくれた。今までで一番良かったって、たくさん褒めてくれた」


 だけど。


「だけどおばあちゃん最後に言ったの。王妃を演じていたあの子にはまだまだ遠く及ばないって。もっとたくさんのことを勉強して、吸収して、いつかあの子みたいになれるといいねって」


 おばあちゃんは演劇が大好きだった。だからこそ嘘が言えなかったのだろう。


「私、悔しかったよ。それでも精一杯笑って頷いたよ」


 私はぎゅっとこぶしを握る。


「私、憎いよ。響のことが憎い。だけどおばあちゃん、響のことが大好きだったの」


 もしも。


「もしもあの時、響がミスをしなければきれいなままで終われた。ううん、ミスは仕方ないよ、誰だってミスをするんだから。だけど私は響の台詞を覚えてた。ミスをさせないことができた。響が私の言うとおり台詞を言ってくれてたら、それでもきれいなまま終わることができたんだよ」


 視界が曇る。病院で散々泣いたのに、私の雨はまだやまない。


「これっぽっちも疑ってなかったよ?おばあちゃん、響が私たちを内心ばかにしてて、1度も本気で演じたことが無いなんて、これっぽっちも疑ってなかった」

「あ………あたし――」

「『そんなつもりじゃなかった』?言い訳しないで。謝ってよ。あなたを信じてたみんなに謝って。あなたに騙されてたみんなに謝って。嘘つきなあなたを信じたまま死んじゃったおばあちゃんに………………………あやまってよぉッ!」


 2年前のあの日、出会わなければ。

 こんなに苦しむこともなかった。こんなに悲しむこともなかった。こんなに憎むこともなかった。

 私は泣きながら響を責めた。ひどい言葉をどれだけ吐きだしても涙は止まらなかった。

 そのあとのことは、よく覚えてない。

 ハッキリしているのは、私は大切なものを失ったということ。私は裏切られたということ。それだけだ。









「結ちゃん。中学でなにかやりたいことはあるかい?」


 運転席から叔父さんが尋ねてきた。


「やりたいこと、ですか」


 そんなの、決まっている。


「私、演劇が大好きなんです。やらせていただけますか?」

「おお、演劇か!いいともいいとも。結ちゃんかわいいし、将来が楽しみだねえ。よおし、叔父さんに任せなさい!わっははははっ」

「ありがとうございます。私、叔父さんの期待に添えられるよう精一杯がんばりますね」


 まずはこの人に気に入られること。そのためならどんなウソだってついてやる。

 ――今度の動機は強いよ、響。

 彼女のことを想うと、新しい土地での新しい生活に対する不安など吹き飛ぶ。

 車はさらにスピードを上げ、見慣れた景色も優しい思い出も全て消し去った。

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