彼女の事情
土曜日。
3年前に父が購入した振り子時計が午後2時を知らせる。ドイツの老舗時計メーカーが作ったものらしい。
それに反応するようにリビングの電話が鳴った。
父の書斎は広くて、ミニチュアの図書館みたいだった。生憎あたしはそこまで本好きじゃない。だから父には優しい本たちも、あたしには背中を向けている。
家にはあたしの他に誰もいない。慣れ親しんだ家の中も、ひとりきりだとどこか知らない場所に見える。あたしはその中をゆらゆら幽霊みたいに彷徨っている。
3回目のコールが鳴る。
あたしは電話に気付き小走りで書斎を出てリビングへ向かい、5回目のコールが鳴りやむ直前に受話器を取った。
「……はい」
電話の向こうは、海の向こうだった。
「……うん、元気……ご飯?ちゃんと食べてる。そっちはどう?………へえ、凄いじゃん」
近況報告とか、その他もろもろ。
「次はいつ帰ってこれるの?………そうなんだ……わかった。お母さんも身体に気をつけてね……お父さんにもよろしく」
ありきたりな親子の会話を終え、海の向こうからの通信は途絶えた。
ツー、ツー、と無機質な音を奏でる受話器を置いてからあたしは自分の部屋へ戻り、誰も入ってこないのにドアを閉め鍵を掛けた。
部屋にあるのは着替え用のタンス棚。姿見鏡。本棚。勉強机。ノートPC。ベッド。小学生の頃はもっとあった気がするけど、今はこれだけ。
「……まぶし」
窓から差し込む日差しが嫌で、あたしはカーテンを閉めた。まだ日中なのに部屋が薄暗くなる。遮光性はいまいちだ。よくよく考えたら、朝からパジャマのままだった。中学生の時に買ってもらった水玉模様のパジャマなのだが、今でも普通に着れてしまう。サイズが大きいのか単に成長してないだけなのか。あたしはパジャマの襟ぐりを人差し指でくいっと引っ張り、真相を確かめた。
「…………」
閑話休題。
高校生になって初めての中間テスト後の週末だから、緊張の糸が解けてしまっていた。
テスト結果はまだ発表されていない。自慢じゃないけどあたしは勉強が苦手で、都立嶺鶯高校に入学できたのは奇跡だった。偏差値はそんなに高くないけど、自由な校風と制服が可愛いからって理由で受験する子は多い。3年間着るものだから、もちろん可愛いに越したことはないんだけど――なんて言ってるあたしも実は制服に釣られて受験した口だ。
(来年は絶対文系選ぼ……)
1年生の終わりに、文系か理系かを選択できる。
あたしは根っからの文系タイプで、天敵理系の呪いから解放されるのが待ち遠しかった。例え理系のほうが大学受験の際に色々有利だったとしても、あたしの気持ちは揺るがない。愛する現国、古典に集中できるなんていとおかし。
軽く頭がトリップしてきたのでベッドへダイブしようとした瞬間、机の上に置かれたケータイがぶるぶる震えた。浅子からメールが届いたらしい。
「……ん」
あたしには友達が少ない。
(性格………の問題なのかな)
高校生ともなると周りの皆はぐっと大人っぽくなって、耳に入る話題もあたしが到底ついていけるようなものではなくなった(主にオトナの保健体育)。話しかけられるのを待つしか出来ない受身一辺倒のあたしのガードが更に硬くなるだけだ。
そんなわけで、現存する貴重な友人からのメール内容を厳かに閲覧する。
『口の中でとろけるよ』
いちいち主語が欠落するのを除けば、とても良い友人なのだけれど。
『何の話?』
『とぅるんっ』
音まで。
わけが分からないのであたしは直接電話を掛けた。
「シェリエ・ドルチェの新作プリンの話だよ~」
「……そのホフク前進みたいな説明を………どうして1度にまとめてくれないの………」
「だって暇だったんだもの~」
メールでは主語が無く、会話では語尾を伸ばす友人、深海浅子の声は眠い時に聞くとリラクゼーション効果抜群で、あたしの意識を彼方まで連れ去ってくれる。
通話を切り、携帯の電源まで切り、あたしはベッドへダイブした。
***
日曜日。
気付けばお昼寝のつもりが夕方も夜も通り越してしまい、時間は朝5時55分。あたしはゾロ目の時間に起きることが多い。得した気分になるけど、それを誰かに話したことはない。バカにされるだけだし。
(う……寝過ぎて頭クラクラする………)
1度でいいから24時間眠り続けたいとか思っているが、自分はまだそこまでの器じゃないらしい。
あたしは人生の3分の1を占めるという睡眠場所から這い出し、洗面所へ向かった。
おぼつかない足取りで自室を出て、リビングをのろのろ進む。目がかすむのでネコみたいにごしごしこすりながら進む――ネコみたい、というのは比喩表現だけど、残念ながら『可愛い』の意味は含まない。あたしは学問の神様にもビジュアルの神様にも見放された子なのだ。『捨てる神あれど拾う神なし』なのだ。
「ひゃっ……?」
ボーン、ボーンという背後からの音に飛び上がりそうになった。
音の正体は振り子時計。午前6時を知らせてくれただけだった。
「………ぼーん……ぼーん………」
あたしが真似すると振り子時計は沈黙してしまった。
洗面所へ到着。鏡に映った女子高生の寝癖はひどかった。直すのにもひと苦労だ。なんでかブラシの通りも悪いし。中間テストはそこまであたしを消耗させたのだろうか。これで赤点だったらホント泣く。
洗顔を終えたあとで、昨日お風呂に入り忘れていた事に気付いた。
「………」
いくつかの選択肢が頭に浮かんだ。
①可及的速やかにお風呂。
②朝らしくシャワー。
③コンビニで何か食べるものを買ってから考える。
④マインスイーパで遊び倒す。
「……③」
着替えの為、あたしは自室へ戻った。
淡い紫色の長袖シャツに、ショート丈のデニムパンツ、ボーダー柄のソックス。身軽な格好が好きだった。遠出をする時はこれにリュックとか。
あたしは鏡をみて、笑顔らしきものを作ってみる。
浅子曰く、
「キョーちゃん、にや~って笑うのはやめた方がいいかも~」
との事らしい。じゃあにこって笑うにはどうしたらいいのかと尋ねたら、
「鏡の前でスマイル×スマイルかな~?練習あるのみ~」
との事だったけど、一向にうまく笑えない。どうしても不敵な笑みになってしまう。
「………コンビニいこ」
折角の日曜日なのに朝から出鼻をくじかれたあたしは、お財布をポケットに入れて家を出た。
両親が家にほとんどいないから、自然とひと通りの家事は覚えた。でも料理だけはからっきしダメで、レトルト食品ですら裸足で逃げ出すレベルだ。これも一種の才能らしいが、この手の才能はいらない。なので最近の主食はコンビニのおにぎりとか、サンドイッチばかりだった。
玄関を出るとすぐ近くに置いてある自転車に鍵を差し込んで回す。かちっと音がしてロックが解けた。家の入口の門の内側に停めてあるので、盗難の心配はしてない。泥棒とかに入られたら困るけど。
あたしは東京江戸川区に住んでいる。小学校から中学に上がる時、今の家に引っ越してきた。
門を出て、勢いよく自転車をこぎ出す。
元々あたしは病弱で、小学校にあげるのを1年遅らそうかと親が心配していたらしい。いまはすっかり健康だ。
早朝の冷やっとした風が気持ちいい。毎年夏になると大きな花火大会が催される川に掛かる橋をあがって、一気にくだっていく。スピードに乗った自転車の勢いに任せ、ペダルをこがなくてもぐんぐん進む。
その勢いが無くなる頃に、行きつけのコンビニに到着するのだ。
環七通りの中間地点に位置する交差点の一角にあり、場所がら車の往来はとても多いのだが、なぜかいつも店内は閑散としていた。
駐輪場に自転車を停め、反応の悪い自動ドアが開くのを待って入店する。
「しゃぁせー」
食品コーナーへ進んだあたしは、納品直後らしきうず高く積み上げられたキャリーの中に大好きな昆布おにぎりを発見した。
(うう、一番下の段………)
あたしはしゃがみ込んで昆布おにぎりを恋しそうに眺めたあと、店員さんを見た。あからさまに目を逸らされた。どうやらあたしに売る昆布おにぎりはないらしい。
仕方ないので立ち上がり、棚に並んでいるおにぎりを物色する。
梅干し。おかか。特上ヒレカツ(!?)の3種類しかなかった。
熟考の末、結局あたしが買ったのはたまごサンドにごぼうサラダ、午後ティーストレートだった。本当は昆布おにぎり、ツナサラダ、お~い御茶がベストだったのだけど。
会計を済ませて店を出る。
「しゃぁしたー」
あたしは自転車のかごに荷物を入れ、長い上り坂を立ちこぎで駆け上がっていった。
家に戻ってからコンビニで買った朝食を食べて、お風呂に入って、マインスイーパで終日遊び倒した。
***
月曜日。
ブルーマンデー症候群のあたしは、それでも自転車をゆっくりこぎながら(頑張ってこぐと学校で消費するために温存してある体力が無くなってしまう)学校へ向かっていた。
「キョーちゃんおはよ~~」
「……おはよう」
背後から声がして、振り返る前にママチャリで隣に並んだのは浅子だった。
おっとり黒髪ロングのお嬢様、といえば想像し易いだろうか。実際浅子はお嬢様だし、長い黒髪はつやつやしてるし、おっとりしてるし。それにカワイイ。毎年文化祭で開催されるというミス嶺高に早くも1年生代表としてエントリーされた程だ。各学年で2名ずつ選出されるらしい。おかげで並んでいるとあたしが可哀そうな子みたいになってしまう。
「一昨日話したプリン持ってきたから一緒に食べよ~?」
「……そんなに気に入ったんだ?」
「うん~。キョーちゃんにもとろけてほしくて~」
「……その表現は………まあ、ありがと」
「えへ~」
浅子ははにかんで笑った。いちいち可愛いな。
「今日転校生が来るんだって~」
「……へえ」
「なんか有名な子らしいよ~」
「……芸能人とか?」
「詳しくはわかんない~」
あたしはTVとか観ないので、例え芸能人だったとしてもあまりピンとこない。男の子かな。女の子かな。せいぜい気になるのはその程度。あたしの路地裏人生に影響を及ぼす可能性はないだろう。
都立嶺鶯高校。通称嶺高は自宅から自転車で30分くらいの所にある。親水公園の川辺に沿って進み、アーチの様な緑道の途中で掃除のおじさんに会った。
「おはようございます~」
「………(ぺこり)」
浅子はにこやかに声に出して挨拶する。あたしは声に出すのが恥ずかしくて頭だけ下げた。軍手を装着し黙々と竹ぼうきで落ち葉を掃除していたおじさんは、こちらに気付くと右手を上げて返してくれた。すこし頬が赤かった気がする。おじさん、恥ずかしがり屋さん?
緑道を抜け、交番のある交差点を渡り、ホームセンターの角を曲がると嶺高の敷地が見えてくる。
校庭の隅っこにある駐輪場まで進み、あたしたちは隣同士に自転車を停めた。
「……中間の結果、今日かな……?」
「たぶん~。職員室の前に張り出されるんだって~」
「……いやだなあ………」
公開処刑もいいとこだ。せめて通信簿みたく個人個人に結果を渡してくれるなら、そっと枕を濡らせるのに。
踊り場に面した下駄箱で上履きに履き替え、あたしは浅子と一階の職員室に向かった。入口付近の壁が掲示板になっている。そこに掲示されていたのは校内便りや保健便り、部活勧誘のビラやポスターばかりで、目的のものはなかった。
「まだみたいだね~」
「……うん。教室いこっか……」
ホッとしたような、残念なような。歯医者の待合室で呼ばれるのを待つ患者と同じだ。どうせ痛いのなら、さっさと治療してもらった方が楽だし。
階段をあがり、4階の教室へと向かう。嶺高の校舎は4階が1年生、3階が2年生、2階が3年生の教室という構造になっている。1階には職員室、化学実験室、美術室、多目的室等がある。体育館は別館になっていて、校舎と同じくらい広い。設備も充実していて、部活動にも力を入れていることが伺える。ちなみに浅子は剣道部、あたしは帰宅部だった。
4階の右奥、1年A組。
教室のドアは開きっぱなしだった。これはあたしにとってありがたい。浅子と登校している分にはいいのだが、浅子が風邪を引いて欠席した時などは当然ひとりで登校するわけで、そういう時教室のドアがしまっていたら当然開けるわけで、ガラガラ鳴っちゃう音に当然皆の視線があたしに集中しちゃうわけで。
「おはよ~♪」
浅子は誰にでも話しかけられるし、誰から話しかけられても丁寧に受け答えするから人気が高い。友達も多い。華があるのだ。浅子がいるだけでクラスの雰囲気がぱあっと明るくなる。浅子の周りには自然と人が集まる。逆にあたしが、
「………おはよう……♪」
などと言おうものならみんな部屋の隅で膝をかかえてしまうだろう。
想像しただけで申し訳なくなってしまい、あたしは机につっぷしてHRの時間を待った。
***
お決まりの音階に乗せてチャイムが鳴る。
担任の倉橋先生(あだ名は角刈り。角刈りだから。体育の先生)が元気よくドアを開けて教室に入ってきた。
「オハヨーお前たち!爽やかな朝だな!」
逆三角形のボディにぴちぴちの白Tシャツ、首に掛けたホイッスル、ジャージ下、片手にクリップボード。いかにも体育教師っぽい出で立ちだ。
倉橋先生のあとについて、一人の女子生徒が入ってきた。
背はあたしと同じか少し高い位。
だが、その他のパーツがありえない。男子たちが色めき立った。
「新しい仲間を紹介するぞー!さ、自己紹介タイムだ」
倉橋先生に促され、その女子生徒は静かに教壇に立った。
完璧な笑顔、完璧な声、完璧な仕草で。
「みなさん、初めまして。双葉結といいます。今日からよろしくお願いします。いっぱい仲良くしてください」
うおおおおユウちゃあああん!と騒ぐ男子たち。
あたしは何か、何かを思い出そうとして――もうここまで出かかっているのに、それが何かを思い出せずにいた。
「やかましいぞ男子ー!双葉、席はどの辺りにする?」
「あ、はい。私目が悪いので出来たら前の方の席が……天上さんの隣りがいいです」
「おお、お前たち知り合いなのか。よし、佐々木の列、すまんが1こずつ下がってくれ」
新しく用意された机と椅子。双葉さんは壁際から2列目の先頭、つまりあたしの左側に座った。
(どうして……あたしの名前………)
「天上、授業の時は双葉に教科書見せてやってくれ。お前が色々教えてあげるんだぞー?」
「あ……はい………」
HRが終わり、倉橋先生が教室を出ていった。間もなく1時限目の英語の授業が始まる。
あたしは双葉さんと机の端をくっつけて、その真ん中に教科書を置いて開いた。
なんであたしの名前を知っているのか聞こうと思ったら、双葉さんが先にその答えを教えてくれた。
「久しぶりね」
「……えっと……あの………前にどこかで……?」
「忘れちゃったの?じゃあ、これで思いだせる?」
手のひらを上に向けて差し出し、小さく、小さく双葉さんはあたしにしか聞こえない声で囁いた。
「『美しいお嬢さん、甘い甘いりんごはいかが?』」
「……あ………ッ」
謎を紐解く呪文のように、双葉さんの放った台詞はあたしの疑問を解決してくれた。
「思いだしたみたいね。ずっと会いたかったよ?響………」
天上響。あたしの名前を愛おしそうに呼ぶ結。
でも、あたしにしか見えない彼女の表情は氷の様に冷たくて。
まるで心臓を鷲掴みにされたみたいに、あたしは動けなくなった。