リスニング
歌を聞け。私の歌。私の思い。
エンディリカは考えている。同じ職業なのに、どうしてこうも待遇が違うのか。友達のミーシスは顔とその美しい歌声で店の看板娘となったのに、私はまだ歌わせてももらっていない。歌い手として働いているのだから、歌わないとお金をもらえないのに。お金がないと身なりを良くできない。欲しいものはたくさんある。赤色の靴、ちょっとだけ露出の多いドレスに金と銀の腕輪。どれも全部ミーシスは持っている。……私は、このビール一杯のお金さえも払えないのに。
自分が嫌になって酒屋に来たのは良かったけど、ここのビールがこんなにも高いとは知らなかった。注文してから気付いたのだ。私の今持っている全財産をはたいても、ビールの値段にはぜんぜん足りないことに。すぐに帰ろうと思ったけど、その時にはすでにビールが運ばれていた。嫌な店だ、貧乏人は来てはいけない店だ。
じっと、目の前のビールを見つめる。泡がなくなってきていた。飲まないといけないけど……お金もないのに、どうやって払えばいいのか。
周りを見ると、自分よりもずっと良い服を着ている人ばかりだった。手入れのされた髪、皺のないネクタイばっかり。自分の知っているネクタイは、もっとくたびれた――そう、あんな感じのだ。前の方のテーブルに、男が一人飲んでいた。着ている服は上等なのに、きちんとアイロンをかけていないのか皺ばかり。私でさえもっと、小奇麗に見える服を着ているのに。おかしくなってちょっと笑うと、男が気付いてこちらを見た。失礼だったかな、と後悔して、そっと下を向いた。
「おひとりですか」思いがけず、男は声をかけてきた。
「ええ、まあ」つれなく返事をする。店の姉さんたちが言っていた。酒屋で声をかけてくるのは悪い男で、信用してはいけないと。
笑ったのは失礼だったかもしれないけど、これ以上関わりあいにならないほうがいい。謝って、このビールをなんとかして、帰ろう。
「すいません」
「え?」私はまだ、謝ってない。びっくりして、思わず顔をあげた。男は優しそうな顔をしている。本当にこんな人が悪い人なの?
「一緒に飲んでもらってもよいですか、連れがまだ来ないんです。お互い一人では寂しいでしょう」
心の底から申し訳なさそうな顔をしている男性に、エンディリカは知らず知らずのうちに「はい」と答えていた。
男はほっとしたのか優しく笑って、前のテーブルからお酒と魚の料理を持ってこちらのテーブルに移る。
……連れって、女の人よね? 恋人? なら、私が襲われることはないよね。うん、悪い人じゃなさそうだし。
店の客はたいてい男と女の二人きりでくる。それを思い出して、エンディリカは安心した。一人きりなのも心細かったので、彼の提案は良いことだと思えた。
「名前はなんというんですか」男が尋ねてきたので、少しだけ考えて答える。
「ミーシスです。あなたは?」
嘘をついたことが少しだけ後ろめたく感じたが、どうせ今だけの話し相手だ。開き直って、彼を見た。本当に優しそうで、整った顔だ。店の役者にだって、こんな人はいない。
「レイモンド。レイと呼んでください。……そうですね、俺は城の門番をしています。あなたの職業は?」
話題を探してくれたのか、少しだけ彼は考えた様子で言った。しかしその選択は失敗だ。聞いて欲しくないことだった。それに城の門番なんて、反応しにくい。すごいとか分からないし。偉いのか偉くないのか、教えてほしいぐらいだった。
「近くのお店で歌い手をしています。全然売れてないんですけど」
それどころか歌ってもいないが。ミーシスという名前はそう珍しくない、ばれはしないだろうと思ってそう言う。
「ああ、俺が今日行った店にも、ミーシスという歌い手がいましたね。素晴らしい声でした。花のような雰囲気の女性で」
――本当に今日は運が悪い。店の客に会って、私は、名前も騙ってしまっている。本当の名を言えば良かった。エンディリカなんて、有名でも何でもない名前を。
ミーシスはよく花に例えられている。柔らかい金髪とほっそりした手足が、まるで花の妖精のようだとか。私のぱっとしない茶髪や、鳥の足みたいに細すぎる手足とは大違いだ。ろくに手入れもできていない髪を撫でながら、エンディリカはそっと溜息をついた。
「そのビールは飲まないんですか? おいしいですよ、ここのお酒は」
この人は、私の触れて欲しくない話題ばかり選ぶ。これ以上嘘をつくと自分にとってさらに悪い状況になりそうなので、諦めて正直に言った。
「お金、払えないんです。払えないことに気付かなくて」
自分が本当に嫌になる。情けないことばかり、私はしている。馬鹿にされただろうなと思って男を見ると、彼は驚いていたがそれ以外の感情は持っていないようだった。
「では俺がおごります。合い席してもらったお礼ですから、どうぞ飲んでください」
なんて良い人だ。エンディリカは真っ先にそう思ってしまったが、やはりだめだと思って首を横に振る。
「いいです、店員さんに事情を話して帰りますから」
「そんな、では俺が一人になってしまいます」
立ち上がる私に、傷ついたようにレイは言った。困ってしまって、また席に着く。
「お願いです、俺のためにも飲んでください」
そんな風に言われてしまえば、断る気にもなれなかった。嘘もついたんだから、図々しくにもなれるわ。
「本当にいいの?」一応確認すると「もちろん」と完璧な微笑で答えられた。
じいっと、ビールを見つめる。あんまりおいしくなさそうな色だ。レイのお酒の方がよっぽどきれいな色をしている。匂いもあんまり、好きじゃない。
「ありがとう」そう言って、一口だけ飲んだ。……まずい。口の中が一気に臭くなったように感じた。
姉さんたちはみんなこんなまずくて吐き気がするものを飲んでいたの?
「おいしいわ」泣きそうになりながらも、そう感想を言った。お金も払ってもらうのに、まずいなんて失礼だ。
「本当? 良かった」安心したような顔でレイはお酒を飲んだ。私もまたビールを飲む。
「ミーシスさん、何か注文しますか? ああ、遠慮しなくていいですよ」
少しだけ考えて、「いりません」と答える。早くこの酒屋から出ていきたい。アルコールの臭いがつらかった。
「じゃあ俺も。……歌い手ってどこの店で? 今度行きます」
「小さなお店だから、見つけるのも難しいと思います」
嘘を重ねる。あなたが今日行ったお店よ、とは言えなかった。
「俺はものをよくなくすから、探すのはうまいんですよ」冗談みたいに言うので、エンディリカは少しだけ笑ってしまう。
「探さないでください、恥ずかしいから」
歌い手なのに、店では客室の掃除ばかりしている情けない女だ。嫌な気持ちを消したくて、ビールをもう一度飲む。やっぱりまずい。でも、少しだけ気分はすっきりした。
もうビールはコップの半分ほどになってしまった。なんとなく、体の中が温かくなったような気がする。
「連れってどんな人なんですか?」興味本位で聞いてみた。たぶんきっと、この優しそうな人の恋人なんだから、同じくらい優しそうでかわいらしいひとなんだろう。
そう想像して彼の反応を見ると、レイは困ったように笑っていた。
「そうですね……難しいな、考えたことなかったから。ヴィーは、うーん、言葉は乱暴だけど優しいんです。仲間思いで良い奴ですよ」
やっぱり優しいんだ。言葉が乱暴っていうのが少し気になるけど。ヴィーは愛称かな。ヴィクトリア、ヴィヴィアンとか。華やかで美しい名前だ。
「ヴィーさんは、何の歌が好きなんですか? 歌えるかもしれないわ。お礼に歌を歌うから」
ビールの代金にはおよばないが、せめてものお返しだ。しかしレイはさらに困ったような顔になる。
すぐには思いつかないかなと思って、適当に有名な歌を挙げていく。
「春の女神への祈り、感謝祭の歌、金の蜂。ええと、実はナンキータの女海賊とか?」
金持ちの好まない、勇ましい女海賊の歌だ。エンディリカにとっては、うきうきとした気分になるお気に入り。サビの部分だけを歌ってみせると、レイは驚いたように「お上手ですね」と言ってくれた。
「ううん、あまり歌を聞かないから分からないな。でも、ヴィーは馬が好きなんです。いつも遠出していて、今日も一カ月ぶりに会うんですよ。そうだ、馬の名前をつけてあげてください。新しく生まれたらしいんですけど、良い名が思いつかなくて困っているようだから」
馬が好きなの? あまり想像ができなかったが、彼女のことを話すレイはとても楽しそうなので、やはり愛しているんだなあと感じられた。
「分かりました。あんまり、自信ないですけど」
彼がお酒を飲むので、エンディリカもつられてビールを飲む。慣れてきたようで、あまりまずいとは思わなくなってきた。
なんだか頬が熱い。目の前のレイが、少しだけ揺れているように見える。
「ミーシスさんの友人はどんな人なんですか?」
聞かれて、すぐに花の妖精が頭に浮かぶ。
「私と同じ店で、歌い手をしているんです。彼女はヴィーさんよりも優しいと思うわ、きっと」
想像でしかないのに、自然とそんな言葉が出てくる。
「歌もうまくて、美しくて、いろんな人から愛されている」
優しいミーシス。何のとりえもない、客の前で歌ったこともない私を、親友だって言ってくれる彼女。
「私はいつも、ミーシスに憧れてる」
ぽつりとエンディリカは言った。おかしい、頭の中がぐるぐるしてる。
レイを見ると、彼は不思議そうな顔をしていた。なぜ? おかしいことなんて、言っていないのに。
「ミーシスはあなたでしょう?」
「いいえ、ミーシスはもっと美しいのよ。コーネリアで一番の歌い手、私の自慢なの」
本当にレイはおかしいことを言う。私をミーシスと間違えるなんて。
レイが少し考えて言う。
「あなたも十分美しいですよ」
本当に優しい人だ。おせじなんて、言わなくてもいいのに。
首を横に振る。
「本当は、この店に来たのだって彼女がおすすめだって言うからなの。お客さんにつれてきてもらったんだって、……私には似合わない場所だったけど。でも、どうしても来てみたかった。ミーシスばかり人気者で、私は――」
私は、誰の目にもとまらない地味な女だ。
人気者のミーシスが大嫌いな、性格の悪い女。
ううん、好きなの。大好きなのに。
コップを手に取る。まだ半分ほど残っているビールを、一気に口の中へ入れた。
なぜかレイが慌てたように立ち上がる。ヴィーさんが来たの? エンディリカは自分も席をたとうとしたが、足に力が入らず出来なかった。眠くなってしまって、テーブルに突っ伏してしまう。
「大丈夫ですか? ああ、起きてください。家はどこです?」
そんなことを聞いてどうするの? 本当は悪い人だった?
レイが肩をゆするので、気持ち悪くなってきた。やめて、と言おうとしたが、言えたのか分からない。
彼が途方に暮れた顔をしている。理由を聞いてみようと思ったが、眠くてしょうがない。そっと目を閉じる。
「ビール、初めてだったんですか?」
私がそれに答えたかどうかは分からなかった。ただ、大好きな歌が頭の中に響いている。ミーシスと二人で歌った歌。忘れかけていた歌だ。
*
「よお、久しぶりだなレイモンド」黒髪の男が、酒屋に入ってくる。レイモンドは安心して、立ち上がった。
「ヴィー、会えて嬉しいよ。無事でよかった」
「それで呼ぶのはよせ。子供みたいで気持ち悪い」
手招いて、ヴィーを空いた席に座らせる。彼は隣の少女に気がついて、眉をひそめた。
「お前まさか、こんな小さい子を引っ掛けたのか?」
「そんな訳ないだろ、ヴィー……ヴィンセント」彼がじろりと睨むので、仕方なく本名で呼んだ。いくら女の子に間違われるからといって、そんなに気にしなくてもいいと思うけど。
「お互い一人だったから、一緒に飲んでもらってたんだ」
「それだけでこんなになるか?」
言われて、ため息をつきながら少女を見た。茶色い髪の、今は見えないが神秘的な緑色の瞳を持つ女の子だ。そう、こんな風にしてしまうつもりはなかった。
「ビール初めてだったみたいで……酔って眠っちゃったんだ」
ヴィーは驚いたのか目を大きく開けた。俺も驚いたよ、と言葉を続ける。
コップ一杯くらいで酔うとは思わなかったし、酒が初めてだとも思わなかった。でも今彼女を見てみれば、まだ幼くみえる。
もう少し俺は気を配るべきだった、とレイモンドは後悔していたのだ。
「名前は? 家とかそんなん、知っているのか」
少し悩んで、レイモンドは頷いた。「名前は知らないけど、働いている場所は知ってる」
「名前も知らないのか……」呆れたようにヴィーが言うので、俺も自分が情けないよと思った。
一応は聞いたけど、たぶんアレは違うんだろう。少女をまた見つめてから、連れに謝る。
「ごめん、俺ちょっとこの子を店まで送るよ。心配なんだ。その魚、食べてていいから」
「ああ、まあ待たせたのは俺だしな」
当然のように魚料理に箸をつける友人に礼を言って、少女を抱き上げる。「どんな子なんだ」ヴィーが興味本位で聞いてくる。「秘密だよ」素直で正直者だなんて、女たらしの友人に言えるわけがない。そうして、酒屋を後にしてコーネリアの店へと急いだ。今日行ったばかりだから、店の場所も覚えている。
明日もきっと、この少女の店へ行こう。約束した、馬の名前を聞きに。
そしてもう一度名前を教えてもらうのだ。ミーシスではなく、彼女に似合う、小鳥のような可愛らしい名前を。
レイモンドはいつになく、楽しい気持ちになっていた。
腕の中の少女が眠る直前に歌っていた歌を、もう一度聞きたいと思った。