耳かき、大カトー、トランペット
俺が三年ぶりに帰阪したのは、風に噂に大カトーがそこで耳かき屋なるものを始めたと聞いたからだった。
○
梅田の地下街で買ったなんとかいうシュークリームを手に、俺は中崎町の駅に降り立つ。
どこからか聞こえる風鈴の音が耳に涼しい。
中崎町というのは大阪の真ん中にあって不思議に昔の風情が残った街だ。
旧家を改装した喫茶店や古着屋が軒を連ねている。
懐古趣味というのではなく、侘びた雰囲気が新しいものと調和しているのが好ましい。
探していた店は通りから少し入ったところに小さな看板を出していた。
『かとう耳かき店』
木目のきれいな板に漢字仮名交じりで墨書してある筆跡に見覚えがある。
半開きの板戸の間から中を覗いてみると、浴衣姿の美人が文庫本を読んでいた。
無造作に束ねた黒髪の合間から白い額が見える。
俺は意を決して声をかけた。
「よ」
美人が本から顔を上げる。涼しげな眼、小ぶりな鼻、薄い唇。
「なんだ、小カトーじゃない。お久しぶりね」
そこにいたのは、間違いなく大カトーだった。
○
大カトーこと嘉藤沙雪を一言でいえば、女傑だ。
生徒自治会会長と女子剣道部主将を兼ね、成績も良い。
身長179cm。
すらりとした容貌はどことなしに雪豹を想わせる。
憧れていた男子生徒も少なくはなかっただろう。
高校を出た後は某旧帝大の法学部に進んだはずだ。
そんな才媛が、大阪の片隅で耳を掘っている。
店の一階部分は待合室になっていた。
靴を脱いで畳の間に胡坐をかいて寛いでいると、沙雪がお茶を出してくれる。
水出しの玉露なんていうものを喫むのははじめてだ。
「それにして久しぶり。裕昭くん」
「小カトーでいいよ」
嘉藤と加藤。
179cmと164cm。
才色兼備の文武両道と中肉中背の文系オタク。
世界史の時間に広まった“大カトー”“小カトー”の仇名はあっという間に広まった。
「小カトーったら同窓会にも顔出さないから…… 五年ぶりくらい?」
「ん、そうだな、西御建田の奴の結婚式が最後だから、それくらいか」
「西御建田くんの所、もうすぐお子さんが生まれるのよ?」
「へぇ、そうなのか」
二人でシュークリームを摘まみながら他愛ない会話に花を咲かせる。
話題に上るのは友人や恩師の近況だ。
お互いのことはあまり口にしない。
不思議な距離感は高校時代から変わらずだった。
「……さて、あまり長居しても悪いし。そろそろお暇しようかな」
「もう帰るの? 折角来たんだからもう少しゆっくりして行けばいいのに」
雷鳴が轟いたのは、靴べらに手を伸ばしたときだった。
見る間に空が暗くなり、凄まじい勢いで雨粒が降り注ぎ始める。
「……すまん、もう少しお邪魔させて貰っていいかな」
「どうぞ。この雨じゃお客さんも来ないだろうし」
ついでだから耳かきもしていく? という問いに肯いてしまったのは、多分、気の迷いだ。
○
意外としっかりしているんだな、というのが膝枕の感想だった。
二階に設えられた施療室で、俺は沙雪の膝に頭を載せている。
ほどよく頭が沈み込むが、柔らかすぎるほどでもない。
凝り症の沙雪は浴衣に香を焚き込んであるのか、仄かにいい匂いがする。
目隠しをするようにタオルを掛けられると、後は浴衣の衣擦れが聞こえるだけだ。
変に緊張しても恥ずかしいのだが、初めての体験に自然と身体は固くなる。
「そんなに強張らないで。力を抜いて、リラックスして」
沙雪の声が妙に近くに、艶めいて聞こえる。
こいつ、こんなに色っぽい声だったか。
耳周りの産毛が剃られ、皮脂が拭われる。
「それじゃ、はじめるわね」
入ってくる耳かきの存在感は思っていたよりも硬質だ。
脳に一番近いところを、無防備に晒している感覚。
自分では決して手の届かない部位を優しく清められる感覚。
二つの異なる感覚が入り混じりながら、ゆっくりとまどろみへ誘っていく。
○
「私、この名字嫌いだな」
放課後の教室で、沙雪が呟くように言う。
長身の彼女には紺のブレザーがよく似合っている。
遠くで吹奏楽部が吹くトランペットが風に乗って聞こえてきた。
定番の『新世界より』だ。
「なんで?」
問い返したのは、教室に俺と沙雪しかいなかったからだ。
聞こえてないと思っていたのか、沙雪はちょっとびっくりしたようにこっちを振り向く。
「裕昭くん……」
「“大カトー”って呼ばれるの、嫌なのか?」
聞いてから、馬鹿馬鹿しい質問だと反省する。
嫌に決まっているじゃないか。
好きでもない俺なんかと一セットで呼ばれるのは耐え難い屈辱だろう。
「違うの、そういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうこと?」
沙雪はちょっと躊躇って、恥ずかしそうに俯いて応える。
「私、字が下手でしょ? だから、難しい字って苦手なのよ。嘉藤の“嘉”とか」
「あ、ああ…… そういうことか」
確かに沙雪の字は特徴的だ。
十年経っても沙雪の筆跡だけは見分けられる自信がある。
「テストの時とか、困るじゃない?」
「俺は困らないよ」
「……それは、裕昭くんの名字なら書きやすいもの」
○
施術が終わった。
いつの間にか夕立も上がったようで、外から雀の啼く声が聞こえる。
「はい、お仕舞い」
最後に軽く肩を揉んで貰い、耳かきのコースは終了だ。
沙雪が漆塗りの木箱に道具を片づけるのを待って、二人で一階に降りる。
「会計は?」
「いいわよ、せっかく来てくれたんだし。お土産のシュークリームも美味しかったわ」
「そういうわけにもいかないだろう」
「じゃあ、次もまた来て頂戴よ。大阪に帰ってきた時でいいから」
「……ああ、分かった」
○
靴を履き、店を出る。
思った通り外は見事な夕焼けだ。
街の様子を見るともなしにぶらぶらと地下鉄の駅を目指す。
迷路のような界隈を抜け開けた道まで出たところで、聞き覚えのある曲が耳を打った。
ドヴォルザークの、『新世界より』。
あの日、あの教室で聴いた曲だ。
俺は、意味も分からず走りだした。
店の前に立つ沙雪の長身が見える。
看板を仕舞おうとしているのだろう。
「沙雪!」
「ど、どうしたの、裕昭くん? 忘れ物?」
忘れ物? そう、忘れ物だ。
「沙雪。昔、“自分の名字が嫌いだ”って言ってたの、覚えてるか?」
「え、ええ」
「俺に、名字を簡単にする手伝いをさせてくれないか」
どこかで、風鈴が鳴っている。
濡れたアスファルトに映る二人の影が一つになるのに、あまり時間は要らなかった。