定時退社したいベテラン補佐官と、自称・愛され男爵夫人の末路
王都の片隅、ロイヤル・マーチャント商会の一室。
煌びやかなシャンデリアの下で、営業部門を牛耳る男爵夫人・マリアは、隣の席に座るベテラン補佐官・ヴァルターの袖をそっと引いた。
「ねえ、ヴァルター。昨日のギルドの飲み会、すごく楽しかったわよ。
私、案外魔力のお酒にも強いの」
「……ええ、そうですね。
現場でも酒場でも、マリア様はいつも身を粉にして活躍しておられますから、感心しますよ」
ヴァルターは、絶妙に温度のない、しかし完璧に角の立たない笑みを返した。
だが、内面の思考は氷のように冷徹だった。
(また始まった……。頼むから俺を面倒な承認欲求の生贄にしないでくれ。
俺はただ、平穏に定時で帰りたいだけだ)
ヴァルターは「極度のリスク管理主義者」である。
貴族社会の不倫スキャンダルが家を滅ぼすことを知っている彼は、マリアの家庭の冷え込みと、外での飢えを本能的に察知していた。
だからこそ「腰が痛い」「結界の中で寝ている」と鉄壁の言い訳を並べ、すべての誘いをスマートにいなして安全圏を死守し続けていたのだ。
だが、マリアのフィルターを通すと、大人の防衛策はまったく違った色に見えていた。
(この人は私の努力を分かってくれている。
少しシャイだけど、孤独を受け止めてくれる運命の理解者だわ……!)
フロアの他の男たちが、様子を見てニヤニヤと下品な声を飛ばす。
「おいおい、またアピールかよ。旦那がいるのに懲りないねえ」
「魔力が敏感ですぐに感じちゃうからって、ヴァルターを食う気か?」
セクハラじみた下ネタのヤジ。
しかしマリアは、それを「男たちが私に夢中になっている証拠」だと思い込み、誇らしげに胸を張る。
「ねえヴァルター、今度の休日に、裏の森へ二人きりで魔獣狩りに行かない?」
マリアが完全に一線を越えようと身体を寄せた瞬間。
「――そこまでだ、淫売」
重い扉が荒々しく開け放たれると、フロアの空気が一瞬で凍りついた。
現れたのは、怒りを全開にしたマリアの「夫」である男爵と、王宮の最高法務官たちだった。
「なっ……あなた、どうしてここに……っ!」
マリアの顔から血の気が完全に引く。
「お前が夜遅くまで酒を飲み歩き、男にどんな卑猥な言葉を囁いていたか。
何も言わなかったからといって、許していたわけではない!」
夫の怒号が響き渡る。
「完璧に『不貞の証拠(魔導の記憶結晶と密会ロイヤルレシートの数々)』を王宮法廷に積み上げていたのだよ!」
「嘘っ……私は被害者で……っ!」
「黙れ! 即刻離婚とし、お前の全財産没収および貴族籍からの永遠の除籍処分を通達する!」
男爵が冷酷に指を鳴らすと、法務官たちがマリアの両腕をガッチリと押さえ込み、魔導拘束枷をカチリと嵌めた。
泥水をすするような惨めな姿で、マリアは床に這いつくばる。
しかし、これだけでは終わらない。
「ひっ……! ま、待ってくれ! 俺たちはただの酒のノリで……っ!」
先ほどまで下ネタで野次を飛ばしていた男たちが、一斉に青ざめて逃げ出そうとした。
だが、法務官の冷たい視線が彼らを捉える。
「貴様らも同様だ。
悪質なセクハラ、および不倫の幇助、『全財産を吹っ飛ばすレベルの巨額慰謝料請求書』をしかと受理してある」
「なっ……そ、そんな、冗談だろ……っ!?」
「セクハラを重ねていた全発言の『魔導録音晶石』が、綺麗に証拠として揃っている!」
男たちは顔面蒼白になり、腰を抜かして崩れ落ちた。
「クビだ……」「人生終わった……」と、泣き言が漏れ出す。
ヴァルターは、嵐の去った静寂の中で、ティーカップを手に取り、冷めた液体を一口飲んだ。
(……あぶねえええええええええええええ!!)
額から、滝のような冷や汗が吹き出す。
もし彼女の甘い誘いに乗って「優しさ」や「愛の言葉」を返してしまっていたら、全財産没収と社会的破滅の断頭台に立たされていたに違いない。
「……ヴァルターさん、さすがですね。最初から気づいてたんですか?」
遠巻きに震えていた若い部下が、虫の息のような声で尋ねる。
ヴァルターは、いつもの、まったく隙のない完璧で爽やかな笑顔を貼り付けた。
「さあ、何のことやら。……私はただ、腰が痛いから定時で帰りたいだけだよ」
そう呟きながら、ヴァルターは誰よりも早く、しかし決して波風を立てないスマートな足取りで、破滅の吹き荒れる修羅場から、安全な城へと帰路についたのだった。
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不倫スキャンダルは家を滅ぼす――。
いかなる美人の誘いよりも「腰痛」と「定時退社」を死守し続けた男の、見事な生存戦略をお届けいたしました。
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