11話:名前
遠い空の向こうで、重く響くあれは雷鳴だろうか。
俺の脳はあまりのショックに現実逃避を起こしていた。将軍の姿を見つめながらも、俺の視界は遠ざかっていく。
目の前の光景が見えてはいるが、視えてはいない……どこか遠くからこの場を眺めているかのように、ぼんやりと車内全体を見つめていた。
うなだれた将軍。何を考えているのか分からないスタン。無表情で将軍を見下ろす隊長。腕を組んだイサミ----イサミ?
何となく隊員の顔を見回していた俺は、イサミが薄く目を開けて何かを警戒していることに気がついた。
一体何を、と思ってその視線の先に目をやると、遠くにいる兵士たちが今にも飛びかかってきそうな勢いでこちらを睨みつけている。
その時になって急に気がついた。車内の会話が聞こえない位置にいる彼らにとって、ここでの光景は将軍が急に狼狽し憔悴したようにしか見えないのだ。
敵意むきだしの兵士たちとイサミをオロオロと見比べる。
将軍、顔を上げてくれ! 兵士たちが限界を超える前に……!
そんな俺の願いが通じたのか、将軍は再び背筋を伸ばして座りなおした。だが背後の様子には一切気づかずに、隊長に向かって語りだす。
「私も最初は、信じられなかった……信じたくなかった。あの暴動が起こったとき、軍部は鎮圧に乗り出し、その作戦に私も動員されたのだ。その時はまさかソフィアがあそこに居るとは思わなかった。鎮圧が終了し、収容された遺体を見たときはショックを受けた……だが、その身体から取り出された弾丸が軍の……しかも私の銃から発射されたものだと知った時……気が狂いそうだった」
大きな溜め息をつき目に深い悲しみを宿した将軍の顔は、一気に老け込んで見えた。
「私がビスコの面倒を見たのも、罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない……そうすることで己の罪悪感を少しでも紛らわそうとしたんだ。分かっている……そんなものは自己満足に過ぎない。親友を騙し続けている自分は卑怯な偽善者だと、何度も苦しんだ。だが、どうしてもビスコに真実を告げることが出来なかったんだ……」
虚ろな目をした将軍が、ゆっくりと語り終えた。
それは勢いの強くなった雨音にかき消されそうなほど小さな声だったが、俺たちは皆、彼の声を聞き取っていた。
スタンは首の後ろを掻きながら苦い顔をしているし、隊長は痛ましいものを見るような目つきをしているし、イサミは何かを達観したような静かで落ち着き払った顔をしていた。
「おっさんよぉ……アンタ、ソフィアって女に惚れてたんだろ」
「なっ……!」
投げつけるようなスタンの言葉に驚いたのは、俺も同じだった。
将軍が勢いよく椅子から立ち上がり、彼に詰め寄ろうとした瞬間。
隊長が「止めろ、スタン。今回の任務には関係ない」と厳しい声を出し、将軍とスタン双方の動きを止めた。
「将軍、どうぞ椅子にお掛け下さい。----イサミ、お前もだ」
隊長の声に将軍が毒気を抜かれたような顔でフラフラと椅子に戻る。
イサミは、将軍が立ち上がったのと同時に自分も立ち上がり、両手で二丁の銃を構えると車外の兵士に照準を合わせていた。その動作は滑らかで無駄が無く、恐ろしいほど素早い動きだったにも関わらず、強烈で鮮明だった。
「病院内に居たゾンビはほぼ片付けた。これより俺たちの目的はビスコ・デファルジュを倒すことに切り替わる。彼の実験データは我々の事後処理のために持ち帰らせてもらう。もちろん、内容が外部に漏れることは無い。ウィリアム将軍、貴方はビスコと共に実験データも闇に葬るつもりだったのだろう?」
隊長の言葉に将軍が弱々しく頷いた。
「我々が本部へ帰る時間も含めると、約六十時間が作戦のタイムリミットだ。これから六十時間後までにこちらの作戦が終了しなかった場合……貴方は命令どおり、ここを焼き払って下さい」
俺は目を丸くして隊長を見つめる。将軍も僅かに身をたじろがせた。
「だが……」
「もちろん、スタンはここに置いて行く。ここに残ることを希望する隊員も。もし我々が戻らなければ、彼等を本部に帰して下さい。スタンは本部に到着次第、ウイルスを解除する。だが我々が戻ってきたら、貴方は我々がここを去った後で、病院を焼き払う」
有無を言わさぬ隊長の口調に、目を見開いた将軍が生唾を飲み込んだ。
圧倒されたように「わ……分かった」と声を絞り出す。いまや隊長と将軍の立場は逆転していた。
隊長は力強く頷くと、椅子から立ち上がり口を開いた。
「アンディを呼べ」
***
ウィリアム将軍は待機していた兵士たちに指示を出し、野営の準備を始めていた。
そして彼と入れ替わるように無線車に入ってきたアンディ。
茶色の巻き毛に甘いマスク。常に微笑みを絶やさない彼は、戦闘部隊の隊員というより俳優かホストの方が似つかわしい。
しかし彼は、なんとスタンの弟であり聖職者である。
普段は隊員のカウンセリングを行なっている。俺は一度だけ彼のカウンセリングを受けたことがあるが、かなりいい加減な内容だった。さすがスタンの弟だけある。血は争えないと思った。
けれど彼の外見についてはもう、遺伝子上の突然変異としか思えないほどスタンとはかけ離れている。
この兄弟の親の顔が見てみたい。
そんなことを考えながら眺めている俺の前で、アンディは額に指を当てて隊長の話を聞いていた。
「……つまり、ビスコは『意志持ち』のゾンビになってしまったのですね」
将軍との約束どおり、隊長はビスコと将軍との軋轢については語らずに、ただビスコがゾンビの中でも最も倒すのが難しい『自らゾンビ化した』相手であることを伝えた。
聖職者たちはこれを『意志持ち』と呼ぶ。
俺が本部の食堂で、マリアさんに教わったゾンビの区別を復習している時、アンディは「そう言えば日本にはイシモチって魚が居るよね」と寒いジョークを飛ばしてきた。
不本意ながらどうでもいい思い出を蘇らせてしまった俺は、生ぬるい視線で彼を見つめる。
その俺の視線に気づいたアンディは、何をどう勘違いしたのかこちらにウインクをしてきた。
それは、例えば彼が結婚詐欺師だとして、そのことを知っている女であっても一瞬クラッとしてしまうであろう魅力的なものだったが……俺はぐったりと脱力した。
「それで、ビスコが病院のどこにいるか分かっているのですか?」
「先ほど将軍から、可能性がありそうな場所を三箇所ピックアップしてもらった。隊員を三班に分けて突入しようと思う。聖職者たちは何人ずつ振り分けられる?」
「そうですね。ここに残る人数が私の予想通りだとすれば、一班に対して二人ずつでしょう。交戦になったところで全員がそこに集合すれば、意志持ち一体には充分かと」
「ビスコだ」
将軍の言葉に、アンディの顔に不思議そうな表情が浮かぶ。
「彼の名前はビスコだ。『意志持ち』ではない」
静かな隊長の声に、背筋を正したアンディが「失礼しました」と敬礼をする。
俺も唇をキュッと引き締めた。
かつて、マリアさんに同じ事を言われたことがある。
死者もかつては生きていた。
自分の時間を生きていた。
だから隊員は、ゾンビの名前が分かった場合、できるだけ名前で呼ぶようにする。
死者を「ゾンビ」「敵」「死者」という代名詞で呼ぶと、彼等が生きてきた時間も存在も、その言葉の影に追いやられてしまう。
他の死者と一緒くたにして、彼等の人生そのものを無かったことにしてしまう。
そうしないためにも、名前で呼ぶ。人の名前には、それだけの力があるのだと。
もし彼等が、死んでからも己の人権を主張できるなら……きっと自分の名前を無視され続けることに我慢ならないだろう。
だから隊員は、死者の尊厳を守るために、彼等の名前を呼ぶのだと。
そのことを思い返していた俺は、ふとあることに気づいて愕然とした。
俺は、部隊に入ってから一度も、隊長に名前を呼ばれていない……!!
隊長が俺を呼ぶときは「ボーズ」か「お前」だった。そう呼ぶときの隊長の声には、俺への気遣いが間違いなくこめられていた。部下に対する愛情、心配、叱咤、励まし……。
だが、このとき俺の胸の中に「自分の名前を呼んで欲しい」という願望が沸きあがった。
そして「隊長を名前で呼びたい」という欲望も。
俺もまた、部隊に入ってから一度も隊長の名前を呼んだことが無かった。「隊長」か「おっさん」と呼んでいた。
「ニール隊長」
誰にも聞かれないよう、小さな声でこっそり呟いてみた。
ニール隊長。今回の作戦中に、俺はそう呼ぶことができるだろうか。