勇者<2>
結果的に、男は剣にも魔法にも適性があった。どちらも、過去の文献にある異世界から来た勇者たちのレベルをはるかに凌駕していたらしい。
「これこそがすべてを殲滅できる力」
やはり我々の祈りは通じたのだ、と先日の白髪老人が魔法の師として男を検分した時に、思わずとばかりに呟いていた。彼は神殿の筆頭魔術師且つ今回の召喚における責任者だったらしく、神託の召喚方法に誤りがあると王族に言われたことに対して、憤懣やるかたない思いを持っていたようだ。男に王族の愚痴を散々垂れ流しながら、それでも男が持つ力にかなり満足していたようであった。
そうして男は剣・魔法共に師についてしばらく学び――というかどれだけできるか一通りおさらいしただけのように男には感じられた――、後はよろしくとばかりに異界の森近くまで連れてこられた。高価な収納魔法付きだといってバッグを一つ渡されたが、仲間も従者もなしで一人で行けという。
何でも、異界の森は瘴気がひどく、普通の人間はここまで来るのも大変なのだとか。男をここまで運んできた精鋭たちも、高度な保護魔法で身を包んだ上で、それでも短時間しかいられないほどの場所だという。ちなみに男は魔法耐性もかなりあるらしく、瘴気の影響はほとんど受けないはずだと。
ほとんど、とかいい加減だよな、と男は思う。これで何かあったらどう責任を取る気なんだか。おそらく取る気はないのかもしれないな、と溜息すらつきたくなった。
だが、本当に自分が魔獣たちを殲滅できる力があり、更に瘴気に侵されない人間であれば、それこそ誰よりも一番強いということだ、と男は思う。そういう人間だと分かれば、以降は邪険にはできないはずだよな、となんとか自分を鼓舞してみる。すべてが終われば、形だけでも英雄として祭り上げてもらえるはずだ。
とりあえず無事に魔獣や邪神を倒し終わったら、このベルを叩き割れば魔導士たちが迎えに来るから、と渡されたベルをポケットに入れて男は進むことにした。
そうして男は一人、異界の森へと分け入った。確かに森の中だというのに霧が濃い。この霧が瘴気だというのだろうか。かなり視界が遮られている、と男は思う。だが、男は確かに何かの気配を感じることができた。これこそが神からのギフトと呼ばれるものなのかもしれない。右前方、左斜め後ろ、左前方、正面……地の利があることを生かして、魔獣と呼ばれるものたちがそこかしこから現れる。しかし男は、その気配を如実に感じ取り、剣や魔法でそれらを倒していく。
本来通常の剣や魔法では魔獣はなかなか倒すことができないとのことであったが、男自体に瘴気耐性があるらしく、男が持つ剣も放つ魔法も、一撃で魔獣にかなりのダメージを与えることができた。
かなり奥地まで進んだ、と男は思う。今までの殺気ある野獣たちの気配とは違い、何かが静かにじっと見ている気がする。だが、かなり離れているため、こちらから攻撃しても届かない距離だ。
霧が一段と濃くなってきた。一寸先も見えないほどだ。ここで攻撃を受けたらきついな、と思いつつそれでも男は進む。幸い、どこからも攻撃が来そうな気配がないまま更に歩みを続けた先に、突如信じられないものがあった。それは、ものというべきなのか。
空間が裂けている、というべき現象であった。カバの口くらいのサイズとでも言えばよいのか、そのくらいの大きさで、何の変哲もない空間のはずが何故か裂けており、その裂けた中からは星々の煌めきが見えた。見えたのは小惑星群なのか、それとも銀河なのか。よく見ようと一ヶ所に目を凝らすと、一つの惑星を拡大してみることすら可能であった。男は、これを空間が裂けている以外に何と表現してよいか分からなかった。
余りのことに唖然としてしばらく見つめていたところ、拡大して見ていた一つの惑星から何か黒い渦がこちらにはい出ようとしている。そしてそれは空間の裂け目を超えたところで、渦から個体へと形を変えようとし始めた。
魔獣か。男ははい出ようとしていた黒い塊に向かって剣を突き刺した。
ギャオ、という声と共に魔獣らしきものはその空間の裂け目の中に戻り、渦となって惑星の中へと消えた。
この空間の裂け目がある限り、一生魔獣は別次元か何かから出続けるのだろうということは理解した。
では、どうすればこの裂け目を直すことができるのかと考えて、とりあえず裂けているなら繕えばいいのでは、という結論に達した。
しかしながら、針だの糸だの持ち歩く趣味もなかった男は、勿論手元に何も持ってはいない。だが、もしやと思って収納魔法付きのバッグを開いた。
「針と糸」
ダメでもともとと言いながら手を入れると、手に触れるものがあった。簡易版のソーイングセットだ。え、〇次元ポケット? と言いたくなったが、必要なものが手に入ったのでありがたく使用させてもらう。家庭科なんて何年ぶりだよ、並縫いしかできないが文句は言うなよ、と誰に言うでもなくぶつぶつ言いながらも、黒い糸を使いチクチクと何とか縫ってみた。
空間を縫うことが許されるのか、そしてそれは只の糸で修復されるものなのかよくわからなかったが、不格好ながらもとりあえず先ほど見えていた、星々の小惑星群のようなものは見えなくなった。
何もない空間に、なぜか斜めに不格好な黒い線が一部見えているのはご愛嬌と思ってもらうしかない。
しかし、勇者って、繕い物ができる必要があったのか、とふざけた感想を男が持ち始めた時、ずっと遠くから見ていた気配が近づいてきたのを感じた。
「こんにちは」
現れたのはどう見ても若い女性だった。それも、飛び切り美人な。アイドルにでもいそうだな、と男は思う。
「ここは異界の森ですよ。普通の人間では生きていけないと……」
そう言いかけて、男は思わず黙り込む。そう、普通の人間では生きていけないと彼らは言っていた。ならば、彼女は何だ?
男が不審に思った様子を理解したのだろう、彼女は自分をイーヴァと名乗った。
「私、邪神なの。ここで生まれる魔獣たちに知性を与えていたのだけれど、この空間が閉じられてしまったら、私はどうしたらいいのかしら?」
今日のお食事何にします? とでもいうような気軽さで、イーヴァは男に小首を傾げて言った。その表情に一瞬心が惹かれかけ、あわてて駄目だと自分に言い聞かせた。何故なら、彼女の眼はどこか違うところを見ているように見えたから。
狂っているのかもしれない、と男は思った。美しい、けれどその眼はあまりにも悲し気で、そして虚ろにも見えた。狂人だから、ここに捨てられた? それとも捨てられたから狂人になった?
「どうしてほしいの?」
「希望を聞いていただけるの?」
不穏な気配を感じる会話のはずなのに、どうしてこうも穏やかに話すのだろう、と男は逆に背中に冷汗が伝う。
いきなり暴れ出すとか、死んでくれ、とか言いながらナイフでグサッとかはないよな?
少し距離を取るべきか、と考えながらイーヴァを見つめると、彼女は口元を綻ばせながら信じられない言葉を発した。
「殺していただきたいの、私を」
予想もしていなかった台詞を言われて、男は言葉に詰まる。
イーヴァは何でもないように言葉を続けた。
「私、不老不死なのよ。人からは魔女と恐れられ、人の居ないここで暮らすことにしたわ。けれど、この空間が閉じられたから、いずれ異空間から出ていた瘴気も消えてしまうでしょう。瘴気がなくなったら、今度はここにも人が来てしまう。逃げる場所も隠れる場所もないのは疲れたわ」
信じられない? とばかりに、イーヴァはポケットから短剣を取り出し、徐に自らの掌に切りつけた。かなり深く傷つけられたはずの傷口は、血も出さないままにじゅわりと消えた。
「魔獣たちは私を怖がらなかったわ。知性を与えたからかしら、最後まで私を守ろうとしてくれた。この瘴気量は、彼らが暮らすには本当はまだ足りないくらいなの。それなのに彼らは、私のためにこの森を飛び出し人里へ出て人間を倒してきた。人間にかなりの痛手を与えることに成功はしたけれど、おかげで彼らのほとんどは亡くなったわ。残ったものたちもあなたがすべて倒してしまったでしょう?」
「なぜ人を襲った? あなたのために、と言ったな? あなたが彼らに襲うように命じたのか?」
「そうかもしれない」
イーヴァはおっとりと言う。今現在神と呼ばれて神託を下ろしているのは、実は神ではなく悪しき者だと彼女は告げる。だから、悪しき者を祀る人間を滅ぼそうとしたのだと。
でもね、とイーヴァは悲し気に微笑んだ。
「魔獣たちが負けたということは、悪しき者の方が正しかったということなのでしょう。ならば、悪しき者の命で召喚されたあなたは、悪しき者を滅ぼそうとした私を殺さなくてはならないわ」
それですべてが終わるの、とそういって彼女は目を細める。そして、男ではない誰かに向かって、ごめんなさい、これ以上待てないのと囁いた。
どう見ても人間にしか見えない彼女は、それでも傷も負わない彼女はきっと人間ではないのだろう。そして何より彼女は微笑みながらもすべてに憂いているように見えた。
この剣は、人を切ることに使うべきものなのか。人を殺したら、自分は何か戻れないものになってしまうのではないか、と男は思う。少なくとも日本に戻るつもりが少しでもあるなら、決して彼女を殺すことはできないと思った。ここで彼女を殺して、その記憶を持ったまま日本でのうのうと生き続けることは、きっと自分には無理だと理解していた。
それでも、彼女の余りに儚げに微笑むその憂いた眼差しに、望みを叶えてあげたいと強く思った。そして、それは自分しかできないのだとも彼女の表情を見ていて気付いた。
しばらく男は葛藤していたが、イーヴァは何も言わず、じっと男が決断するのを待っていた。
やがて男は切っ先をイーヴァの胸元へと向けた。それは、たとえ帰ることできたとしても、決して日本に帰ることはしないという、彼の地への決別でもあった。
「いいのか」
「お願いします」
イーヴァは静かに頭を下げた。ただの一つの躊躇いも見せず、怯えも見せず、微笑んだまま。
それを見てやるせない気持ちになりながらも、男はその剣を彼女の心蔵に向けて突き刺した。
彼女の最期の声が、……ィウム、愛してる、と零れるように聞こえた気がして、思わず男は崩れかけたイーヴァの体を慌てて支えた。しかし、彼女の体はなぜか腕には残らずにぐずぐずに崩れ落ち、最後に1本の骨だけとなって剣と共に地面に落ちた。
誤字報告いただきました。ありがとうございます。修正いたしました。