勇者<1>
「成功だ!」
家に帰るのも面倒になって、研究結果を片手に大学院の研究室の一角で徹夜しながら論文を作成していたら、まばゆい光に包まれたような気がした……、のは眠気の産物かと思ったのだが。
騒がしい声に男が光でチカチカした目を改めて開くと、そこは石造りのかなり広い部屋の中であった。自分の足元には魔法陣らしきものが描かれている。
そして何より信じられないのは、男から1m以上の距離を開けてひしめき合っている20名ほどの人間のうち、半分はアニメでよく見る魔導士が着るようなローブ姿、5名ほどが甲冑、残りが王族かというほど煌びやかな衣装に身を包んでいることだ。髪色も多様で、これが集団コスプレでなければ噂に聞く異世界転生とやらだろうな、と一目で感じられる空間であった。ならば、男なら勇者、女なら聖女というお決まりのパターンか。とりあえず言葉が通じるだけ、良かったというべきなのか。
「ここは?」
男は、内心の動揺を押し殺して静かに口を開く。
御多分に漏れず、今回呼び出した責任者と思われる白髪姿の魔導士系ローブの老人が一人前に出てきて、慇懃無礼な態度で礼をしながら端的に状況を説明しだした。
「あなたは、勇者として召喚されました。この世界には瘴気を生み出す異界の森と呼ばれる悪しき場所があり、そこから魔獣が生まれております。奴らを殲滅しなければ、我々は生きていけぬのです」
白髪老人の隣に王族らしき中年の男性が並んで、更に言葉を続ける。
「魔獣を、そしてそれの黒幕と言われている邪神を殲滅できる者を、と魔力を捧げ神に祈りました。その結果があなたです。あなたならば奴らを殲滅できるお力があるでしょう。お願いします」
一方的に召喚して、力があるはずと決めつける。もし自分に力がなかったら彼らはどうするつもりなのだろう、と男は思う。
「俺に力があるかはわかりませんよ。今まで知的労働しかしたことありませんし。見ての通り長身ですが、鍛えてはおりません」
さて、どう出る? と男は黒目を細め、ゆっくりと油断なくあたりを見回す。
いきなり、異世界に誘拐するなど言語道断。中学までは剣道を習っていたが、以降運動から離れて10年は経つ。今ではすっかり研究に、論文にと明け暮れる毎日だ。それほど体力もあるとは思えん。
「いや、神が遣わされたのですから、特別なお力があるはずなのです」
白髪ローブの老人が必死で言い募る。知るかよ、と男は思う。
「あのですね、例えばあなた」
そう言って男は王族らしい人間に手を向ける。人を指差すのは行儀が悪いのは知ってるが、知ったこっちゃない。王族ならば白髪老人よりは意見は優先される立場だろうと見込んで、彼をターゲットに据える。後はこの王族がまともな思考を持っていることを祈るのみだ。
「あなたがいきなり私の世界に呼び出されたとしましょう、一人で。王族の方だと思われますが、たった一人別な世界に行ったときには、その王族としての権限は何もありませんよ。ではあなたは、異なる世界で急に一人で何かをしろと言われてできますか?」
不敬罪だとか言われたらやばいよなーと思いつつ、こちとら万年寝不足なんだ、頭が働いてないんだからしかたないだろう、と内心悪態を付きながら男は言ってみる。
「む……」
一応、すぐさま不敬罪だ、とか怒鳴りだすタイプの王族ではなかったらしい。我が身に置き換えてきちんと考えてくれるくらいの分別は持っているようだ。王ではないだろうが、王太子とかであれば、次代も安泰かな、などと男はぼんやりしかけてきた頭で余計なことを考える。
「それでは、あなたは自分の世界にいたら何かを成し得たのか?」
「私の世界では、私は病原菌と呼ばれる体に病気を起こさせたりする細菌の研究者です。ですがこの世界では菌を調べるための顕微鏡も培養するための機器も何もありません。この状態で何かしろと言われても無理としか言えませんね」
実際にはワクチン開発に携わる方だし、それもまだ学生だがなとはあえて言わずにおく。とりあえず言葉は通じているが、細菌ということの意味が分かっているかどうか、この石造りの部屋を見ている限り怪しいものだと男は思う。おそらく中世ヨーロッパレベルの発展度合いかと考えると、まだそこまで進んでいないだろう。
「物が揃えば魔獣の体に病気を起こさせる細菌とやらを作れるのか?」
「物が揃うとは思えませんね。こちらの世界は、私の足元に描かれているものを見るに魔法陣と呼ばれるものではないですか? すなわち、魔法がある世界だ。私の居た世界は、魔法などありません。代わりに、機械と呼ばれる全く別なもので生活を行っております。つまり、生活基盤が違うので代用は不可能だと思いますよ。諦めて帰していただけませんかね」
無理かなぁ、無理だろうなぁ、と思いつつ男は言った。この召喚とやらは集まっている人員を見てもかなり大掛かりな代物だと思われる。失敗したからチェンジ、とは早々に行かないものだろう。おそらく帰還は叶わないと思っておいた方が、ぬか喜びしなくて済みそうだな。
男は過去を振り返ったが、天涯孤独だしまぁ良いかと、とりあえず帰還については一旦諦めた。帰れるに越したことはないが、そこは無理にごねて問題を起こすのは避けておきたい。
両親は、自分が大学時代に結婚30周年記念とかで海外旅行に行き、その先で亡くなってしまっていたし、兄弟も親戚もいなかった。幸いにして遺産もかなりあり、また保険金もそれなりに降りて、自分が悠長に大学院まで通っていてもまだ余裕はあったので生活の苦労はせずに済んだが。
彼女も欲しいと思ったことなどなく、研究に明け暮れていたので別に会いたい人もいないしな。
そういう訳で、男はここでそれなりの補助さえしてもらえば、この世界で生きるのもありかとは思っている。まぁ、この世界がどういう世界かにもよるが。ただ、いきなり異世界まで誘拐しておいて謝罪もない時点で、どこまで信用できるかは疑問だと頭の中に書き留めておく。
「魔法がない世界だと?」
前に出ていた白髪の老人が胡散臭いものを見たかのような言い方をする。そんないい方されてもね、地球はこことは全く異なる価値観や生活基盤なんだよ、と視野が狭そうな老人に心の中でやれやれと思う。
「ではあなたはどうやって魔獣を倒すというのだ?」
だから、俺が倒すの前提かよこのじーさん。ただでさえ眠いのに、と話がかみ合わないことにだんだんイライラしてきた男は少し声を荒げた。
「だから、俺の知っている方法では倒せないと言っています。あなた方の召喚方法に誤りがあった可能性はないのですか?」
そんな馬鹿な。召喚に間違いがあるわけない。
色々な声が挙がっているが、男は動じない。現れたのが自分である限り、そして自分に力がない限り、召喚方法に何か問題があったに決まってるだろうに、と思う。研究だって、実験結果がおかしかったら実験の方法を先ずは見直すもんだ、と研究者らしく男は反芻する。
男の言った台詞に激高しかけた老人であったが、王族らしき隣の男性に諫められた。
「確かに、こちらの召喚の方法が確実でなかったとは言えぬ。魔力と祈りを溜めて過去の召喚と同様に行っているが、この召喚方法は昔神託により賜ったもので、こちらではその原理は分からん。もしかしたら長い年月の間に、何か神託で言われたものに欠けがあったやも知れぬ」
神託ですぞ! と叫び出す老人に、なおも男性は被せて言う。
「神託が誤っているとは言っておらん。誤っているのは、われわれ人間の管理体制の方だと言っておる。召喚方法は神殿に秘匿され、我々王族でも見ることがかなわん。数百年に一度の召喚の際に使用しているその文献、書き換えがあったりしても誰も分からぬではないか」
あ、やばいとこ突いちまったなー。この王族さん、神殿という場所に忌避感持ってるんだな、きっと。今のうちにとんずらした方がいいかも、と男が遠い目をし始めた時、その様子に気付いたのか、王族の男性が再度声を発した。
「申し訳ない。我々の事情など関係ないな。さて、あなたが召喚されたのが本当に誤っているかはまだ分からない。もしかしたら召喚時に神から何かギフトを付与されているかもしれない。その確認のため、魔法や剣などについて、師を寄越すので一度試してはもらえぬか」
お願いという体を取っているが、言葉からは拒否を認めぬような圧がひしひしと感じられる。王族って伊達じゃないな、と男は思う。仕方がない、王族と神殿の、どちらかというと不仲そうなこの感じでは、おそらく帰還のためにわざわざもう一度手間をかけてくれることはなさそうだ。ならば、今後この世界で生きていかなくてはならないとすると、少しでも円滑な人間関係を築いておくに越したことはないだろう。
そう考えた場合、白髪老人より王族の方が権限はありそうだ。付くならこちらだな、と瞬時に損得計算をすると男は王族に向かってしっかり頭を下げた。
「了解した。よろしくお願いする」
誤字報告いただきました。ありがとうございます。修正いたしました。