中編
「おや、今日は早いねえお嬢さん?」
「おはようございます。いつもありがとうごさいます、今日も歌わせてください」
「ああ、勿論だ。ほら、どうぞ」
想いが募って、歌になる。
初めて誰かにこの胸一杯の想いを打ち明けたからだろうか。
いつもよりも、どうしてだか歌いたくて早くに来てしまった。
「あ、あの……」
「うん? どうしたんだい?」
「狐面で黒い服装の、背の高い男性は今日いらっしゃいますか?」
「狐面……ああ、はは。お嬢さんだったか」
「……はい?」
「いーや、何でもないさ。彼は今日は来ないのではないかな」
「そう、ですか……」
どうして彼のことを聞いてしまったのか分からない。
返ってきた答えにホッとしているのか残念なのか、分からない。
「お嬢さん」
この広場を運営するご老人はにこりと笑んで大きく頷いた。
「今日はせっかく早く来たんだ。楽しく歌って早めにお帰りなさい」
ご老人の言葉に首を傾げ、私はいつもの場所に。
先日の雨が嘘のように、今日は快晴。
耳に届くのは、鳥達のさえずりだ。
「賑やかな、音」
心なしか楽しい気持ちになって、今日の歌はほんの少し明るめだった。
不毛な恋。
たった一度だけの会話を宝物のように大事に閉じ込めている。
遠くからですら月に1度見られれば良い方だ。
いつまで続くのか分からない。
私ももう成人を越えた。
ポツポツと周りは自分だけの王子様を見つけ家族を作っている。
私だって、いくら端くれとは言えど貴族である以上は嫁ぎ遅れとなる前に然るべき家との縁談が決まるだろう。
不毛な恋は期限付きだと分かっている。
『毎日、貴女の歌を聴いていたよ。綺麗な声でいつも優しい歌を歌うものだから』
けれど、ただただ不毛なばかりでは無かったのかもしれない。
他の誰かには私の想いはきちんと届いていて、想い人と同じことを言ってもらえたのだ。
それだけでも報われたのだと思えはしないだろうか。
もしかすると、ほんの少し出口が見え始めているのかもしれない。諦めるきっかけになるのかもしれない。
「……やはり無理ね」
それでも口から溢れる歌は愛しさを隠しきれず、私はひとり苦笑いしてしまう。
もう少しだけ。あとちょっと。
自分勝手に言い訳して、立ち上がった。
ひとしきり歌って心がちょっと落ち着いたのだ。
「ああ、マリカ! 良かった、今日は早く帰ってきたじゃない偉いわ!」
そうして帰った先で、お母様が何やらひどく興奮していた。
いや、よく見ればお父様も弟もソワソワと落ち着きがない。
「あの、皆? 一体何があったのですか?」
「もうマリカ! そのようなことを言っている場合ではないわよ! すぐに着替えてちょうだい、一等上級なものになさいな」
「お、お、お嬢様! お急ぎください、私達が精一杯磨き上げますから!」
……一体何がなんだか分からない。
皆なぜだか混乱していて話にならなかった。
とにかく急かす周りに押し切られる形で従えば、私は急速に“良いところのご令嬢”に仕上がっていく。
「えっと……、今日は夜会でもあったかしら」
「夜会どころではありませんよ! たとえ夜会だったとしても欠席していただきます。全力で」
「理由もなく休んではいけないでしょう……ではなくて。ならば一体何が」
「ご縁談です、お嬢様!」
「は……縁、談?」
突然の話にポカンと呆けてしまう。
まるで寝耳に水。
一体どういった経緯でそのような話が持ち上がったのか、相手は一体誰なのか皆目検討もつかなかった。
「……待って。ではこれって」
「お相手様がすぐにでもお会いしたいと、それはもう熱烈に。急がねばご到着に間に合いません。お嬢様にもついに来たのですね、春が!私は心より応援いたしますとも!」
「待って、落ち着いて。話がいきなりすぎてついていけないわ」
「付いていけずとも良いのです。結婚は勢いですよ!」
「……貴女まだ15歳でしょう? どうして私より飲み込み早いの」
使用人も家族も皆ひどく混乱したまま目を輝かせている。
一方の私は情報が足りずに呆然とその勢いに流されるまま。
けれど髪を編み込まれていくうちに、少しずつ事情を飲み込んでいった。
私ももうすぐ18、成人してから2年が経つ。
いい加減、初恋を終わらせ幸せを探す時期だ。
まさに結婚適齢期の今、こうした話が近く上がるだろうとは覚悟していた。
次の恋へと進むべきだ。
きっかけは掴めたのだから。
それでも心の整理が上手くついてくれないのは、拗らせ過ぎてしまったからだろうか。
理性と心は寄り添ってくれない。
「さあ、お嬢様。背をしっかり伸ばして下さいませ。いつものように素敵な笑みを見せてください」
髪に飾りがついて、年輩の使用人が私の肩を叩く。
鏡越しに困惑したまま彼女を見上げれば、満足そうに頷かれた。
「お嬢様、私は嬉しいですわ。我らが自慢のお嬢様を分かって下さる方があれほどご立派な方だなんて」
「えっと……貴女はお相手がどなたか」
「ええ、勿論です。大丈夫、お嬢様は幸せになれますから」
長年我が家に仕えてくれている彼女がここまで言うのだから、会うべきなのだろう。
きっと無下にしてはいけない相手なのだ。
初恋をいつまでたっても引きずる私に心の整理は難しい。
けれど、無理矢理にでも息とともに吐き出して気持ちを切り替えた。
「分かりました。お会いします」
すっと背を伸ばし前を向く。
鏡に写る自分はいつもの何倍も綺麗で、立派な令嬢に見える。心を込めて着飾ってくれたのだろう。
ありがとうと笑えば、その場の皆が曇りなく笑顔で返してくれる。
いい加減、前に進まねばね。
そう自分に言い聞かせ、狐面をした男性が頭に浮かびチクリと胸が痛くなった。
恋を諦められないからと断って数日で縁談を受ける私。どうにも不誠実な気がして心で詫びる。
きっと時機が合わなかったのだと、そう自分勝手に言い訳した。
「まあ、マリカ良いじゃないの! この姿ならばきっと彼の方も喜んで下さるわ」
「おお、マリカ。お前ももうそのようなドレスが似合う歳になったのだな、綺麗だ」
「姉上……人は化けるものですね」
未だ興奮冷めやらぬ様子の家族は幾分遠慮のない言葉も交えながら口々に褒めてくれた。
満足そうに笑むお母様、なぜだかすでに涙目のお父様、まるで怪物でも見るかのようにまじまじと視線を向けてくる弟。
緊張していても興奮していたところでまるで変わらない家族にほっとしたのだろう。
ふっと思わず笑みがこぼれた。
「褒めてくださりありがとうございます。しかしお父様、お母様。そろそろ教えてくださいませ、私に縁談とのことですが一体お相手はどちら様でいらっしゃいますか? どうしてこれほど急に?」
話を建て直そうと努めて冷静に訪ねる。
そこでようやく何も私に告げていなかったと気付いたのだろう。きょとんと目を丸め「そういえば言っていなかったか」と呟く。
「それはだな」
そうしてようやく教えてもらえそうになったその時、唐突に扉が開いた。
「ご歓談中、大変失礼いたします。待ちきれず無礼を承知の上、こちらまで来てしまいました」
柔い、声。
落ち着きのあるその声の主を、私は忘れたことがない。
すらりとした手足、優しく垂れた細長の目。
形の良い唇、通った鼻筋。
さらりと濃い茶の髪が美しい。
どうして、ここに。
そこにいたのはアイザック・ヒューリ様。
ヒューリ公爵家の御曹司で私の初恋の人だ。
「まあ、アイザック様! 申し訳ございません、出迎えも無しに」
「いえ、元はと言えば私が無理を通したのです」
すぐ近くで御曹司様がお母様と談笑している。
状況が飲み込めない私は固まるしか出来ない。
諦めなければと心に決めたばかりだ。
どうしてそのご本人がここにいるの?
信じられない気持ちで視線を向け続けたからか、やがて御曹司様からの視線がこちらに届く。
びくりと分かりやすく肩を揺らした私に、その人は優しく笑んで近付いた。
目の前までやってきて、その場に御曹司様が跪く。
「突然の訪問をお許し下さい、マリカ嬢。今日は何だか一段と美しいですね」
呆然と、ただただ私はその言葉を聞くことしかできず、思考が完全に停止してしまった頭は何も働かない。
ごほんと、お父様からの大きな咳払いが聞こえてようやく私は我に返った。
「も、申し訳ございません、ご無礼を。そしてお褒め下さりありがとうございます。使用人達が腕によりをかけてくれました」
なんとか返せば目の前の優しげな笑みが深くなり、そっと手を取られる。
初めての触れ合いに、呼吸が止まりそうだ。
手がカタカタと震え出す。
どうしよう。
どうすれば良いのだろうか。
こんなこと、まるで想定外だ。
混乱する私をよそに、取られた手に唇を寄せる御曹司様が見えてなおのこと私は固まってしまう。
「あ、あ、あの……!?」
いよいよ驚いてしまって令嬢らしからぬ奇声をあげれば、御曹司様がおかしそうに笑って手を離した。
すっとその場に立ち上がり見つめられる。
「すまない。突然のことで驚かせてしまいましたね。つい待ちきれず……これからは遠慮なく叱ってくれて構わない」
……一体何が起きたのか、まるで分からない。
どうして突然この家に想い人が来たのかも、この反応も何もかも。
頭の中は混沌として思考がいつまでたっても働かない。
そんな私の状態に何かを察したのか、目の前で御曹司様が苦笑してお父様に向き合う。
「ご令嬢と2人で話させていただいても構わないでしょうか、子爵」
「ええ、勿論です。ああ、ですが」
「ご心配には及びません。婚約前のご令嬢ということは勿論配慮いたします」
「ありがとうございます、娘をよろしくお願いいたします」
「お預かりいたします。マリカ嬢、どうぞこちらへ」
「え、あ、あの?」
再び手を握られ、庭へと案内されるまで記憶が飛んでしまって何も覚えていない。
混乱と緊張とで弾けてしまいそうな心臓を、どうやって保っていたのかも思い出せなかった。
けれどクスクスと、御曹司様は面白そうに笑っている。
椅子に勧められ腰をかけたところで、再び彼が跪いた。
はっと我に返り、見上げれば目がしっかりと合い顔が熱くなる。
反射的に顔をそらせば、何故だか御曹司様の笑い声が大きくなった。
私はもう何が何だか分からない。
「いつも可愛らしいと思っていたけれど、今日はとびきり可愛い。ご令嬢姿の貴女に出会えて嬉しいよ」
手を握られ、今度は離れなかった。
少しだけ崩れた口調に、ようやく私は少しばかりの違和感を覚える。
そろそろと再び視線を向ければ、御曹司様は先ほどとは打って変わって幼さすら見えるようなそんな無邪気な笑みを向けていた。
「けれど、私はあの自然体の貴女の笑みに惚れたから、出来ればもう少し気を抜いてくれると嬉しいかな」
「あ、あの? 私達どこかで」
「まだ分からない? 今の俺は声作っていないけど」
「え……?」
「貴女の歌をまた聴かせてほしい」
呆然とするしかないだろう。
初恋の、決して手の届かないと思っていた人は、今目の前で笑っている。
面白そうに、いたずらの成功した子供のように笑って、そうしてどこからかお面を出した。
真っ白の顔に鮮やかな赤が映えた、狐の面。
「どうしても諦められなくてね、大人げない手を使いに来たよ」
……失神しなかった自分を褒めてほしい。
しばらくの間、私は身動きの1つも取れなかった。




