名もなき娘(三十と一夜の短篇第62回)
水辺に近付いてはいけない。川の流れは緩やかなようで、水面の下は激しい渦が巻いている。川には未練を残して死んだ者たちの魂が彷徨っている。漂う霧は溜息から出来ている。だから一人で近付いてはいけない。一人で水面に姿を映してごらん。途端にあなたを引き込もうと水に住まう魂が手を伸ばしてくる。
あなたは聞いていなかったかのようにその小さな足を水に浸す。
何故あなたは闇夜に家を抜け出し、土手を降り、川を覗き込む? 小鹿のような瞳は何を見詰めているのだろう。
あなたの心はかなしみに満たされている。
あなたは歌うように語った。
かつてわたしに、この川の流れが絶えないようにぼくの愛も決して絶えないと誓ってくれた人がいた。でもその人はわたしの側からいなくなった。今はどこかの、わたしの知らない所で暮らしている。
誓いを破ったあの人に罰は下るのかしら?
でもわたしはあの人が苦しむ姿を見たくない。
止める間もなくあなたは川へ進む。恐れもためらいもない。あなたと同じように深い嘆きを抱いて、或いは絶望、或いは予想しえなかった暴力で水底に沈んだ仲間たちが、諸手を拡げて待ち受けている。水草にも花が咲くように、川底にも都があるとやさしいささやきが響く。
翌朝川に浮かんだあなたのむくろが引き上げられた。外傷のない遺骸に事件ではなかろう、自ら身を投げたと判断されたが、あなたの顔は夢みるように甘く、唇はかすかな笑みさえ浮かべていて、人々は戸惑いを覚えた。
わたしがいなくなればあの人が誓いを破ったことにはならないから、あの人に天罰は下らないわ。
あなたは満足なのだろう。
けれどもあなたの健気さはその男に伝わっただろうか? 男は何も知らずにほかの女と仕合せなのかも知れないし、風のうわさであなたの死を伝え聞き、罪の意識に苛まれたかも知れない。
でももうどうでもいいこと。
名もなき娘よ、あなたは川に住まう精霊となった。精霊に人の営みは関りない。
今はただ清らかな流れに身をゆだね、柔らかい水音とともに歌い、渦を描くように踊れ。