不幸なときの芸術は感動を与える
不幸なときの芸術は感動を与えるが、幸福なときの芸術は妬みをあたえる。
作者にも観る側にもあてはまります。
作者が幸福なときに作った作品には謎が少ない。それは、世界観が完成されてしまっているからではないでしょうか。バランスの取れすぎた作品では、観る人の興味が湧きません。むしろ、出来すぎた世界に嫉妬さえ覚えることでしょう。
不幸なときに作られた作品には、世界観が壊れている部分があります。そのため、見た人は世界観を完成させようと推理しなければなりません。これは、意図的な作業ではありません。人間が、おそらく動物が本能として持っている衝動です。
答えがない推理。しかし、見た人は作者には答えが見えていると思っています。いやいや、本当は作者にだって答えは見えていません。ですから、永遠に謎なんです。こうして芸術の永遠性が担保され続けます。
では、観る側からすればどうでしょう。
不幸なときには、なにか解決策を求めているものです。そして、芸術に秘められた謎に、自分の境遇を投射します。謎は芸術という具象化されたことによって、はっきりと捕らえることができるようになります。問題の具象化は、解決への近道になります。こうして、己の抱えている問題意識が可決の方向に向かうことで、人は感動を覚えます。
本来、作者の問題意識とは異なるはずですが、観る側が勝手に推理し共感してしまうわけです。
幸せな人間が芸術をみたら感動するだろうか。おそらくあまりしないでしょう。綺麗だとか、大きいとか見た目の印象で驚くことはあります。しかしそれは、芸術としてみていません。そのため満足しません。
「何でこんなんで、もてはやされるんだ?」
こういった不満が妬みを生みます。
人は、不幸なときほど芸術を創作したり鑑賞すべきなのです。