003
なんで? 転んだ時か?
しかし周囲にはそんな鋭利な物は転がっていない。
心当たりがあるとするなら、それは目の前に立つ男の手に持つ包丁以外にはなかった。
「先輩!」
俺の先を進んでいたアイツが駆け寄ってくる。
その表情からは血の気が引いている。きっと今の俺よりも顔色が悪い。
「血が……。早く止めないとっ!」
本人は気づいているのか気づいていないのか、その瞳は濡れている。
ハンカチを取り出して必死になって傷のある場所を押さえてくれているが、一向に血が止まる様子はない。
ふと視界が暗くなった。別にまだ気を失った訳ではない。
あの男の作る影に入ったからだ。
「そんな男、死んで当然だよ。だって僕と君との仲を邪魔する男なんだから」
「何を言ってるんですか? なんでこんなこと……」
「僕と君はこれからどんどん親密になって、結婚して幸せになる予定なんだよ。なのにコイツがその予定を邪魔しようとするから」
「そんな予定はありません! 貴方とはほとんど話したこともないのに、そんな訳ないじゃないですか!」
「だからこれからそうなる予定だったんだよ?」
さも当たり前の様に、なんで解らないの?と言わんばかりの態度。
「貴方……狂ってる」
このままではコイツも危うい。
なんとか逃げるように言わないと。
「……に…………ろ……」
声が出ない。
身体にも力が入らない。
血を流し過ぎたのか!?
「君は安心してて、そいつがいなくなれば全部元通りだから……」
奴は俺に寄り添っていたアイツをはね除けて膝をつき、包丁を高く振りかざした。
俺に止めでも刺すつもりのようだ。だが抵抗しようにも身をよじる程度が精一杯でほとんど動けない。
俺はそれを見ていることしか出来ない。
「僕達の邪魔したお前が悪いんだぞ?」
その刃は俺に向けられて振り下ろされた。
「ダメッ!」
再び俺の身体にドンッと衝撃が伝わる。
もう痛みは感じない。
どこを刺されたのだろう。
心臓か? それともまた腹か?
自分の身体の上を霞む目で確認する。
だが俺の身体の上にはアイツがいた。
あの衝撃はアイツが俺に覆い被さったものだった。
それなら振り下ろされた包丁はどうなった?
包丁はまだ立ち上がっていた奴の手の中にある。
包丁は振り下ろされなかったのだろうか?
「……せん、ぱい」
いつもより力ない声で俺を呼ぶ。
「ごめん……なさい……」
謝る必要はない。お前が謝ることなんて何ひとつないだろ!
「私の……せい……」
違う! お前は何も悪くない!
「なんで君がこいつを庇うんだよ! 君が変なことするから間違えてしまったじゃないか!」
こいつは許さない……。こいつだけは絶対に許してはいけない!
「でも次で終わりだから、そしたら病院に連れて行って上げるからね。もう少しだけ待っていてよ」
寄るな。コイツに近付くな。
目は霞むし、最初は荒かった息も今はまさに虫の息だ。
しかし、何故か意識だけはハッキリしている。
そして俺は、奴がコイツに近づくことだけは容認できない。
それなのに身体は動かない。
動けっ、動いてくれっ! 腕一本でも、足一本でもいいから、動いてくれ!
「あー、やっぱりまだ生きてる。目障りなんだよね。僕達に纏わりつく薄汚い蠅がぁ!」
奴が包丁を振り下ろす瞬間、その瞬間だけずっと重く動かなかった右腕が軽くなった。
その右腕で奴に向けて思いっきり拳を飛ばす。
拳は包丁を握る手に当たった。
奴が持っていた包丁はそれを握る手をスルリと抜けて、奴の首を目掛けて突き刺さった。
「ぎっ、ぐっ……」
首に包丁は深々と刺さり、奴が咄嗟にその包丁を引き抜くとおびただしい血が吹き出した。
「はっ、がっ!」
奴もその場に倒れ込んだ。
奴の身体は時々痙攣したようにビクビクと動いている。
その様子を見る限り起き上がってくることはないだろう。
それを見て少しだけ安心した。これでこれ以上、コイツが傷つくことはない。
しかし動けないのは俺も同じ。もう、指一本すら動かせない。
瞼を閉じればもう開けることは出来ないと思う。
先ほどの拳は火事場の馬鹿力のようなもの、もしくは奇跡というものだったのだろうか。
だがもし奇跡だったとするならもっと早くに起こって欲しかった。
せめてコイツが傷付く前に。
俺はもうダメだろうけど、コイツには助かって欲しい。
俺は神様なんて信じてはいなかったけど『どうか』と願わずにはいられない。
都合がいいのはわかってる。
普段から信じていないだの、何もしてくれないだの、悪態をついて不信心であったのもわかってる。
でもどうかコイツだけは、コイツだけは助けてください。
お願いします。どうか神様ーー