7. 保健室
これは、久々に失敗してしまったかもしれない。
おぼろげな考えが確信に変わったのは、放課後になってからだった。
額に滲んだ冷や汗と、ぐらぐらと揺れる視界。もしかすると、熱も上がっているのかもしれない。
自分でも、今日は完全に体調を見誤っていたと思う。
「どうしましょうか……」
人影もまばらな放課後の図書室で、私はひとり呟いた。
朝から少し体は重かったが、それはまあ、言ってしまえばよくあることで。
致命的な原因は、午後に魔術演習系科目が続いたことだろうか。
昔から魔力が他人よりも不安定で、周囲の環境や魔術で体調が転落することは頻繁にあった。
ざっくり言うと、外部に触発されて体内で魔力が過剰生成される体質で、更にそういった時は大抵自己調整がきかなくなる。
対処法は静かな場所で落ち着くのを待つか、魔力生成器官を施術で一時的に麻痺させるか、副作用に目を瞑って薬を服用するか。この場では打つ手がないので、診断可能な先生がいる、保健室に向かうのが得策ではあるのだけれども。
図書館の貸出カウンターに座ったまま、私は緩慢に背後の時計を見上げた。
こんな日に限って、図書委員の当番だったりする。
閉館までは、あと1時間。
ひどい眩暈に俯いて目を瞑れば、頭上から声が掛けられた。
「……どうしましたか?」
覚えのある声に、私は驚いて顔を上げる。
なにか聞かれた気がするが、内容を聞いていなかった。
「ええと、貸出ですか?」
笑顔を作ろうとして失敗した私に、目の前のシリル君は小さく眉を寄せた。
「無理そうですね」
「はい?」
それだけ言って、彼はカウンターの内側に回り込む。
突然のことに、私はふたつ瞬きして、再びそこに居る黒髪の少年を見た。
「……鍵はどこにありますか」
「え、っと」
シリル君は視線を左右に巡らせると、棚の陰に置いていた図書室の鍵で目を止める。
私がなにか答える前に、彼はそれを手に取って軽く握り込んだ。
「お借りします」
「あの」
上手く、頭が回らない。
引き止めなければいけない背中に片手を伸ばしかけて、けれど言葉が出ないまま見送ってしまう。
声の届かない距離まで離れてから、私は中途半端に上げた手を降ろした。
シリル君の姿を視線で追えば、彼は新書棚の近くで本を読んでいた先輩に声をかけた。
かと思うと、なにやらそのまま話し込んでいる。
あの先輩は、ええと、ひとつ上の……。
ふわふわと回らない頭で、ふたりに接点なんてあったかな、と考える。
視線の先にいる彼らは同時に私の方を見て、頷いた先輩にシリル君は先程持ち出した図書室の鍵を手渡した。
(あ、鍵。返してもらわないと……)
少しふらつきながら、私は椅子を降りて立つ。
カウンターの表側に回ろうとすれば、いつの間にか目の前に居たシリル君と目が合った。
「ええ、と」
どこか不機嫌そうな表情に、思わず言葉に詰まる。
彼は無言のまま擦れ違うと、カウンター端に置かれた私の鞄を手に取った。
ざっと周囲を見回して、ぽかんと立っている私と目が合うと、シリル君は僅かに眉を寄せた。
「行きますよ。歩けますか?」
「あの、私、今日図書委員の当番で」
「その顔色で、なにを言っているんですか」
呆れたように溜息を吐かれた。
当たり前のことを言ったつもりだったのだけれど、これは私が悪いのだろうか。
「あの、ええと」
なんだか頭がふらふらして、思考がまとまらない。
気付けば私は、シリル君に片手を引かれて廊下を歩いていた。
左右の景色はどこか覚えのあるもので、向かう先はなんとなく予想がつく。
歩調はいつもよりも、ゆっくりだ。多分、本調子ではない私に合わせてくれているのだと思う。
半歩前を歩くシリル君は、肩越しに斜め後ろの私を振り返った。
普段通り鋭いけれど、どこか心配そうな色の視線に、私は場違いだと思いながら口角を緩める。
「ありがとうございます」
「なんですか、唐突に」
お礼を述べれば、シリル君は素っ気なく言って、再び前を向いた。
自分では抜け出せないまま閉館まで我慢して、最終的に動けなくなっていた気もする。
「助けてくださったんですよね」
「あの場で倒れられるのは、迷惑だからです」
どこか冷たい反応だけれども、私を心配してくれているのは分かった。
もう一度お礼を言おうと口を開きかけて、けれどその言葉は受け取ってもらえないような気がして途中で止める。
少し悩んで、私が口にしたのは別の言葉だった。
「……よく、先輩が図書委員だと分かりましたね」
「昨年、なにも知らないまま、やらされたので」
「シリル君も図書委員だったのですね」
「もう一度やるのは御免ですが」
ふと、図書室の貸出カウンターに座って無表情で本を読むシリル君の姿が脳裏に浮かんだ。
貸出手続きの度、きっと不機嫌そうに、けれど几帳面に手を止めて対応するのだろう。
そんな彼を見る機会がなかったのは残念だけれども、小さな共通点が嬉しかった。
思わず頬を緩めれば、どこか胡乱げな視線が向けられる。
前を歩くシリル君の足が止まって、私も続けて止まると顔を上げた。
最初から予想はついたけれど、目の前には保健室がある。
シリル君は数度ノックをして、けれど返事がないのでそのままドアを開いた。
案の定、室内には誰もいないようだ。
「……運が悪かったですね」
周囲に視線を巡らせれば、中央の机に手書きのメモが置かれていた。
シリル君は、真っ直ぐに歩み寄ってその紙を手に取る。
彼の肩越しに中身を覗けば『飛行魔術戦の学内対抗試合のため、演習場にいます』という文字と、終了予定時刻が書いてある。
時計を見れば、もう十数分後ではあるようだ。
「先生を呼んできます」
そう言って踵を返したシリル君を、私は袖を掴んで引き止めた。
「どうしましたか」
「あの、大丈夫です。少し休めば、落ち着くので」
たぶん、と心の中で付け加える。
シリル君は、訝しむように眉を寄せた。
その表情はどこか困っているようにも見えて、迷惑を掛けたい訳ではないのだけどな、と思う。
少しよろめいた私の肩を両手で支えて、シリル君は窓際のベッドを見た。
「分かりましたから、大人しく寝ていてください……」
肩、貸しましょうか。その言葉に首を振って、私はベッドに歩み寄って横になった。
白い天井に、風に揺らいだカーテンが模様を描く。
それとも、揺れているのは私の視界の方だろうか。
軽く目を瞑れば、視界に影が落ちた。
はらり、と隣で本のページをめくる音を聞きながら、私はぽつりと呟いた。
「シリル君は、優しいですね」
徐々に落ちていく意識の中で、ふと彼の手が止まったのを感じた。
「そんなことを言うのは、あなただけですよ」
私の記憶に残っているのは、そこまでだ。
けれど、最後に。
初めて私を名前で呼んでくれた気がした。
予定通り全10話とするか、補足を加えて全12話とするか、現在検討中です。
次話は更新まで時間を頂くかもしれません。