5. 校舎裏のベンチ
「シリル君!」
昼休みが始まって間もない頃。
図書室に踏み入ろうとしている、小柄な後姿を呼び止めた。
直前が選択授業で、別々の教室だったことには少し焦ったけれども。
部屋に入る前に追いつくことが出来たのは、幸運かもしれない。
私は手に下げた紙袋の紐を握りなおす。
黒髪の少年は、どこか億劫そうに私を振り返った。
「……ご用件は」
「一緒に来て頂きたくて」
「お断りします」
予想はしていたけれども、即答だった。
「少しだけで良いのです」
いつも通り不愛想にこちらを向いているシリル君を、じっと見つめる。
時間にして、十数秒。私が折れないと分かったのか、彼は短く溜息を吐いて、手を掛けていた図書室の扉を閉めた。
「……十分だけです。それ以上は付き合えません」
「はいっ!」
思わず勢い込んで答えれば、図書室の前ですよ、とシリル君は気まずそうに目を逸らした。
真っ直ぐ向かう先は、校舎裏の木陰にあるベンチ。
この学校の生徒は大半が寮暮らしで、昼食は食堂でとることが多い。
現在誰も使用していないことは、図書室に向かう途中に確認していた。
数歩遅れてここまで来たシリル君は、行き先を察した頃から背後で不機嫌そうな気配を漂わせている。
けれど、それに怯む私ではない。
目的地に到着して、私はベンチの端に腰掛けるとシリル君を見上げた。
普段は同じくらいの高さに目線があるので、なんだかとても新鮮な気がする。
ベンチの空いているサイドに視線を移せば、シリル君は諦めたようにかなり離れて隣に座った。
少し悩んで、私は距離を詰めると、自分の膝の上に乗せていた紙袋を開いた。
はい、とそこから取り出した包みをシリル君に手渡す。
反射的に受け取ってしまったのか、彼は手のひらのそれを訝しむように目を細めて見下ろした。
「……なんですか、これは」
「サンドイッチです」
「結構です」
あっさりと突き返されたが、その行動は予想の範疇だ。
その包みは受け取らず、私と同じ高さにある彼の頭の先を見る。
シリル君はなにか言いたげに小さく眉を寄せた。
一般的に、男の子は十代半ばで驚くほど成長するとはいうけれど。
「成長期にしっかり食べないと、大きくなれないのだと聞いたことがあります」
「余計なお世話です。用件はそれだけですか」
包みを座面の上に置いて席を立とうとした彼を、私は引き止める。
「時間内であれば、付き合って頂けるのですよね」
「……そんなことも、言いましたね」
不本意そうに言って、シリル君は再びベンチに座った。
私は座面に置かれた包みを手に取って、彼の膝の上に乗せる。
「私、お料理は少し得意なのですよ」
「あなたの料理熟練度に興味はありません」
包みを見下ろすシリル君に声を掛ければ、冷たい返事が返ってきた。
「でもほら、美味しいと聞くと食べたくなったり、しませんか?」
「味の心配をしている訳ではないです」
そう言って、彼は緩く首を振った。
「そもそも受け取る理由がありませんから」
「日頃の感謝の、お礼です」
私の言葉に、シリル君は小さく溜息を零した。
「そんなことよりも、僕に被害が及ぶ前に勉強してくださる方が嬉しいのですが」
「シリル君が食べ終わった後、頑張ります」
「……あなたの分がないでしょう」
「まだ持っているので、大丈夫ですよ」
私は自分の隣に置いていた紙袋から、少し小さな包みを取り出した。
言葉に詰まった彼に「それでは」と私は言葉を続ける。
「作り過ぎたので、お裾分けということにします。感想を教えてくださいね」
「どう見ても、こちらの包みの方が大きいのですが」
「駄目でしょうか」
「……ありがとうございます」
シリル君はしばらく躊躇した後、そう言うと長く息を吐いた。
「はい、ありがとうございます」
「どうしてあなたがお礼を言うんですか」
彼は包みを開いて、黄色い卵と青々としたレタスが挟まれたサンドイッチを手に取った。
少し悩む素振りを見せてから、一番細い角を口に入れる。
そのまま一切れ食べ切って、シリル君は膝の上の残りを見るとぽつりと言った。
「……悪くない、のではないでしょうか」
「本当ですか?」
「ええ。嫌いな味ではありません」
「では、沢山食べてください」
残しておいた自分の包みも差し出せば、シリル君は小さく眉を寄せた。
「それは、あなたの分でしょう」
「ティナです。私の名前」
そろそろ出会って数ヶ月になるが、彼が私の名前を呼んでくれたことは今のところ一度もない。
改めて伝えれば少し戸惑うようにシリル君の瞳が左右に泳いだ。
「知っていますよ。……あなたは、食べないのですか」
まあ、そう簡単に呼んでもらえるとは、思っていなかった。
シリル君は視線を逸らして地面を見ながら、私の答えは待たずに次のサンドイッチを口に入れた。
「今まで他の方に食べて頂く機会はなかったので、少し気になってしまって」
手料理を誰かに食べて貰うのは、実に数年ぶりだ。
その時は、夜遅くまで仕事をしている両親への差し入れだった。
自分自身では得意だと思っていても、過去の評価に色眼鏡が掛っていた可能性がゼロではない。
私は膝の上にある、自分用のサンドイッチの包みを開いた。
味は一緒のはずだけれど、実は耳を切るのに失敗したため、微妙に斜めに傾いている。
見下ろしたまま少し悩んで、私はシリル君が最初に食べていた卵サンドを取り出して口に入れた。
うん。事前に味見はしていたけれど、上出来と言っていいと思う。
挟んだ具はいつも通りの味だったけれども、昨日の放課後に外出先で買ったパンが時間が経っても思った以上に美味しかった。
これは次も余裕があれば買いに行きたい。
そんなことを考えながら最初の一切れをゆっくりと食べ終えて、私は顔を上げる。
隣のシリル君は渡した分を食べ終えたのか、鞄から取り出した本を読んでいた。
私は自分の膝に置いた、残りのサンドイッチを見下ろす。
少し悩んでから、食べ掛けのそれを包み直していると、隣から訝しげに声を掛けられた。
「……どうかしましたか」
「いえ、もう頂いた時間を使い切ってしまうなと思いまして」
「それくらいであれば、待ちますよ」
「ええと」
それになんだか、今日はお腹が一杯な気がする。
会話に気を取られて中途半端になった結び目を手直しして、私は顔を上げた。
「大丈夫です」
包みを紙袋にしまった私を見て、シリル君は一瞬眉を寄せる。
けれどすぐにいつもの表情に戻ると、本を片付けて立ち上がった。
「……そろそろ、行きます。あなたも、来ますか?」
「はい!」
いつもより遅いテンポで歩きはじめた後ろ姿に、私は答えを返す。
立ち上がる前に、軽く目を瞑る。再び開いた視界で、シリル君の背中を数秒見つめた。
この一瞬が少しでも長くなりますように。祈ることしか出来ないけれど。
校舎手前で一度足を止めた彼の背中に、私は慌てて立ち上がると紙袋を片手に早足で追いかける。
――私は今、幸せだ。