4. 隣の席
「えー。ですから、このような場合は別の式を使って……」
――全然、分からない。
授業中にそう感じるのは、今回で何度目だろうか。
休学中も勉強していた一般教養はともかく、魔術関連の授業は編入後は全く付いていけていない。
在籍する学年を間違っているのではないかと、最近は自分でも必修科目を受ける度に思う。
「さて、つまりどうすればいいと思う――ティナ・シルフェード」
「……、あ。はい」
急に教壇の先生から答えを振られて、私は思わず背筋を伸ばした。
慌てて手元の教本を左右に視線でさらうが、すぐ答えに行き当たるはずもなく。
先生は黒板になにかを書いていて、他の誰かを指名してくれる気配はない。
ふと隣の席から、短い溜息が聞こえた。
続いて視界の端に差し出された本を反射的に受け取り、私はきょとんとシリル君を見る。
彼はペンの軸で、自分の机上に置かれた赤いインクを指し示した。
言いたいことをなんとなく察して、開かれたままの教本に引かれた赤い線を辿る。
「……逆相位の式を重ねます。ただし、必要な式も打ち消してしまうため、制御式を別で記述する必要があります」
「そうだ。それが黒板の式になる。詳しくは、次ページの……」
ひとまず授業が続き、私はほっと息を吐いた。
渡された教本のページを改めて見ると、赤い線のすぐ脇に“回答”と走り書きがある。
普段のシリル君の文字とは違う崩れたそれに、私の為に教本を汚してしまったのだと少し申し訳ない気分になった。
こうして彼が私に教えてくれた記憶が形に残ることを、嬉しいなんて思ってはいけないのだろう。
再び隣の席に目をやると、シリル君と珍しくすぐに目が合った。
彼は時々前を見て板書きをノートに写しながら、こちらに片手を伸ばしてくる。
借りた教本を返すのと同時に、ありがとうございますと口を動かせば、ふいと視線を逸らされた。
「あの、シリル君」
休み時間になってから、改めて隣に声を掛ける。
そこに座る不愛想な黒髪の少年は、次の授業の教本を流し読みしていて、顔を上げてはくれない。
「シリル君」
「……聞こえていますよ」
名前を繰り返せば、彼は短い溜息を吐いて私の方を見た。
「先程は、ありがとうございました」
「授業が止まると、迷惑ですから」
「それでも、助けて頂きました。ありがとうございます、嬉しかったです」
「そうですか」
どこか戸惑った様子で不愛想に言ったシリル君は、ふと眉を寄せる。
私はきょとんとふたつ瞬いて、首を傾いだ。
「どうかしましたか?」
「……以前も思いましたが、前の学校では一体なにを勉強していたんですか」
「ええと、魔術のお勉強です、よ?」
「あなたの学力を見る限り、あまりそうとは思えないのですが。よくこの学校に編入できましたね」
「私も、最近は偶然のような気がしてきました」
むしろ、一番疑問に思っているのは私自身かもしれない。
以前通っていた学校の授業進度は、王都にあるこの学校ほど早くはなかった上に、一昨年の私の出席日数は進級ギリギリだった。
こちらに来てからの数ヶ月間は、先生方のお陰もあって欠席回数は片手で数えられるけれど、だからといって基礎学力不足を埋められるはずは当然なくて。
「少しは危機感を持ってください。僕も面倒を見切れません」
「大丈夫です。ご迷惑はお掛けしません」
「あなたにそのつもりはなくとも――いえ、なんでもありません」
私が両手を握って答えれば、シリル君はなにか言いたげに口を開きかけて、けれど結局口を閉じた。
どうしたのだろうかと、私は内心首を傾ぐ。
会話の続きをしばらく待って、けれど次の言葉は先程の続きではないようだった。
「折角環境があるのですから、しっかり勉強しないと勿体ないと思いますよ」
「はい、頑張りますね」
「あなたの場合は、傍から見ていると空回りです」
「……そうでしょうか?」
「無駄な努力の前に、予習と復習を確実にこなしてください」
思い返してみるが、確かに私は勉強時間と学力が比例していない気はする。
おそらく、分からない箇所が不明瞭な状態で予習や復習をしているからだとは思うけれども。
友人に問題点を聞いたことはあるものの、メリッサは私と同レベルの学力で、リリィは実技以外は平均より少し下なのであまり参考にならなかった。
良案の浮かばないまま、シリル君の言葉に「そうしてみます」と返す。
今日も、帰ったら復習を頑張ろうと思う。
「現実的な目標を設定するのも、場合によっては効果的です」
「目標、ですか?」
私はあまり先の事を考えるのが得意ではないので、その言葉がいまいちピンと来ない。
「それは、自分で考えてください」
ふと、先程の授業内容が脳裏を過ぎる。
確か属性に応じた式の無効化や再構成方法だったはず。
魔術は基本的に、自分と相性の良い属性の方が発動しやすい傾向にある。
だから普通であれば、相性の良い属性での各段階の術習得を目指す――などが、目標や目安になるのだろうか。
私の中で魔術は使うものに成り得ないので、なんとなくイメージは湧かないけれども。
隣の席を見れば、いつの間にか再び本を読み始めたシリル君の横顔があった。
窓から差し込む光で、いつもの黒い髪が普段より少しだけ柔らかい色に見える。
文字を追っては時々眇められる碧の瞳を見ながら、ふと思ったことを口にする。
「ところで、シリル君の属性はなんですか? 私は、光属性の適性が一番高かったのです」
「あなたには、関係がないでしょう」
彼は顔を上げないまま、私の言葉を切り捨てた。
思わず怯みかけて、けれど私は予想を続ける。
「シリル君は、風か闇属性でしょうか。優位属性は外見に出ることが多いですし」
「……」
「でも薬草学や魔術実習の様子を拝見していると、火の制御が得意なようにも思えるのです」
「…………」
「教えてはいただけないですか?」
「お断りします」
心残りではあるけれど、この様子では答えて貰えそうもない。
シリル君は考えるように少し目を伏せてから、ちらりと横目で私を見る。
どうしたのかと首を傾げば、彼はおもむろに口を開いた。
「そういえば」
「はい?」
「光属性の適性が高いのに、聖教会には行かなかったのですね。そちらの方が、専門のはずですが」
聖教会は、光属性に特化した魔術系団体だ。
昔は少し特殊な宗教団体だったというけれど、今は治癒系統の魔術研究や慈善事業を中心に活動している。
魔術学校の授業より汎用性は低いが、少ない魔力でも確実に術発動できるようになるため、一般市民で光属性の適性が高い子はそちらに入ることの方が多いかもしれない。
そういえば、同じ質問を以前リリィにもされたことがあった。
理由は幾つかあるけれど、この場合の答えはひとつだ。
「一応、複合属性というものらしいのです。使えるほどではないのですが」
「そうでしたか」
シリル君は私の答えに思うところがあったのか、じっとこちらを見た。
少し長めの前髪から覗く瞳が探るように細められて、場違いにも少しどきりとする。
「どうかしましたか?」
私は動揺を隠すようにそう言って、シリル君の顔を覗き込む。
彼は驚いたように一瞬目を見開いて半身を引いた。
「いえ、なんでもありません」
そう言うと首を緩く振って、シリル君は再び本に視線を落とした。