12. 幸せの確率
冬空の下、星の灯を頼りに裏庭に出た。
吐き出した息は真っ白く、視界の端を霞めてゆく。
首に掛けた華奢な金属のチェーンが外気で一瞬にして冷える。
上着か毛布を持って出ればよかったと、私は少しだけ後悔した。
遠くに見える王都の街並みが発する光に、私は学校に通っていた数年前を思い出した。
「なんだか、まだ夢の中にいるみたいです」
ここは王都の外れにある、小さな一軒家だった。
相当年期が入った建物なので、外も中も傷みが激しい。
引っ越してきてから、まだ数週間。
私は移動で体調を崩し、彼は日中お仕事があるので、家の修理は全く追い付いていない。
彼がこの場所に決めたのは、魔術的な痕跡が比較的少ないからだと言う。
違う理由ではあるけれど、私もこの場所は気に入っていた。
(てぃな)
(こっち、こっち)
(きて、はやく)
どこからか、少し舌っ足らずな声が私を呼ぶ。
けれど周囲にはその姿も気配もない。
彼はこの声の主達を、魔力に自律的に干渉する意識集合体と言っていたけれど――私は昔話から取って、精霊さんと呼んでいた。
今でも沢山の声が聞こえるけれど、古代にはもっと居たというのだから驚かされる。
少し前からの、私のお友達だ。
どうしたのだろうと、私は声が聞こえた方向に足を向ける。
(そっち、ちがう)
精霊さんの言葉は、実に曖昧だ。
言いたいことは分かるのだけれど、肝心なことが伝わらなかったりする。
「ええと、どちらでしょうか?」
私は周囲を見渡して、小さく首を傾いだ。
(どあのほう!)
(あとちょっと、もうすぐ)
ドアというのは、裏口の扉の事だろうか。
とりあえずそれは私の数歩後ろにあるのだけれど、続いた言葉は全く要領を得ない。
「もうすぐ……?」
更に首を傾いだ私の肩に、ふわりと後ろから上着が掛けられた。
表布に染みついた古びた本の香りが、私を包み込む。
大好きな、彼の匂いだ。
「おかえりなさい、シリル君」
振り返った私は、そこにあった氷点下の笑顔に思わず固まった。
「……ティナ」
「ええと、なんですか?」
「言いたいことは色々あるのですが。まず、その呼び方は止めてくださいと伝えましたよね」
「はい、シリル」
未だに慣れない呼び名が気恥ずかしくて、私は彼の頭上に手を伸ばす。
出会った時は同じくらいだ背の高さは、いつの間にか随分と追い越されてしまった。
指先で綺麗な黒い髪を何度か梳けば、憮然とした表情で彼は口を開く。
「誤魔化さないでください」
「違います。お疲れさま、って意味です」
シリル君は小さく溜息を零したかと思うと、私の手を取って上着ごと抱き上げる。
急に高くなった視界に、私は思わず声を出した。
「ひゃっ」
「大人しくしていてください。落とします」
素っ気なく告げて、彼はそのまま裏口の扉をくぐった。
入ってすぐ脇の棚には、ロウソクと手持ち燭台が置かれている。
シリル君は一度腕の中の私の様子を見て、そのロウソクに魔術で火を灯した。
精霊さんが居れば周囲の魔力に気を遣う必要はないと言ったのは彼自身のはずなのに、過剰なまでの心配症は改善する気配が全くない。
魔術充電式の照明は彼が厭うたので、現在この家の光源はロウソクのみだ。
結局魔術で火を灯すなら変わらないのではと問えば、発火時のエネルギーと充電式の魔力燃焼効率を比べた場合は、とか分からないことを言われてしまった。
周囲への影響が少ない旧型の魔力石照明もあるけれど、それは最近壊れて物置に仕舞われている。
彼は次の休日に調整するつもりだと軽く言っていたけれど、旧時代の術式を使った骨董品だから相当複雑のはずだ。
シリル君は私をリビングの椅子の近くに降ろすと、手持ち燭台の火を机中央のロウソクに移した。
橙色の光が、引っ越したばかりで家具の少ない室内を照らし出す。
食卓代わりの小さな机越しに見る彼は、やはりなんだか不機嫌そうだ。
「あ、お夕飯を温めてきますね」
「それは僕がやります。あなたは、椅子に座ってください」
「……ありがとうございます」
「いえ」
そう答えるが、彼は視線を私に向けたまま動かない。
私はどうにも居心地が悪くて、戸惑いながら別の言葉を探す。
「お互い冷えてしまいましたね。暖炉に火を入れて来ます」
「ここからで問題ありません」
そう言ってシリル君はおもむろに暖炉を見た。
薪の中に小さな火花が散って、一瞬で火が上がる。
この薄暗い中でも相変わらずの高い精度だ。
発火までの時間、着火点の位置把握、周囲への影響を考慮した最小限の魔力。
彼は以前否定したけれど、実は火属性じゃないかと私は未だに疑っている。
それはいいとして、完全に逃げ道が塞がれてしまった。
「あの、シリル……」
おずおずと口を開いた私に、彼はなんですかと笑顔で答えて椅子に座った。
なぜだろうか。
最近の彼は表情が増えた分、怒ると更に恐ろしい。
私は同じ机のもう一脚に座って、そんな彼の様子を小さく伺った。
「言い訳があるなら、先に聞きましょう」
「ええと、ですね」
「ないのですか。分かりました」
返答時間は秒で締め切られた。
こちらに答えさせる気はがあるとは思えない。
シリル君は私を真っ直ぐ見て、静かに口を開く。
「あなたの行動を制限するつもりはありません。けれど僕は今朝あなたから、無理をしないと聞きました」
「そうだったでしょうか?」
首を傾いでみれば、前方から無言の圧力を感じた。
……確かに、そんなことを言った記憶はある。
けれど熱も二日前には下がったのだから、心配をする程のことではないと思う。
それに今日だって、日中は部屋の中で大人しくしていたのだ。
夕食のスープを作りながら窓越しに見た星空がとても素敵で、作業を終えたらつい、そのまま外に出てしまっただけで。
(おこられてる)
(てぃな、おこられてる)
(おしえる、したのに)
どこからか、とても楽しそうな声が聞こえる。
「何度も言わなくていいです……」
精霊さん、できれば次回からはもう少し分かりやすい指示をお願いします。
心の中でそう呟いて、私は小さく肩を落とした。
「魔力に関しては彼らが補助しているにしても、あなた自身の体が丈夫になった訳ではありません。外に出るのなら、せめて何か着込んでください」
「……心配をかけて、ごめんなさい」
自分の行動を反省した訳ではないけれど、言葉は意外とすんなり出た。
帰ってみれば家の中は真っ暗で、そこに私の姿もなければ彼も心配するだろう。
僅かに俯けば、首のチェーンに通された小さな魔力石が見えた。
試作品だと渡されたこれには、精霊さんと私を繋ぐ術式が刻まれている。
現在は調整中だけれども。
最終的には中級程度の魔術ならば普通に使っても問題なくなるらしい。
測定値が安定してきたのは、本当につい最近のことだ。
ようやく一緒に過ごせるようになったというのに、病院に逆戻りでは笑えない。
私の謝罪の意図は自明なようで、彼はなんだか困ったような顔をした。
「あなたは一体、どうすれば分かってくれるのでしょう」
愁いを帯びた吸い込まれるような翠の瞳に、私は思わず息を呑む。
彼はおもむろに腰を上げると、私の頬に手を伸ばして触れた。
「心無い言葉を吐くのなら、いっそ塞いでしまいましょうか」
ゆっくりと頬を辿って下りる指先が、唇の端にかかる。
きっと今、私の顔は真っ赤になっているのだろう。
小さな机越しに数十秒見つめ合う。
吐息を感じる距離まで近づいて。
彼は私の耳元に唇を寄せると、小さく囁いた。
「冗談ですよ」
「……シリルは、やっぱり意地悪です」
なんだか、負けたような気がする。
私の不貞腐れた視線を意にも介さず、彼はキッチンに並んだ鍋と器に目を止めた。
「もしかして、まだ食べていなかったんですか」
「折角なので、ご一緒したくて」
「少し待っていてください。温めてきます」
シリル君は席を立って鍋の方に向かうと、旧式のコンロを戸惑うことなく操作する。
曾祖父母より前の時代のそれはいわゆる古器物類で、私も慣れるまでは火加減の調整が難しかったのに。
彼の属性に関するささやかな疑惑を確信に近づける情報が、また一つ増えた。
そんな穏やかな時間が、とても幸せだと感じる。
シリル君は鍋の様子を横目で見ながらも、手際よくサラダのドレッシング用の調味料を混ぜている。
かと思えば、ふと私が座る机の端に視線を向けた。
「そういえば、手紙が届いていましたよ」
机にあったのは、未開封の封筒と葉書がいくつか。
その一番上に置かれた透かした花柄の一枚が私宛だった。
差出人は学生時代からの友人のメリッサ。
最後に会ったのは数年前だけれど、毎月欠かさず手紙のやり取りが続いている。
前回の手紙の最後で王都へ引っ越すことは伝えていたので、今回はその返事のようだった。
王都に最近出来たおすすめの店の話から、もう一人の友人であるリリィの近況まで、彼女らしい丸みを帯びた文字で綴られている。
最後に、私の引越しとリリィの遠征帰還を祝して三人で会いたいと締め括られていた。
「出掛けるのであれば、早い方が良いと思いますよ。王都ではもうすぐ雪が降ります」
鍋をレードルで混ぜてスープを器に取り分けながら、シリル君は言った。
「もしかして、読みましたか?」
「いいえ。あなたが分かりやすいだけです」
あっさり返された言葉は、少しばかり心外だ。
机上に料理を並べる場所を作るため、他の手紙と葉書を揃えて端に寄せようと一度手に持つ。
ひらりと滑り落ちた一枚に手を伸ばし、その裏の署名を見て私は動きを止めた。
「どうしましたか」
シリル君はトレーに乗せた夕食を一度机に置いて、それを拾い上げる。
裏に書かれた祖父の名を見て彼は小さく溜息を零すと、おもむろに手紙をロウソクの火にかざした。
不自然な程に一瞬で灰になったそれを、シリル君は指先で描いた魔術式で消す。
無表情な彼に私は思わず謝罪の言葉を口にしそうになって、けれど寸前で飲み込んだ。
シリル君はあまり自分の事を話さないが、実家と確執があることは短くない付き合いで察している。
――私がいた為に、更に関係が悪化してしまったことも。
「そんな顔をしないでください」
シリル君はそう言って、私の頬に手を伸ばした。
「後悔はしていません。ですから、あなたも気にする必要はありません」
もう終わった話です、と彼は小さく微笑んだ。
彼の黒髪にロウソクの橙色の光が反射して、少しだけ優しい色に変わる。
「それでも納得できないのであれば、僕が選んだ道は正しいのだと、あなたが証明してください」
「ええと、どうすれば」
「それは自分で考えて――。いえ、違いますね」
彼は話の途中で数秒考えるように言葉を切った。
「隣で笑っていてください。幸せなのだと」
「……いつも通りじゃないですか」
「ええ、それで構いません」
頬に触れる温かい指先が、彼の優しい言葉が、私の心に降り積もった罪悪感を溶かしていく。
一度目を閉じたシリル君は、その翠の瞳に私を真っ直ぐ映した。
「今この時間の方が大切……なのでしょう?」
いつか告げた言葉を返して、彼は私の額にキスを落とした。