11. 待っていてと君は言う
彼女の病室を出た僕は強く唇を噛んだ。
口内に広がる錆鉄の味が、わずかに思考を冷静にする。
足早に向かうのは病院の面会受付だ。
先生に伝えるとは言ったが、ただの見舞客が彼女の主治医の居場所を知る訳がない。
それは、あの場を離れる半ば口実のようなものだったけれど。
直前の様子を思い返すに、今の彼女を一人にすることは出来るはずもなかった。
あと数分、正気に戻るのが遅ければ、僕は彼女を否定していた。
認められなかった。
僕よりも余程楽しそうに日々を過ごす彼女に、残された時間が少ないなんて。
最初の彼女との接点は――そう、教室の席が隣り合っていたからだ。
そうでなければ、正面から顔を合わせることもなかったに違いない。
僕が読書に集中していることは自明だっただろう。けれど、清々しい程に空気を読まずに彼女は話しかけてきた。
鬱陶しいと感じた僕は、まともに返事もしなかったはずだ。
その次は、放課後の図書室だった。
彼女が図書委員に教室の誰よりも早く立候補する声は、隣の席で聞いていた。
図書室で会っても無視を続ける僕に、彼女は穏やかな笑顔を向けた。
返事をしたのは気の迷いだった。彼女が背を向けた隙に、僕は逃げるように部屋を出た。
その次は、薬草学の授業中だった。
移動教室だというのに、彼女は粋狂なことに僕の隣を選んで座った。
迷惑だと感じなくなったのは、いつからだろうか。
勝手に心の中に入り込んでおいて、散々かき乱したかと思えば。
先程の光景を思い返して浮かんだ感情は、正直分類できるものではない。
彼女は消えると告げたのだ。
いつも通りの、穏やかな笑みを浮かべて。
入院棟の一階にある面会受付の前で、僕は血の混ざった唾液を嚥下する。
受付の女性は僕の姿を見て、不思議そうに時計を見た。
おそらく僕が、いつもは面会終了時間ギリギリまで彼女の部屋にいるからだろう。
状況を伝えれば、女性は慌てて奥の部屋へ駆けて行った。
入院棟入り口で、声を掛けられた。
「ああ、君は……」
振り返れば、そこには魔術院の黒いローブを着た男性がいる。
この病院に、彼女以外の知り合いはいないはずだ。
僕は内心訝しみながら、警戒は解かずに彼に体を向けた。
「こんにちは、シルフェードさんのお友達」
「……こんにちは」
反射的に挨拶を返したが、彼の声と姿が記憶の中で結びつかない。
数秒考えて、もしやと僕は小さく目を見開いた。
白衣を身にまとった彼の姿を、僕は何度か彼女の病室で見かけたことがある。
医療従事者だと思い込んでいたが、そういえば彼女は主治医を魔術院の凄い人だと言っていた。
面会受付に伝えたのは数分前のことなのだが、こんなにも早く外部に伝わるものだろうか。
「済みません、彼女に無理をさせてしまいました」
「そうなんだね。まあ、彼女は自分のことに無頓着みたいだから」
「……、ええ」
特に驚いた様子もなく彼は鷹揚に応える。
少し躊躇って、僕も同意を示した。
話題に上った彼女は、他人の顔色は気遣う癖に、こちらの心配など気に留めてくれない。
こちらの想いなど、恐らく最後まで気づいてくれないに違いなかった。
「少し話をしようか」
「いえ、それよりも……」
「一人で考えていても、良案は出ないものだよ」
彼は僕の言葉を遮って、建物内の面会待ちの椅子に誘う。
大人しく従った理由は自分でも分からない。
少しの距離を置いて、僕は彼と隣り合わせに座った。
沈黙。
「彼女から、聞いたかな」
「はい。魔力生成に異常があるのだと」
「それで、君は悩んでいるの?」
「……、いえ」
客観的には悩んでいるように見えるのだろうか。
彼の言葉を否定した僕は、脳内に氾濫した感情と情報を整理する。
いつもは容易いそれが、今はどうしようもなく難しく思えた。
本当は分かっているのだ。
もう、どうしようもないのだと。
「……僕には、なにも出来ません」
「そうなのかな」
「僕はただの学生で、彼女の――ただの、友人のひとりです。助けることも出来なければ、選んだ道を受け入れることもできない」
待ち受ける未来を知っていて、彼女が望むのは昨日までと同じ日常。
認めることなど、出来るはずがない。
「それは君の努力次第かもしれないね」
「無理ですよ、そんなもの」
もしも夏の終わりの日、彼女が倒れることがなければ。
脳裏に浮かんだのは、そんな仮定の話だ。
このままいけば、次の春には僕は学年をスキップする。
元々今年の選択科目は去年の内に終えて、今は代わりに一つ上学年の必修を受講していた。
友人の多い彼女は、隣席の不愛想なクラスメートなど忘れてしまうだろう。
いつも彼女が浮かべる幸せそうな笑顔を、遠くから眺めるだけでもよかった。
曖昧な想いに名前を付けないまま、ただ同じ日々が続いていくと信じていた。
――彼女の居ない世界など、考えたくもない。
「個々の属性値や魔力生成量は、生まれた時点で決まっています。今更封じたところで、大空を飛ぶ鳥の片羽を折るようなものです」
「直接対処するしかないのかもしれないね」
彼の言葉に、無理ですよと僕は呟く。
「常に内部から攻撃を受けている状態で、外部からの介入。常に瀬戸際の彼女の体が、耐えられるはずがない」
「そうだね。現代魔術は魔力に干渉することで発動する。魔力の生成は、自然現象だ」
僅かに眇められた彼の深い藍色の瞳が、僕を見据えた。
「けれど、君は知っているはずだ」
「……どういうこと、ですか」
「君は今、それを探しているんじゃないかな」
シリル・セルシス、と続けられた自分の名前に一瞬硬直する。
当然、名乗った覚えはなかった。
呆然とした僕を見て、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「君はちょっぴり有名だよ。セルシスさんのお孫さんでしょう。彼の専門は古代魔術だったかな」
祖父が出来損ないの名を、自ら広めるとは思えないが。
釈然としないながら、僕は肯頷する。
ふ、と脳裏にひとつの式が浮かんだ。
未解明な変数を組み合わせた、あの式だ。
現代においては因果関係なく生成される、自然界の魔力。それは全てあの式に集約される。
広義で捉えれば、人間も自然の一部だ。起因を同じくするのであれば、制御は本来不可能なものではない。
思考の波に沈みかけて、けれど隣で動いた気配が意識を現実に引き戻す。
立ち上がった魔術師は僕の視線に答えるように振り返った。
「あなたは、誰ですか?」
「ただの研究者だよ。未来の後輩の、お手伝いをしようと思って」
ふわりと口元に笑みを乗せて、彼の後ろ姿は面会受付の奥の部屋へと消えていった。
もう聞こえないと思っていたノック音が、白い部屋に響く。
扉の向こうから現れた黒髪の少年を、私はいつも通り笑顔で出迎える。
「シリル君、こんにちは」
彼は私のベッドに歩み寄ると、いつもより数歩手前で足を止める。
きょとんと私が瞬けば、彼は束の間目を伏せた。
「……ティナ」
大好きな翠の瞳が私を真っ直ぐに映し出す。
こうしてはっきり、面と向かって名を呼ばれるのは初めてだった。
「時間をくれませんか。あなたの、未来を」