人魚の唄
隣の席からはよく歌が聞こえてくる。
本人は無自覚なのだろうか。俺の席の隣人はよく歌を口ずさむ。聞いたことのない歌だったが、毎日聴いているうちに覚えてしまった。
美しく、暖かな気持ちになれる歌声。
俺はそんな歌声が好きで、
その歌声の持ち主に、恋愛感情を抱いている。
「夜になると、海で人魚が歌っているらしい」
ある日の昼休み、目の前の席に座っていた親友の啓太が、唐突にそんな噂話を始めた。その時俺は、嫌なくらいじりじりと夏の日差しが降り注ぐ校庭を窓からぼんやりと眺めながら、先ほど買ってきた購買のパンを食べている……フリをしながら、隣席の関口うみはどこへ行ったのだろうか、と考えていた。きっといつものように仲のいい他クラスの友達とお昼を食べているのだろう。いつもの彼女たちの集合場所は渡り廊下だ。しかし、今日は外がとても暑い。日陰の少ない渡り廊下はとても辛いだろう。だとすると……
「真尋!聞いてるか?」
唐突に呼ばれた自分の名前にはっとする。
「あ、悪い聞いてなかった」
そう答えて啓太の方を見ると、何故か彼はにやにやしていた。
「まぁお前の視線的にどーせ関口さんのことを考えてたんだろうけど?目の前の親友をなおざりにされちゃあ困るなぁ」
「なっ!別にそんなんじゃねぇしただ外が暑そうだなって」
事実である。きっと外は暑いから、彼女たちはそういやどうするのかなと思っただけであって決して関口のことを考えていたわけでは
「あーあーはいはいツンデレは結構です。で、引き受けてくれる?」
「は?」
「だーかーら!噂話のちょ、う、さ!」
「はぁぁ!?」
啓太は新聞部に所属している。いい記事を書くため、年中スクープを探し回っているのだが、そういえば最近ネタがないとか言っていたような言っていなかったような……。
「いやなんで俺なんだよ!お前が行けばいいだろ?」
「そうしたい所はやまやまなんだけどさぁ!俺んち海遠いし、この前行こうとしたら母さんに止められてさ!それにほら、お前んち海近いだろ?」
頼む!と目の前で手を合わせる啓太。こう頼み込まれると断れなくなるところが俺の悪いところだと思う。俺は結局この調査を引き受けてしまった。
夜の海は真っ黒で吸い込まれそうで、とても不気味であった。人魚よりお化けが出そうだ。人魚はもっと綺麗で透き通った青い海とかにいるイメージがあるのだが、本当にこんなところにいるのだろうか。今のところ全く歌声は聞こえない。この噂はガセネタだったんだ。そう思って引き返そうとしたところで、ふと歌声が聞こえた。美しく、暖かな歌声。どこかで、聞いたことのある歌声。ただ一ついつもと違うのは、この歌声は美しさと温かさと共に、悲しさがあること。そんな歌声が、果てしなく黒い海に溶けていく。
歌声につられるようにして歩いていくと、いつの間にか足元は砂浜から岩場へと変わっていた。そして、少し離れたところに、海に囲まれぽつんと佇んでいる岩がある。その岩の上に、人影があった。
俺はズボンの裾を捲ると、海へ一歩足を踏み入れた。海の冷たさに一瞬怯んだが、覚悟を決めて歩き出した。
夏とはいえ夜の海は少し肌寒い。転んで全身が濡れることだけはなんとしても避けねばと、慎重に歩き、やっとのことでその岩に辿り着いた。そんなに海が深くなくてよかったと安堵しながら、岩を登る。上までたどり着くと、先客は振り返った。
「山田、くん?」
俺の名字を呼ぶ彼女は、予想通り、関口うみであった。
「こんなところで何してんだよ」
「思いっきり歌いたかったの。おうちで大声で歌ったら近所迷惑でしょ?」
彼女は微笑みながらそう言った。でもその笑顔は、いつも見ていた笑顔ではなく、どこか悲しさが混じっているような気がした。
「お前、噂されてるぞ」
「え、嘘、なんて?」
「“夜になると人魚が歌ってる”って」
「人魚かぁ……」
そう言って彼女は遠くを見つめた。
お互いに口を開かず、時間が過ぎる。岩に打ち付けられた波の音だけが響き、なんだか不思議な気分になった。
「ねぇ、人魚っていると思う?」
先に静寂を破ったのは関口だった。
「人魚?」
「そう、人魚。山田くんはどう思う?」
「そうだな……俺はそういう類のものは、あまり信じないかな」
「そっか」と関口が短く答えると、また二人の間に静寂が訪れた。
俺が話題を懸命に考えていると、関口は立ち上がった。
「山田くん、もう帰った方がいいよ。お母さん、心配するよ?」
「そうだな。でもそれは関口も同じだろ」
「……そうだね。私も帰るよ」
「なら送るよ。女の子をこんな時間に独りで歩かせちゃだめだ」
俺がそう言うと、彼女は首を振った。
「私は大丈夫。だから、先に帰って」
「でも」
「いいから」
強く言われてしまうと、こちらも引き下がらざるをえなかった。
「ちゃんと、帰れよ」
「大丈夫。帰るところだったもの」
またな、と言って俺は引き返した。彼女はさようなら、と言って手を振っていた。
俺が海を抜けたところで、「山田くん!」と叫ぶ彼女の声が聞こえた。振り向くと、関口が先ほどと同じ岩に立っている。何かあったのだろうか。彼女の方を見ていると、彼女はしばらく口を開けたり閉じたりしながら、何かを言おうとしているようだった。彼女が意を決して声を発した時、一際大きな波が岩に打ち付けた。その音によって彼女の声はかき消される。
「なんて言った?」
聞き返すと、彼女は再び迷ったようにしてから、「なんでもないの」と返した。
「ごめんなさい、呼び止めて。さようなら」
「また、明日な」
さようならとは言えなかった。なんとなく、今後ずっと会えないような、そんな気がしてしまったのだ。
いつも通りの朝。学校へ向かっている途中で、後ろから背中を叩かれた。
「真尋!おはよう!」
「ああ、啓太か。おはよう」
「なぁ結局どうだった?人魚のこと!」
「ああ、それなら……」
あれ、あの噂は結局どうだったんだっけ。
確か昨日の夜噂を確かめに海へ行って、しばらくしたら歌声が聞こえてきて、それで……。
「あれ、何も思い出せない」
「なんだよ〜寝ぼけながら行ったんじゃねぇの?もしかして酔っ払ってた?」
「馬鹿か。未成年なんだから酒なんて飲まねえよ。でもそうだな。夜遅かったし眠かったのかも」
そんなことを話しながら学校へ辿り着く。自分の席に座って窓から外を見ると、今日も相変わらず校庭が暑そうだ。
そういえば、と隣の席を見る。この席は、空席なのに何故ずっと置かれているのだろう。