62 解呪
「カーネリアン、噂になっているぞ」
訓練が終わり、今日は任務も無いので直帰しようと考えながら、着替えている時だった。
ハルスが寄って来て、カーネリアンに声をかける。
何の事を言われるか、予想はついた。
「……先日の夜会のことか」
溜息混じりに返すと、ハルスは何度も頷く。
「あの令嬢が、リナリア・レユシットだったんだな」
ハルスの表情は、どこか複雑そうだった。
リナリアは夜会には殆ど姿を見せないが、結構有名だ。
そもそも、父親のグラジオラス・レユシットが元から有名なのだ。
上級貴族で、類まれなる美貌の上、一度も結婚していない。歳を重ねても、その容姿は衰えるどころか深みを増し、彼の妻の座を狙う女性はいつになっても絶えない。
グラジオラスが結婚する気が無いということは誰もが知っている。本人は明言していないが、女性関係の噂は全く無く、夜会などで迫られてもすげなく突き放すのが常で、言わずとも明らかな事実だった。
それがある日突然、年頃の娘を伴い夜会に出席した。
何の説明も無くても、その容姿から、彼の実の娘であることは明白。
彼に何があったのか、相手は誰なのか……様々な噂が飛び交ったが、真実は語られていないのだ。
リナリア・レユシットは、若い頃のグラジオラスが女性だったらこんな感じだろう、という外見で、一目見たら忘れられない美しさだ。
グラジオラスは必要最低限、王族や上級貴族の夜会にしかリナリアを連れ出さなかったため、リナリアの姿を見る機会は少ない。
それでも求婚者は殺到した。しかし、未だリナリアに婚約者はいない。父親がグラジオラスでなければ、王族が強引にさらっていたかもしれないが、今のところ、意志を尊重されている。レユシット家は王家とも繋がりが深いが、グラジオラス本人が、国王に気に入られているからだ。
グラジオラスは一向に、リナリアの婚約を進めようとしない。その事実は広まりつつあった。
しかし、あの夜会から、新たな噂が上書きされ、一気に広まったという。
「リナリア・レユシットが、王国騎士に一目惚れしたらしい、って。目撃者多数で、大変な騒ぎだよ」
一番近くで目撃したハルスが、疲れたように言う。「俺も色んな人に聞かれて、大変」と苦笑した。
「……それで、何て答えたんだ?」
嫌な予感を覚えながら、カーネリアンが聞くと、ハルスがさっと目を逸らした。
「……何って、噂は見た通りだろう。誰が見たってさ、あれは……」
ハルスは歯切れ悪く答える。彼から見ても、リナリアがカーネリアンに一目惚れしたようにしか思えなかった。それ以外に、リナリアとカーネリアンの接点は思い浮かばない。
ハルスが何か言わずとも、噂は伝わっていただろうが、どうにも気まずげにしている。その様子を見て、気にしているのかとカーネリアンが声をかけようとする。
だが、ハルスは情報を提供したことを気に病んでいるわけではなかった。
「でもさ、カーネリアン、好きな人いるんだろ……。どうするんだよ……レユシット家だぞ、もし、正式な話がきたら、断れないかもしれないぞ……?」
どうやら同僚は、カーネリアンにとってこの事態が好ましいものではないと、心配しているらしい。
「……」
無言でカーネリアンは考える。恐らくハルスは、カーネリアンが喜んで、美貌の令嬢に乗り換えるとは思っていないのだ。
好きな人がいるのに、噂になって困っていると、純粋に思っている。
実を言うと、同じ任務にあたっていた他の騎士にも声を掛けられた。彼らは一様に、「羨ましい」と言った。
ハルスには軽く話しただけなのに、気にかけてくれているようだ。
(……なんか、こいつ、いい奴だな)
カーネリアンの好きな人というのが、リナリアだと知るはずも無い。説明が非常に面倒なのだが、すでにグラジオラスと話はつけてあるので、リナリアと結婚する気である。そうなった時、この同僚に、「貴族の令嬢に乗り換える」ような男だと軽蔑されたくはない。
「彼女は確かに美人だったけどさ……いや、俺も正直羨ましかったよ? ……でも俺は恐れ多いから別にいいんだけど……」
頭を悩ませるハルスに、カーネリアンは素で笑いかけた。
「あのさ。明日俺、休み取ってあるんだ」
脈絡のない話に、ハルスは何のことだ、という目で見てくる。
「好きな人に告白してくる」
「え!? まじで!!」
「うまくいかなかったら困るから、まだ詳しくは説明できないんだけど……まあ、まとまったらさ、その時紹介するよ」
「お、おう……そっか……上手くいきそうなのか?」
「外堀は埋めてある。父親の許可は取った」
「すごいなお前!!」
ハルスが呆気に取られながらも、笑っているので、カーネリアンも一緒になって笑った。
明日は、レユシット邸に招待されている。
今度はグラジオラスではなく、夜会でリナリア本人から。
翌日、またもレユシット家の馬車で迎えが来て、カーネリアンは恐縮しながらレユシット邸を訪れた。
オーキッドは忙しくしているらしく、今回は不在だった。使用人の案内を受けて、リナリアが待つという部屋に通される。
部屋に入ると、グラジオラスが立っている。
挨拶をしながら、リナリアは何処だろうと目で探すと、扉に背を向けて置いてあるソファから、小さい亜麻色の頭が見えた。随分背の高いソファだな、とカーネリアンは思う。
ゆっくりとした動作で、リナリアが立ち上がる。振り向く様も、非常に優雅だった。
「久しぶり、カーネリアン」
微笑んだリナリアは、上辺だけ笑っているような、固い表情に見えた。
夜会で見た熱は感じない。
カーネリアンは違和感を覚えた。
グラジオラスは席を外すと言う。あらかじめ決めていたのか、リナリアは頷いて、部屋を出る父親を見送る。
二人きりになって、やっとカーネリアンは「久しぶり、リナリア」と口にした。妙に声が掠れている。
カーネリアンはリナリアの表情を注意深く観察した。機嫌が悪いようにも、怒っているようにも見えない。リナリアがどんな感情でいるのか分からなかった。
あの夜会の時は、あんなに嬉しそうにしていたのに。
嫌な汗が滲む。
「リナリア、招いてくれてありがとう」
不安な気持ちを隠して、カーネリアンは無理やり口角をあげた。
リナリアは固い表情のまま、扉の側まで向かう。
目で追うと、リナリアは振り返って、「移動しよう」と言った。
カーネリアンにとって、レユシット邸に来るのは二回目だ。リナリアについていくが、何処へ向かっているのかは見当がつかない。
リナリアは早足で進む。カーネリアンからすれば、普通に歩いているのだが、リナリアはやけに急いで歩いているようだ。以前並んで歩いた時は、リナリアはもっとゆっくり歩いていた。カーネリアンの斜め前を歩くリナリアは、カーネリアンの方を見ない。
カーネリアンが横に並ぼうとすると、リナリアは半歩前に出た。
「……リナリア、そんなに急いで、疲れないか」
カーネリアンが尋ねると、「大丈夫」と固い声で返ってくる。リナリアは顔を見ようとしない。
近づけば、遠ざかる。話しかけても、こちらを見ない。リナリアの態度は不自然だった。まるで、カーネリアンと一緒に居たくないように見える。
(……俺と並んで歩きたくない、ってことか?)
緊張しているのとも違う。他者を拒絶するような空気が、リナリアにはあった。
リナリアは、カーネリアンに好意を寄せているのではなかったのかと、疑念が浮かぶ。根底が覆されそうだった。
カーネリアンは今日、リナリアに結婚を申し込むつもりだ。今まで言えなかった気持ちと一緒に伝えるつもりである。
それなのに、一人で舞い上がっていたような気になって、カーネリアンは焦りと不安がどんどん募っていくのを感じた。
「なあ、リナリア」
「何?」
リナリアは返事をするのだが、やはり振り向かない。
「今日は、何故俺を呼んだんだ?」
家に招待したのはリナリアだ。もしカーネリアンと会いたくないのであれば、誘わなければいい。直接会おうとするのだから、彼女も、カーネリアンに何か用事があるのだろう。
「……久しぶりだったから」
本音とは思えない言い方だった。
会いたい気持ちや、懐かしむ気持ちは篭っているように感じられず、カーネリアンは眉を潜める。
嘘ではないかもしれないが、本心でもない気がした。
リナリアが足を止めたのは、一見温室に似た部屋だった。
ガラス張りの壁が、庭に面しているため、植物がすぐ間近に見えるのだ。
勿論、カーネリアンは初めて入る。
ものめずらしげに部屋の中を見渡した。外の光が差し込んで、明るい。木々の影が、部屋の絨毯の上で揺れている。
壁際に横長の椅子が一つある以外は、何も無かった。
この部屋だけ隔離され、庭に飛び出た作りになっている。
何も無いから、それなりに広い空間である。
一通り見て、カーネリアンはリナリアの背中に目を向ける。じっと見ていると、やっとリナリアは振り返った。
リナリアの瞳は揺れていた。
笑顔を作ろうとして、出来なかったような表情で、眉を下げる。
辛そうだった。
カーネリアンには、何故彼女がこんな表情をするのか理解出来ない。
ただ目を合わせたまま、立ち尽くした。
何も言わないカーネリアンを見つめながら、リナリアは口を開いた。
「婚約、おめでとう、カーネリアン」
「…………は?」
カーネリアンの口からは、間抜けな声が出ていた。
リナリアは顔を伏せ、続ける。
「カーネリアンに会った後、今私がお世話になっている人が教えてくれたんだ。カーネリアンはもうすぐ婚約するだろうって。もう決まっているような口ぶりだったから……あの、私知らないで招待してしまって。ごめんなさい……」
リナリアは震える指を、もう片方の手で包み込んでいた。きつく握る指先のあたりを見つめて話すリナリアの声は、泣き出す寸前のように震えていた。
「……あのさ、誰が何て言ったんだ? 一言一句違わずに言ってみてもらえる?」
カーネリアンの低い声に、リナリアは一瞬肩を震わせる。
顔を上げずに答えた。
「サーシス・ボーダイスという人……。カーネリアン・ラドシェンナは、婚約間近ですね、お祝いしないといけませんね、って……」
「俺、その人と面識無いんだけど」
「すごく、情報通な人だから……」
「それで? リナリアはどう思ったんだ」
声が険しいものへと変わる。俯くリナリアと視線は合わないが、カーネリアンは彼女をきつく睨み付けた。
リナリアが何を考えたかは、簡単に想像できた。婚約間近の男性を屋敷に招くのは良くない事だと、後から気付いたのだろう。それはただの事実だ。彼女はまだ、本心を語っていない。
「……フリージアのことかな、って」
思わず怒鳴りそうになった。まだ誤解していたのか、と。そこでカーネリアンは気付く。確かに、自分の口から、フリージアとの誤解を解いたことは無かった。
リナリアは最初部屋で顔を合わせた時、ある程度取り繕っていた。笑顔を浮かべ、声音もまだ、嬉しそうでもないが、普通だった。でも今は、声は震えて、弱弱しい。
誰から見ても、婚約を祝福しているようには見えない。
リナリアは、嘘が下手だ。
彼女に本心を語らせたくなり、カーネリアンはあえて話を合わせる。
「祝ってくれるのか? フリージアも喜ぶよ」
「……うん」
「結婚式には来てくれるよな」
「…………う、ん」
リナリアからは、今カーネリアンがどんな顔をしているか見えない。決して顔を上げようとしないからだ。
眉根を吊り上げ、奥歯を噛み締めるカーネリアンは、怒りを顕わにしていた。
「……俺が結婚しても、平気なのか」
今度はカーネリアンが本当の質問をする。
リナリアの答えは分かりきっていた。恐らくまた、「うん」と、全然良くない声で返すのだ。
決まった言葉を聞く前に、カーネリアンは捲くし立てる。
「言葉は嘘を吐くだろう。リナリア、もう一度歌ってみろよ。どんな顔して、どんな声で歌っているのか、知っているのか? 言葉で取り繕ったって、隠せやしないんだ。あの日、俺のために歌ったって言ったよな。それがあの歌なら、リナリアは、俺の事が……」
一気にリナリアへと近づき、彼女との距離が無くなる。
リナリアの頬を優しく掴み、だが強引に上げさせた。
青い二つの宝石は、海から拾い上げた後のように濡れている。
「俺の事が、好きだってことだよ……!」
リナリアが、目を見開いた。
「う、歌えない」
そう呟くリナリアの瞳から、透明な雫が零れ落ちる。
「歌えるだろ」
「歌えないもん、だって、呪いが」
「呪いが解けないのは、リナリア自身の問題だ。フリージアはリナリアのことが好きだし、神様は関係ない。リナリアの神様だって、生まれた時からずっと、リナリアの味方だ。歌えないわけが無い。リナリアが自分で、枷をしているんだ。何が不安なんだ、何で勝手に、自分を追い詰めるんだよ。見当違いもいいところだ、誰がフリージアと結婚するなんて言った? 恋人ですらないのに! 俺が結婚するのは、リナリアだ!!」
カーネリアンは、リナリアの前でここまで声を荒げた事は無い。
言葉を切ると、カーネリアンはリナリアを捕まえる。
抱きしめる、と言うより、捕まえる、と言った方がしっくりくる。
カーネリアンの抱擁に、リナリアは体を萎縮させ、されるがままだ。
「行動も、表情も、歌も、全部で俺を好きだって言っているのに、隠せるわけがないだろう。俺を諦めるな。俺はずっと、リナリアだけが好きだ。リナリアが俺を好きだったのも知っている。リナリアが俺のために歌ってくれるまで、動かないから。俺の気持ちを信じてくれるまで、離さないからな」
リナリアは、自分で掴んでいた手を、カーネリアンの背中に回した。動かない、離さない、と言われているのに、逃げる素振りはない。
服にしわができるほど、強く掴んだ。
リナリアはずるずると、カーネリアンの胸に顔を埋める。より深く。
カーネリアンは彼女が降参するのをただ待っていた。
自分からしがみ付いてくるのだから、言わなくてももう、分かってはいたが。
(本当は、ずっとこうしていたい)
リナリアはさらに力を込め、自分から離れようとすることはなかった。
(離して欲しくない)
痛いほどに抱き合う。切に願うリナリアの髪を、カーネリアンが撫でた。
優しい手つきだった。
リナリアの唇から、愛しさが零れ出す。
それは歌となって、部屋に響き渡った。
カーネリアンの心にも。
リナリアは恋を隠す事をやめた。




